あとがきたちよみ
『21世紀の市場と競争――デジタル経済・プラットフォーム・不完全競争』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2024/6/18

 
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安達貴教 著
『21世紀の市場と競争 デジタル経済・プラットフォーム・不完全競争』

「第1章 市場とは何か、競争とは何か」(抜粋)、「あとがき」(pdfファイルへのリンク)〉
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「第1 章 市場とは何か、競争とは何か」より、抜粋
 
「プラットフォームの経済学」の着眼点
 第6章以降で詳しく紹介していくが、まず出発点として、「プラットフォーム」とは、複数の異なるタイプのグループが関係しあう「場」を指すものと理解しておこう(小田切 2019, 276頁、スルネック 2022, 54頁)。典型的には、オンライン・ショッピングのモールが、買い手である消費者、そして出店者である企業といった二種類の異なったタイプの利用者に対面している状況である。このような性質に着目して、「両面市場」(two-sided markets)と呼ばれることもある。広告主など別の他者も介在するならば、それは「多面市場」(multi-sided markets)だ。
 およそ30年前、いや、20年前であっても、「プラットフォーム」と言えば、駅の「プラットホーム」の意味でしか用いられていなかったものと筆者は記憶している。メリアム=ウェブスター(Merriam-Webster)がインターネット上で提供している辞書(https://www.merriam-webster.com/)によると、platform の原義は、「周囲よりも高くなっている平面」といった意味であるが、そこから転じて、多義的に用いられている言葉である。共通する点は、人びと、あるいはいろいろなモノが行き交う「場」であるという点だ。駅のプラットホームでは乗客や荷物が行き交うが、デジタルなプラットフォーム上ではデジタル情報が飛び交うことになる。
 私たちが関心を持つ「取引」の文脈では、異なるタイプのグループとは、典型的には、「売り手」と「買い手」である。とすると、彼らが関係しあう場であるプラットフォームとは、それこそ、インターネット出現前どころか、有史以来から存在していた「市場(いちば)」そのものではないか。その通りなのであるが、「プラットフォームの経済学」は、従来の経済学が見落としていた点に着目する。それが「グループ間の外部性」(cross-group externalities)だ。
 通常、経済学の基本的な考え方においては、売り手と買い手が、何らかの共通認識を持ちながら、その消費から何らかの便益をもたらすものが「財」として取引されるものと想定される。これは、取引対象の性質によっては「サービス」とも呼ばれる。買い手の方は、消費から何らかの利益を感じるが、そのような満足を得るためには、売り手に「価格」を支払わなければならない。そして、売り手は、費用をかけて、財やサービスを提供する見返りとして「価格」を受け取る。
 しかし、ここで例えば、「ある賃貸アパートの一室に住む」という「サービス」に対しての「価格」である賃料を考えよう。ここでの買い手である借家人は、「部屋に住む」という行為を「サービス」として認識し、そこから便益を得る代わりに、売り手である貸主に価格を支払い、入居を開始したのである。ところが、ほどなくして、この借家人は、隣人の流す音楽が毎日、壁際から聞こえてくるのに気づく。漏れてくる音楽のジャンルが自分の趣味に合うかどうかということは、この借家人の毎日の幸福感に関わることであろう。自分の趣味に合っていれば、それに対する価格を支払うことなく満足を得ていることになるし、自分の趣味に合っていなければ、それに対する補償を得ることなく不快な毎日を過ごすことになる。
