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金光秀和 著
『技術の倫理への問い 実践から理論的基盤へ』
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序章 技術の倫理という問い
1 なぜ技術を問うのか
古来より連綿と続く哲学の営みが、何かしら人間の行いや社会のあり方を考察の対象とするものであるならば、現代を生きるわれわれにとって、「技術」は当然のごとく、問いの対象となるべきものである。というのは、「技術」は人間の誕生以来、その生活の便利さや豊かさの向上に密接に関連し、現代に至るまで常に人間の行いを規定すると同時に、社会のあり方に大きな影響を与えてきたからである。
しかしながら、人間の誕生とともに存在した技術と現代におけるそれは、同じものではありえない。現代の技術が社会に及ぼす影響は、それ以前とは比較にならないほど大きいものであり、現代において技術は、社会そのものを変容させる原動力になっているといえる。本書では、この現代的な意味での「技術」に考察を限定する。すなわち、人類の歴史とともに存在した技術一般ではなく、近年さまざまな社会的問題や懸念の源泉となりつつある、「科学技術」(technology)としての「技術」を考察の対象とする。
では、技術がもたらしている問題や懸念とはどのようなものだろうか。一般的には、技術の発展が、従来の倫理の想定を超えた事態をもたらしていることを指摘できるだろう。たとえば、遺伝子技術などの生命技術の発展は、従来の生命観を大きく揺るがす可能性をもっているし、また、環境や情報に関わる領域においても技術の発展によってさまざまな具体的問題が生じている。すなわち、技術は人間の行為の可能性を拡張するが、そのことが従来の倫理的枠組みでは扱うことのできない新しい問題や懸念を生み出しているのである。
現代の技術がもたらす問題や懸念を目の当たりにして、哲学はどのような構えを取りうるのだろうか。現在、技術に対する反省的な眼差しが求められているように思われる。
たとえば、小林が取り上げるように、1970 年に日本哲学会が開催した「大学改革」をめぐるシンポジウムで行った「大学改革の哲学的理念」という報告のなかで、市井は「科学技術それ自体に内在する価値を信じえた時代は、今や去りつつありながら、その進展を規制する0 0 0 0 哲学的理念は混迷している」(市井1972 : 101)と断じている(小林 2003 : 19)。市井はこの報告において、大学改革との関係で科学技術のもつ意味を論じ、高度工業化が進展した社会において高等教育が直面する問題を提示しているが、そこで哲学的理念の混迷が論じられるのである。すなわち、科学技術が不条理な苦痛の減少に貢献しながらも、同時にその種の苦痛を増大させているという科学技術のパラドクスについて、それを減少させ、不条理な苦痛を減少させる方向に今後の科学技術の進展が誘導されねばならず、この主体的誘導活動こそが、改革された大学での新しい哲学的理念の一つであると市井は考えるのである(市井 1972 : 102 ; 小林 2003 :19 – 20)。
市井が問題提起をした1970 年代と現代で状況に変化はあるだろうか。現代においても市井が求めたような哲学的理念が達成されているとはいいがたいし、むしろ、科学技術がいっそうわれわれの生活に浸透し、それと同時に大きな負の側面を露呈しており、現代においてこそ、そのような哲学的理念が求められているといえる。
本書では、このような問題意識をもちつつ、技術への反省的な眼差しがいかに可能であるかという問いを考察の対象とする。具体的には、「技術の倫理への問い」を考察の対象とする。この問いの表現は、ハイデッガーが1953 年に行った「技術への問い」(Die Frage nach der Technik)という講演名をもとにしたものである。ハイデッガーがこの講演を行った1950 年代は、核兵器などの現代技術がもたらした新たな事態について、その本質が思索された時代であった。しかし、現代では技術を問うことは常に、技術の倫理を問うことであることが明らかなように思われる。というのは、先述のように、現代ほど技術が人間の営みを規定すると同時に、社会のあり方に大きな影響を与える時代はなく、またそれがもたらす倫理的問題が顕在化した時代はないからである。本書では、現代における「技術の倫理への問い」の実践を出発点として、この問いをめぐる現状と課題を吟味し、そうした課題を克服する可能性をもつと考えられる哲学的視座について考察する。
2 問いの立脚地――科学の危機と技術批判の萌芽
