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太田浩之 著
『アダム・スミスの道徳理論 人間の複雑性と道徳判断』
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はじめに
本書は、一八世紀スコットランドの哲学者、アダム・スミスの『道徳感情論』を考察することを主題としている。
アダム・スミスという思想家に関して予備的な知識を持たない読者には、この一文に対して、いろいろな疑問が生じるかもしれない。なぜ、イギリスではなくスコットランドなのか? なぜ経済学者ではなく哲学者なのか? なぜ、『国富論』ではなく『道徳感情論』なのか? 一般的には、経済思想の起点とも言える体系的な経済理論を『国富論』で提示した「経済学の父」としてスミスは知られているのではないかと思われる。場合によっては、「経済的自由主義」や「自由放任主義」の象徴としてスミスの名前が挙げられているのを耳にしたことがある人もいるかもしれない。
スミスが、約三〇〇年も前の思想家だということ、イングランドとは異なる政治的、経済的、教育的、宗教的状況にあったスコットランドという場所で生まれ多くの時間をそこで過ごしたこと、『国富論』(一七七六)よりも前に『道徳感情論』(一七五九)という本を出版していたこと、グラスゴー大学では最初に論理学の教授として就任したこと、法学や修辞学、自然神学に関する講義を行っていたこと、それらの講義内容を知るための手がかりとなるような資料が存在すること。これらのことは、アダム・スミスという思想家について特別な関心を持って調べたことのない人には、あまり知られていないことかもしれない。
筆者が、この「はじめに」を執筆している二〇二三年は、スミス生誕三〇〇周年にあたる年であり、スコットランドでは、それに関連した多くのイベントが開催されている。幸運なことに、日本学術振興会海外特別研究員として同時期にグラスゴー大学で研究する機会をいただき、それらのイベントに参加することで、様々な研究領域や問題関心からスミスに関する研究が数多く世界で展開されていることを知ることができた。三〇〇年経った今なお、様々なアプローチによってスミスに対する研究がなされている一つの理由としては、「経済学の父」という表現では捉えることのできない豊かな側面がスミスに認められると、とりわけ研究者の間では広く認識されていることがあるのではないかと思われる。『法学講義』、『修辞学・文学講義』、『哲学論文集』あるいは、書簡集などの資料を参照することそれ自体は、現在のスミス研究の水準から言えば、決して珍しいことではない。
本書の考察対象である『道徳感情論』は、『国富論』と比べた場合に一般に広く知られた著作とは言えないが、スミス思想の多様な側面が明らかにされた現在でも、スミス研究において中心的な位置にあると言っていいだろう。もちろん、そのことの一つの明白な理由は、『道徳感情論』が、スミスが生涯のうちで出版したわずか二つの著作のうちの一つだということにある。だが、より内在的な理由として、スミスが早くから構想しながらも完成させることのできなかった道徳哲学体系の基礎に『道徳感情論』が位置づけられることが挙げられる。『道徳感情論』の最終段落でスミスが述べているように、『道徳感情論』を基礎として、大きく四つの部門から構成される「法と統治の一般的原理」をスミスはさらに展開する予定であった。結局のところ、『道徳感情論』初版から構想していたこの大きなプロジェクトをスミスは実現することができなかったが、その一部として構想されていたものが後に『国富論』として独立して出版されたということが、スミス研究の進展とともに明らかにされてきた。また、グラスゴー大学教授時代の講義内容を含んでいると推測されている『法学講義』には、出版には至らなかったものの、その大きな構想の一部としてスミスが考えていた議論が含まれている、ということが研究者の間で広く認識されるようになった。そのため、『道徳感情論』、『法学講義』、『国富論』の三つは、スミスに関する他の資料と比べた場合に、強い結びつきを持ったものとして理解されることが多い。スミスの経済学(『国富論』)を理解するためには『道徳感情論』に対する理解が欠かせないと言われてきた一つの大きな理由は以上のような事情にある。