 ここで問題になっているのは、「漏れ聞こえてくる音楽」という「サービス」に対しての市場、つまり、取引の機会が存在していないことである。つまり、この「サービス」を「提供」する隣人の行為は、借家人の快不快に影響を与えるにもかかわらず、これに対する金銭的なやり取りが生じていない。これが「外部性」(externality)が生じていると呼ばれる状況である。隣人が自分に対して、市場取引の「外部」から影響を与えているというわけだ。漏れてくる音楽が、自分にとって心地よいものであるならば、それは「正の外部性」(positive externality)と呼ばれ、逆に不快なものであれば「負の外部性」(negative externality)となる。
 通常の経済学であれば、外部性は、市場の欠如から生じる「市場の失敗」(market failures)と分類されるものなのであるが、これは、市場の万能性を過信している見方なので、「失敗」と呼ぶのは不適切であり、むしろ、「日常」とでも捉えられるべきものであろう。私たちに便益を与えてくれるものは、全て財・サービスとして取り扱われ、価格を通して売り買いがなされると考える方が不自然だと考えられる。
 「プラットフォームの経済学」では、売り手と買い手は、取引そのものからの価値とは別に、買い手にとっては、プラットフォームを利用する売り手の数や種類が多ければ多いほど、望ましい取引の機会は広がり、したがって、プラットフォームを利用することから得られる満足はより大きくなるものと考える。ここでは、この「売り手」サイドからの「数やバラエティー」自体は、取引の対象ではなく、それ自体の「価格」は存在していないが、買い手にとっては、「正の外部性」として、自分が取引に対して価格を支払い、消費することから得る便益とは別物として捉えるのである。
 同様に、売り手の方も、プラットフォームを利用する買い手の数や種類が多ければ多いほど、プラットフォームに加盟することから享受する正の外部性は大きくなるものと考えられる。これは、さまざまな取引相手を見つけやすいということ自体が、価格を通じた取引とはまた別に、当事者同士にとって有益であると想定していることを意味する。こうして、プラットフォームの経済学は、プラットフォームが、単にモノのやり取りの場というだけでなく、売り手(出店者)と買い手(消費者)といった異なるグループ同士の出会いの場でもあるという側面を、「外部性」という(古くからの)経済学の概念を用いて強調するのだ。
 ところで、図1・1で示したような古くからの市場(いちば)のようなプラットフォームでは、その運営主体は、利用者自身の団体、あるいは、為政者であった。例えば、戦国時代の楽市・楽座は、商工振興を図る政治(大名)の側がどのようにして、売り手と買い手が結びつく場としての市場を秩序づけようとしたのかという観点から理解することができる(横山 2018, 235頁)。しかし、現代のインターネット上でのプラットフォームの運営主体の多くは、民間の営利企業であり、そのため、「プラットフォーム企業」あるいは「プラットフォーム事業者」と呼ばれることも多い。そもそも、インターネットを前提とするデジタル取引は、こうした民間の主体によって担われ始めたのである。
 それらの中心には、GAFAと称される巨大プラットフォーム企業がある。GAFAとは、Google(持株会社名はAlphabet)、Amazon、Facebook(現社名はMeta)、Apple を指す略称であることはよく知られている。また、タクシー配車のUber、SNSのTwitter(現X)など、他にも多くのプラットフォーム企業が存在する。これらはアメリカ発の企業であるが、他にも、日本の楽天やメルカリ、あるいは、中国のバイドゥ(Baidu; 百度)、アリババ(Alibaba; 阿里巴巴)やテンセント(Tencent; 騰訊)などの通称BATも含まれよう(川島 2023, 159頁)。こうしたプラットフォーム企業の巨大化はどのようにしてもたらされたのか? その要因については次章で詳しく考えることにしよう。
