あとがきたちよみ『 モラル・バウンダリー――ケアの倫理と政治学』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2024/6/5

 
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ジョアン・C・トロント 著
杉本竜也 訳
『モラル・バウンダリー ケアの倫理と政治学』

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日本語版序文

今回、『モラル・バウンダリー』が杉本竜也先生によって日本語に翻訳されたことを、大変光栄に思います。この本が最初に英語で出版されてから、すでに三〇年が経過しています。著者にとって、自分の著作が読まれ、考察され、議論されること以上に幸福なことはありません。そのため、この本に触れることを容易にしてくれた杉本先生と出版社には感謝をお伝えしたいと思います。
私が『モラル・バウンダリー』を書いた時、私自身、政治理論と哲学における基本的な関心としてケアを含めるという大胆な主張をしたと考えました。この当時、ケアが重要なものだとは広く考えられておらず、社会科学や人文学における概念としても理論化されていませんでした。もちろん、ケアがどれだけ重要な概念なのかということを認識していたのは、私だけではありませんでした。パトリシア・ベナーやパトリシア・ヒル・コリンズ、キャロル・ギリガン、ヴァージニア・ヘルド、エヴァ・キティ、サラ・ラディクといったフェミニスト運動に関与していた著述家たちは、すでにそれについて書き始めていました。しかし、政治生活におけるその中心的な役割に最初に注目したのは、私だと確信しています。実際、ケアはすべての文化と社会の基本的要素です。人間は脆弱で、そして社会的な存在であるため、私たち自身を、とりわけ最も弱い立場にある人々を組織的にケアするための方法が存在していなかったとすれば、私たちは存在していないことでしょう。しかし、ケアの問題はあらゆる宗教的・哲学的思想と同様に古くから存在していたにもかかわらず、そのための組織化を政治社会における重要で変革可能な特徴として認識することは革新的なことでした。『モラル・バウンダリー』は現代におけるケアに関する議論のための重要な出発点であり続けており、私はそのことに満足を感じています。また、アメリカ政治学会がこの本に二〇二三年のリッピンコット賞を与えてくれたことに対して恐縮に感じるとともに、光栄に思っています。この短い序文では、私がこの本を書くに至ったコンテクストや議論に関するいくつかの重要な側面、それまであまり議論されてこなかったことに驚いた複数の点、そして今日でもさらに説明する必要のあるいくつかの問題について述べたいと思います。
この本が書かれた当時、『モラル・バウンダリー』はフェミニスト政治理論における比較的新しい分野の著作でした。スーザン・オーキンは一九七八年に『政治思想のなかの女 その西洋的伝統』を、一九八九年には『正義・ジェンダー・家族』を出版し、キャシー・ファーガソンの『ザ・マン・クエスチョン』は一九八四年に、ウェンディ・ブラウンの『マンフッド・アンド・ポリティクス』は一九八八年に、そしてアイリス・ヤングの『正義と差異の政治学』は一九九〇年に登場しました。しかし、それ以上に、この本が書かれたより具体的な背景に注目すべきです。第一に、アメリカにおいてフェミニストは雇用や教育の分野において女性の進出を促す反差別的な法律や規制の拡大、そして中絶の権利の保証をはじめとする多くの政治的成果を実現してきましたが、フェミニズムに対する政治的な反動も目立つようになってきました。女性運動自体の内部でも、女性と男性の間や階級・人種・民族的地位が異なる女性たちの間で、差異の特性に関する議論が非常に白熱して継続しています。そして、政治理論の内部では、普遍的な道徳理論の認識可能な形態の中に組み込むことができないような主張は、真剣に受け取られていませんでした。『モラル・バウンダリー』はこれらの懸念に部分的に応えたものでしたが、長年にわたってこれらの枠組みに対する成功した挑戦として広く読まれることも、また認識されることもありませんでした。ここで行われた主張に対する当初の反応は、本文中で議論されているように、ケアの問題と伝統的な用語で語られているケアを取り巻く道徳的問題を広範に理解するというものでした。フェミニスト哲学者たちは、女性の道徳的・身体的・知的弱さの結果としてしばしば描かれている女性らしさが染み込んだ実践との関連性を、ケアによっては克服することはできないと主張し続けてきました。
