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『スピノザ学基礎論――スピノザの形而上学改訂版』

 
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松田克進 著
『スピノザ学基礎論 スピノザの形而上学 改訂版』

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はじめに
 
 本書は,2009 年に昭和堂から出版された拙著『スピノザの形而上学』の改訂版である。
 初版と改訂版との相違については「結び」で箇条書きするが,主な変更点は次の3点である。第1に,「序」の前に「はじめに」(今お読みのこの文章である)を新たに付した。第2に,「付論」の中身を半分以上入れ換えた(書き下ろしを含む)。第3に,「結び」を文字通り全面的に書き換えた。
 なお,「序」および本文(=第1~5章)は,基本的には初版のままであるが,もちろんのこと細かい調整・修正は施した。本文については若干の加筆(注を含めて)も行った。
 
奇妙な「証明」
 スピノザの『エチカ』には奇妙な「証明」が数多く登場する。典型的な一例をあげる。
 『エチカ』の第1部定理9の文言は次のようなものである。「およそ事物がより多くの実在性あるいは有を持つにしたがって,それだけ多くの属性がその事物に帰せられる」。この文言に続けてスピノザは書く。「証明は定義4から明白である」。「証明」はこれだけである。これだけなのである。では,この「証明」に登場する第1部定義4の文言はいかなるものなのか。それは以下の通りである。「属性とは,知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの,と解する」。
 第1部定義4から第1部定理9が帰結するというのは実に奇妙なことである。なぜか。なぜならば,定理9に登場する「実在性」および「有」という概念が定義4には登場しないからである。ならば,せめて,第1部定理9よりも前の箇所に「実在性」あるいは「有」の定義が登場してほしいところであるが,残念ながら登場してはいない。(もっとも,「実在性」の定義は,この定理よりも後――第2部の冒頭――に登場してはいる。しかし,それは「実在性」と「完全性」を等置するだけの内容であって,第1部定理9の「証明」の理解には直接寄与するものではない。)
 いきなり面倒な話から始めてしまった。私が言いたいことは要するにこうである。
 スピノザの『エチカ』は幾何学的方法(公理的方法)で書かれていることになっている。幾何学的方法とは,命題がそれに先行する定義・公理・定理によって証明(論証)されるという手続きのことである。しかし,実際のところ『エチカ』に登場する数々の「証明」は,まったくもって「証明」と呼ばれ得るようなものではないのである。
 
ライプニッツの指摘
 ライプニッツはパリ滞在時の 1675 年秋頃からスピノザの『エチカ』に多大な関心を寄せ,翌 1676 年 11 月半ば,ハノーヴァーへの帰国の途上,デン・ハーグでスピノザ本人とついに(おそらく複数回にわたって)面談するに至った。そのライプニッツは,その後に書いた様々なテクストにおいて,スピノザの論述が論理的ではないことを厳しく指摘している。
 例を挙げる。1677 年にスピノザが没してからほどなき頃(1678 年)に書いたと推測される書簡でライプニッツは次のように書く。「彼〔=スピノザ〕の主要な諸命題は決して認可され得ず,論証されてもいません」。また同年に書かれたと推測される別の書簡でも書く。「論証の厳密さから逸脱したために,彼は時として誤謬推理を犯しているのです」。
 ライプニッツのこのような言葉は,名だたる危険思想家スピノザから距離を取るための処世的方便と見なされるべきではない。なぜならば,同趣旨の指摘を彼は,『エチカ』についてのプライヴェートな覚え書にも実に詳細に書き残しているからである。(なお,ライプニッツのこれらの指摘は第1章で改めて取り上げる。)
 
