あとがきたちよみ『心は機械で作れるか[原著第3版]』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2024/5/24

 
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
 
 
ティム・クレイン 著
土屋賢二・金杉武司 監訳
『心は機械で作れるか [原著第3版]』

「第一章 「機械としての心」という見方を導入する」(pdfファイルへのリンク)〉
〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
 

*サンプル画像はクリックで拡大します。「第一章」本文はサンプル画像の下に続いています。

 


第一章 「機械としての心」という見方を導入する
 
  1 機械的世界像
 本書は、心的表象に関する哲学的な問題についてのものである。心はどのようにしてものを表象することができるのだろうか。思考、経験、欲求、意図、その他すべての心的状態は、どのようにして他のものを表象することができるのだろうか。たとえば、ニクソンが中国を訪問したというわたしの信念は、ニクソンと中国についてのものである。しかし、わたしの心の状態が、どうやってニクソンや中国「について(about)」のものとなることができるのだろうか。わたしの心の状態が、どうやってニクソンや中国に向かうのだろうか。そもそも、心がものを表象するとは、どういうことなのだろうか。さらに言えば、(心であろうとなかろうと)あるものが別のものを表象するとは、どういうことなのだろうか。
 現代の哲学者が「志向性の問題」と呼ぶこの問題の起源は古代に遡る。しかし、近年、心の哲学や、これと関係する言語学や心理学、人工知能といった研究分野が発展したために、この古い問題が新しい方法で立てられるようになった。たとえば、現在では、コンピュータは考えることができるかという問題が志向性の問題と密接に結びついていると考えられている。同じことは、「思考の科学」というものが可能かどうかという問題、心は科学によって説明できるか、それとも、心には独自の科学的ではない説明の仕方が必要なのかという問題についてもあてはまる。後で見るように、この問題に対する完全な答えは、心的表象が何であるかということにかかっている。
 これらの問題に答えようとする最近の試みには、ほとんどの場合、その根底に、わたしが心の「機械」説、もしくはたんに「機械としての心(the mechanical mind)」と呼ぶ考え方がある。これは、心が一種の因果的機械であり、体系的で規則的な仕方で機能する自然的生命体の自然的一部だという見方である。心は一種の自然的な機械もしくはメカニズムである。表象が問題であると考えられているのは、たんなる機械やメカニズムがどうやって世界を表象することができるのかということを理解するのが難しいからである。どうすれば機械の状態が「外に出て行って」世界に向かうことができるのだろうか。この第一章では、心を機械とする考えの起源を概説して、わたしが「機械としての心」について話すときに意味していることをさらに理解してもらうことを目指す。
 心とは自然の中にある機械のようなものだという考えは、自然それ自体が一種の機械であると考えることから生じている。だから、心が機械のようなものだという見方を理解するためには、自然が機械のようなものだという見方を、大まかにでも理解する必要がある。
 西洋の近代的世界像の起源は、十七世紀の「科学革命」、さらにガリレオ、フランシス・ベーコン、デカルト、ニュートンの着想に遡ることができる。中世やルネサンスには、世界は生物という観点から考えられていた。次に引用するレオナルド・ダ・ビンチの一節が鮮やかに描いているように、地球自体が一種の生物であると考えられていた。

大地〔=地球〕は植物的霊魂をもっていると言うことができる。その肉は土地であり、骨は岩石の構造体である。……その血は水の集まりであり……呼吸と脈拍は海の満ち引きである。

