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『法哲学の哲学――法を解明する』

 
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ジュリー・ディクソン 著
森村 進 監訳
『法哲学の哲学 法を解明する』

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訳者解説
 
平井光貴(第1―3節)
伊藤克彦(第4―6節)
 
1 原著者の経歴
 ジュリー・ディクソン(グラスゴー法学士、同大学院修士課程修了、オックスフォード大学にてDPhil取得)は、オックスフォード大学法学部法哲学教授であり、サマーヴィル・カレッジのフェロー兼上級法学講師。母国スコットランドのグラスゴー大学で法学学士号、オックスフォード大学ベイリオル・コレッジで法哲学のDPhil を取得後、レスター大学、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで講義を担当し、二〇〇二年にサマーヴィル・カレッジの法学フェローに就任。
 現在は法理学とEU法に関して教鞭をとり、オックスフォード大学の優秀教授賞を受賞しているほか、学生主導のオックスフォード学生連合教育賞の「優秀講師賞」にもノミネートされている。Legal Theory、Law and Philosophy、Transnational Legal Theory、Oxford Journal of Legal Studies、Problema など複数のジャーナルの編集委員を務め、特にOxford Journal of Legal Studies については、二〇〇三年から二〇一六年にかけて、そのReview Articles 編集長を務めている。
 ディクソンの関心分野として、まず一般法理学や法哲学、特にその方法論的問題、いわゆるメタ法理論的問題を挙げることができ、当該テーマに関する著書としては、本書のほか、後ほどその内容を簡単に紹介するEvaluation and Legal Theory (2001)がある。また、トランスナショナル法、特にEU法の理論的側面にも関心があり、EUの文脈における法制度論などの研究も行っている。こちらに関する著書としては、パブロス・エレフテリアディスとの共編著であるPhilosophical Foundations of European Union Law (2013)を挙げることができる。
 
2 原著者の業績
 ディクソンの業績について、前述のいくつかの関心分野ごとに、適宜ピックアップして紹介しよう(表記法は表記ゆれなども含み基本的に出典となるオックスフォード大学の紹介ページに準拠、なお全著作リストは同ページを参照されたい)。
 まず、法哲学方法論、メタ法理論関連を中心にいくつかの著作をピックアップしてみよう。ここには、他の論者の理論(例えば、後に紹介されるブライアン・ライターなどのそれ)を検討したものなども含まれる:

Dickson J, ‘Methodology in Legal Philosophy’ in M Carpentier (ed.), Meta-theory of Law (ISTE Ltd 2022)
Dickson J, ‘Does It Matter Where We Start? : Some Remarks on Some Remarks by John Gardner on the Methodology of Legal Philosophy’ (2019) 19(1) Jerusalem Review of Legal Studies 71
Dickson J, ‘Ours Is a Broad Church: Indirectly Evaluative Legal Philosophy As a Facet of Jurisprudential Inquiry’ (2015) 6(2) Jurisprudence: an international journal of legal and political thought 207
Dickson J, ‘On Naturalizing Jurisprudence: Some Comments on Brian Leiterʼs View of What Jurisprudence Should Become’ (2011) 30 (July) Law and Philosophy 477
Dickson J, ‘Methodology in Jurisprudence: A Critical Survey’ (2004) 10(3) Legal Theory 117
Dickson J, Evaluation and Legal Theory (Hart Publishing 2001)

 これらの内、とりわけ現在の議論状況に対して影響力を持ったと思われるのは、著書Evaluation and Legal Theory と、その縮約発展版とも言うべき論文、“Methodology in Jurisprudence: A Critical Survey” だろう。これらについては、本解説でも後ほど簡単に触れられることになる。
 次に、狭義のメタ法理論的話題に(通底はするが)限定されず、より広い法哲学的関心の下に書かれたと見られるものとしては、次のようなものが挙げられる:

