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『受肉と交わり チャールズ・テイラーの宗教論』

 
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坪光生雄 著
『受肉と交わり チャールズ・テイラーの宗教論』

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はじめに――チャールズ・テイラーと宗教
 
 大きな吊橋を写したセピア色の写真。この橋は、今日もっとも繁栄した国の、もっとも繁栄した都市に、一九世紀から架かっているものだ。写真は、俯瞰した位置から橋の全容を捉えたものではない。撮影者は橋の上に立って、カメラを少々上向きに構えている。晴れた空を背景に黒いシルエットと化したゴシック造りの塔から、幾条もの鉄線が放たれ、こちらに向かって降りかかるように迫る。それらは縦に横にと交差して、何を絡め取ろうとするのか、網のようになって見える。私たちの視点は、撮影者とともに、その網の目が作る遠近法のなかに固定される。もっとも近い距離に焦点の合ったレンズは、画面左上端に突き刺さる太いワイヤーの質感を、撚られた鉄の繊維が作り出す硬質な陰影のうちに刻み込んでいる。そこから始めて、あらためて塔までの道のりを辿ってみる。一つひとつの線は、私の目が滑っていく先をめがけて競うように走り、やがて塔の上の暗くなった影のなかに消失する。「すべて上昇するものは一点に集まる」。壁のように立ちふさがる塔の向こう側では、いくつか小さな雲を浮かべた快晴の空が、二色刷りの淡い赤銅に塗られている。
 写真の上には、サンセリフ体のアルファベットが印字されている。“A SECULAR AGE”―世俗の時代、ある世俗的な時代。私たちがこれから読もうという本の題名である。
 表紙は、本の内容について読者にあらかじめ何を示唆するだろうか。なぜ吊橋なのか。見る者は、垂直が水平を支えるその構造にどのような隠喩を読み取ればよいのか。強調された遠近法は、撮影者が見上げた先に屹立する、塔の威容を際立たせる意図に奉仕するものだろうか。言われるところの「世俗の時代」において、私たちは写真の撮影者の立ち位置さながら、緊張した鉄のワイヤーに囲いこまれて窮屈な思いをしているということか。このネオ・ゴシック様式の建造物が、現代世界においてもっとも多くの富と繁栄を享受する大都市の風景の一部であることには、どのような意味があるのか。この写真はなぜ、全体に鮮やかさを欠いたくすんだ色調に整えられているのか。
 もちろん、表に掲げられたイメージはなかに書かれた内容を理解するための補助となるべきものであって、その逆ではない。本文を読む前と後とでは、この写真の見え方もおそらく違ってくるだろう。さしあたり読者に期待されているのは、テクストの意味にせよ、装丁を飾る画像から受ける印象にせよ、まとめて一冊の本として与えられたそれらのものをできるだけ豊かな仕方で味わうことである。
 
1.本書の目的と主題 ― チャールズ・テイラーと宗教の主題
 本書の目的は、現代のカナダを代表する哲学者チャールズ・テイラー(1931-)の宗教論を理解することである。そして、テイラーの宗教論を理解するということは、上述の『世俗の時代』という本を読み解くこととほぼ等しい。
 一九九八年から九九年にかけてエディンバラ大学で行われたギフォード講義「世俗の時代に生きる(Living in a Secular Age)」を元に、テイラーは三冊の本を世に問うた。そのなかでも最後のものとして二〇〇七年に刊行された『世俗の時代』は、量にして八〇〇頁を超す大著であり、その内容も他の二作と比べもっとも包括的で意義深いものである。事実、『世俗の時代』には前著『今日の宗教の諸相』と『近代の社会的想像』の一部がほとんどそのまま含まれている。この偉大な仕事は、著者に宗教分野のノーベル賞とも言われるテンプルトン賞をもたらした。テンプルトン賞は、その年の受賞者について次のように紹介する。