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ドミニク・マカイヴァー・ロペス、ベンス・ナナイ、ニック・リグル 著
森 功次 訳
『なぜ美を気にかけるのか 感性的生活からの哲学入門』
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訳者あとがき
本書はDominic McIver Lopes, Bence Nanay, Nick Riggle. Aesthetic Life and Why It Matters, Oxford University Press, 2022 の全訳である。
著者の三人とも邦訳が出るのは本書が初めてなので、まずは著者たちの紹介をしておこう。
ドミニク・マカイヴァー・ロペスは、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学の哲学科教授である(二〇二三年には優れた研究者として大学の「キラム教授(University Killam Professor)」の称号を授与されている)。これまでにアメリカ美学会会長、カナダ哲学会会長などを歴任しており、現在はアメリカ哲学会の委員長(Chair of Board of Officers)を務めている。著作も数多くあるが、中でもアメリカ美学会の単著賞を受賞したA Philosophy of Computer Art (2009)や、芸術の定義論を刷新したBeyond Art (2014)、そして本書でもたびたび名前が挙がっていたBeing for Beauty (2018)は重要著作と言えよう。他にも描写の哲学、写真の哲学などの分野で数多くの著作を執筆している。
ベンス・ナナイはベルギーのアントワープ大学の哲学的心理学センターの教授である。知覚分野を中心に認知科学的知見を取り入れた哲学で数多くの著作があるが、その一方で美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンや作家ロベルト・ムージルに関する研究でも業績を残している。ナナイは哲学業界では、驚異的な仕事量で有名な人である。コンスタントに年十本前後(多い年には年間十五本!)の論文を(しかもその多くが採択率の厳しい一流の学術誌に!)執筆し続けており、さらにその合間に単著も執筆している。興味がある人はぜひ彼のホームページにある業績表を見てみてほしい(必ず驚くはずだ)。また彼は映画批評家としても活躍しており、いくつかの映画祭で審査員も務めていた。
ニック・リグルはアメリカのサンディエゴ大学哲学科の准教授であり、三人の中では比較的若手であるが、近年非常に勢いのある美学者である。リグルは、共同体(community)の観点から美学のさまざまな問題に取り組んでおり、ストリートアート研究やフリードリヒ・シラーについての研究で仕事を残している(「個人」「スタイル」「愛」なども彼の哲学の特徴を示すキーワードだ)。また近年は、一般向けに書いた本This Beauty: A Philosophy of Being Alive (2022)が話題になった(日本でも近々ダイヤモンド社から翻訳が出るそうだ)。
著者三人は、いずれも現代分析美学を代表する論者である。この重要論者三人の仕事を一気に紹介できるというのが、本書を翻訳しようと決める理由のひとつになった。
続いて、本書の学術的背景をすこし説明しておきたい。
本書は哲学の初学者向け授業のテキストとして書かれてはいるが、主にあつかわれているのは「美的価値論」である。〈美的価値とは何か〉というのは美学においては伝統あるトピックであるが、近年の分析美学では従来の見解を揺さぶる新たなモデルが多数提案され、議論が非常に盛り上がっている。つい最近も、アメリカ美学会の学会誌Journal of Aesthetics and Art Criticism が美的価値をめぐる近年の議論状況を概観するための特集を組んだところだ(Vol. 81, No. 1, 2023)。その特集では、なんと十一人の論者たちがさまざまな案を提案している(学術誌の一特集としては執筆者の数が異様に多いところがポイントだ)。美的価値は、まさに現在進行形で盛り上がっている重要トピックなのである。編集者のロバート・ステッカーとテッド・グレイシックはその特集の序文で「美的価値がどういうものかという議題については、もはや定説がまったくない」と述べている。
近年の議論が盛り上がるきっかけになった議論枠組みがひとつある。それは、美的価値に関する問題を、
•〈美的価値はなぜ美的な領域の価値なのか(他の種類の価値と何によって区別されるのか)〉という美的問題(aesthetic question)と、
•〈美的価値はなぜわたしたちの行動選択の理由になるのか(美的価値はなぜ価値あるものなのか)〉という規範問題(normative question)