 経済学は、このような寡占化、つまり、取引の場であるプラットフォーム自体が少数の企業によって占められていることを懸念する。しかし、厄介なのは、自動車や飲料水、あるいは外食といったような通常の物品やサービスのような私的財、つまり、売買に応じて所有権が移転し、所有者がその財やサービスを占有できるものとは異なって、プラットフォーム自体は、取引の「場」となるような公共的な要素を合わせ持っていることだ。上述した「グループ間の外部性」の概念を当てはめれば、プラットフォーム企業が乱立する状況よりも、少数のプラットフォーム企業に、より多くの出店者や消費者が集まることによってその価値が高まることが予想される。まさに、そのようなメカニズムによって、少数のプラットフォーム企業への集約が進んだのである。こうしたことを前提としたとき、プラットフォーム企業同士の合併はどのように評価したら良いのか、あるいは、新しいプラットフォーム企業の参入を促進する指針はどのようなものになるのであろうか。これらの問題は、第8章で見ていくことになる。
 
「競争」をどのような視点から捉えるべきなのか
 ところで、経済学では、まず出発点として、抽象的に「市場」を考えることを「はじめに」(「デジタル社会30年史」)で述べたが、同様に、「競争」も抽象的な概念として捉えられるものである。「競争」というと、サッカーの勝ち抜きトーナメントにおける勝者と敗者、あるいは、受験における合格者と不合格者のように、はっきりと優劣がつけられてしまう状況をイメージしがちである。ともすれば、そういったスポーツや受験のイメージを経済活動に当てはめて、二つの隣り合うレストラン同士が、店の存続を賭けて、絶え間なく精励を強いられているように考えてしまう。
 そうすると、競争は「難儀で、しんどい」と捉えられることになろう。Competition を「競争」と訳したのは、幕末期の福澤諭吉(1835─1901)であるが、その訳語に接した幕府の役人の反応が、「西洋の流儀はキツイものだね」というものであったことはよく知られている。福澤は、このエピソードを、幕府あるいは日本の後進性として捉えているが、果たして、後進性だけに帰着させて捉えられるべきものであろうか。
 あるいは、逆に、「厳しい競争があるからこそ、供給側、つまり企業や労働者の努力が促され、それは需要側である消費者にとっても望ましいことなのだ」という「経済学的教訓」が引き出されることになるかもしれない。こうして「競争すれば個人は成長し、ひいては、経済全体が成長する」という価値観が醸成されることになる。これは、明治以降の日本における産業化が学校教育に与えた一つの特徴であるとも言えよう(斉藤 2011, 250─255頁、松沢 2018, 94─98頁)。
 しかし経済学は、断じてこのような「競争観」を主張するべきではないと筆者は考える。実際の経済社会における競争は、ライバル同士が、そこそこに共存しあっている状況が常態であり、生きるか死ぬかのような白黒がはっきりするような競争形態はごく一部でしかないと考えられるからだ。もちろん、ライバルに先んじようと「努力」する企業や労働者もいるであろう。しかし、それが市場における競争の常態なのではない。よそ様はよそ様として、「自分は自分の島で頑張る」と考えて経済活動を営むことの何が問題なのか?
 市場における「競争」とは、「(潜在的な参入者も含めて)単に競合者が並立しているという状況」と捉えれば十分なのであって、そこに、選ばれる側の「克己」や「切磋琢磨」まで読み込む必要はないのである。私たちが経済における競争のメリットを考える際には、何よりもまず、「選ぶ側にとっての選択肢ができるだけ望ましい状態で確保されているかどうか」を出発点とするべきなのだ。
 身近な例で言えば、筆者の住まいの近くには、通りを挟んで、和風の小料理店が二軒、そして、そのうちの一軒の隣には洋風のダイニングバーが並び立っている。ただし、和風の二軒の方は、やや高級か否かの違いがあるし、バーの方は、当然ながら、和風のメニューとはラインナップが異なる。このような状態を経済学では「製品差別化」(product differentiation)、あるいは、製品に限らず、ブランドとしての店舗・企業全体を含める意味で、単に「差別化」と呼ぶ。この「差別化」によって、筆者にとっての選択肢の多様性が確保されていることになる。このような状態が、これら料理店の人たちによる努力の結果なのか、あるいは得意不得意のような資質によるものなのか、それは、選ぶ側にとっての望ましさが確保されているかどうかを考える際には本質的なことではない。
