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池田 喬 著
『ハイデガーと現代現象学 トピックで読む『存在と時間』』
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はしがき
現代ドイツ哲学の代表的哲学者と言われるM・ハイデガー(1889─1976)の主著『存在と時間』(一九二七年)が刊行されてから、もうすぐ百年が経つ。刊行されるや否や、瞬く間に話題になったと言われ、二〇世紀最大の哲学書と繰り返し言われてきたこの書物も、すでに一世紀分の歴史を有するに至った。一般に、ある出来事の歴史は、その出来事が起こった時点ではなく、その後、一定の期間が過ぎ去り、現在の地点からその出来事を過去として振り返ることのできる時点からこそ見える。その出来事がその後の世界にどういうインパクトを与え、どういう帰結をもたらしたかを見ることができるからだ。『存在と時間』の哲学についてもまた、百年経つからこそ見えることがある。
『存在と時間』については、この一世紀の間ずっと多くが語られてきた。そもそも『存在と時間』が二〇世紀最大の哲学書と呼ばれるのは、そう呼ぶ人たちがみなこの書の内容の深みや重要性を認識したからでは必ずしもなく、むしろ、二〇世紀の重要な哲学者たちの非常に多くがハイデガーの哲学について肯定的にも否定的にも語ってきた、という事実が重いからであろう。ハイデガー哲学に対する注釈、批判、あるいはこの哲学の展開や継承を辿るだけでも、二〇世紀以降の現代哲学の結構な部分を描き出すことができる。ドイツもそうだが、特にフランスの哲学についてこう言えることはたしかであろう。
ただし、本書が主に扱うのは、分析哲学の伝統においてなされてきた議論である。『存在と時間』刊行翌年にはG・ライルが書評を著し、その翌年の講演「形而上学とは何か」に対してR・カルナップが辛辣に批判をしたかと思えば、同じ講演についてL・ウィトゲンシュタインが好意的なコメントをした。このように、分析哲学の初期の代表的哲学者たちはハイデガーの哲学に正面から応答していたのであり、その後も、H・ドレイファスやR・ローティのように、分析哲学の言語観や物の見方に対する重要な批判者として、分析哲学の伝統の内部にありつつハイデガーに注目する者が続いてきた。もしかすると、分析哲学とハイデガー哲学とは没交渉的に進行してきたか、仮に関係があったとしても興味深く実りのある哲学的内容はないだろうと思う読者がいるかもしれない。しかし、それは誤った認識である。十分に認識されてこなかった過去の議論を振り返ることは、今の時点から、ハイデガー哲学を光源として現代哲学を──その暗がりも含めて──照らし出すことにつながる。
分析哲学と一言で言っても、ここで挙げた哲学者たちの著作は、イギリス、オーストリア、アメリカで書かれており、米国かヨーロッパかとか、英語圏かドイツ語圏かという──分析哲学のクリシェに付き物の──区分に従うものでもない。大事なのは、一時期にはなかなか見えにくかったことが見えてきたり、一時期には常識と化していた見方が、時間が経つと偏った見方だったと判明したりすることがあるということだ。二一世紀も四半世紀が過ぎようという今、私たちは現代哲学を、先入見を取り払いながら、見直すことのできる時点にいる。
『存在と時間』が刊行されたときには、当然のことだが、『存在と時間』についての議論はまだなかった。今、百年の歴史によって、『存在と時間』の哲学が、現代の哲学においてどういうトピックに対してどういう見解を示しているのか、その見解にはどのような強みがあるのかを見極めることができる。そういう立ち位置に私たちはいる。本書は『存在と時間』の哲学をそれ自体として孤立させるのではなく、これについて多くが論じられてきた──その点で、現代哲学全体を見ても稀有であり、現代哲学の様々な議論を取りまとめることのできる重要な──作品として扱う。
一例を挙げよう。「存在の意味」は『存在と時間』の最大のテーマであるが、このテーマについては、存在とは何かという存在論の観点からだけでなく、意味とは何かという言語哲学的な観点からも多くの検討がなされてきた。存在の意味というトピックに対するハイデガーの見解を明確化する作業は、現代哲学における存在と言語の哲学的考察の重なりを知るための格好のルートになる。逆に、現代哲学における議論のなかでハイデガーの哲学の根本的な立ち位置が浮き彫りになるという仕方で、『存在と時間』の哲学を明瞭に理解することもできる。
本書では、存在の意味、行為、知覚、情動、他者の心、擬似問題という哲学のテーマごとに、『存在と時間』の哲学にアクセスするルートを切り開こうとしている。言い換えれば、『存在と時間』の哲学の内部に入り込むための入口を、現代哲学のいくつかの文脈において開けておくことで、必ずしもハイデガーに親しみのない人が『存在と時間』に入門する(入口にたどり着く)機会を作ろうとしている。このような解釈のスタンスは、今日、「現代現象学」と呼ばれる現象学研究の一つの方向性であり、「ハイデガーと現代現象学」という本書の観点において、『存在と時間』は独自の相貌であらためて姿を現すに違いない。
本書の議論は、まず第1章で、「ハイデガーと現代現象学」とはどういうアプローチなのかを説明することから始まる。現象学とは、一人称観点から私たちの経験を探究する哲学であり、現代現象学とは、現代哲学で争われているテーマや問いをこの現象学の立場から引き受け、現象学に特有な見解や物の見方を提示するものだ。ハイデガーの『存在と時間』もこの意味での現象学の一部であるが、しかし、『存在と時間』には、私たちが一人称観点から経験するという点について、私たちがそれぞれ実存し、自分が誰であるかとか、自らはどのような存在なのかといったことを了解するという側面から明らかにされるという特徴がある。本書の立場は、実存論的と呼ばれるハイデガーの分析のこの特徴を特に強調し、擁護するものである。
第2章以降では、先述した各テーマに対する『存在と時間』の見解を示していくが、それらの見解はどれもこの実存論的アプローチにおいてその独自性が際立つものとなっている。別の言い方をすれば、各テーマに沿って、「現存在の実存論的分析」とも言われる『存在と時間』の哲学の眼目や着眼点がわかるようになるはずだ。
なお、本書の読み方について補足しておきたい。まず、第1章の方法論的な議論を飛ばして、第2章以降の各トピックから読み始めることは可能であり、第1章を飛ばすことで第2章以降の議論の理解が損なわれるということもない(本書の議論の進め方を示した第3節のみ参照してもらえればよい)。また、第2章以降の内容は『存在と時間』の論述の順序に緩やかに対応しており、さらに、第2章と最終章(第7章)には、『存在と時間』以前と以後のハイデガー哲学への視界を開くという役割もある。もっとも、本書の目的は『存在と時間』のすべてのテーマを網羅することにはないので、本書で主題的に扱われていないテーマ(例えば、死)に関する私の解釈については、池田2011 や池田2021a を参照して欲しい。最後に、どの章も独立した哲学的議論として読めるようになっているので、興味のあるトピックの章から読み始めることにも全く問題はない。なお、各章の冒頭には、はるとあきという哲学を学ぶ二人の大学生のエピソードがあり、このエピソードには各章の問題設定と議論の行方がまとまっている。どこから読み始めるかを迷ったら、まずこのエピソードの部分を見るという方法もある。
では、議論を開始しよう。
(傍点は割愛しました)