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『懐疑主義の勧め――信頼せよ、されど検証せよ』

 
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ピッパ・ノリス 著/山﨑聖子 訳
『懐疑主義の勧め 信頼せよ、されど検証せよ』

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訳者あとがき
 
 本書はIn Praise of Skepticism: Trust but Verify (Oxford University Press, 2022)の全訳である。
 比較政治を専門とする著者のピッパ・ノリスは、多数の単著・共著を刊行しており、当代一の政治学者とも称され、日本の政治学者の間でも高名が轟いているが、驚くべきことに和訳本は本書が初となる。
 ノリスの研究やノリスが関わった書籍は、数々の有名な賞を受賞している。ノリスとロベンダスキーとの共著によるPolitical Recruitment: Gender, Race and Class (Cambridge University Press, 1995)は、「社会に多大なる貢献をした書籍」として、2018 年にアメリカ政治学会からジョージ・H・ハレット賞を受賞。ノリスの4 冊目の単著であるA Virtuous Circle: Political Communications in Postindustrial Societies( Cambridge University Press, 2000).は、政治コミュニケーションにおける最高の書籍に対して表彰されるドリス・グレーバー書籍賞を受賞している。ノリスはまた、世界価値観調査の創始者であるロナルド・イングルハートと共に、Cosmopolitan Communications: Cultural Diversity in a Globalized World (Cambridge University Press, 2009)をはじめ、数々の共著書を刊行し、世界各国の世論と選挙・政治制度、文化・ジェンダー・ダイバーシティとの関連に資する研究を深めている。2011 年、ノリスとイングルハートは、「既存の研究アプローチの枠を超え、世界的な文脈における政治文化の関連性とルーツについて革新的なアイデアに貢献した」ことにより、政治学分野でヨハン・スカイッテ賞を受賞した。その後も2014 年には「学際的研究への貢献」に対して国際政治学協会からカール・ドイチュ賞が、2017 年には「主要な政治思想家として、また民主主義、選挙の誠実さ、ポピュリズムに関する学術研究への多大な貢献」に対して英国政治研究協会からサー・アイザイア・ベルリン生涯功労賞が授与されている。
 本書の原点は、序文にも触れられているように、1999 年にオックスフォード大学出版局から刊行された『批判的市民(“Critical Citizens”)』と題する編書にある。本書は、1996 年にジョン・F・ケネディ行政大学院で始まった「21 世紀のガバナンスのビジョン」に関するプロジェクトの一環として生まれたもので、人びとが政府や公共部門、民間部門に何を求めているかを探ることが目的であった。プロジェクトの成果は、ハーバード大学出版局から「なぜ人びとは政府を信頼しないのか」をテーマとした書籍としていったんまとめられた。その後ノリスは、民主主義に対する国民の支持について懸念を抱く正当な根拠がどの程度あるのか、米国で見られる冷笑主義の増大傾向は他の民主主義国や新興民主主義国でも同様に見られるのか、民主的政府に対する支持の原動力となっている主な政治的・経済的・文化的要因は何か、その分析は民主的ガバナンスを強化するためにどのような意味を有するのかと、課題意識を一層深め、世界価値観調査に参画しているさまざまな分野の研究者を集め、第3 回世界価値観調査(1995 ~ 1997 年)のデータをもとに、『批判的市民(“Critical Citizens”)』を上梓した。この編書は社会通念に対して挑戦的な内容となっており、民主主義の「危機」といった言説は大幅に誇張されていて物事を一面的にしか見ていないと結論づけている。世界価値観調査からは、中・東欧やラテンアメリカで新しく生まれた多くの民主主義国家の国民は、その統治体制のパフォーマンスに対して深く批判的であることがデータで示される一方、時系列データからは、1980 年代にはすでに、多くの民主主義国家で、議会・法制度・政党など、代議制民主主義の中核となる制度に対する国民の信頼が低下していたことが明らかにされた。1990 年代半ばまでは、世界中のほとんどの国民が民主政治の理想と原則に対する期待を有していたものの、民主主義の理想と実践に対する評価の間には著しい隔たりが残ることを実証したのである。と同時に、民主主義の実践を担う政府・公共部門に対して、健全に批判する市民が誕生した背景とその影響を鋭く指摘した書である。
