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山名 淳 編著
『記憶と想起の教育学 メモリー・ペダゴジー、教育哲学からのアプローチ』
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はじめに──「記憶」が導く教育への問い
「『教養』という概念で言い表されるのは、この文化的記憶に実存的かつ連結的に参加することである」(アライダ・アスマン)
大学二年生を主たる対象とした百人くらいの教育学の授業で「記憶」について講義をしたとき、本題に入る前の枕として、次のような質問をしてみたことがある。「『記憶と教育』というテーマを扱う本があったとして、あなたはどのような内容がそこに書かれていると思いますか」。そのイメージを自由に回答してもらったのだが、一番多かったのは記憶を定着させる方法に関するものであった。学校や家庭でどのように教育すれば、学んだことを長い間忘れずに覚えていられるか。エビングハウスの忘却曲線にもふれながら学習の効率性を主題とした本を思い描いた回答も複数あった。机上での学びと身体も動かしながらの体験型の学びとでは、学習したことの記憶の質や量に違いはあるか。そうしたバリエーションも含めると、個人の記憶力と学習の関係を主題とした内容をイメージした回答は半数を超えた。
大学受験を経験して間もない世代の人たち、しかも教育学に関心を抱く人たちに尋ねたという特殊な状況が回答内容に影響を与えている可能性はある。だが、筆者自身が折に触れてさまざまな人に同じ質問をしたときの反応に基づいて言えば、一般にも「記憶と教育」という主題によって個人の記憶力と学習の関係が想像される傾向があるように思われる。
ここで述べたいことは、むろんあまりにも大まかな以上のような筆者の質問と回答に基づいて「記憶と教育」というタイトルによって思い描かれるイメージの傾向を断定することではないし、ましてやそうした傾向を「暗記主義」だなどと批判することでもない。あらぬ期待と失望をあらかじめ避けるために強調したいことはただ一点、本書で論じたいことは個人の記憶力を高めるための方法やその是非などではない、ということである。本書の「記憶」はもう少しゆったりとしている。そのゆったりとした「記憶」の観点からあらためて教育について考えることの提案とそのための実例を示すことが本書のねらいである。どういうことか。もう少し話を続けよう。
たしかに記憶が教育と密接にかかわっていることには疑いがないだろう。学校での学習場面を思い起こしてみよう。子どもたちは教科書や教材を机の上に置きながら、教師の話に耳を傾け、板書に注意を向け、その重要ポイントをノートに書き写す。自宅に帰り、その日に学んだ内容を復習し、あるいは次の日に学ぶ内容を予習する。人生のある一定期間、ほぼ毎日繰り返されるこのルーティーンのねらいはさまざまに定められるだろうが、少なくともそのうちには知識の獲得と援用が含まれ、またそこには記憶の定着が付随するにちがいない。今日、情報メディア技術の発展などに後押しされて、そうした伝統的な学校教育における学習場面は変化しつつある。だが、学習のあり方が変わったとしても、またコンピュータや情報ネットワークを用いて学習内容を「記録」として貯蔵できる量がますます大きくなったとしても、教育が以上のような意味で記憶と密接に関わり続けることにはおそらく変わりはない。
ところで、以上のように語られる場合の「記憶」は、基本的に個人に属するものとして想定されている。だが、私たちはそれとは別様の「記憶」について語ることもできるだろう。「記憶」が個人の内側にではなく、その外側に、つまり社会や文化と呼ばれるものとの関わりで想定される場合が、それである。私たちはこれまで生きた人びとの経験や知識が世代を超えて伝えられていくためのさまざまな人工物や営みに取り囲まれている。遺跡、遺物、建築、都市、モニュメントなどによって構成されている空間は、そうしたものの典型である。また、絵画や彫像、写真や映像、音楽やスポーツ、さらには文書記録、証言、文学のような文字による構成物にも、そのような要素がある。祝祭や儀礼、あるいは日常の慣習にも、個人の外部に蓄積された記憶としての側面をみることができる。
メモリー・スタディーズと呼ばれる記憶に関する学際的な研究領域(Erll 2017 =エアル 2022, また本書の第一〇章を参照)では、記憶を個人の認知に関する領域のみならず、個人と個人の〈あいだ〉や両者を繋ぐ媒体のうちにも見出そうとする立場から考察が進められている。そのような立場を代表する論者であるアライダ・アスマン(およびヤン・アスマン)は、人間の記憶に作用を及ぼす上述のような人工物および人間の営みの集積を「文化的記憶」と呼んでいる。そして「こうした〔文化的記憶の〕集積は学びによる習得の対象」(Assmann 2002: 24)であると述べている。「文化的記憶」と接触するなかで個人の記憶が生成されるとき、そこには学びが関わることになるのである。
教育とは「文化的記憶」との接触によって生じる広い意味での学びを意図的に促す試みに他ならない。「記憶はとりわけ教育施設によって支えられた学びを通して獲得される」(ibid.)とアスマンが述べていることは、このことを指している。そのような見方からすれば、教科書や教材は次世代のために「文化的記憶」の選択と構成によって濃縮された想起のメディアである。先に述べた学齢期における学びのルーティーンは、学校という施設において、そうした教科書や教材を手がかりとして、教師の語りや振る舞いを通して、あるいは学習者自身の身体を用いつつ、個人を通して、だが同時に個人を超えて、そのような意味を文化のうちに記銘し、保持し、そして想起する営みとしての性質を帯びる。急いで補足しなければならないが、「文化的記憶」を視野に捉えるとき、学びと教えの領域は必然的に学校を、あるいは同じく学びと教えの空間としての家庭やミュージアムなどを包含しつつ、それよりも広いものとみなされねばならない。先述の想起を促すさまざまな媒体の複合体が家庭や学校やミュージアムなどの中に入り込み、またそれらを包囲しているのである。