このいわば生物的世界像は、大部分、アリストテレスの著作に由来する。アリストテレスは、中世およびルネサンスの思想に最大の影響を与えた哲学者である。(それどころか、ただ「哲学者」といえばアリストテレスを指すことがしばしばあったくらい、アリストテレスの影響は大きかった。)アリストテレスの考える世界体系によれば、すべての事物が自然本来の(natural)「場所」あるいは状態を持っている。事物がさまざまなふるまいをするのは、自然本来の状態に達することが、事物の自然的本性(nature)であるからである。これは生物だけでなく、無生物にもあてはまる。たとえば、石が地面に落ちるのは、石の自然本来の場所が地面にあるからであるし、火は自分の自然本来の場所である天に向かって上がる、といった具合にである。宇宙のすべての事物が、それぞれ最終の目的、あるいは目標を持つと考えられた。これは、宇宙の究極の原動力が神であるという考え方と全面的に調和する見方である。
 十七世紀には、この世界像全体が崩壊し始めた。重要な変化の一つは、アリストテレス的な説明の仕方が、機械的あるいは機械論的な説明の仕方にとって代わられたことである。前者は世界を最終目的と「自然的本性(nature)」によって説明したが、後者は物質の規則的で決定論的な運動によって世界を説明した。世界についての発見は、アリストテレスの著作の研究や解釈によってではなく、観察や実験と、自然界における量や相互作用の厳密な数学的測定によって為された。世界を科学的に理解するときに数学的測定を使うことは、新しい「機械的世界像」の中心的要素の一つであった。ガリレオは有名な一節で次のように述べている。

世界というこの壮大な書物は、……まずそれを構成する言語を理解し文字を読むことができるようにならない限り、理解されえない。この書物は、数学の言語で書かれていて、その文字は三角形や円やその他の幾何学的図形である。これらなしには、人間はこの書物の一語も理解できない。

世界のふるまいを測定し、厳密な数学の方程式や自然法則によって理解することができるという考えは、われわれが現在知っている物理学という科学の発展の核心にあった。ごく大まかに表現すると、機械的世界像によれば、事物がいろいろなふるまいをするのは、それぞれの事物が自然本来の場所あるいは最終目的に到達しようとするからでもなければ、神の意志に従っているからでもなく、むしろ、それらが自然法則に従って一定の仕方で因果的に動かされるからである。
 非常に大まかに言うと、これが、「機械的自然観」というときにわたしが意味しているものである。もちろん、「機械的」という語は、これよりもずっと限定的な意味を持つと考えられていたし、現在でもそう考えられることがある。たとえば、機械的システムとは、直に接触したときだけ決定論的に相互作用するシステムのことだと考えられていた。後の科学の発達によって、たとえば、明らかに離れたところから作用する重力を措定するニュートン物理学や、基礎的な物理的プロセスが決定論的ではないという発見によって、この限定的な意味での機械的世界像は否定された。しかし、こうした発見によっても、自然法則や規則性に従って作用する因果的世界、という一般的な世界像がゆらぐことはなく、このより一般的な考え方のことを、本書では「機械的」と言うのである。
 中世とルネサンスの「生物的」世界像では、無生物が生物にならって理解された。すべての事物はそれぞれの自然本来の場所を持ち、世界という「動物」の調和のあるはたらきの中に組み込まれているとされた。しかし、機械的世界像では、状況が逆転する。生物が無生物にならって理解された。生物であろうと無生物であろうと、あらゆる事物が各々のふるまいをするのは、他の事物を原因として、数学で厳密に表現できるような諸原理に従ってはたらいているからである。ルネ・デカルト(一五九六〜一六五〇)は、人間以外の動物は意識や心を持たない機械である、と考えたことで有名である。デカルトは動物のふるまいを余すところなく機械的に説明できると考えた。そして、機械的世界像が発展するにつれて、動物の代わりに、時計が支配的な隠喩になった。十八世紀の心の機械説の先駆者であったジュリアン・ド・ラ・メトリは「身体はたんに時計にすぎず……人間は、互いに動かし合うゼンマイの集まりにほかならない」と書いた。
 だから、今世紀の半ばまで、機械的世界像にとって、生命の本性そのものが大きな謎であったことは、不思議ではない。多くの人は、原理的には生命を機械的に説明することができると前提していた。トマス・ホッブズは、一六五一年に「生命は四肢の運動にすぎない」と自信たっぷりに主張していた。唯一の問題は、その説明を見つけることであった。
 生命が純粋に機械的な過程であることについては、次第に多くのことが発見されるようになり、ついに一九五三年には、ワトソンとクリックがDNAの構造を解明した。現在、生物が生殖する能力は、原理的には化学的に説明できるように思われる。生物的なものは無生物的なものによって説明できるのである。
 