 それから20 余年を経て上梓された本書は、統治(ガバナンス)への信頼における国家間の傾向、各国で実際に起きた現象を理論に基づき検証して生まれた『批判的市民』という概念を通底させながら、定量データと最近の事象をもってアップデートし、今日の文脈において再考し、理論をさらに強固にしたものである。
 第一部では信頼の二面性に言及し、法や政府、社会に対する信頼が低下したからといってそれだけをもって一概に社会的に問題であると騒ぎ立てる単純な考え方に一石を投じる。そして信頼性(trustworthiness)を、「自身に代わって行動する権限を与える非公式な社会契約」と定義し、そうした「権限を委託される人・組織のパフォーマンス(成果)」と「権限を委託する人による信頼性判断」の2 軸から、信頼関係について4 つの類型を提示する。そして「冷笑的不信」「懐疑的不信」「懐疑的信頼」「軽信的信頼」という4 つの類型のうち、バランスのとれた「懐疑的信頼」が最適であることを、著者は本書を通じて理論から、そして調査データから実証しようとする意図を、さまざまな学際アプローチを整理しながら明らかにしていく。
 第二部では40 年にわたり120 か国を網羅する「世界価値観調査」と「ヨーロッパ価値観研究」のデータをもとに、文化的価値観との関連から、社会的信頼にはさまざまなパターンと動的変化が見られることを数値をもって明らかにする。また、「懐疑的信頼」の意思決定プロセスには、権限を委託される主体の「有能性・清廉性・公平性」という3 つの側面に関する主観的・客観的情報に基づく判断が重要であることを、それぞれの側面についてデータと事例で立証していく。同時に、体制の異なる社会間の比較からは、懐疑的な信頼と不信のバランスが最適化されるためには、教育とオープンな情報環境が重要であることも浮かび上がっていく。
 結論となる第三部では本書を総括し、やみくもに信頼するのでもなく、やみくもに不信に陥るのでもなく、シニカルに陥ってなんにも信頼できない状態に陥ることなく、バランスのとれた懐疑的な信頼関係の構築が重要であると結論づける。本書のサブタイトルにもなっている、「信頼せよ、されど検証せよ」というのが懐疑的信頼のスタンスであり、「懐疑的信頼」とはもちろん、「批判的市民」の概念と表裏一体である。
 検証もせずに他者の言葉を額面通りに受け入れることは、独裁者や真面目に生きている人を食い物にする輩の出現につながる。かといってやみくもに拒否するのは冷笑主義や諦観、社会の無関心につながる。懐疑的に信頼すること、すなわち「健全な疑問」を持ち続ける姿勢が、人間関係や社会、ひいては世界によりよい変化をもたらすというのが本書のコアメッセージではないだろうか。
 さて、とりわけ日本の読者にとっての本書の価値は何なのかを考えてみたい。当然のことながら、本書の内容そのもの、すなわち民主主義国と非民主主義国とを問わず、世界のさまざまな社会における信頼のパターンとその変動のダイナミクスについて、定量データと記憶に新しい最近の各国事例をもって理解することの価値は高い。加えて、日本社会のあり方やゆくえを思考するための手掛かりを得るという観点から、本書が参考になる部分もあるだろう。日本に住んでいると同調圧力を感じることはないだろうか。ここ数年、多様性の尊重が声高に叫ばれるが、それ自体にも同調圧力を感じることすらあるのは訳者だけだろうか。加えて、SNS を通じてさまざまな情報が飛び交い、多様な考え方に接する機会も増えていく一方で、自分と異なる考え方や価値観の人とは距離を置き、考え方や価値観が近しいと思われる人びとでオンラインコミュニティを形成し、見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じるといった生き方も実現可能となりつつある。しかし、同調圧力の高い社会に住む人びとこそ、オープンマインドでさまざまな情報やものの見方に接し、正確な情報に基づいて「健全な疑問」をもち、「健全な問いかけ」をし、「健全な対話」を通じて人間関係や社会関係を構築していくことが求められるのではないだろうか。とりわけ、日本と比べて多様化が進んでいると考えられていた欧米各国において民主主義のもとで分断が進んだメカニズムを、本書を通じて理解することは、日本とは前提や文脈が異なるとはいえ、「包摂」が求められる現在の日本社会に対して与える示唆が大きいと思われる。