マギル大学の哲学の名誉教授チャールズ・テイラーは、世俗的な面と霊的な面とを両方とも考慮することなしには、暴力や偏見といった問題は解決されないと論じる。彼が示唆するのは、世俗化した観点に全面的に依存することで破綻した推論が導かれ、ますます多くの文化、道徳、国家、宗教間の衝突に直面するグローバルな共同体にとって助けとなるかもしれない本質的な洞察が妨げられてしまう、ということである。多くの社会科学者が当然とみなしてきたこと、すなわち、道徳や霊性といった観念が啓蒙に始まる合理主義の運動によって理性の時代にそぐわない古風な時代錯誤となってしまったという考えに、テイラーはずっと反対してきた。彼によれば、そのような狭量で還元的な社会学のアプローチは、人間がいかに、また何ゆえに意味を求めて努力するのかということに関する十全な説明を不当にも拒んでいるのである。
 さらにテイラーは後年、教皇フランシスコからラッツィンガー賞を授与されることにもなる。名誉教皇ベネディクト一六世の名を冠する同賞の神学的権威もまた、テイラーが『世俗の時代』で示した西洋世界の世俗化に関する洞察を霊的な観点から高く評価したのだった。授賞にあたり、フランシスコは次のように述べる。現代、テイラー教授ほどに幅広い観点から世俗化の問題を提起してきた学者はほとんどいません。〔…〕彼は、人間の魂の超越的な次元―聖霊はこの霊的な次元において人知れず働き続けています―を生き、また表現するための新しい道を直観し、なお探し求めるよう、私たちに呼びかけています。そうすることにより、私たちは皮相な仕方でではなく、それでいて運命的な落胆に屈することもなく、西洋の世俗化に対処することができるのです。これは、現代文化に関する省察にとって必要なことというだけではありません。それはまた、今日において信仰を生き、証しし、表現し、公に宣言するにふさわしい霊的な態度を私たちが身につけるための、深みある対話と見きわめにとっても欠かせないことなのです。
 しかし、このように「宗教」や「霊性」への関心に即して、ことによると神学的な観点からも高い評価を受けるという事態は、テイラーの哲学者としてのキャリア全体を通じていつでもそうありえた種類のものではない。テイラーは宗教的な著述家として評判を買う以前から、今日においてもなおその評判と両立するような仕方で、こう言ってよければ世俗的な職業的アカデミシャンとしての顔をもっている。
 すると、「テイラーの宗教論」と言ったとき、私たちは研究の対象範囲をどこまでと想定すればよいだろうか。ここで一度、この多産な思想家のビブリオグラフィのうち、『世俗の時代』に至るまでの主要な仕事をひととおり振り返っておこう。
 テイラーにとって最初の哲学的な仕事となったのは『行動の説明』と題された彼の博士論文である。そこでのテイラーの目標は、メルロ= ポンティから影響を受けた現象学的立場から、心理学的行動主義を批判することにあった。ここに見られる還元論批判の立場は、その後のテイラーの思想のなかでも一貫されている。次に目を引くのは、分析的伝統の強い英語圏の哲学業界に向けてヘーゲルの思想を紹介した仕事である。テイラーは歴史哲学、とりわけ近代の起源に関する哲学的省察の必要から、ヘーゲルの重要性に批判的に取り組んだのだった。この歴史哲学的研究はそののちにいっそう深められ、一九八九年に刊行された主著『自我の源泉』に結実する。しかし、『自我の源泉』での著述はすでにヘーゲルへの集中を解かれており、その代わりにテイラー自身のオリジナルな概念化による歴史説明が際立っている。彼は近代的アイデンティティの特徴を過去数世紀のあいだに力をもつに至ったいくつかの善の観念に結びつける。そこでは、たとえば「脱従事的(disengaged)」な主体性や道具的理性による支配を強調する啓蒙自然主義と、表現的・創造的な自己充足を目指すロマン主義とのあいだの緊張関係が強調されるだろう。
 ただし、この『自我の源泉』に関してとくに私たちが見ておくべきは、のちに『世俗の時代』の議論へと引き継がれていくような宗教への洞察、また「有神論的」と評すべき彼自身の実存的な傾きが、そこで顕著に表面化している事実である。『自我の源泉』におけるテイラーの歴史叙述は、近代的アイデンティティの形成過程を理解するために宗教的な過去に関する歴史研究を必須のものとする。現在における適切な自己理解を得るためにも、私たち自身の過去に向き合う必要が強調される。そして、同書の結論部では著者自身の「有神論的な希望」が仄めかされている。