Dickson J, ‘Why General Jurisprudence Is Interesting’ (2017) 49 Crítica 14550
Dickson J, ‘Descriptive Legal Theory’ [2017] Encyclopaedia of the Philosophy of Law and Social Philosophy
Dickson J, ‘Legal Positivism: Contemporary Debates’ in A Marmor (ed.), The Routledge Companion to Philosophy of Law (Routledge 2012)
Dickson J, ‘Is the Rule of Recognition Really a Conventional Rule?’ (2007) 27(3) Oxford Journal of Legal Studies 373

 最後に、もう一つの主要関心分野であるところの、トランスナショナル法、EU法関連の著作を、やはりいくつかピックアップして紹介しておこう:

Dickson J, ‘Whoʼs Afraid of Transnational Legal Theory? : Dangers and Desiderata’ (2015) 6(3-4) Transnational Legal Theory 565
Dickson J and Eleftheriadis P, Philosophical Foundations of European Union Law (J Dickson and P Eleftheriadis eds., 2013) 1
Dickson J, ‘Directives in EU Legal Systems: Whose Norms Are They Anyway?’ (2011) 17(2)EUROPEAN LAW JOURNAL 190
Dickson J, ‘Directives in European Union Legal Systems: Whose Norms Are They Anyway?’(2011) 17 (March) European Law Journal 190
Dickson J, ‘How Many Legal Systems? Some Puzzles Regarding the Identity Conditions Of, and Relations Between, Legal Systems in the European Union’ [2008] (40) Problema

 
3 前著のEvaluation and Legal Theory に関して
 前著Evaluation and Legal Theory(以下ELT)は、ディクソンの代表的著作であると同時に、メタ法理論の諸問題を体系的に再整理し論じた先駆的著作でもある。ここでは、その骨子のみごく簡単に紹介しよう。本書は、(恐らくはジェレミー・ベンサムの影響の下)法哲学において従来支配的であった理論的整理法、すなわち、「ある法/あるべき法」「記述的法哲学/規範的法哲学」といった整理法が不十分なものであることを指摘し、法理論の成功不成功を評価するためのメタ法理論的諸基準を新たに導入して諸理論の再整理を試みる。その諸基準は、次のような三つのテーゼからなる:

(1)  道徳的評価テーゼ(moral evaluation thesis):法を十分に理解するためには、法理論家は法を道徳的に評価しなければならない。
(2)  道徳的正当化テーゼ(moral justification thesis):法を十分に理解するためには、法理論家は法を道徳的に正当化された現象として扱わなければならない。
(3)  有益な道徳的帰結テーゼ(beneficial moral consequence thesis):一定の法理論を支持することによる有益な道徳的帰結に関する価値判断は、法理論の成功の規準の内容をなすものとして正統なものたり得る。