  2 機械的世界像と人間の心
 では、心はどうなったのだろうか。デカルトは、動物をたんなる機械であるとみなすことには少しもためらうことがなかったが、人間の心については同じ見方をとらなかった。デカルトは、心(または魂)が物質的世界に影響を及ぼすと考えたが、心は機械的な物質の世界の外に位置するとした。しかし、後世の機械論の哲学者の多くは、デカルトのこの考えを受け入れることができなかったので、自然における心のありかを説明するときに最大の難題に直面した。機械的世界像に残された謎は、心を機械として説明することであった。
 生命の機械的説明と同様に、多くの哲学者は心についても機械的説明があるだろうと前提していた。この見方をとくによく示す好例は、十八、十九世紀の唯物論者のスローガンに見られる。たとえば、ド・ラ・メトリは「足が歩くための筋肉を持つように、脳は考えるための筋肉を持っている」と述べたし、生理学者カール・フォークトは「肝臓が胆汁を分泌するように、脳は思考を分泌する」と主張した。しかし、もちろん、これらは唯物論者の実質的な理論というよりも、宣言である。
 では、心の機械的説明とはどのようなものになるだろうか。この四十年来の哲学では、心を説明するためには、心が実はただの物質にすぎないことを示す必要がある、という考え方が有力になっている。心的状態は、実は脳の化学的状態にすぎない。この唯物論的な(または「物理主義的」な)見方がふつう拠り所にしているのは、あるものを完全に説明するとは、最終的には、物理学によって説明することである、という前提である。つまり、物理学以外の科学は、科学としての身分を物理学に証明してもらわなければならない。すべての科学は物理学に還元可能でなければならないのだ。この主張がふつう意味しているのは、物理学以外の科学の内容は、物理学から(物理学の概念を物理学以外の概念に結びつける「橋渡し」原理を加えて)演繹または導出できるはずであり、したがって、任意の科学によって説明できることはすべて物理学によって説明できる、ということである。この考え方は「還元主義」として知られ、「物理学がある。そして切手収集がある〔すべての科学は、物理学と、事実の収集に集約できるの意〕」というラザフォードの忘れがたい警句を生んだ。
 この極端な還元主義はとうてい正しそうにはみえず、科学の実態がこれに実際に適合しているかどうかは非常に疑わしい。物理学以外の科学が、実際に、還元主義の言う意味で物理学に還元された例はほとんどないし、将来の科学が、すべての科学を物理学に還元することを目指すという見通しもほとんどないように思われる。それどころか、科学は統合されるというよりも、ますます多様化してきているようにみえる。こうした理由から(ほかにも理由はあるが)、心を機械的に説明することが可能である(または何らかの科学によって因果的に説明することが可能である)という一般的な考えと、物理学への還元主義というもっと極端な主張とを区別することができる、とわたしは考える。心の科学というものがありうると信じていても、この心の科学が物理学に還元されなくてはならないと信じる必要はないのである。還元主義と物理主義については、本書のいくつかの箇所(第四章、第十二章)で立ち戻ることとする。しかし、次のことは今指摘しておかなければならないだろう。すなわち、すべての科学が先ほど述べた意味で物理学に還元されると主張するような物理主義が最も合理的な形態の物理主義だというわけではない、ということである。すべての事実が基本的な物理的事実によって確定(fix)されると主張するだけの物理主義の方が、還元を主張する物理主義よりも合理的である。次のようなことを考えてみればわかりやすいだろう。神が世界を創造していると想像しよう。そして、神がこの世界を今あるように創造するためには、何をしなければならないか考えてみよう。物理主義では、神がしなければならないことは、世界の基礎を成す物理的性質を創造することだけであると言う。他のすべてのものは、世界の物理的性質によって決定または確定されているので、「ただで(for free)」存在することになるのである。このあり方を哲学用語では「付随性(supervenience)」と表現する。すべてのものは物理的なものに「付随する(supervene)」というのである。これは、すべてのものが物理学で説明できるかどうかについては何も含意していない。