 ただし、それでもなお『自我の源泉』(以下、『源泉』とする)の著述は、全体としては依然、テイラーを理論的な思想家として受容するために必要なバランスを保っていたといえる。この著作は、たんに哲学的・思想史的な業績としても評価されることができた。もちろん『源泉』に向けられた少なくない数の確かな批評眼は、同書における有神論的立場の優位を見咎めたのだが、反対に、たとえばジョージ・マーズデンのような神学者の目には、テイラーのその叙述スタイルがぎこちなくも過度に世俗的な学問の体を装ったものと映った。「〔マテオ・〕リッチが儒学者の服を身に着けたように、私たちはいつでも自らの見解を、現代の学術界にすでに受け入れられた衣装で飾らねばならないのだろうか」と嘆いてみせ、テイラーがキリスト教徒としての旗幟を鮮明にしないことを残念がるのである。
 じつに、チャールズ・テイラーはカトリックのキリスト教徒である。このことを一般の読者にとっても当然知っておくべき前提事項として印象づけたのは、論文「カトリック・モダニティ?」だろう。この論文の元となったのは、一九九六年にデイトン大学で行われたテイラーのマリアニスト賞受賞講演である。そこでテイラーは、自身の宗教的信仰と学術的な仕事とが相互にどのような影響を及ぼしあってきたかについて語ることを求められた。先ほどのマーズデンが『源泉』におけるテイラーの態度を一種の不徹底と見るのは、『源泉』の結論部がちょうどこの「カトリック・モダニティ?」のような議論を含むべきだったという考えあってのことである。実際、この講演論文において、テイラーは明白に信者としての立場からカトリックの聴衆に向けて語りかけた。自らの論題に選んだ「カトリック的近代」という言葉の意味するところについて説明するなかで、彼はたとえば三位一体や贖いや受肉といった神学上の重要概念について自らの信ずるところを明らかにしている。
 ルース・アビーによれば、「テイラーの宗教的転回(religious turn)は、一九九九年の『カトリック・モダニティ?』の刊行によって確固たるものとなった」という。アビーがここで指摘するテイラーの「宗教的転回」は、「社会的ないし歴史的な勢力としての宗教に向けられた〔テイラーの〕関心だけでなく、彼自らの宗教的信仰と、その信仰が彼の思考に影響を与えているそのあり方について、テイラーが以前よりもあからさまになったという事実を指している」。それゆえ「転回」といっても、これはテイラーの思想が本質的に不連続な仕方で変化したことを意味しない。事実、テイラーはかねてよりカトリックの信者であったのだし、他方でその哲学的主張の内容を見ても、行動主義に対する批判などは最初の『行動の説明』で展開されて以来、二〇一六年の『言語動物』に至るまで一貫されている。言われるところの「転回」はむしろ、テイラーの仕事における宗教的主題の明白さ、いわば読者の側で気がつくその目立たしさに関わっているのであって、たとえば特定の著作の前後に著者が決定的な回心を経験した結果、以前とは根本的に異なる性格の哲学的主張が展開されるようになった、といった仕方でこれを理解すべきではない。
 ことテイラーの宗教論に的を絞ろうとしている私たちは、アビーの言う「宗教的転回」を、本研究の対象範囲を画定するための便宜的な指標として利用しよう。アビーの整理によれば、テイラーの「転回」は『自我の源泉』(とりわけその結論部)をその先触れとしながら、「カトリック・モダニティ?」で決定的なものとなった。この見方を採るなら、テイラーの宗教論を主題化する私たちの研究が取り組むのは、少なくとも『自我の源泉』以後、さらにはとりわけ「カトリック・モダニティ?」以後の諸著作ということになる。