だが、スミスの経済学に対する理解を深めるという点においてのみ、『道徳感情論』の重要性が認められているわけではない。『道徳感情論』は、道徳判断に関するスミス独自の分析を含んだ著作として、それ自体でも十分注目に値すると考えられている。『道徳感情論』の大きな特徴としては、道徳判断における感情の重要性を前提としつつ、共感や観察者などの概念を用いて議論を展開している点にある。近年の政治学や倫理学でも、感情や共感の重要性を指摘する研究が活発に展開されており、『道徳感情論』に対する注目も以前に比べて徐々に高まっているように思われる(注1)。そうした研究の多くが、現代の問題や課題に取り組むために『道徳感情論』から私たちが学ぶことはあると示唆している。
本書は、『道徳感情論』を理解する際の一つの見方を提示するものである。ここでの議論は博士論文に基づいているため、一般の読者に向けて書かれたものとは言えない。しかし、筆者が提示する解釈それ自体はそれほど複雑ではないと考えている。本書で筆者が論じるのは次のようなことである。
私たちは、日々、自分や他人の行為や性格について判断を下しているが、スミスは『道徳感情論』で、私たちがどのようにして道徳判断をしているのか、その仕組みを明らかにしようとしていた。そして、説得的な理論を提示するためには、その理論がしっかりと現実を説明したり反映したりするものでなければならないとも考えていた。自然哲学(科学)であれば、例えば、実験などを行い正確なデータを集めて、そのデータに基づいた理論を作ることができるかもしれないが、道徳哲学では、そうした実験を行うことは困難だった。そこで、実際に行われている道徳判断を注意深く観察したり、あるいは道徳判断を行っているときに心の中で何が起きているのかを意識的に考えたりすることによって、現実に根ざした道徳理論をスミスは提示しようとした。その結果、他人や自分に対して判断を行う際に、常に同じような視点から同じような仕方で判断をしているのではなく、いくつかの異なる視点を採りながら異なる仕方で私たちは判断を行っているとスミスは考えた。さらに、その中でも、とりわけ私たちが強く影響されるような、ある特定の視点(共感)が存在することを見つけた。そこで、こうした道徳判断の現実を『道徳感情論』で描き出すことで、私たちが行っている道徳判断をスミスは説明しようとした。
このような整理を見て、そんなことは当たり前ではないかと思う人がいるかもしれない。つまり、私たちが日常的に、いろいろな視点や見方を採りながら物事を捉えていることは少し考えれば分かることではないかと思われるかもしれない。しかし、もし、本書が解釈するような仕方でスミスが議論しているとすると、同時代の思想家の中でもきわめて特徴的な道徳理論をスミスは展開していることになると筆者は考えている。
また、スミス生誕三〇〇周年を記念したイベントでも何度か耳にしたことだが、スミスの思想は過度に単純化されて理解されることがある。これは、一般には『国富論』に関して顕著であり、先述の「経済的自由主義」や「自由放任主義」といった表現はその一例と言えるが、同様のことは『道徳感情論』にも部分的に当てはまるように思われる。本書で提示した解釈は、共感論として一般に提示されている『道徳感情論』への理解が、スミスの理論を過度に単純化してはいないか、というような疑問を投げかけるものでもある。
先述のように、本書は一般の読者に向けて書かれたものではないが、そういった読者が少しでも読みやすいと感じることができるように、序論を除けば、先行研究と本研究の関係などの専門的な問題は、可能な限り注に記載するようにした。補論に関しては、本論の理解のために不可欠というものではなく、また、人によっては、議論全体の流れを妨げるものとして感じられてしまうかもしれないため、読者の判断で飛ばして読んでいただいてもかまわない。
最後に、本書で筆者が提示する解釈は決して完全なものではない。本書でも述べているように、筆者は、『道徳感情論』のすべての要素を網羅して扱うことはできておらず、また、筆者の解釈にはいくつかの課題や問題点が残されていることも論じている。こうした点も含めて、本書に対して批判的な検討がなされ、スミスの思想に対する理解が一層進展することを強く願っている。
注(1) 現代の政治理論を視野に入れて一八世紀イギリスの感情論を分析したものとして、例えばSchwarze(2020)がある。