 ディクソンは、これら三つのテーゼに従って、諸々の法理論家の立場を分類・整理し、その理論的な成功/不成功を診断する。特に重要な基準が(1)の道徳的評価テーゼであり、これを受容する理論家としてロナルド・ドゥオーキンやジョン・フィニスが、そして、これを拒否する理論家としてジョセフ・ラズや著者自身が挙げられる。前者の与する立場は「直接評価的法理論(directly evaluative legal theory)」、後者の与する立場は「間接評価的法理論(indirectly evaluative legal theory)」と呼ばれる。ディクソンによれば、法理論を構築するにあたって、法の諸特徴の内、論ずるべき重要な特徴は何かの判断は下さねばならず、その限りにおいて法に関して何らかの評価を行うこと自体は必要であるが、それは必ずしも道徳的評価である必要はないとされる。その点、直接評価的法理論の陣営にあるドゥオーキンやフィニスは誤りであると診断され、ラズやディクソンの与する間接評価的法理論の手法が擁護されることになる。このメタ法理論的整理法とそこにおける自身の立ち位置は、(先の三つのテーゼに直接の言及はないもの)本書においても基本的に維持されていると見ることができる。
 紙幅の都合上、主に(1)についてのみ、すなわち、フィニスとドゥオーキンがどのような仕方で(1)を受容しているのか、そしてディクソンがなぜそれを退けるのかという論点に関して、もう少し具体的に紹介しておこう。
 同じ「直接評価的法理論」陣営に属するとは言え、二人が(1)を受容する理論的な根拠は異なっている。まず、フィニスの議論は、「法を概念化(conceptualize)」して説明する際に法の重要な要素を取り出す必要があり、そのために何らかの価値判断を必要とする、というところまではディクソンと前提を共有している。しかし、フィニスによれば、そのような価値判断は終局的には必ず道徳的価値判断とならざるを得ない。したがって、(1)を受容すべきだ、ということになる。だが、ELTに加えて本書の第7章、8章においても繰り返されるように、概念化に際して法の重要な要素を取り出すための価値判断は、必ずしも道徳的価値判断である必要がない、というのがディクソンの見解であり、その点でフィニスの主張は誤っていると診断される。
 次に、ドゥオーキンの議論であるが、こちらは法が一応正当化された現象であると捉え――その意味でドゥオーキンは(2)の道徳的正当化テーゼをも前提としている――、その前提の下に法を道徳的に評価すること、すなわち、解釈を通じて法に一定の道徳的趣旨・機能を帰し、「最善の光の下に照らす」ことを法理論の任務とする。これに対して、ディクソンは、このようなドゥオーキンの方法論が、間接評価的法理論に対して、諸々の論点先取を犯すものとして退ける方針を採っている。
 