ところで、近代科学が誕生して以来、多くの哲学者によってすでに科学は批判の対象となってきた。ここでは、本書の問題意識との関わりから、フッサールの科学批判を概観しておこう。というのは、フッサールの科学批判は、自然科学のみならず、その成立に関して技術を取り上げて論じているからである。
フッサールによって提唱された現象学は、他の諸学問を絶対的な洞察によって基礎づけることを企図していたといえるだろう。このことは、逆にいえば、フッサールにとって当時の諸学問は絶対的な基礎づけを欠いたものであったということを意味する。事実、フッサールはその著『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(Husserl 1954)において近代自然科学の批判を展開している。
そのさい、フッサールは近代自然科学の典型的な起源をガリレイに見出す。ガリレイは、さまざまな測定術によって自然現象を把握しようとした最初の人物である。すなわち、純粋に幾何学的な形態を適用して自然現象を測定し、その結果を代数的に表記しようとした人物である。フッサールによれば、こうした試みは「自然の数学化」と呼ぶべき事態をもたらした。すなわち、ガリレイに端を発する近代自然科学は、われわれが直接経験する自然の背後に、数学的に計量化・法則化された真の自然が存在するという自然観をもたらしたのである(Husserl 1954:§9 ; 田中 2005 : 10)。
しかし、もともとのわれわれの生活は、数式によって記述される客観的な経験に先立って、主観的で相対的な経験から成り立っているはずである。たとえば、摂氏何度と記述される経験に先立って、暑いとか寒いという個々の経験が存在するはずである。フッサールは私たちが直接経験している世界を「生活世界」と呼び、この生活世界が数学的な「理念の衣」によって覆い隠されてしまうことを指摘する。
「数学と数学的自然科学」という理念の衣――あるいはその代わりに、記号の衣、記号的、数学的理論の衣と言ってもよいが――は、科学者と教養人にとっては、「客観的に現実的で真の」自然として、生活世界の代理をし、それを蔽い隠すようなすべてのものを包含することになる。この理念の衣は、一つの方法にすぎないものを真の存在だとわれわれに思い込ませる(Husserl 1954 : 52 ; フッサール 1995 : 94)。
フッサールはここに科学(学問)の危機を見て取る。すなわち、生活世界の現実を数学的理念で覆い隠したことによって、自然科学はわれわれの生に対する意義を喪失してしまったというのである。
ところで、こうした危機は技術が生んだものと考えることもできる。というのは、実際の経験には与えられないような対象を客観的で真なるものとわれわれがみなすことができる(あるいは、そうみなすようになる)のは、まさに技術によるからである。フッサールは、幾何学という科学の成立が測定術という技術に基づくことを明確に次のように述べている。
「哲学的な」認識、すなわち世界の「真の」客観的な存在を規定する認識を自覚的に得ようと努力した結果、経験的な測定術とその経験的、実用的な客観化の機能とが、その実用的な関心を純粋に理論的関心に転化させることによって理念化され、純粋幾何学的な思考作用へと移っていった(中略)。こうして測定術こそが、結局は普遍的なものとなる幾何学と、その純粋な極限形態の「世界」との開拓者になるのである(Husserl 1954 : 25 ;フッサール 1995 : 57)。
こうしてフッサールは、科学(学問)の危機の根源をその「技術化」のうちに見出す。ここで技術化とは、村田がいうとおり、「もともとは生き生きとしていた意味形成作用が変様し、本来の直観的明証性を失い、単なる方法へと転化する過程」のことである(村田 1995 : 227 ; Husserl 1954 : 57 ; フッサール 1995 :101)。すなわち、理論はもともと実践的機能にその意味の起源をもつと同時に、他方、実践のなかで働く知を根拠づけの脈絡のなかに位置づける機能をもつが、科学(学問)の技術化がその関連を喪失させ、その結果「危機」が生じているのである(村田 1995 : 227)。
こうした事態を目の当たりにしたフッサールは、科学の基盤が、実は生活世界のうちにあることを示し、そのことによって科学の生に対する意義を回復しようとした(紀平 2002 : 126)。いわば「生活世界の現象学」を探求し、近代科学の客観主義が排除した「事象の意味」という観点から、世界の有機的な連関を記述し直そうとしたのである(田中 2005 : 12)。
しかし、生活世界についての探求はある困難に直面する。すなわち、客観的に真の世界と生活世界とは「逆説的な相互依存関係」にあるのである(Husserl 1954 : 134 ; フッサール 1995 : 235)。
