あとがきたちよみ
『法と強制――「天使の社会」か、自然的正当化か』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2024/2/7

 
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三浦基生 著
『法と強制 「天使の社会」か、自然的正当化か』

「序章 法の強制性はあまりに明白で、いまやそれほど重要ではない?」(pdfファイルへのリンク)〉
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序章 法の強制性はあまりに明白で、いまやそれほど重要ではない?
 
 法と強制を結びつけるのはたやすい。
 同じ文に両方の語が登場して「法によって強制することはあまり望ましくない」などと書かれていても、さほど不思議はない。日本の法哲学者である井上達夫はかつて「法学にとって規範の概念は空気のようなものである」(井上 1985, 2)と述べた。多くの人にとって強制もまた法学にとって空気のようなものかもしれない。そして法(学)においては、規範ほど本質的だとも思われていないかもしれない。
 なるほど、考えてみれば、「法はつまるところ強制だ」とまで言えない程度には、強制は周縁的な問題に思われることもたしかである。法というのは人々が円滑に生活を行うためのルールであって、たまに破られることはあるけれども、たいていは強制を用いることなくすんでいる。
 法は強制のためのレシピではない。どこからか聞いてきた「刑法には『盗んではいけない』とは書いていない」というフレーズを繰り返す子どもに対して大人が諭すときは、暗黙にそういったことを考えているだろう。してみると、強制という切り口から法を語るのは、お世辞にも筋がよいとは言えなさそうだ。
 さらに言えば、現代において強制の話をするのは、時機を逸してすらいるかもしれない。特に現代は何事も情報技術により自動化される時代なのだから、強制は問題関心として遅れている、という反応を呼ぶこともある。たしかに、オンラインサービスなどであれば、利用料を払わない客に対しては、実力により裏打ちされた法という手段を用いて(弁護士を雇って時間をかけてまで)取り立てるよりも、その客のアカウントを自動的に停止する方がよほどスマートかもしれない。
 本書の通奏低音は、こういった強制の周縁化・陳腐化へのささやかな反論、いやむしろそれゆえに再考を促す試みである。本書が扱う強制は、裁判所や行政機関がその決定の執行を確実なものにするために用いるいわゆる直接強制・間接強制や、法に基づいて付与される害悪としての制裁といったものを貫く、法そのものの強制性である。国家と個人の関係は、強盗の脅迫に擬せられることがある。だが、そこにあるのは、強盗と被害者の間にある関係と部分的には似ているが、しかしおそらくはいささか異なった意味の強制である。強制は法があるところに充満しており、捉えづらい。
 もっとも、強制というキーワードはやっかいである。というのも、法が強制かどうかは、かなりの程度まで、個々人の感覚に依存するところがあるからだ。よき市民にとっては、法は日常生活とは無縁であり、法の強制はまず感じられることはないのかもしれない。せいぜい交通違反で警官に止められて法の強制の一端を感じる……、というだけの人は多いだろう。あるいは、むしろ法に従うことを無上の喜びとする者もいるかもしれない。その者にとっては、いかに抑圧的な法であっても、諸手を挙げて従いたい、従うのが当然の決まりとしか映らず、強いられているとはあまり感じないかもしれない。
 これはなにも国家対個人についてだけではなく、極端な場合は搾取的な関係、抑圧的なパートナーシップであっても(残念だが望ましくないにもかかわらず)ありえてしまうかもしれない。法と強制になんらかの強い関係があることは一般人にとって受け入れやすいだろうが、千差万別な事例を見ていくと、人々がその状況に順応するほどに本当に法と強制の間に必然的な関係があるのかは疑わしくなる。それゆえに法は強制的かという問いに対して一貫した説明が可能かを探究することには哲学的重要性がある。
 強制概念の探究だけで足りるだろうか。いや、法と強制の関係は、強制概念だけを見つめていてもわからないことが多い。というのも、法の強制性を探究するには、法が道徳や会社のルールとは区別された自立した領域であることを前提しなければならないからだ。法と強盗の脅迫が違うことを知っていなければ、法の強制性の特殊性を探究する意味はない。だからこそ、法と強制の関係についての研究は、法の概念の探究なくしては成り立たない。
 哲学的重要性も法の自立性も結構。では法と強制の研究をいま世に問うことの意味は何か。そう尋ねたくなる向きもあろう。たしかに、本書の随所で触れるように、事前の制裁の予告と事後の処罰という保障としての法のイメージは、間接規制、特にアーキテクチャ(architecture)と呼ばれる手段に分類される手法の発達(あるいは発見)で大きく揺らいでいる(大屋2007,136―137)。人々は壁を通り抜けることができない。物理的な障壁の存在は制裁と処罰という手間をかけることなく人々の選択に介入できる。