4 法哲学方法論の議論状況について
 本書の第一章では、法哲学方法論、ないし「法哲学の哲学」の問題の事例として、「法哲学の目的は何か? 法哲学は何を達成すると望むことができるのか?[…]」(本書一頁)といった一連の問題群をディクソンは挙げている。こうした諸問題は法哲学の領域を研究する上で、多くの法哲学者が疑問に思うと推測するが、これらの問題が法哲学領域全体の主題として大きく表面化することは、今世紀以前の時代においては、乏しかったように思われる。しかしながら、二一世紀に入って、現在に至るまで法哲学方法論を主題とする論文集や著作が多く出版されており、二〇一五年五月においてはポーランドのクラコウにおいて、「法哲学の哲学」をテーマとする国際学会も開かれている。
 このように、法哲学における方法論上の問いが近年注目されていることに対して、何を契機にして、注目されるようになったのか、という点を疑問に思う読者もいるかもしれない。この点を考察するにあたって、前述したELTの出版後の二〇〇四年に公刊されたディクソン自身のサーヴェイ論文(Dickson 2004)が、手がかりの一つになる。ここでは、簡単にその内容をここで紹介しよう。
 ディクソンはこの論文において、法哲学における方法論上の問題が大きな主題となった契機の一つとして、H・L・A・ハートの没後に彼の代表作の『法の概念』の第二版(と第三版)に収録された「後記」(Hart 2012: 238-276(邦訳;三六六―四一九頁)) の内容をめぐって争われた一連の論争を取り上げる。よく知られるように、R・ドゥオーキンの批判に対して、生前のハートは明示的な反論を行わなかったが、没後に発表された「後記」においては、ドゥオーキンの批判に対していくつかの応答/反論を試みた。
 ディクソンの見解によると、「後記」においては、ドゥオーキンとの対立を通して、さまざまな方法論上の問題が提起されているとされる(Dickson 2004: 118)。その中でも最大の争点の一つとされたのは、「法理論自体の性質とは何か?」という問題である。この問題・論点において、ハートは、自身が支持する立場を「一般的・記述的法理学」と規定する (Hart 2012: 239-244[邦訳:三六八―三七四頁])。ここでの「一般的」とは、「特定の法秩序や法文化にかかわらない」(Hart 2012: 239-240[邦訳:三六八頁])という意味であり、「記述的」とは、「道徳的に中立であり、正当化を目的としない」(Hart 2012: 240[邦訳:三六八頁])という意味である。一方で、この問題・論点に関して、ハートはドゥオーキンの立場を「ある法秩序内の確定し、かつ、それらに最善の道徳的正当化を供与して、その法を「最善の下に照らし出す」諸原理を同定することにある、というのであるから、部分的には評価を目的とする」(Hart 2012: 240-241[邦訳:三六九―三七〇頁])立場であると述べ、このようなドゥオーキンの立場を「評価的・正当化的法理学」と呼んだ(Hart 2012: 241 [邦訳:三七〇頁])。ハート自身の評価によると、ドゥオーキンの「評価的・正当化的法理学」は、ハート自身の立場である「一般的・記述的法理学」とは、「あまりにも異なるので、両者の間に衝突がなぜ起きなければならないか、およそ衝突があり得るのか、明白とは言えない」 (Hart 2012: 241[邦訳:三七〇頁]) と述べる。ここで論点になっている法理論における「評価」という概念の問題は、3節でも解説されているようにかなり複雑な問題であり、ディクソン自身も前著において、法理論における「評価」を三つのタイプに分類している。ただし、ここで注目すべき点は、『法の概念』の「後記」は、しばしば指摘されるように、ただ法実証主義内部の論争を複雑にさせた(cf. Coleman 2001)というだけでなく、「法理論自体の性質とは何か?」という問題を通して、法哲学の方法論上の問題を顕在化させる契機も作ったということである。
 上述のように、法哲学における方法論上の問題が顕在化した流れを受けて、実際に法哲学方法論の問題について論じた代表的な人物として、二〇〇四年のディクソンの論文では主に三人の論者を挙げている。一人目は、ディクソン自身であり、二人目の人物はスティーブン・ペリー(Stephen Perry)であり、三人目の人物はブライアン・ライター(Brian Leiter)である(Dickson 2004: 129-141)。
 スティーブン・ペリーは、「ハートの方法論的実証主義」(Perry 1998)という論文の中で、ハートの立場は、二つの異なる方法である、「記述的―説明的」(descriptive-explanatory)な方法と概念分析の方法を暗黙のうちに組み合わせたものだと論じる(Perry 1998: secs. IV-I)。ここにおける「記述的―説明的」な方法とは、科学的かつ道徳的に中立的な方法と特徴づけられ、またここでの概念分析の方法とは、「私たち自身の社会的実践をどのように概念化しているかを調べ、仮定上、その概念を分類し、実践そのものをよりよく理解する」(Perry 1998: 314)方法である。ペリーは、ハートがこの二つの方法を組み合わせていることを、「外在的概念分析」と呼ぶ(Perry 1998: secs. IV-I)。しかし、彼は「外在的概念分析」の試みはうまくいかないと考えている。なぜならば、「外在的概念分析」は法理論の最も重要な疑問、たとえば、法がどのように私たちに他の方法ではありえないような行為の理由を提供するのか、法がどのような条件下で私たちに対する権威を持つのか、といった疑問に答えるための適切な方法論ではないと考えるからである[Perry 1998: 349]。こうした疑問に答える適切な方法論は、彼が「内在的概念分析」と呼ぶものであり、「内在的概念分析」とはまさにドゥオーキンの解釈主義であると主張した。
 ブライアン・ライターは、そもそもペリーが支持している「概念分析」という方法論そのものに否定的であり、彼は後に『自然化する法理学』(Leiter 2007)と題した論文集に収められた論文を中心に、法哲学の方法論としての「自然主義」を擁護する。狭義の哲学において、W・V・O・クワイン(W. V. O. Quine)は著名な論文である「自然化された認識論」(Quine 1969)において、認識論は心理学のような経験科学に置き換えられるべきだと主張したが、ライターはクワインの主張に影響を受け、法哲学は概念分析を主たる方法論として採用するのではなく、心理学や社会学などの経験実証的な方法論を採用すべきだと主張する(cf. Leiter 1997; Leiter 1998)。
 まとめるのであれば、現在の英語圏の法哲学方法論への関心は、ハートの遺稿である「後記」の収録された『法の概念』の第二版が一九九四年に出版されたことを契機に、一九九〇年代の後半から二〇〇〇年代の前半にかけて、ディクソン、ペリー、ライターなどの論者がその問題群を徐々に顕在化させていき、現在に至るまでに数多くの議論が行われていると捉えることができよう。
 