具体的な生活世界は、「学的に真の」世界に対してはそれを基礎づける基盤であるが、それと同時に、生活世界独自の普遍的具体相においては学を包括するものである。これはいかに理解されるべきであろうか。生活世界のこのような背理的に見えるすべてを包括するあり方を体系的に、すなわちそれにふさわしい学問性において回復するには、いかにすればよいのであろうか(ibid.)。
もちろん、フッサール自身、この問いに対する明快な解答をもっているわけではない。むしろ、この逆説的な相互依存関係は、考えれば考えるほど客観的に真の世界と生活世界の存在様式を謎めいたものにし、したがって、「われわれ自身の存在を含めて、あらゆる意味での真の世界は、この存在の意味に関して謎となる」(ibid.)。生活世界の問題は、客観的科学の単なる基礎の問題ではなく、「最も普遍的な問題」(Husserl 1954 : 137 ; フッサール 1995 : 240)なのである。
以上がフッサールの科学批判の概略であるが、科学(学問)の技術化を問題とするその議論にはたしかに現代に通じる技術批判の萌芽を見て取ることができるように思われる。ただし、フッサールは技術の問題をあくまで経験と対立する理論の次元にのみ位置づけて考えている。
われわれの全生活が実際にそこで営まれているところの、現実に直観され、現実に経験され、また経験されうるこの世界は、われわれが技術なしに、また技術として何を行おうとも、その固有の本質構造とその固有の具体的因果様式においては変わることなく、そのあるがままにとどまっている。この世界は、われわれが幾何学的技術とか物理学と称するガリレイ的な技術のような、特別な技術を発明することによっても変えられることはない(Husserl 1954 : 51 ; フッサール 1995 : 92 – 93)。
しかし、本当に技術に対して生活世界は不変なのであろうか。フッサール自らが洞察していたように、科学の基盤であるはずの生活世界が同時に科学の成果を含んだ世界でもあり、したがって生活世界は科学技術の浸透によって変わりうる世界なのではないだろうか。
過去には技術に対する生活世界の不変性ということがいえる時代があったかもしれないが、少なくとも現代ではそのような世界はありえない。先述のとおり、現代において技術は社会そのものを変容させる原動力になっており、現代の技術をめぐる問題は、技術が生活世界という不変の経験の領野から離反をもたらすことではなく、技術が経験のあり方そのものを変える力をもっていることから生じていると考えられる。村田が主張するとおり、現象学的批判にとって、純粋な経験世界にせよ生活世界にせよ、安心して足場を据えることのできるような批判の基盤というものは存在せず、その批判は、技術が新たな行為の形を生み出し、新たな経験の仕方を創造する力をもつという事態に向けられなければならない(村田 1995 : 232)。
われわれが技術の倫理への問いを発するのはまさにこの地点においてである。今や科学技術に全く影響を受けていない生活世界などどこにもなく、理念の衣に覆われた世界こそがわれわれの生活世界である。さらにいえば、われわれは理念の衣に覆われた世界をなじみの生活世界としていわば「受け入れてしまっている」(紀平 2002 : 12812)。このような状況において、技術への反省的な眼差しはいかに可能であるのか。
もちろん、科学技術によって生活世界の「本質構造」や「因果様式」が本当に変わりうるのかどうかは慎重に吟味されるべき問いであるが、科学技術によってその現実的経験がいかに変わりうるのかという問いは現代において重要な問いである。本書第5 章で取り上げるフェルベークの議論は、まさにそのような現代版の「生活世界の現象学」を実践していると考えられる。
3 本書の目的
本書は、上で述べたような意味での生活世界を立脚地として、ここから技術に反省的な眼差しを向けることを目的とする。ところで、このような眼差しが現在すでに存在すると考えることができるかもしれない。すなわち、技術が人間の営みを規定し、また社会のあり方に大きな影響を与えていることを考慮して技術の倫理を問う営みがすでに存在すると考えることができる。たとえば、生命倫理、環境倫理、情報倫理などの領域において、科学技術の発展に起因して生じる具体的な問題が盛んに議論されている。
しかし、本書ではこの種の個々の議論に立ち入ることはしない。というのは、個々の具体的な技術を取り上げてそれがもたらす問題を論じることよりは、もう少し広い文脈から技術それ自身がもたらす倫理的な問題を探求することを目的とするからである。先に述べたとおり、技術が新たな行為の形を生み出し、新たな経験の仕方を創造していることに反省的な眼差しを向けることが本書の最終的な目的である。
