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山田真由美 著
『京都学派の教育思想 歴史哲学と教育哲学の架橋』
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序章 京都学派の教育思想の記述に向けて
第一節 問題の所在
本書は、京都学派の哲学者であり、それぞれ戦前と戦後に教育哲学を論じた木村素衞(一八九五─一九四六)と高坂正顕(一九〇〇─一九六九)の教育思想を紐解くことで、京都学派の教育思想のひとつの系譜を記述しようとするものである。京都帝国大学哲学科の同期生であった木村と高坂は、ともに西田幾多郎(一八七〇─一九四五)のもとで哲学を学び、京都学派の「第二世代」に属する哲学者として知られるが、これまで両者の深い交友関係や思想の共通性が取り上げられることはほとんどなく、特に彼らの教育哲学に関しては、木村の思想のみが美的・人間学的思想であるとして個別に論じられ、切り離して取り上げられてきた。高坂をはじめ、西谷啓治(一九〇〇─一九九〇)や高山岩男(一九〇五─一九九三)を代表とする京都学派の哲学は、戦中に太平洋戦争を意義づけしてみせた中央公論誌上の座談会「世界史的立場と日本」につながるために、木村と高坂は、ともに京都学派の哲学者であると認識されながら、その思想に関しては意図的に切り離して論じられてきたのである。
こうした従前の議論に対して本書では、木村と高坂を含む一九三〇年代の京都学派が共有した「歴史」への視座に着目することで、その歴史哲学を手掛かりにしながらあえて両者の教育思想を貫く共通性をとらえ、そこから京都学派の教育思想の特質を記述することを試みる。より具体的には、彼らが人間を歴史的主体であると考えたこと、そのゆえに教育という営みについて、歴史を作る主体を作ることによって歴史を形成する営みであると論じたことを明らかにし、ここに西田を含む京都学派の教育思想の特徴とその問題性を見いだすことを試みる。教育学の領域においてこれまで批判され排除されてきた京都学派の特に歴史哲学に着目し、それと教育哲学との理論的な架橋を目指すことにより、教育を「歴史」そのものを形成する営みであると考えた彼らのダイナミックな教育哲学をあぶりだし、ポストモダニズム以後、「主体」や「歴史」という大きな物語を喪失しつつある現在の教育哲学や教育理論に対する示唆とすることを目指したい。本書の試みを詳述する前に、まずはともに京都学派と呼ばれる木村と高坂の出会いと経歴を簡単にたどっておくことにしよう。
石川県江沼郡に生まれた木村素衞と、愛知県名古屋市に生まれた高坂正顕が、ともに京都帝国大学哲学科に入学したのは、一九二〇年のことである。病気療養のため一年で三高からの退学を余儀なくされた木村の方は、このとき四高から京都を目指した高坂よりも五歳年上で、九月に選科生としての入学であった。この年、哲学科の講師陣には、西田幾多郎と田辺元(一八八五─一九六二)のほか、西洋哲学史の朝永三十郎(一八七一─一九五一)、宗教学の波多野精一(一八七七─一九五〇)、インド哲学史の松本文三郎(一八六九─一九四四)、美学の深田康算(一八七八─一九二八)、倫理学の藤井健治郎(一八七二─一九三一)が顔をそろえ、さらに高坂と木村の卒業後、一九二五年には和辻哲郎(一八八九─一九六〇)が、翌年の一九二六年には田辺の推薦により天野貞祐(一八八四─一九八〇)が迎えられている。当時の学生の側に目を向けてみると、助手に務台理作(一八九〇─一九七四)が、三年先輩に三木清(一八九七─一九四五)が在籍したのに加え、一年後輩として戸坂潤(一九〇〇─一九四五)と西谷啓治が、さらに五年後輩に高山岩男が入学するなど、両者の在学したあいだの哲学科は、「知的ネットワーク」としての京都学派がまさに生まれようとする「黄金期」でもあった。
(以下、本文つづく。注番号は割愛しました)