5 「解明」について
 本書の原書名は「法を解明する」(elucidating law)というタイトルである。本書では「解明」(elucidation)という言葉に特別な意味が込められているように思われるが、本人も本書の1章で言及するように、そもそも解明という言葉のルーツは哲学におけるG・フレーゲ(G. Frege)やL・ウィトゲンシュタイン(L. Wittgenstein)が用いたErläuterung という用語まで遡ることができる。フレーゲの研究書である荒畑靖宏の『世界を満たす論理』(荒畑2019)では、「解明」は「定義」による説明と対比される。荒畑の解釈によると、フレーゲは、科学の発展につれ既知の原初記号から複合的な記号を形成し、さらに複雑な複合記号が形成されることがあるが、定義とはこの複合記号の構成のことを指すのではなく、複合記号の単純な省略形を導入することにある(荒畑 2019: 84-85)。しかしながら、一方でフレーゲは論理的に単純なものは定義できないとも述べ、解明の役割は、このような論理的単純者について研究者で合意を形成することにあり、解明による説明はしばしば比喩表現が用いられるし、また受け手の善意、好意的な理解、推察などに頼らざるを得ないと主張したとされる(荒畑2019: 94-96)。
 法哲学の領域に話を戻すのであれば、(ディクソンも本書で注目しているように)ハートの『法の概念』においては、「法とは何か」という問題を考察する際の手法として、彼は「定義」による説明を拒み、むしろ「解明」という表現を好んで用いる(Hart 2012: 12-17[邦訳:四〇―四六頁])。ハートが「定義」による説明を拒み、「解明」という表現を用いるときに、彼自身はどこまでフレーゲ・ウィトゲンシュタイン由来の「解明」に影響を受けているのかはわからない。しかし、ディクソンは、フレーゲ・ウィトゲンシュタイン由来の「解明」と法哲学における「法の解明」は直接結びつくわけではないと指摘しながらも(第1章、脚注(5))、「法とは何か」をめぐる問題、つまり法の本性に関わる法哲学において、ハートが「解明」という用語を用いた点に積極的な意義を見出す。本書において、ディクソン自身は、これまで説明した「解明」という言葉のルーツを念頭に置きつつも、「解明」という言葉に彼女独自の視点や解釈を加え、自身の法哲学方法論の立場を象徴するモチーフとして用いているように思われる。
 
6 各章の解題
 前著のELTと本書との違いをディクソン自身にメールで質問したところ、「ELTは法哲学における価値判断の役割について論じていた。しかし、『法哲学の哲学:法を解明する』では、第7―8章では同じトピックを扱っているものの、第1―6章ではより広い範囲の法哲学の方法論について論じている」との回答があった。本書の第1章の4節では、ディクソン自身によって本書の構成が述べられているものの、取り扱われているテーマが広範囲にわたり、各章の内容が相互に関連し合うという構成であるがゆえ、訳者側からも、本書の内容を概観・整理することを試みる。各章毎の内容をここでは振り返ってみよう。
(以下、本文つづく。注は割愛しました)
 