本書は現代における「技術の倫理への問い」の実践を出発点とする。具体的には、考察の端緒として「技術者倫理」(engineering ethics)を取り上げる。というのは、技術者倫理は、技術の実践に従事する専門家の責任に注目することによって広く技術それ自身の倫理を問うものであるように思われるし、また、世界各国の技術者教育に実際にカリキュラムとして導入されており、技術の倫理に関して現在最も大きな影響力をもつ動向の一つとして考えることができるからである。
したがって、本書の前半部分では、技術者倫理の歴史的背景をたどりながら、その内実と課題を明確化することが具体的な目的となる。本書で詳述することになるが、この明確化の過程において、技術に関するより理論的な考察が必要であることが明らかになる。本書の後半部分では、技術の倫理に関する実践からその理論的基盤へと遡及し、技術が新たな行為の形を生み出し、新たな経験の仕方を創造することの意味について、哲学的に考察することの必要性およびその有効性を示すことを目的とする。
本書は、技術の倫理をめぐる現状の議論には不十分な点があることを示し、それを補うものとして、技術の倫理を問う哲学的視座が存在することを示そうとするものである。このような考察によって、技術の倫理への問いをめぐる現状の課題およびそれを克服するために必要な考察の視点が明らかになり、ひいては今後さらに技術の倫理への問いを問うための方向性が明らかになるはずである。
4 本書の構成
以下、本書の議論の展開を具体的に確認しておく。
第1 章「技術者倫理の歴史的概観」では、技術者倫理の歴史的背景の概観を通して、専門職倫理としての技術者倫理の特徴を浮き彫りにすると同時に、本書の理論的考察が向かうべき方向性を確認する。
現在各国で導入が進められている技術者倫理の直接的なルーツは米国に求められるが、その歴史的経緯を概観するならば、技術者倫理が技術者の社会的地位の確立と密接に関わりながら発展してきたことが明らかになる。こうした文脈から、現在の(狭義の)技術者倫理では、技術者の専門職としての責任が強調されることになる。しかし、フランスやドイツなどでは事情は異なる。ヨーロッパにおいては米国とは異なる歴史的背景を基礎にしながら、技術そのものについての哲学的考察に基づいて技術者倫理を論じようとする動向が存在する。本章ではこの方向性にも注目し、技術の倫理の問題を適切に考察するために、「専門職倫理としての技術者倫理」(engineering ethics)と「技術哲学に基づく技術倫理」(ethics of technology)を考察対象とする必要があることを論じる。
第2 章「専門職としての技術業と倫理綱領――専門職倫理としての技術者倫理の内実」では、専門職倫理としての技術者倫理の内実を明確にするために、技術者の専門職としてのあり方を考察する。
技術者の専門職としてのあり方を考慮する場合、その自律をどのように考えるかが問題となる。本章では、専門職としての技術者の自律にとって、倫理綱領が大きな役割を果たしていることを論じる。一般的に、専門職(プロフェッション)であることの構成要素の一つとして、倫理綱領の存在が考えられるが、この章では、デイビス(Michael Davis)による「専門家間の契約」という見方に依拠しながら、倫理綱領が技術者の自律の基盤になっていることを主張する。さらに、技術者が自らの自律を確保するための政治的道具として倫理綱領を利用するためには、そこに公衆の安全への配慮が明記されている必要のあることが明らかになる。それゆえ、専門職倫理としての技術者倫理にとって、公衆に対する責任が鍵となる概念である。すなわち、「公衆に対する責任」という価値が単なるお飾りにすぎないのであれば、専門職倫理としての技術者倫理の内実それ自体も空虚なものにすぎないことになる。専門職倫理としての技術者倫理の根拠を考慮する場合、技術者がいかに公衆に対する責任を果たしうるかについての考察が不可欠であると考えられる。
第3 章「技術者倫理と公衆に対する責任――専門職倫理としての技術者倫理の課題」では、専門職倫理としての技術者倫理にとって鍵となる、公衆に対する責任という概念を考察する。
この概念が本当に技術業に内在的価値をもつかどうかを考えるためには、技術者の公衆に対する責任を理論的に検討すると同時に、この責任の実行可能性を検討する必要がある。本章では、公衆に対する責任を果たすことについて技術者の側からなされる批判も取り上げながら、技術者と公衆の協働が必要であることを論じ、学協会による主導、および技術者、公衆それぞれへの教育の必要性という具体的課題を提示する。