 「カトリック・モダニティ?」の講演が一九九六年、活字での刊行が一九九九年だとすると、ちょうどそれと同じ頃、テイラーはエディンバラでのギフォード講義(一九九八〜九九年)を準備し、開講していたことになる。それゆえ、「カトリック・モダニティ?」以後しばらくのあいだ、このギフォード講義を下敷きにした宗教に関する著作の刊行が続くのは当然の成り行きといえる。私たちが「テイラーの宗教論」として思い浮かべるべきは、この時期の著作群である。「ギフォード講義三部作」とでも呼ぶべき『今日の宗教の諸相』(二〇〇二)、『近代の社会的想像』(二〇〇四)、『世俗の時代』(二〇〇七)がまずはそうであり、さらにはここに、部分的には『世俗の時代』の補遺ないし発展としての性格づけを与えられた論集『ジレンマとつながり』(二〇一一)を含めてもよいだろう。そして、冒頭述べたことの繰り返しになるが、これらのなかでもっとも重要なのは明らかに『世俗の時代』である。事前に刊行された二つの著作で取り扱われた主たる論点は『世俗の時代』の議論のなかに取り込まれ、むしろそこでいっそう豊かに展開された。『世俗の時代』こそ、『自我の源泉』の終わりで予告された書にして現時点におけるテイラー最大の主著であり、かつての『ヘーゲル』から続いてきた彼の哲学的歴史研究の集大成と呼ぶべき仕事である。
 『世俗の時代』が取り組んだのは、西洋近代における世俗性の生成過程を辿る歴史の語り直しである。この仕事は、宗教社会学におけるいわゆる「世俗化論」の一つとみなしうるものだが、人々の「生きられた経験」や「社会的想像」に生じた変化を描き出そうとするその叙述は、たんに社会学とも歴史学とも、はたまた思想史とも分類のしにくいものである。そして、同書の特徴は、テイラーが自身のキリスト教信仰の立場をかつてなく明確に示したというところにもある。これはいわば歴史の語りとキリスト教信仰に根ざす思弁とが渾然一体となって相互に形成しあうといった趣のテクストであり、その込み入ったスタイルが単純な分量とも相まって、同書をいかにも取り組みがいのあるものにしている。
 
2.本書の位置づけ
 それでは、このようなテイラーの宗教論にどのようにアプローチすべきだろうか。早くも「古典」として受容されつつある『世俗の時代』については、これまでにも多様な読み解きが試みられてきた。参考までに、同書について書かれた批評や応答を調査したフロリアン・ゼミンによれば、二〇〇七年から二〇一四年までに英語圏では少なくとも一二三本の論文・著作が発表されており、それらをディシプリンごとに見ると、まず神学分野からの反応がもっとも多く、次いで哲学、そのあとはだいぶ数を減らして、社会学、歴史学、政治学(法学)、人類学、宗教学、文学の順になる。また、それぞれの応答が問題にした論点別に見てみると、『世俗の時代』においてテイラーが用いた特定の概念や用語に関する考察がもっとも多く、次いでテイラー自身の規範的意図(彼のキリスト教信仰を含む)への関心が高い。『世俗の時代』の刊行によって、テイラーは今日の宗教状況を鋭敏に捉えた観察者としてだけでなく、同時に自身において宗教的な性格をもつキリスト教思想家としても注目を集めていると言えよう。
 他方、日本の状況に目を向けてみると、テイラーの宗教論について論じた研究の数はそれほど多くない。その代わりに目立つのは、政治学・政治哲学分野での受容である。初期のヘーゲル研究の翻訳は例外として、テイラーの思想が日本語圏で本格的に紹介されるようになったのは、一九九〇年代も後半になってからのことである。その時期、現代政治理論研究の一環として『自我の源泉』をはじめとするテイラーの諸著作が読み解かれ、たとえば「全体論的個人主義」や「承認の政治」といったキーワードを中心に、彼の思想に関する知見が蓄積されていった。政治学分野での受容が進むにつれ、テイラーはしばしば共同体主義や多文化主義を代表する政治理論家の一人と位置づけられるようになる。そうしたテイラーのイメージは、今日すでに広く定着したものと言えよう。もちろん、これらの論じられ方はいずれも誤りではないのだが、同時に少なくとも一面的であったことは否めない。いわば「宗教抜き」のテイラー理解が『世俗の時代』刊行以後もさほど挑戦を受けずに流通してきた日本の状況は、英語圏での議論状況と比べてやや偏ったものであると言ってよい。ただし、政治学的な研究視角からテイラーの宗教論の諸論点やそのキリスト教信仰の内実に肉薄した高田宏史による先駆的な仕事は、本研究にとっても学ぶところの多い重要な先行研究である。さらに最近では、二〇二〇年に『世俗の時代』の邦訳書が刊行されたのを契機に、『思想』誌においても関連する特集が組まれるなど、テイラーの宗教論に対する関心は確実に高まりつつある。