この時の議論を特筆すべきものにしたのは、「ケア」は女性の道徳ではなく、人間の普遍的な脆弱性という現実から始まっているため、すべての人々により合致した道徳の出発点になるという主張でした。本書における重要な議論は、ケアは人間の生にとっての重要な関心事として分析され、認識されるべきだということであり、そして政治から道徳を分離する境界、道徳の外部に「非普遍的な」懸念を取り残している境界、公的生活と私的生活の境界という三つの道徳の境界の存在によって、そのような認識が妨げられているということでした。本書の最初の部分においてこれらの境界がどのように機能し続け、ケアへの関心を疎外してきたのかについて説明した後、第二部においてケアの道徳的・政治的理論が何を伴っているのかについて説明をしています。一九九〇年に私の親愛なる同僚であるベレニス・フィッシャーと私が考案したケアに関する定義と分析に基づいて、もし私たちがケアに関する問題を真剣に受け止めるなら、結果的に導き出される政治理論において政治生活に関する広大な地平が拓かれるだろうということも観察してきました。私は、そのようなオルタナティブな世界がどのようなものであり、そしてどのように出現するのかという疑問は温存しておきましたが、それは賢明だったと思っています。実際、本書で私が提案した枠組みを他の人たちが採用し、そして当時の私には思いもつかなかった方向性を示してくれている例が、今では多数存在しています。このような観点から理解されているケアの倫理は、哲学や政治理論、国際関係論、社会学やその他の社会科学、医学や看護学のような健康領域での分析において、重要なものになっています。さらに、ケアの倫理は、工学や科学研究、建築、舞台芸術・映像芸術の実践においても、重要なものになっています。このような広がりは、ケアは人間の生の根幹であるにもかかわらず、西洋の思想が人間の経験を組み立てる方法の外側に放置されていたという私の理解が適切であったことを、私に示してくれています。
『モラル・バウンダリー』で私が行った議論には、ケアの概念を単に説明するだけでなく、それ以外にも継続的な考察の価値があると信じている別の側面が存在しています。しばしばケアはどのような方法で私たちにモチベーションに関する心理学理論を提供するのかという点について問われるのですが、私がこの質問に直接的に答えることに対して抵抗がある理由は本書の中に書いた通りです。モチベーションを最も重要な心理学的問題だとする考えから議論を始めることは、人間は行動する人を見極める完璧な能力を持っているという仮定に立った人間存在の説明から議論を始めることを意味しています。それは、誰もが自分自身や他者と同じ立場にあり、そして誰もが世界の只中でそのような選択をできるわけではないということを無視したものです。それどころか、『モラル・バウンダリー』のコールバーグ批判の中では、支配の心理学がどのように道徳性の発達のための一見「正常な」ルートの中に組み込まれているのか、そして支配される人々にもたらされるあらゆる心理的な弊害とともに、支配の創造への貢献を隠蔽するために特権がどのように作用しているのかということに関する説明が行われています。特権的な無責任の害と危険を示すために、多くの重要な学術的な介入が行われてきましたが、私たちは差異が自己や他者にとっての脅威になったり、実存的な弱点であるかのように仕立てられたりする日常について、より深く考える必要があります。
原文の中のもうひとつの概念的リソースは、おそらくまだ十分に深められてもいないし、理解もされていないことなのですが、ケアに付随する最大の害悪はパターナリズム(ケアを提供する人が他人の判断と自分の判断を置き換えて、自分こそがいちばんよく理解していると考えること)と偏狭さ(ケアを提供する人が自分に最も近い所にいる人だけをケアの対象と考えること)から生じるという私の主張です。私たちは害悪を経済的な観点から認識することに慣れきっているので(たとえば、「私はもっと必要なのに、それを持っていないので、被害を被っている」と考えるように)、私たちを助けると称する人さえも、私たちに害を与える可能性があることを無視しています。一般的には、私たちが世界を実質的な量の観点から考えることをやめて、人間関係の質について考えることができるようになるほど、ケアは改善に向かっていきます。パターナリズムと偏狭さがどのように私たちの助けになるのかということについては、十分には解明されていません。
