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『メタモルフォーゼの哲学』

 
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エマヌエーレ・コッチャ 著
松葉 類・宇佐美達朗 訳
『メタモルフォーゼの哲学』

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訳者あとがき
 
 本書は、Emanuele Coccia, Métamorphoses, Paris, Payot et Rivages, 2020 の全訳である。
 著者のエマヌエーレ・コッチャは一九七六年生まれ、イタリア出身の哲学者である。農業学校において農作物の生育や生態について学び、ジョルジョ・アガンベンのもとで中世哲学研究に従事したのち、二〇〇八年から二〇一一年までフライブルク大学、その後、現在まで社会科学高等研究院(EHESS)の准教授を務めている。既刊の著作も多数あり、十二世紀スペイン生まれの哲学者アヴェロエス(イブン=ルシュド)とアヴェロエス主義を扱う『イメージの透明性』(La trasparenza delle immagini. Averroè e l’averroismo, Milan, Mondadori Bruno, 2005)を皮切りに、『感性的な生』(La Vie sensible, Paris, Payot et Rivages, 2010)や『事物のなかの善』(Le Bien dans les choses, Paris, Rivages, 2013)、そしてモナコ哲学祭賞(二〇一七年)を受賞した『植物の生の哲学―― 混合の形而上学』(La Vie des plantes. Une métaphysique du mélange, Paris, Rivages, 2016. 嶋崎正樹訳、勁草書房、二〇一九年)などがあり、それぞれ翻訳を通して多くの国で読者を獲得している。
 彼は従来哲学史において、人間に相対的な仕方でしか位置づけられてこなかった動物、虫、植物などの生命体へと、正当な取り分を返そうとする。植物を最も自由な存在として考えた前作『植物の生の哲学』からさらに進んで、彼は本書で、生物種、土地、世代という境界を超えたあらゆる存在のあいだでの生命の共有を描いている。それぞれ独立した五部から成るが、そこで扱われるのはこの「一つの同じ生」の諸側面でしかないがゆえに、各部の記述はメタモルフォーゼを介して連続している。
 