アスマンによれば、「文化的記憶」に参加することこそが「教養」なのだという(ibid.: 25)。一方で文化的記憶は、今を生きる人びとの間に、また世代を超えた人びとの間に共同性を生み出す(彼女はそのような作用を「連結的(verbnindlich)」という語で表現している)。文化的記憶は私たちの認識や記憶の在り方に一種の枠組みを与え、「共通のアイデンティティを分有する」(ibid.)ことを可能にする。だが、そのような共同性は「個人の自由裁量の余地の作用と活性化のもと」で生じるのであり、「その枠組みを補完し、新たな生命によって満たし、具現化することは、主体が選択し、各自の嗜好や関心や探究によるものであり、個人の社会参加によるものである」とアスマンは言う(文化的記憶に「実存的」に参加するという彼女の表現はそのことを集約している)。
ちなみに、ここで「教養」という日本語を当てた原語は「ビルドゥング(Bildung)」というドイツ語である。この語が用いられる文脈によって「陶冶」「人間形成」「自己形成」などと訳されることがある多義的な概念だ(山名・藤井 2014)。哲学の分野では、自己と環境とが相互作用を及ぼし合いながら自分を変化させ、また同時に環境も変化していくことが本義とされることが多い。つまり、文化的記憶に参加することは人間とその環境との力動的な関係性を生み出すことと同義であると、アスマンは述べているのである。
以上のような記憶の捉え方をする場合、個人は記憶の持ち主としてというよりは、むしろ広義の記憶の媒介者として、そうした過程のうちにある。記憶をめぐる個人とその環境との相互作用を視野に捉えながら、さまざまな考察対象や問題を論じるかまえがここにある。本書ではそのようなかまえをもって記憶を論じてみたい。先に本書の「記憶」は「ゆったりとしている」と述べたのは、そのことを指している。
個人を超えて人と人の〈あいだ〉にあるものとして記憶を検討する領域は、一般に「集合的記憶」論と呼ばれている。その提唱者であるアルヴァックス(Halbwachs, M.)が述べるとおり、個人の記憶はその人を取り巻く環境のさまざまな要素によって影響を受けており、そのかぎりにおいて純粋な個人の記憶というものはなく、あらゆる記憶が「集合的」な側面を有している。
あらためて教育に関するこれまでの研究を見渡してみれば、そのような考え方にふれる教育に関する議論がすでにさまざまなかたちで示されていることがわかるだろう。たとえば、災害や戦争の記憶を伝える授業を構想する試み(教育方法学)、図書館やミュージアムにおける記憶継承問題に対する取り組みの検討(社会教育学・生涯教育学)、個人の記憶を辿り直してそれを解釈する人間形成論的自伝研究(教育哲学)、戦時中における記憶の共同性がいかにして生成されていたかを批判的に検証する考察(教育史学)、個人の記憶生成に文化的コンテクストがいかに関わっているかを教育のエージェンシー(家庭や学校)との関係で検討する試み(教育心理学)、あるいは祝祭やメディア・イベントを通じて国家や地域や世代ごとの共同的な記憶がどのように構成されているかを分析する研究(教育社会学)などを挙げることができるだろう。
私たちの論集は、記憶に関わる社会と文化の文脈をも視野に入れて論じるかまえをそうした既存の考察と共有しつつも、これまでにない方向性をもって「記憶と教育」について論じるものである。本論集の特徴は広い意味での教育に関わる哲学・思想や理論に関連していることにある。言及される思想家や理論家は、たとえばジャン= ジャック・ルソー、ハンナ・アレント、ジョン・デューイ、エルンスト・モイマン、アビ・ヴァールブルク、ジークフリート・クラカウアー、エトムント・フッサール、アライダ・アスマン、鶴見俊輔、あるいはカズオ・イシグロなど多彩である。
序章としての意味合いも帯びている第一章に続いて、人間形成に関する学問と記憶の関係について(第二、三、四章)、書くことをめぐる問題について(第五、六章)、また記憶継承をめぐる問題について(第七、八、九章)さまざまな角度から論じられる。もっとも、以上のグループ分けは読書のためのさしあたりの道標以上のものではない。そうした括りの境界線を飛び越えて、「当事者性」という観点からは第三章と第六章が、叙述については第五章と第六章とともに第九章が、また記憶継承に関する理念主義的な原理の限界に関しては第一章と第七章が、相互に結びつく内容を含んでいる。読者はそれぞれの関心に基づいて各章を多様に読解することができ、そうした自由な読み解きが本書を新しい教育への問いを開く媒体にしてくれる。最終章ではそのための暫定的な礎を用意すべく、〈記憶の教育学〉モデルを構想してみたい。
各論考は独自の方向性を有している。だが同時に、そのどれもが共通の関心のもとにある。個人を超えたところに想定される記憶の「再生」はオリジナルの完全な複写ではありえない。世代を超えて記憶は分有されつつ、あるときは時代の経過とともにゆっくりと変化したり、あるときは急激に変容したり、またあるときは旧来のものと断絶して新たなものと置き換えられたりしていくものとみなされる。どの論考もそのような広い意味における記憶の力動性の複雑さと不思議さへの取り組みの多様なバリエーションである。「記憶と教育」について新たに論じ直すためのアイディアの発露を掬い取り、それを具体的な論考として提示しようとするものである。記憶の教育学の集大成ではなく、むしろその端緒の試みである。記憶(憶えとどめておく能力およびそのための仕組み)と想起(特定の内容を再び呼び起こす動的な過程)は教育および人間形成とどのようにかかわるか。この問いへの取り組みをまずは教育哲学を一つの足場として始めてみたい。
山名 淳
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