『モラル・バウンダリー』では、空間的なメタファーを使って政治的な状況を説明しています。特定の人が排除されないように、またすべての人が含まれるように、ある人は利用できるが他の人は利用できないといった空間が存在しないように、私たちは境界を広げる必要があります。しかし、時間の次元もケアには非常に重要です。ケアには時間が必要だからというだけではありません。多くの標準的な生産プロセスとは異なり、たとえばケアの仕事はケアのニーズの変化のために異なる方向に進むことがしばしばあります。綿密に計画された外出計画が、幼い子どもをなだめることができないために頓挫することがあります。ある看護師がケアしている患者は、今日いつもよりも心を慰めてほしいと望んでいるかもしれません。しかし、私たちが世界の修復を望むのなら、これまでの行動を真剣に振り返ることが必要であり、ケアも時限的なものになります。そのためには時間が必要になるし、現在の私たちがどのようにケアを行うのかを判断するために過去について考える必要もあるでしょう。
『モラル・バウンダリー』は、一九九〇年代の西洋政治理論という特定のコンテクストの中で組み立てられました。ある意味で、この本はそのような原点から逃げることはできません。それでも、私たちに可能な普遍的主張はそれほど多くありませんが、人間の脆弱性とその結果として生じる相互依存関係はどこにも存在します。最後に個人的なことをいわせてもらえるなら、日本の読者の皆さんが本書の考えや議論にどのように反応してくれるのか、非常に楽しみにしています。

訳者解説

1.著者ジョアン・トロントと本書『モラル・バウンダリー』について
本書は、Joan C. Tronto, Moral Boundaries : A Political Argument for an Ethic of Care(New York : Routledge, 1993)の全訳である。
著者ジョアン・トロントは、一九五二年生まれのアメリカの政治学者である。早くから女性や有色人種に門戸を開いていたことで知られるリベラル・アーツ・カレッジのオーバリン・カレッジで学んだ後、世界最高レベルの研究水準を誇るプリンストン大学の大学院に進み、二〇世紀を代表する政治学者であるシェルドン・ウォーリンらの指導の下で博士号を取得した。トロントは、一九七八年よりメイン州のボウディン・カレッジで教え始め、その後ニューヨーク市立大学(CUNY)ハンター・カレッジおよび大学院でも教鞭を執っている。二〇〇九年からはミネソタ大学に移り、二〇一九年に現役の教職を引退した。現在は、ニューヨーク市立大学のハンター・カレッジおよび大学院の名誉教授であり、ミネソタ大学の名誉教授でもある。
トロントの学生時代は変化と革新の時代であった。公民権運動が高まりを見せ、一九六四年に公民権法が制定されるが、一九六八年にはキング牧師が暗殺される。また、この年には、ロバート・ケネディも暗殺されている。ベトナム戦争は一九六八年にテト攻勢に入り、アメリカの敗色が濃厚になる。このような社会情勢を受けて、大学生をはじめとする若い世代は反戦運動を活発化させていく。彼ら彼女らの運動はベトナム反戦を訴えるだけでなく、広く社会全体の不正や構造的問題を対象としたものへと拡大し、いわゆる第二波フェミニズムの運動もそのような中で広がっていった。それは、固定的なジェンダー概念とそれに起因する社会的抑圧を告発する社会理論・社会運動であった。第二波フェミニズムがそれまでのフェミニズムと異なっていた点は、従来の理論や運動が教育を受けた中流階級の白人女性を対象とした、そのような女性による権利獲得運動としての性格を持っていたのに対して、人種や階級、セクシュアリティなども射程に入れて、社会における制度や権利だけでなく、それを根底で支える人々の意識も含めた変革を主張したことにある。
トロントがひとりの人間として、政治学研究者として、そしてフェミニストとして生きていくことを決心したのは、まさにそのような時代であった。本書の冒頭にもあるように、彼女にとって政治学研究とフェミニズム研究は、世界を理解し、そこに存在する不正義や不公正と闘うための武器だった。また、それらは、彼女が真に主体的な生を全うするのに必要不可欠な実践でもあった。トロントは、意識的にフェミニストとしての立場を選びとったということができる。彼女の問題意識は政治学やフェミニズムの研究を始めた時から一貫しており、現在もフェミニストの立場からデモクラシーを研究し、論じ続けている。
さて、トロントの研究業績は数多く、ここで彼女の業績のすべてを紹介する余裕はない。主要な著作に限定すると、まず本書『モラル・バウンダリー』がある。これは彼女のケアの思想を体系的にまとめた最初の著作である。また、本書と同年に日本語訳が刊行された『ケアリング・デモクラシー』Caring Democracy : Markets, Equality, and Justice(New York : New York University Press, 2013)がある。これは、『モラル・バウンダリー』などの研究成果を踏まえた上で、トロントが自身のケアの政治思想をまとめたものである。その他、彼女が、デモクラシーの復興と再生に尽力した人に与えられるペンシルベニア大学のブラウン民主主義賞を受賞した際の記念講演である『ケアするのは誰か?』Who Cares? : How to Reshape a Democratic Politics(Ithaca : Cornell University Press, 2015)がある。これは、トロントの思想の入門書として最適なものである。