 
監訳者あとがき
 
 本書はOxford Legal Philosophy シリーズの一冊として刊行されたJulie Dickson, Elucidating Law(Oxford University Press, 2022)の全訳である。本書の内容については冒頭のシリーズ編者序文が要旨を述べ、構成については第1章第4節が説明している。また著者の業績と本書が今日の法哲学で持つ意義については訳者解説が詳しいので、ここでは私が本書について持った感想だけを簡単に書いておきたい。
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 本書は法哲学の中でも、「法とは何か?」という最も中心的な問題をいかに論ずべきかという、法哲学の方法論、むしろ著者の言い方では「法哲学の哲学」(本書二頁を見よ)に関するモノグラフである。「法概念論」とか「一般法哲学」とか呼ばれる分野に属する研究は少なくないが、本書のように特にその方法論に焦点を当てた書物は少ない。ただし著者が言うように法哲学の方法論と実質的な議論とは峻別できるわけではなく結びついているから、本書は法の本性に関する著者自身の見解も示すことになっていて、法概念論にも大きな貢献を行っている。著者はこれらの問題に関する現代の代表的な法哲学者の説の検討を通じて自説を述べているが、その際いたずらに論争的な態度に陥ることなく、自分が批判する人々の著作の長所も率直に認めているから、結果として本書は今日の英語圏の法哲学界の見取り図を与えることにもなっている。
 ところで〈法を法たらしめる本性nature は何かを明らかにするのが法哲学の任務(の一つ)である〉とする著者の見解に対して、それは法に本質なるものがあるという「本質主義essentialism」の誤りを犯しているという批判が考えられるが、第3章、特にその第3節はこのような批判に対する回答として読むことができる。
 著者が提唱する「間接評価的法哲学」は最初の段階では法に対する評価判断を行わないものだから、一般的に法実証主義と呼ばれる陣営に属する。中でもそれは、法にたずさわる人々や法の下にある人々の「自己理解」をかなりの程度尊重するという点で、外的視点のみならず内的視点の重要性を指摘したハートの「社会的実践理論」とでも呼ぶべき法実証主義の一種と理解できそうだ。だが著者は「法実証主義」という言葉が十分に明確でないと考えてその使用を避けている(第5章第6節)。
 我田引水になるが、私が『法哲学講義』(筑摩選書、二〇一五年)でとっていたアプローチはディクソンのものと共通していたし(実際私はその本の一八三頁で、彼女の二〇一二年の論文に触れた)、「法」という言葉の用語法が法の性質の理解において重要な役割を果たすという私の主張(同上三七―八頁)は本書の第6章第2節(c)とも共鳴するが、その際自分はこれほど明快な方法論的自覚を持っていなかったと今になって反省した。私はその本を書いた時、本書で検討されているような議論を十分知らなかったからだ。また私は特に、法哲学者は外部からの現実的な圧力にかかわらず自分自身の知的関心に従うべきだという主張(第4章第3節末尾)に賛成だ。哲学者はジャーナリストでも社会運動家でも評論家でもないはずだと信じているからである。しかし第4章第4節(c)で紹介されているような、〈ハートは内的視点のさらなる細分化を十分な理由なく拒否している〉というフィニスの批判には一理あるだろう。私自身は『法哲学講義』第4章第3節でそのような細分化を試みた。私はその試みが決してハートの法理論と対立するものではなく、むしろそれを一層発展させると考えている。
    *       *       *
 本書の翻訳は、基礎法学翻訳叢書の既刊マーモーの『現代法哲学入門』に続いて、伊藤克彦さんの提案によるものである。その本と同様、複数の目を通して最善の翻訳を提供するため、四人の法哲学研究者が共訳することになった。担当部分は次の通りである。

シリーズ編者序文・謝辞・第1章・第5―6章 森 村
第2―3章  郭
第4章  伊 藤
第7―8章  平 井

 今度も私が監訳者として全体の統一をさせてもらうことになった。邦訳が存在する文献への言及・引用については訳書を参照したが、必ずしもその訳文のままでない個所もある。原題をそのまま訳せば『法の解明』だが、本書のねらいをより明確にするため、訳題は『法哲学の哲学』とした。
 
二〇二三年冬至の日
森 村  進
 
 
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