 各部について、以下でごく簡単に紹介することにしよう。
 第Ⅰ部「誕生=出産」では、一般に生命体の始まりとして考えられる「誕生」が、じっさいには母胎と重なり合った現象であることが指摘される。たとえば人間の場合は、十月十日の妊娠、継ぎ目のない出産という過程を通じて誕生する。このことが意味するのは、各々の生きものの個別性、あるいは「わたしと言うこと」のうちに、それ以前に太古から連なる生命の系譜が入り込んで混じり合っていることである。言い換えれば、生きものは親子や血縁関係をはるかに越えて、類人猿、哺乳類、魚類等といった種をまたいだ諸関係、境界線、閾いきのうちにある。つまり、生きものの身体は安定的なものではけっしてなく、「ただ一つの同じ生」が入り込む一時的な形態である。したがってそれは、所有できるものではなく共有物であり、絶えず自己を変様させていく。この形態の諸変様こそが、コッチャのいう「メタモルフォーゼ」である。
 チョウが変態をとげる重要な契機であり、なによりメタモルフォーゼとのむすびつきの強い「繭」をタイトルに掲げる第Ⅱ部は、しかしたんなる形態論や昆虫論にとどまってはいない。現代の研究を含む生物学史を参照しつつコッチャが提示する大胆なテーゼは、繭とは技術である、あるいは技術とは繭を構築するわざであるというものだ。繭という観点の導入によって、技術論と生命論は同時にひっくり返される。スティグレールの『技術と時間』が技術論の表舞台に引き出したエピメテウス神話や、道具を身体の延長とみなす「器官投影」とそのバリエーションに対して、また、人間あるいは哺乳類を中心とする生命観に対して、コッチャはオルタナティブを示していくのである。「わたし」の夢に始まる第Ⅱ部は最終的に、惑星の夢としての生命史という観点を提示するに至る。
 第Ⅲ部「再受肉」では、「食べること」による境界線のゆらぎが扱われる。食べることとは「食べるもの」と「食べられるもの」とが重なり合うことである。この行為を通じて、生はメタモルフォーゼをおこない、新たな生の一部となる。生とは、既存の生命体を食べることによって存在しうるのである。したがって死もまた、一個の生命体の終わりを記すものではなく、すでに重なり合っていた生命体、あるいはその後に来る生命体の糧となることにほかならない。歴史的に語り継がれてきた再受肉、転生、復活の神話もまた、生が身体に合致するものではないことを示している。こうして、生きることとは肉を得ること、つまり再受肉としてのメタモルフォーゼにほかならない。
 第Ⅳ部「移住」では、生きものがある場所にいることがすでに、「住むこと」と「住みつかれること」の重なりであると論じられる。生きものはこの世界内に産み落とされる以上、どこかに場所や住まいを持たざるをえないが、当該の場所に存在することは必然的なことではなく、つねに別の場所にありうること、移動しうることを含んでいる。また、そのようにして生まれる生きもの自身も、別の生きものの場所や住まいとなる。そうだとすると、すべての生きものは他の生きものの一時的な住まいであり、別の場所へと移動する「乗り物」でもある。この生きもの=乗り物という関係を拡大してゆけば、生きものが地球という惑星に乗っていること、そして各々の生きものが別の生きものにとって惑星であることを理解しうる。
 ラトゥールの影が色濃く見える第Ⅴ部「連関(アソシエーションズ)」では、いわゆるエコロジー思想の点検がおこなわれる(コッチャは同僚の科学史家アイ=トゥアティとともに次のような論集を出版している。Le Cri de Gaïa. Penser la Terre avec Bruno Latour, Fréderique Aït-Touati et Emanuele Coccia (dir.), Paris, Découverte, 2021)。この点検はおもに「自然/文化」の対立に、さらには―― 文化(キュルチュール)は耕作(キュルチュール)でもあるのだから――「自然/人工」の対立に向けられている。第Ⅱ部で技術論と生命論が同時にひっくり返されたように、ここでも対立項の両端が同時に捉え直されている。つまり、生きものはすべて生存のために技術を用い、他の種との相互規定の関係にあるとするなら、なにかしらの手の入っていない「自然」や「野生」はあとから作り上げられた有害な虚構にすぎなくなる。都市はその生物多様性が問われるような自然=人工の建造物とみなされねばならない。こうして、自然と人工の混淆した生命論的多文化主義とでも言うことのできる立場が表明される。
 本書は新たなエコロジーの試みである。じっさい、本書を締めくくる「わたしたちは短い生を果たす。わたしたちは次々と死んでいかなければならない」という言葉は、環境倫理学に大きな影響を与えたアルド・レオポルドの『野生のうたが聞こえる』から引かれたものである。コッチャの結論が本書以降どのように展開されているのかについては、『いま言葉で息をするために』(西山雄二編著、勁草書房、二〇二一年)に収録された論文「世界規模の新たな隠遁生活を反転する」(松葉類訳)や、二〇二一年にフランス語版が上梓されたばかりの『家の哲学』(Philosophie de la maison. L’espace domestique et le bonheur, Paris, Bibliothèque Rivages, 2021)に探ることができる。また「現代の自然」ということで言えば、時期はすこし前後するが、フィンセント・ファン・ゴッホ論でもある『種まくひと』(Le Semeur. De la nature contemporaine, Arles, Fondation Vincent Van Gogh, 2020)が本書の別バージョンとなっているようだ。コッチャの著作は日本でも今後ますます紹介が進められることだろう。
 
 本書の翻訳は松葉と宇佐美で分担し、下訳(松葉が「はじめに」「第Ⅰ部」「第Ⅲ部」「第Ⅳ部」を、宇佐美が「第Ⅱ部」「第Ⅴ部」「おわりに」「参考文献案内」「謝辞」を担当)がそろった時点でクロスチェックをおこなった。最低限の文体の統一は試みたが、フランスの現代哲学という同じ世界に生きつつも、訳者たちの歩き回り方や眺め方はそれぞれ微妙に異なることもあり、またそれらの混淆がコッチャの思考をうまく照らし出してくれることも期待して、文体を完全に統一することはしなかった。
 最後に、若輩の訳者たちを適切にリードしてくれた勁草書房の関戸詳子氏にこころから感謝の意を表したい。わたしたちがさいわいにも自分たちの区間を走り切ることができたのは彼女のおかげである。また、本書に相通ずる作品を提供してくださった大小島真木氏、すばらしい装丁を施してくださった大村麻紀子氏にも感謝したい。お二人によって本書が「再受肉」したのはまちがいない。
 わたしたちを貫いたメタモルフォーゼの力が読者諸氏に伝播し、さまざまに再開され展開されてゆくことを願いつつ、筆を擱くことにしたい。
 
祇園祭の過ぎゆく京都にて 訳者一同
 
 
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