前述の通り、『モラル・バウンダリー』は、トロントがケアに関する自身の思想を体系的にまとめた最初の研究書である。そこでは、西洋思想史全体を俯瞰した上で、道徳に対するスコットランド啓蒙をはじめとする一八世紀哲学思想の態度を考察するとともに、コールバーグとギリガンによる道徳性発達の心理学に関する論争を検証している。これらを踏まえた上で、ケアの概念について考察して、そこから自らのケアの倫理を構築し、最後にケアの政治理論への試みが提示されている。後に発表された『ケアリング・デモクラシー』はトロントによるケアの政治理論の最終形を示したものだが、それは本書での考察があったからこそ可能になったものである。つまり、『モラル・バウンダリー』において行われたケアに関する人間の道徳・倫理の研究の上に、『ケアリング・デモクラシー』で展開されるトロントのケアの政治学は成り立っている。そのため、彼女の思想の全体像の理解において、本書は重要な意味を持っている。
それ以前に、そもそも『モラル・バウンダリー』はそれ自体、思想史研究の業績として特筆すべきものだと評価することができる。詳細は後述するが、本書はケアという概念とケアの倫理を導入することを通して、近代社会と近代の思想世界を支配してきた道徳の境界を批判的に再検討する内容となっている。そして、そのような分析の上で、ケアを中心的な概念・実践とする新たな政治・社会理論の提示が試みられている。本書は、政治思想の研究書にとどまるものではなく、近代以降の人文・社会科学研究全体を射程に入れた、きわめて挑戦的な研究書・思想書だということができる。
このような性格が評価され、『モラル・バウンダリー』は、二〇二三年にアメリカ政治学会のベンジャミン・リッピンコット賞を受賞している。この賞は、存命の著者による研究書で、刊行から一五年以上を経過しても重要性を維持し続けている著作に与えられているものであり、かつてはハンナ・アレントの『人間の条件』やジョン・ロールズの『正義論』なども受賞している。『モラル・バウンダリー』は、現代の古典としての評価を獲得しているということができるだろう。

2.ケアの倫理の思想的特徴
近年、急速に関心が高まっているケアの倫理だが、その全体像を把握することは決して容易ではない。それには、いくつかの原因の存在が考えられる。
一般にケアの倫理の始まりは、本書でも紹介されているキャロル・ギリガンの心理学研究だと考えられている。そのため、ケアの倫理の研究の端緒は心理学研究にある。また、彼女はフェミニストでもあったため、彼女の問題意識はフェミニズム研究において継承され、ケアの倫理は主としてフェミニズム研究の流れの中で行われている。フェミニズムは、リベラリズムの思想的営為の中で生まれながらも、そのリベラリズムの本質的問題を批判した。そのため、リベラリズムとフェミニズムの関係は微妙である。そして、ケアの倫理はフェミニズム研究の中で成長したが、ケアの倫理はフェミニズムに対するある種の批判も内在させている。そのため、フェミニズムとケアの倫理の関係も微妙なものがある。フェミニストの中にはケアの倫理を批判する者もあり、トロントも本書の中で述べているように彼女もある種のフェミニズムに対しては否定的な見解を持っている。つまり、ケアの倫理を単純にフェミニズムの思想的系譜に位置づけることもできない。そのため、ケアの倫理を既存の学問領域に押し込めるような形で分類することは難しい。
また、ケアの倫理の研究は現時点で単独の研究領域を形成しているわけではなく、さまざまな学問分野において、それぞれの学問の性格の影響を受けて行われている。その結果、それぞれの分野で行われたケアの倫理に関する研究成果は、まったく異なる方向性と結論に到達する可能性がある。たとえば、トロントがケアを研究している政治学におけるケアの倫理研究と福祉学におけるケア研究では、前提としている人間観や研究対象の性格に大きな違いがあるため、導き出される結論や理想も異なるものになるだろう。そのため、ケアの倫理はケアという身近なものを研究対象としながら、多くの読者や研究者にとっては把握が難しいものになっている可能性がある。