 本書は、まさにこの高まりつつある関心に対応して書かれている。問題の『世俗の時代』は、「宗教」(または、より特定すれば「キリスト教」)について主題的に論じた著作であり、そのテクストからは同時に著者自身の実存を規定する信仰の内実も窺われてくる。したがって、これを読み解く際に私たちが前提としたいのは、チャールズ・テイラーをいわば「宗教について論じた、宗教的な思想家」として二層的に捉える観点である。
 本書の研究は、このように「宗教」なる概念によって他と境界づけられた主題領域に取り組む点で、広い意味においてまずは「宗教学」に属すべきものである。ただし、近代的な経験科学の一部門としての「宗教学」が、基本的には「神学」との差異化によって自己を特徴づけてきた点には十分な注意が必要である。「宗教学とは何か」という難問にここで深入りするわけにはいかないが、かといってこれは本書の試みにとってまったく無関係な問いでもない。先に述べたとおり、テイラーの宗教論は、それ自体一種のキリスト教思想として読まれうる。すると、彼の仕事は「宗教学」というよりは「神学」に属すると言うべきだろうか。私たちはテイラーのテクストに導かれた先で、最終的にこうしたディシプリンの境界そのものを反省的に問い直すことになるだろう。テイラーの宗教論を読み解くことは、「宗教」について語る学問自身の世俗的な身分についても批判的思考を及ばせることでもある。しかし、本書のこうした取り組みそのものは、全体としては神学よりも、やはり宗教学への理論的貢献であろうとしている。
 こうして、本書で探求されるのは以下のような問いである。西洋近代の「世俗化」に関するテイラーの見解は、宗教学/宗教社会学における世俗化論の蓄積のなかにどのように位置づけられるのか。今日の世俗性と宗教的な過去との連続性を強調する『世俗の時代』の主張には、どのような規範的側面があるのか。カトリックであるテイラーの信仰者としての立場にはどのような特徴があるのか、また彼が取り組んできた多様な哲学的論点とその信仰とはどのような関係にあるのか。テイラーの思想から、宗教学の方法論はどのような示唆を得ることができるのか。テイラーの宗教論は、宗教について論じた同時代の他の思想的言説とどのように関連づけられるのか。
 
3.本書の構成
 本書は大きく三つの部分からなる。第Ⅰ部において私たちはまず『世俗の時代』本文の内在的読解を行う。第一章では、同書のまえがきにある言葉―「私は近代西洋の「世俗化」と通常呼ばれるものについて、一つの物語を語ろうとしている」(SA, ix)―に導かれつつ、その「物語」を、宗教社会学において分厚い議論蓄積のある、いわゆる「世俗化論」との関連で読み解いていく。テイラーは、『世俗の時代』において、今日の主流な「世俗化論」に対抗し、またそれに取って代わるべき新しい「物語」を語った。ここではその主だったあらすじを一通り摑んだ上で、そこから「世俗化」をめぐる今日の議論状況にどのような示唆と視座の転換がもたらされるかを検討する。この第一章の議論は、おおむね『世俗の時代』の第一部から第四部までの記述に対応している。
 続く第二章では、そのような新しい「世俗化」の物語を語ったテイラーの規範的な意図が問題にされる。ここでの読み解きは、『世俗の時代』の第五部のうち最終章を除く部分を対象とし、テイラー自身についていわば彼の「一階の」確信を基礎づけるキリスト教信仰と、それに対していわば「メタ」な上階の部分をなす、リベラルで多元主義的な彼の政治的主張とを区別する。そうした上で、『世俗の時代』の議論が全体として奉仕するものがこのうちの後者であることを明らかにする。テイラーは自身において宗教的な思想家ではあるが、しかしその信仰は、このメタな政治的反省性との緊張においてようやく現実的なものとして生きられるにすぎない。