しかし、専門職倫理としての技術者倫理の現状を考慮した場合、その課題を適切に果たすための取り組みがなされているとは思われない。むしろ、学協会の支援に基づく適切な情報提供という方向性とは逆に、技術者個人に何らかの問題解決を求めているようにさえ思われる。そのことは、実は、技術者倫理で重視される方法論に端的に表れていると考えることができる。
第4 章「設計としての倫理――技術者倫理の方法論の検討」では、現状の技術者倫理で用いられる「行為者中心のアプローチ」を検討する。この方法論には魅力的な点もあるが、技術者倫理のあり方を考えた場合にさまざまな問題点も包含しているように思われる。この章では、技術者倫理の現状の問題点を考察し、技術哲学に基づく技術倫理の必要性を確認するために、この方法論を検討する。
具体的にはウィットベック(Caroline Whitbeck)の議論を検討する。すなわち、彼女が主張する行為者中心のアプローチ、および倫理問題と設計問題のアナロジーを検討して、その有効性と限界を考察する。たしかに、ウィットベックの議論は従来の倫理学に対する批判として魅力的であるように思われる側面もあるが、しかし倫理問題を矮小化する危険もある。この章では、設計としての倫理というウィットベックの主張の意義を認めるとしても、設計という行為そのもの、あるいは設計という行為の倫理的側面を考察しなければならないことを示す。
第5 章「技術的媒介と技術の倫理学――技術をめぐる新たな倫理学的考察」では、こうした考察を展開するために、近年の技術哲学の知見を導入する。設計の倫理的側面を体系的に分析するためには、ある技術の目的やその目的を達成する過程の質に関する規範的な側面だけでなく、その技術がどのように機能するのかという点に関する規範的側面の考察が必要である。
その考察のために、特にフェルベーク(Peter-Paul Verbeek)による「技術的媒介」(technological mediation)という概念を検討する。フェルベークはこの概念によって技術が新たな行為の形を生み出し、新たな経験の仕方を創造していることを示しているが、彼の考察はまた、もののデザイナー(設計者)としての技術者の特殊な責任を示すことになる。すなわち、デザイナー(設計者)は人間の経験や行為を媒介する人工物をデザイン(設計)することによって、不可避的に道徳的決定や道徳的実践を形成することに関わっており、技術をデザイン(設計)することが本質的に道徳的活動であることを明らかにする。本章では、フェルベークの技術哲学的な考察を技術の倫理への問いに適用することの可能性、およびその具体的方法について検討し、新たな技術の倫理学の可能性について論じる。
終章「「技術の倫理への問い」の進展に向けて――今後の展望」では、本書のまとめとして、「技術の倫理への問い」の現状の課題を考慮しながら、その考察を今後さらに進展させるための方向性を提示する。
すなわち、現状の技術者倫理が克服すべき問題点として、技術者に内在的な技術者倫理に陥ることの危険と技術のあり方や特質に関する理論的考察の不十分さを指摘する。その上で、技術の倫理への問いを進展させるための方向性として、技術の営みを言語化・明示化する記述的な探求、および技術への超越論的な問いの考察の必要性を示す。
なお、本書は先立つ論文に基づいている部分もある。それらを示せば以下のとおりである。ただし、大幅に加筆・修正を加えている。
金光秀和「技術の倫理への問い――その現象学的思考の可能性」(日本現象学会『現象学年報』第29 号、2013 年、pp. 15 – 24)(序章および終章に関連)
金光秀和「技術者倫理の展望――その歴史的背景と今後」(情報知識学会『情報知識学会誌』第16 巻3 号、2006 年、pp. 24 – 38)(第1 章に関連)
金光秀和「技術者と公衆に対する責任――「公衆の安全、健康、福利」という概念の検討」(北海道大学文学研究科 応用倫理研究教育センター『応用倫理』第1 号、2009 年、pp. 43 – 55)(第3 章に関連)
Hidekazu Kanemitsu, “Agent-Centered Approach in Engineering Ethics : A Consideration of the Methodology of Applied Ethics”(Kohji Ishihara and Shunzo Majima (eds.), Applied Ethics : Perspective from Asia and Beyond, 2008, Center for Applied Ethics and Philosophy, pp. 97 – 105)(第4章に関連)
金光秀和「高度科学技術社会における責任概念の考察――技術的人工物の責任をめぐる議論を中心に」(北海道哲学会『哲学年報』第58 号、2012 年、pp. 45 – 59)(第5 章に関連)