『エチカ』という迷宮からの脱出
 『エチカ』をそのいわゆる幾何学的な秩序に則して第1部冒頭から出発して順々に理解しようとするとき,我々は「なぜこの命題がしかじかの先行命題から〈証明〉されるのか」という謎に次々と出会う羽目に陥る。そのような謎はあっという間に雪だるま式に蓄積され,『エチカ』読解に挑む者は迷宮の奥へ奥へと迷い込む。そう,『エチカ』は巨大かつ深淵な迷宮なのである。
 『エチカ』のこの迷宮性は,スピノザ形而上学の解釈史において,様々な巨大な未解決問題を生み出してきた。本書で私が対峙する「二重因果性の問題」と「属性の問題」はそれらの中でもとりわけ厄介なものである。(これら2つがいかなる問題なのかは,「序」で詳細に説明する。今しばらくお待ちいただきたい。)
 では,『エチカ』という迷宮から脱出する方法はあるのだろうか。――「ある」というのが私の答えである。そして,本書の全体はこの「答え」を正当化する試みなのである。
 
意味論的逆算
 先ほどの例にもどろう。第1部定理9の証明は以下のわずか1行である。「証明は定義4から明白である」。じつに驚くべき「証明」である。――そもそもなぜスピノザは,自分が「証明」を行っていると思えたのであろうか。なぜスピノザは,いわば〈超論理的〉な自信を持つことができたのであろうか。それは彼が文字面の向こうを見ていたからだ,と考えざるを得ない。
 『エチカ』第1部冒頭部分においてスピノザが「実体」「属性」「様態」について次々に〈超論理的〉な「証明」を行うとき,彼はそれらの概念の向こう,すなわち彼にとってそれらの概念が意味する指示対象を見ていたのである。ゆえに,『エチカ』の形而上学を理解するための方法は彼の証明の文字面だけを追うことではない(そのようなことをしても迷宮からは一歩も出られない)。方法は,何よりもまず,スピノザにとっての「実体」「属性」「様態」の意味(言い換えれば指示対象)を探究することにある。しかし,その探究を行うべきテクストは何か。それは『エチカ』第1部冒頭ではない。そこでスピノザが行っているのは,彼がデカルトから継承した「実体」「属性」「様態」という諸概念を,デカルト的規定の下に導入しているという作業である。このデカルト的規定がいわば煙幕の働きをして,スピノザ自身の思念している意味(指示対象)は隠されているのである。
 スピノザが基本概念の意味論的種明かしをするのは第2部の頭(定理7以降の数定理)である。私はこの箇所を集中的・徹底的に分析する。そして,この分析を通して,すでに第1部冒頭から登場していた「実体」「属性」「様態」という諸概念の意味(指示対象)を照らし出す。私はこのような手法――すなわち,既出の概念の意味(指示対象)を後のテクストを基に照射すること――を「意味論的逆算」と名付ける。意味論的逆算こそが『エチカ』という巨大かつ深淵な迷宮からの脱出法なのである。
 
「スピノザ学基礎論」
 「数学基礎論」という研究分野がある。これは〈数学という学問の基礎・土台・根底の探究〉と規定することができよう(ほぼトートロジーではあるが)。また,昨今では,「脳科学基礎論」「生物学基礎論」「言語科学基礎論」などといった言葉も用いられているようである。これらも「数学基礎論」と同様の仕方で規定することができるのであろう。
 このような「─基礎論」という表現方式を使うならば,本書の意図は「スピノザ学基礎論」(英訳すればFoundations of Spinoza Study)と表現され得る。
 スピノザ思想は多面的である。それは少なくとも,形而上学から認識論・情動論・道徳論・宗教哲学・政治哲学までの広がりないし奥行きを持っている。しかし,スピノザ思想の基礎は,超越神と自由意志を削除するという(現代においても依然として)非常にラジカルなその世界像にある。そして,このラジカルな世界像の枠組みは,「実体」「属性」「様態」という基礎概念によって構成されているのである。本書はまさにこれらの基礎概念――すなわち,スピノザの世界像の基礎・土台・根底――の明確化を目指すものである。それゆえ,レンジの広いスピノザ思想の研究全般を「スピノザ学」と称するならば,本書はまさにスピノザ学基礎論に他ならないのである。
 