 しかし、第Ⅰ部の最後となる第三章では一転して、もっぱらテイラーの「一階の」信仰の方に関心を向ける。第二章では扱うことのできなかった『世俗の時代』最終章「回心(conversions)」は、まさしくテイラー自身の一人称的な信仰告白にも似た性格をもつテクストである。じつのところ、私たちが先に述べたような宗教学的関心から出発するのは、とりわけこの最終章の議論をそれ自体重要なものとして読み込むためである。テイラーは、私たちが第二章で明らかにしたような政治的配慮を前提としつつも、なお信仰に基づく彼自身の理由、神学的と言って差し支えないようなその希望をここで率直に明確化している。彼はそこで自らのカトリック信仰の立場から何ごとかを語った。ある思想が政治的に適切か不適切かという問いは、もちろんいつでも問われてよいものである。しかし、そのような問いに行き届いた回答を与えるためにも、まずはその思想に含まれているもののうち、見たところ政治的なものに対して異質であるような諸要素の解明を怠るべきではないだろう。私たちはこれを、一方における彼の政治的主張との安易に解消することのできない緊張において、しかし同時に、あるいはそれ以上に、いわば今日における宗教思想の形式化と提示に関する興味深いありようの一例として、検討する。結果として明らかになるのは、彼のキリスト教信仰のうちで「受肉」と「交わり」の観念が占める中心的意義である。
 第Ⅰ部で『世俗の時代』について一通りの読解を終えたのち、続く第Ⅱ部においては、同書からいくつかの論点を派生させ、テイラーの思想を構成する多様な側面をいっそう発展的な仕方で相互に結びつけることを試みる。テイラーは『世俗の時代』の後も、現在までにいくつかの著作を発表している。「宗教的転回以後」という括りでテイラーの思想に接近する私たちは、これらの新しい著作群に対しても注意を払おう。そこで集中的に論じられたのは、大まかに、認識、政治、言語という三つの主題に関わることがらであった。
 第Ⅱ部のはじめにくる第四章では、二〇一五年に刊行されたヒューバート・ドレイファスとの共著『実在論を立て直す』において展開されたテイラーの認識論批判を、『世俗の時代』の宗教史との関連で読み解く。後者におけるテイラーの歴史的説明は、彼の「受肉」の信仰とも呼応している。テイラーは近代を特徴づける「脱魔術化的還元」の動向に一部対抗しつつ、人間の生にとって身体性がもつ重要性を強調する。他方、これと平行関係にあるのは、近代の認識論における心身二元論、あるいはそのような「内と外」の区別を克服し、もって身体的従事の感覚に立ち返ろうとする『実在論を立て直す』での議論である。これらは独立した議論というよりも、互いに協力して一つの主題を明確化するものといえよう。この認識論的主題に立ち入ることで、「受肉」と「交わり」の観念を中心にテイラー思想を特徴づけた私たちの第三章の議論について、そのさらなる傍証が得られる。
 第五章では「世俗主義の再定義」をめぐるテイラーの主張、およびこの主題に関してユルゲン・ハーバーマスやジュディス・バトラーらとのあいだで彼が行った対論の様子を検討する。ここでのテイラーの政治的主張を理解するにあたっては、その背景をなす『世俗の時代』のテクストへの参照を欠かせない。「翻訳」の観念をめぐって露呈したハーバーマスやバトラーとの差異を理解する上でも、『世俗の時代』で示されたこと、とくに彼自身の信仰に関わることがらはきわめて大きな重要性をもつ。他の論者との対論を通じて明確化されてくるのは、テイラーの多元主義的な政治思想であると同時に、それを根拠づける彼自身の信仰上の理由でもある。
 この「翻訳」をめぐる討議によって、言語論の検討が促されてくる。私たちは第六章でこれに取り組む。二〇一六年の『言語動物』は、その表題のとおり、人間の言語能力に関する内容豊かな著作である。同書で、テイラーは構成的で表現的な言語の力を強調している。もっとも、この論点は『自我の源泉』や『世俗の時代』において部分的に先取りされていた。多数の著作にまたがりながら、しかし同一の方角に向けて深められてきた言語をめぐるテイラーの思索は、彼の宗教への関心と結びついている。テイラーにとり、今日の「世俗の時代」においてもなお私たちが超越性や普遍性に対して開かれることの可能性は、「より繊細な言語」が象るものに個として共鳴することにかかっている。