の二つに分けて考える、という枠組みである(前者は境界問題(demarcation question)、後者は価値問題(value question)とも呼ばれる)。とりわけロペスは、近年この枠組みを強く押し出した論者の一人である。二〇一八年の著作Being for Beauty で彼は、まずこの二つの問題を分けた上で〈美的問題を棚上げしつつ規範問題に答える〉という方針を採用し、ネットワーク理論という斬新な理論を提案した。この提案が論争の起爆剤となり、美的価値の問題にとりくむ現代の論者たちは、ロペスに賛同するにせよ反論するにせよ、この枠組みに何らかの形で応答を求められるようになっている。
こうした背景をふまえて見ると、本書の主眼は規範問題の方にあると言えよう。三人の執筆者たちは、〈わたしたちはなぜ美的なものに気を配るのか〉〈美的なものはなぜ大切なのか〉という問題に対してそれぞれ特徴ある答えを提示しているが、〈美的価値が他の価値とどのように区別されるのか〉という境界問題には積極的に取り組んではいない。本書の学術的意義は、規範問題に対して、伝統的に主流であった快楽主義(aesthetic hedonism、つまり美的に良いものは快を与えてくれるから良いものなのだ、という考え方)とは別のアプローチから、いくつかの答えを提案するところにある。こうした現代美的価値論の一端を紹介できるというのが、本書の翻訳を決断した最も大きな動機だった。
初学者向けの本なので、内容をまとめるような解説は不要だと思う。大事だと思われる点だけいくつか述べておこう。
まず、本書の議論からは「美しくならなければならない」とか「もっと美に気をつかわなければならない」といった主張は(少なくとも直接的には)出てこない。本書はそうした美の規範の点で、わたしたちにプレッシャーをかけるものではない。本書はむしろ、すでに美的なものに気を配る生活を送っているわたしたちに向けて、なぜその生活が大事なのかを考えさせるための本である。
また、三人はそれぞれ「達成」「共同体」「多様性」の観点からそれぞれ回答を提示しているが、どれも唯一決定的な答えとして(つまり他の答えを否定するものとして)出されているわけではない。わたしたちが美的なものを大事にする理由はさまざまあっていい。本書が提案している三つの回答は、互いに両立しうるものである。
とはいえ、著者たちの間に対立がないわけでもない(実際リグルはロペスの美的価値論を批判する論文も書いてもいる)。「ブレイクアウト」パートで著者たちの立場の違いがあぶり出されてくるところは、本書のハイライトのひとつと言えるだろう。読者のみなさんは、三人のうち誰に近い立場をとるだろうか。考えてみてほしい。
邦題については大いに悩んだが、結局『なぜ美を気にかけるのか――感性的生活からの哲学入門』にした。この「美」は〈美的に良いもの〉くらいのニュアンスで理解してほしい。「美(beauty)」と「美的(aesthetic)」を混同すべきではないと考える専門家はこの邦題に不満を覚えるかもしれないが、近年は“beauty”をこれくらいゆるい意味で使う論者も増えてきているので(実際ロペスやリグルはその代表的な論者だ)、ご容赦いただきたい。また、あわせて強調しておきたいのが、「生活(life)」という語のもつ含意である。日常のさまざまな美的経験に目を向けようとするのは近年の美学のひとつの動向であるが(「日常生活の美学(aesthetics of everyday)」がキーワードになるほどだ)、その中でも本書は、かなり幅広いことがらを美的経験の対象として認める姿勢をとっている。日常生活のさまざまなところに美的な良さはあり、それはわたしたち各個人にとっていろいろな意味で大事なものである。これは本書が出しているひとつのメッセージだ。
最後に謝辞を。ステッカーの『分析美学入門』、キャロルの『批評について――芸術批評の哲学』に続いて、今回も編集は関戸詳子さんにお世話になりました。三冊目の訳書ということもあって、もろもろの相談や作業を非常にスムーズに進めることができ、大変助かりました。「これ訳したいです」「はいどうぞ」くらいのスムーズさで、今後も翻訳を続けたいと思います。分析美学の研究会のみなさんには、訳語方針や邦題などについてくりかえし相談に乗っていただきました。とりわけ銭清弘さん、村山正碩さんからは、訳文について大変丁寧なコメントをいただきました。頭が上がりません。
最後に著者の一人であるドミニク・ロペス氏にあらためて感謝を述べておきたいと思います。二〇一六年に韓国で開催された国際美学会でお会いして以来、ロペス氏にはたびたび著作の草稿を送っていただき、最新の研究動向を教えていただいていました。本書の翻訳に素早く取り掛かることができ、現代美学の最前線の動向をいち早く日本に紹介できたのは、彼のオープンかつ寛大な研究姿勢のおかげです。
二〇二三年六月 森 功次
(傍点は割愛しました)