意味論的逆算のサンプルケース
 しかし,本書の読み方はスピノザ学基礎論としてのそれに尽きるわけではない。
 繰り返しになるが,本書は『エチカ』という迷宮から意味論的逆算という方法を用いて脱出を図るものである。そして,広く哲学史を見渡せば,あらためて言うまでもなく迷宮は『エチカ』一冊にとどまるわけではない。むしろ,哲学史上の古典と見なされているようなテクストの多くはそれぞれ手ごわい迷宮であろう。それは大著に限られる話ではない。例えばデカルトの『省察』本文は,アダン= タヌリ版ではわずか 90 ページほどの非常にコンパクトなテクストである。しかし,それは研究史において実に多様な謎(典型例の一つは「永遠真理創造説」をめぐる謎)と実に多様な(相互に両立しない)解釈を生み出してきたし,いまも生み出し続けている。
 『エチカ』以外の迷宮にも,意味論的逆算という方法は有効であろうか。私としては「たいていの場合きわめて有効である」と答えたいところではあるが,安請け合いすることはできない。しかしいずれにせよ本書は,『エチカ』以外の迷宮に挑もうとしつつある若い世代の研究者にとっては,少なくとも意味論的逆算の典型的なサンプルケースにはなるはずである。
 一般に,哲学者 X の著作 Y を冒頭から順序正しく読もうとするとき,X が Y のしかじかの箇所で奇妙な推論を行っているように見えることがあろう。諸概念の連鎖にどれほど丁寧に注意しても,その推論は〈超論理〉的なものにしか見えないことがあろう。しかし,そのような場合,次のように考えればどうか。すなわち,X は諸概念の向こう,すなわち X にとってそれらの概念が意味する対象を見つつ推論していた。だからこそ X の推論は字面には縛られない。それゆえ字面だけに注目する限り X の推論は〈超論理的〉に進むことになる。もしもそうだとするならば,X を理解するために――あるいは Y を読解するために――必要なメソッドは何か。それは,X が諸概念の向こうに見ている意味(指示対象)が種明かしされている Y の箇所を探し当て(そのためにはある種の〈嗅覚〉が必要にはなろう),その箇所を文字通り徹底的に読み込むことで意味(指示対象)を浮かび上がらせるというメソッドである。――これが意味論的逆算なのである。
 
* * *
 
 本書には,意味論的逆算のほかにもはっきりとした特徴が少なくとも2つある。ごく簡単に記す。
 一つは,ダイアグラム(図式)の徹底的活用である。これについては「序」の末尾と「結び」の初めでその意図や経緯を説明している。参照していただきたい。
 もう一つは,スピノザ研究史における古典的文献の重要箇所を意図的に丁寧に引用していることである。引用される研究者は 19 世紀ドイツの哲学史家エルトマンおよびフィッシャーから 20 世紀スピノザ研究を代表するゲルーやカーリーまでである。典型的な例を挙げれば,第5章第2節(5.2.2)におけるゲルーからの引用は原稿用紙 15 枚ほどに及んでいる。私がこのような具合に〈つまみ食い〉ではなくかなり長めに(ときには延々と)引用したのは,もちろん能う限り精確を期するためである。(そもそも引用という手続きは人文学の基本中の基本なのである。)
 とはいえ,読者の中にはこれらの引用を長すぎる(冗長である)と感じる向きもひょっとするとおられるかもしれない。しかし,どうぞご安心いただきたい。引用の後に私はその要約を付している。要約を読みさえすれば,引用そのものは差し当たり斜め読みでも,本書の論旨を追うにはさほど支障はないはずである。もっとも,ゲルーの尋常ならざる知的集中力および知的持久力を実感するためには,延々たる引用に営々とお付き合いいただくしか仕方がないのではあるが――。
(傍点は割愛しました)
 
 
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