しかし、ケアの倫理を本当の意味で理解困難にしている最大の要因は、私たちが当然のもの、自明のものと考えている近代の思考的枠組みの抜本的な見直しを求めていることにあるのではないだろうか。では、ケアの倫理は、どのような特徴を有しているのであろうか。
第一に、ケアの倫理は、すべての人間の本質的特徴として脆弱性(vulnerability)を認識して、それに起因するニーズへの配慮を重視する。近代の人間観は、自立的・自律的・理性的個人を前提としたものである。このような自活的な人間観があったからこそ、近代の諸思想は有効性を持ちえた。たとえば、すべての人間は自らの力で物事を判断することができるという想定によって、一般市民の政治参加が容認された。つまり、デモクラシーも自立的・自律的・理性的個人を前提としたからこそ、実現できたことになる。しかし、そもそも、その前提は適切だったのか。どれだけ進歩や進化を重ねたとしても、人間が全知全能の存在になることはないだろう。多くの人間は仕事や健康、家庭生活などのさまざまな場面で悩みを抱えており、人生において望んだ願いの多くは叶えられないまま終わることだろう。そして、人間の精神や知性、肉体は必ず衰え、死を間近に控えた頃になれば、何らかのケアを受けないわけにはいかない。そもそも、人間は生まれた時からケアを受けてきた。ケアが存在しなければ、乳幼児が成長することは不可能である。つまり、人間は本質的に有限な存在であり、脆弱性は人間の特性である。
この脆弱性は、それ自体が人間のニーズに転化する。たとえば、何らかの身体的な事情によって自分で食事を取ることができないという脆弱性は、食事に関する何者かによる何らかのサポートを求めるというニーズへとつながる。このような想定は自立的・自律的・理性的個人を前提としたままであれば、浮上してくるはずのないものであるが、人間を脆弱な存在として考えれば、避けることはできないものである。そのため、脆弱な人間という存在は、ニーズを伴った存在としても性格づけられることになる。
第二に、ケアの倫理は、ニーズに応答する(respond)こととしての実践を重視する。脆弱性に由来するニーズは、他者による応答によって充足される。自立的・自律的・理性的個人を前提とした近代の人間観からは、自己完結的な個人のイメージが導き出される。人間は自分自身の力ですべての意志決定を行い、自力でその決定を現実のものとしていく。反面、それができない人間は未熟な存在だと見なされ、他者の支援を求めることは「甘え」や「迷惑」、「負担」として批判の対象となることもある。しかし、脆弱性を人間の本質的特徴と考えるケアの倫理では、ニーズに関する要求とそれへの応答は、人間の生にとっての必要不可欠な要素となる。人間が脆弱性を有するということは、すべての人間が自分では補うことができない何らかの欠損を抱えていることを意味する。そのため、ニーズに対する他者の応答が問題視されることはない。人間は、自己を形成する不可欠な要素として、他者からの応答を含んでいる存在なのである。
また、応答はケアを提供する人々からケアを受ける人々に向けた一方的なものに限定されておらず、ケアを提供する人々に対するケアを受けた人からの応答も重視される。脆弱性がすべての人間の特性であるとするなら、一見強者に見えるケアを提供する人々もまたケアの対象である。そのため、ケアの対象だという点において、人間は平等である。つまり、近代の人間観が能力的な可能性によって人間の平等を主張したのに対して、ケアの倫理は脆弱性とニーズの存在という点から人間の平等を考える。ただ、これは社会的により多くの責任を負っている人々を免責するものではない。覇権国のリーダーも世界一の大富豪もケアの対象ではあるが、彼ら彼女らにはもちろん立場に見合った責任が求められる。
第三に、ケアの倫理は、他者に対する配慮と実践によって結ばれる相互依存関係を強調する。他者のニーズへの応答は、具体的には配慮と実践という形で具体化される。つまり、他者のニーズに注目して気遣い、それに応えるための精神的・知識的・技術的・身体的な準備を整え、そして実際に必要な行動を取ることが求められる。ケアの倫理は、とにかく実践を重視する。どれだけ誰かの苦境を憐れんでいたとしても、それに対して何も実践していないのであれば、そこにケアは存在しない。また、ケアの倫理の考えるケアの実践において、その質や程度の差、つまり「高級なケア」と「低級なケア」が区別されることはない。加えて、知性と身体を比較して、後者に対する前者の優位を主張して、身体のケアを精神的なものよりも価値を低く考えることもしない。
脆弱性を抱えた人間どうしの配慮と実践は、必然的に相互依存的な人間関係をもたらすことになる。ケアの倫理では、人間の本質的特徴として脆弱性を考えていることから、すべての人間は依存する存在である。他者への依存は他者に対して自らを開くことを意味し、その相互の自己開放の連関が社会を形成する。人間の社会は自立的・自律的・理性的個人による意識的な契約で形成されているのではなく、一般には弱さと理解されている、避けようのない依存関係によって形成されている。