 第Ⅲ部では、以上の内在的読解から得られた成果を、いっそう広い文脈に位置づけることを試みよう。テイラーの宗教論は、宗教に関わる学問をとりまく今日的状況においてどのような意義やインパクトをもっていると言えるだろうか。それを理解したとして、そのとき私たちはどのような地点に立っているのだろうか。こうした問いによって促される「評価」という課題を、私たちはテイラーの宗教論で言われたことの真理性や善悪に関わる本質的な判断、いわば「強い評価」としては実行できない。その代わりに、この「意義」や「インパクト」に関する問いは次のような問いとして再提起される。すなわち、テイラーの宗教論の形式面を特徴づけるその「方法」は、宗教に関する学問的研究にとってどれほど発見的または使用的な価値をもつのか、という問いとして。
 前章までの議論をなかば引き継ぎつつ、第七章ではテイラーの宗教論の「方法」に必然性を与えている彼の哲学的諸論点について検討を行い、彼の方法の基本的な性格を明確化する。テイラーの宗教論に見られる歴史主義的な方法は、しばしばニーチェ的な「系譜学」との近接性を指摘されるが、私たちはテイラーの歴史主義の真の意図が、価値や基準の歴史相対主義的解体というよりは、その起源と成立過程の解明を通じた「肯定」の方にあることを確認する。また、ここではテイラーの解釈学的ないし言語論的アプローチが、彼の長年の論争相手であったリチャード・ローティの戦略とはまったく趣向を異にするものであることをも同時に明らかになる。結論として、こと宗教について学問的に研究するとした場合、そのような一種の「対処実践」においては、ローティ的な「ミニマリスト」であるよりも、テイラー的な「マキシマリスト」であるよう心がけた方が益が多いことを主張する。
 最後の第八章では、「ポスト世俗」という標語の下に括られる近年の流行思想との関連で、テイラーの宗教論の応用的な可能性を探求する。この曖昧な用語がもつ複合的なコノテーションやその論争性を概観しつつ、テイラーの思想からどのような「ポスト世俗」の理解を得ることができるか、その展望を示そう。元来多義的なこの語について理解を深めるには、一つには本書で明らかにしてきたテイラーの言語論的なアプローチが有効である。私たちは、問題の語を一元的に定義しえないという一事をもって、その語の使用が開示するかもしれないものをたんに意味なしとはしない。テイラーに従うなら、むしろそのような言葉の多義性、詩的な音感の豊かさに対して積極的に自己を開き、「言葉が語る」のを聴くという方針をとるべきなのである。テイラーに即して展望される「ポスト世俗」の学問においては、こうした「より繊細な」言語感覚を携えて現実に従事することが必須の要件となるだろう。
 以上の議論の全体を通じて、私たちはテイラーの一連の仕事を、宗教についての思想であると同時に、それ自体として宗教的であるような思想として理解する。ただし、このように言うとしても、私たちの解釈学は、テイラーに関する最終的かつ決定的な理解を提起するものではありえない。本研究は、もっぱら自らの限界づけられた関心と視野によって捉えることのできるものについて、現時点で可能な「最善の説明」を与えようと試みるにすぎない。その解釈は、同一のテクストを根拠としていつでも争われることができ、より良い説明によって取って代わられる潜在的な可能性に対してつねに開かれている。このような留保のつけ方がどこかテイラー的だとすれば、本書が取り組むのは、テイラーについての研究であると同時に、こう言ってよければ、それ自体テイラー的であるような研究である。
(注と図版は割愛しました。Pdfでご覧ください)
 
 
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