 同じことは、物理的空間だけではなくインターネットにおける通信についても言えるだろう。そしてこれを人々の行動の自制のためではなく「よりよい」選択のために用いる、ナッジ(nudge)という概念もまた近年熱い視線を集めた。コンビニエンスストアの商品陳列や喫茶店のメニュー配列によって、提案する店がおすすめをそれとなく指し示すことなどはその最たる例だろう。
 これらの手段によって、金銭的にも道徳的にもコストの高い制裁という手段を設定するまでもなく、いわば先回りすることで人々の行動を変えられるのだから、強制はオブソリート(時代遅れ)であるという反応は理解できなくはない。実際筆者はそのような指摘に一度口をつぐんだことがある。
 だがそれでも、筆者は法と強制の関係にこだわりたい。法の強制性は、アーキテクチャを含めた多様な規制のなかにも、形を変えて存在するからである。
 法の強制性はそう簡単には消滅しない。「約束は守らなければならない」「他人の生命・身体・財産は侵してはならない」というルールが破られたとき、法は強制に失敗したのだろうか。いや、決まりどおりルール違反者が処遇されれば、われわれは法の強制性が発揮されたと言うだろう。ならば、アーキテクチャが破壊されるときはどうか。法の強制性はアーキテクチャが破壊された後であっても残りうる。設置された壁をあえて破壊するものを見越して、破壊者の処遇を決めておくのが法である。
 一度違反があったり破壊されたりしてしまえば強制や誘導は脆くも失敗するのだ、という単純な枠組みで法の強制を説明するのはたしかにシンプルでわかりやすい。しかし、法の強制を単純な成功・失敗で語ってしまうと、法とはどんなものか、法が強制とどうかかわるかを説明するには、あまり役に立たない。〈法はいかにして何かをさせる(ことができない)のか〉だけではなく、〈法はいかにして何もせず何かをさせるのか〉。これを明らかにせねばならない。
 そのため本書が答えようとする問いは二つある。一つは法の強制性とは何かという問いである。これは法とは何かと法の強制性とは何かの両方を明らかにすることで達成される。もう一つは、強制は法に必須か、である。
 本書は以下のような構成になっている。
 第1 章では、法の強制の「強制」について取り上げる。強制の哲学的分析を確認し、それらが法の強制性の特徴をうまく説明できるかを検討する。20 世紀以来、強制をめぐる哲学的議論は、直接的な物理力の行使よりは、区別が難しい脅迫と提案の境目に議論が集中してきた。それらの議論の蓄積のなかに、単なる強盗の脅迫よりも複雑な法の強制を説明する手がかりがあるかを探る。
 法の強制の「強制」を検討した第1 章に対して、第2 章では、法の強制というときの「法」について検討する。公的機関による強制と社会のルールはどちらが先にくるのだろうか。そして法に強制は必須なのだろうか。そうだとしたらなぜ必須なのだろうか。それぞれの見解について代表的な法哲学者の見解を比較・検討し、法の強制性をよりよく説明できる法概念論を探究する。
 第3 章は、特に第2 章の議論を前提としつつ、それまでとはやや異なる論点を扱う。近年の法哲学においては、「強制なき法」の可能性がさまざまな角度から検討されている。もし世の中の全員が、何が法かさえわかれば常にそれに従って行動するつもりの者だったとしたら、そのような社会には制裁、ひいては強制は不要かもしれない。強制なき法もまた法なのならば、強制は法にとり、必須ではないかもしれない。だがそこまで現実から隔たった社会にはたして法はあるのだろうか。第3 章では、この「天使の社会」という(いささか誤解を呼びそうな)架空の社会と法の概念をめぐる議論を検討する。
 第4 章では、既存の法哲学者の方法論に対し再検討を迫るフレデリック・シャウアー(Frederick Schauer)の『法の力(The Force of Law)』の議論を紹介し、検討する。「強制は法の必須の要素ではない」と論じる研究が多いなかで、シャウアーは、われわれは必須の要素かどうかにこだわりすぎたと反省を迫る。強制は法の顕著な特徴ではあるが、統治の手段はほかにもあるのだから、経験的探究を通して法の得手不得手をよく理解し、より効率的な政策形成につなげていくことこそが重要なのではないか。第4 章では、2000 年代まで法哲学において下火だった法と強制をめぐる論争を一気に盛り上げたこの魅力的な提案を批判的に検討する。
 第5 章では、本書の結論をまとめ、また本書が扱うことのできなかった問題についての簡単な展望を示す。一つは裁判官の上に法はあるか、という問題である。一般人は法の強制を受けることがある。だが、法を用いる者、適用する者はどうだろう。強制という切り口で法を眺めるとき、法に従ってというよりは、法によって物事を決めることを期待される者たちは、どのような位置づけを与えられるのだろうか。もう一つは法の強制性と教化の問題である。法が繰り返し適用される、われわれは法とはそのようなものだと教えられたり、自ら学んだりする。法が特有の強制性をもっているとして、われわれがそれに慣れていくことで、われわれ自身が何か変わっていくのではないか。強制とそれよりも見えにくい影響力の行使との間にいかほどの違いがあるのだろうか。法と強制の両方を見つめるときに考え直さなければならない論点を素描する。
(傍点と注は割愛しました。Pdfでご覧ください)
 
 
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