第四に、これらの特徴から、ケアの倫理は、自立的・自律的・理性的個人を前提として成立している近代の諸理論を批判的に考察することを要求する。注意しなければならないことは、ケアの倫理は近代の思想的な業績を全否定しているわけではないということである。相互依存を重視するケアの倫理は本質的に近代の諸理論と対立的な性格を有しているが、自身が近代の諸理論の思想的営為から生まれたものであることを否定してはいない。
そして、第五に、ケアの倫理は、これらの要素を総合して導出されるケアの概念を倫理の中心に措定する。ケアは、脆弱で、他者に依存しなくては生きていくことができない人間によって行われると同時に、そのような人間に受け取られる応答的行為である。ケアの倫理は、そのようなケアを価値の中核に置いて、人間の生と社会のあり方を問うものとなる。
このようなケアの倫理に対する関心の高まりは、それが批判的な目を向けてきた近代の諸理論とそれを基礎に成立している現代の政治・経済社会が構造的疲弊に直面していることを背景としているだろう。既述の通り、自立的・自律的・理性的個人を前提とした近代の諸理論は、そもそも人間という存在の現実を無視したものであった。しかし、それは非現実的なものだからこそ、伝統的な社会を変革する原動力になりえた。理想的な人間把握と高い社会的理想は、伝統的な桎梏を果断に断ち切る武器であった。このような積極的な態度が功を奏して、私たちは近代社会の変革の果実を享受することができた。しかし、リベラル・デモクラシーが機能不全を起こし、資本主義経済の弊害が露呈するようになると、力強く楽観的な近代のプロジェクトに対する疑問が現れてくる。ケアの倫理も、そのような状況を打開するための試みのひとつとして評価することもできるだろう。
ただ、ポスト・モダニズムをはじめとする近代批判の試みの多くと比較して、ケアの倫理は具体性への注目と重視という点において際立っている。ポスト・モダニズムの思想の多くと比べると、ケアの倫理はどれだけ理論性を高めたとしても、ケアというきわめて素朴だが現実の中に確固として存在している人間の行為から乖離して議論することはできない。これがケアの倫理を説得的なものにしている大きな要因である。
では、ケアの倫理は保守的思想や宗教と連携することは可能だろうか。とりわけ、宗教はケアを重視してきた。多くの宗教においてケアは崇高な営みとして評価されてきたし、宗教団体によって運営されている慈善施設や病院が世界中に存在している。また、ハンセン病者のケアに生涯を捧げたカトリック教会のダミアン神父のように、他者への奉仕に自らの生涯を捧げた宗教者も数多い。人間の尊厳とケアという実践を重視する点を、ケアの倫理と宗教は共有している。そのため、宗教がケアの倫理を肯定し、自身の活動を支える理念として取り入れることは可能であるし、今後そのような動きが見られることになるだろう。しかし、ケアの倫理の側が宗教との連携を考える可能性は少ないと考えられる。
あくまでも、ケアの倫理は、リベラリズムをはじめとする近代の思想的営為の蓄積の上で、フェミニズム研究の中で構想されてきた理論である。そのため、ケアの倫理は、次の点で宗教に対して批判的である。まず、多くの伝統宗教には、家父長制的な性格が存在している。家父長制はフェミニズムにとって最大の批判の対象であり、社会において家父長制を担保するような存在になっていることが多い伝統宗教をケアの倫理が全面的に受容することは難しい。次いで、ケアの倫理は、伝統宗教では称賛される傾向のある自己犠牲を否定する。ケアの倫理は単にケアを重視するだけでなく、ケアを提供する人間の福利の実現も目指している。ケアの倫理も結果的にケアの実践に尽力して何らかの犠牲を払った人には敬意を払うが、いたずらに自己犠牲を強調することには慎重な姿勢を崩さない。ただ、キリスト教におけるクィア神学のように、宗教の側にも大胆な変化を目指す動きも存在しているため、今後はケアの倫理と宗教が連携する可能性は低くないと考える。
ケアの倫理は、これからも大きく変化を遂げる可能性を有する発展途上の理論である。現在、さまざまな分野での多様な研究成果が次々と発表されている最中であり、その内容は今後も変化が必至である。現時点におけるケアの倫理の理解の困難さは、その発展的な変化の途上を把握しなければならないことも影響しているのかもしれない。
(以下、本文つづく)

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