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ここで、本書の理論を支える定量的エビデンスとして重要なデータを提供する世界価値観調査とヨーロッパ価値観研究についても触れておきたい。
 ヨーロッパ価値観研究は、1970 年代にEuropean Value Systems Study Group(EVSSG)という欧州の研究者グループが始めた取り組みで、現在も「European Values Study(EVS)」という財団のもとで活動が継続されている。EVSSGの研究者たちは、ヨーロッパの社会的・政治的制度や統治行為の根底にある道徳的・社会的価値を探ることを目的として、1981 年に最初の調査を実施した。当時、欧州議会の最初の選挙が近づいており、ヨーロッパ統一に向けて、司教会議からは次のような疑問が投げかけられていた。

─ 欧州の人びとは共通の価値観を共有しているのか。
─ 欧州で価値観は変化しているのか、変化しているとすればどのような方向に向かっているのか。
─ キリスト教的な価値観は欧州の人びとの生活と文化に浸透し続けているのか。
─ キリスト教に代わる首尾一貫した意味システムは存在するのか。
─ 欧州統一にとってどのような影響があるのか。

 これらの疑問に答えるため、1981 年に欧州10 か国で調査が実施された。この取り組みは南北アメリカ、中東、極東、オーストラリア、南アフリカでも関心を呼び、同様の価値観調査を実施するための関連グループが設立されていった。
 一方、ヨーロッパ価値観研究の計画に携わったロナルド・イングルハートは、若年世代を中心に欧州以外でも国境を越えて共通する価値観変化が起きているという課題意識から、世界規模で価値観調査を実施することを欧州以外の各国研究者にも呼び掛けた。ヨーロッパ価値観研究と同じく1981 年、第1 回世界価値観調査が実施され、以降もおよそ5 年おきに実施されている。世界価値観調査の設問は、本書で用いられた「信頼」だけでなく、家族、労働、宗教、ジェンダー、科学、政治、社会システム、テクノロジー、メディア、地球環境、国際社会に関する価値観を幅広くカバーしている。最新調査は2017 ~ 2021 年に行われた第7 回調査で、継続調査によって今や40 年にわたりのべ120 か国におけるデータが分析可能となっている。刊行当時集計を終えていた日本を含む77 か国のデータを分析した、『日本人の考え方 世界の人の考え方Ⅱ』(2022年)では、日本を含む世界の人びとの価値観の現在地を膨大な数の図表を通じて把握することができる。ご関心のある方は是非お手に取っていただきたい。なお、第8 回調査は2024 年以降を予定している。
 ヨーロッパ価値観研究と世界価値観調査はそれぞれの調査を実施しつつ、大陸間および文化間の比較のために協定を取り交わし、同じ設問を共有しデータを交換する時もある。ヨーロッパ価値観研究と世界価値観調査の関係性に関する詳細については、拙訳『宗教の凋落?』(2021 年)の訳者あとがきに記載しているのでご関心のある方は参照されたい。
 そして訳者が所属する電通総研は、1990 年の第2 回調査から世界価値観調査に参画している。訳者は、世界価値観調査のプロジェクト事務局の機能を担う「世界価値観調査協会」の科学諮問委員会の副理事を務めており、ノリスは同協会の実行委員会の副理事を務めている。そんな縁から、訳者が本書の翻訳を手がけることとなったわけである。
 
 
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