 この本は物理主義についての本ではない。ここで述べていることの多くは物理主義と相性の良いものではあるが、物理主義は、わたしがここで答えようとしている問題に直に答えを与えるものではない。というのも、わたしが興味を持っているのは、心、とくに心的表象がどのように説明できるのかを理解することだからだ。心的なものは他のすべてのものと同様、物理的なものに付随する、とたんに言うだけでは、心がどのようにはたらくのかを説明してはいない。わたしが心の「機械的」説明と呼んでいるものは、心がどのようにして原因と結果から成る世界(あるいは哲学者が言うところの世界の「因果的秩序」)の一部になっているのかを説明しなければならないのである。心を機械として説明するときのもう一つの課題は、心の因果的規則性を記述する一般法則を明らかにすることである。言い換えれば、心を機械として説明することは、心理の自然法則が存在するとみなしていることになるのである。物理学が心を含まない世界を支配する法則を発見するように、心理学は心を支配している法則を発見する。機械的世界像においては、心に関する自然科学というものがありうるのだ。
 しかし、心が機械的なものだという見方は、大筋では心の哲学者の大部分に受け入れられているものの、この見方を心のさまざまな現象に適用することには大変な問題がある。心の機械説にとって障害になる現象が二種類ある。それは、意識という現象と、思考という現象である。このため、最近の心の哲学の関心事となっているのは、次の二つの問題である。一つは、たんなる機械がどうやって意識を持つことができるのか、という問題である。もう一つは、たんなる機械がどうやってものごとについて考え、ものごとを表象できるのか、という問題である。本書の主題は、第二の問いによって生み出されたものである。つまり、思考と心的表象の問題(「志向性の問題」とも呼ばれる)である。本書の大半はこの問題に関係している。しかし、「機械としての心」の見方の全体を扱うためには、意識の問題についても触れる必要がある。心を機械とみなす理論がこの最も基本的な心的現象を扱わないとすれば、それは完全な心の理論と言えないだろう。最終章ではこの問題をとりあげる。しかし、本書を読み進めるうちにわかることだが、わたしは意識という現象と志向性という現象をきれいに区別できるとは考えていない。そのため、志向性について語られていることの多くは、意識についての議論に引き継がれることとなる。
 
  3 内容案内
 本書の十三の章は、連続して読むことができるように構成されているが、一部の読みとばしてよい内容の部分にはそう記載した。表象の一般的な問題から始まり(第二章)、第三章では心的表象についての議論に移る。これはその後、常識的で、科学的ではない観点から(第四章)、また科学的な観点から(第五章)、心をどのように理解するかという問題につながっていく。第六章では、コンピュータの背景にある基本的な考え方が説明され、第七章では、コンピュータは考えることができるのかが検討されている。この問題に「できない」と答えた後、心のメカニズムは計算的であるかについて考える(第八章)。計算は表象を前提としている。では、「機械としての心」の見方は表象をどのように説明すべきなのか。この問題は第九章、第十章、第十二章で検討される。第十三章では意識について議論する。第十一章では、少々脱線して、「外在主義的な心」の見方、「拡張された心」の見方、「身体化された/エナクティブな心」の見方が、「機械としての心」の見方に対する反論や根本的な代案となるかという問題を扱う。わたしはそうはならないと論じる。
(注番号は割愛しました)
 
 
banner_atogakitachiyomi
 

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Go to Top