 しかし、もし、この三軒のうち二軒、あるいは三軒全部が、値段やメニューについての協定、すなわち、カルテル(cartel)を行なっているような「悪い努力」をしているようなら話は別である。商品のラインナップや質について、自分で考えて決めるというプロセスを迂回し、談合しようとすることは、当事者たちが易きに流れることであり、筆者のような顧客層にとって望ましい結果をもたらすものではない。右で述べたような「差別化」の要因とは別に、通常の経済活動とは異なる人為的なやり方で質を落としたり、価格を高くしたりしているからだ。したがって、このような行為は、政府という公的主体によって取り締まられてしかるべきと考えて良いであろう。
 これが、大まかに言って、19世紀後半から米国で芽生え、今では世界各国で浸透している「競争政策」(competition policy)の思想であり、この担い手となるのが、日本であれば公正取引委員会のような政府当局ということになる。そして、多くの国々では、競争政策を法律的に規定する「競争法」(competition law)が定められている。所有権設定のための最低限な法が整備されてさえいれば、市場における人びとの主体的な取引に任せておくことで事足りるとするのでは不十分であり、市場秩序のためには、行政的な手当てや司法的な介入が担保されていなければならないという考え方がその背景にある。本書においては、以上で述べたような「選ぶ側からの視点」という競争観から、21世紀のデジタル経済の時代における市場と競争が捉えられることになる。
 ちなみに、日本で「競争法」に該当するのは1947年制定の「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」であり、これは、「独占禁止法」あるいは「独禁法」の通称で知られている。この略称から、この法律が「独占を禁止している」ように思われがちであるが、状態としての独占、つまり、何がしかの市場を想定した際(専門的には、「関連市場の画定」と言われる)、そこに企業・事業者が一者だけいるという状態を禁止しているわけではない(白石 2023a, 6頁)。言い換えれば、

独占禁止法は、独占を禁止している法律ではない

のだ。そうではなく、上述のカルテルの例のように、通常の経営戦略の範囲外で人為的に独占に近づこうとするような行為(これらは、「独禁法」の正式名称に含まれている「私的独占」のほか、「不当な取引制限」「不公正な取引方法」と呼ばれるものが当てはまる)を禁止しようとするのである。「独占禁止法」という略称が定着してしまったことは不幸なことであるが、本書の読者には、「独占禁止法は独占そのものを禁止しているのではない」という点は覚えておいていただきたい。
 繰り返しになるが、日常用語で「競争」というと、相手を打ち負かせて勝たなければならないというイメージが強い。しかし、私たちの社会における「競争」の意味合いを考える上で大切なことは、それが選ぶ側にとっての選択肢の確保に結びついているかどうかという視点である。例えば、あるSNSを使いたくなくなったら、別のSNSに移行できるのかどうかといったことだ。そのような選ぶ側の選択肢の多様性を確保するための政策が「競争政策」と呼ばれるものなのである。有力なSNSが、自社のサービスの良さという以外で、あの手この手で、利用者を囲いこもうとしたり(ロックイン)、あるいはもっと露骨に、新しいSNSの新規参入を阻止したりすることにならないよう、政府/競争政策当局が市場を監視する必要がある。
 経済学者を含め、競争の意義というと、企業を競わせることでイノベーションが、あるいは費用削減が生じるといったような効果の方が強調されがちのように思われる。しかし、繰り返すが、競争のメリットを供給者、すなわち、選ばれる側の努力発揚まで結びつけようとするのは拡大解釈で、それよりも、選ぶ側の選択肢の多様性を強調すべきなのだと筆者は考える。
 なお筆者は、ここで述べた「競争政策」の内実が、「競争」という用語が用いられることによって、日常用語の「競争」に引きずられ、「お互いが勝つか負けるかという土俵に乗せられている状況でのルールに関する政策」と捉えられているのではないかという危惧を持っている。しかし本来、経済学における「競争」は、右で述べたように、そういった狭い意味の競争から「逃走」することも含んでいるような、実に懐の深い概念なのである。そういった「逃走」も含め、売り買いや契約が円滑に規律立って行なわれていることが、空気のように当たり前で、誰もありがたがらない状況を逆説ながら理想とし、それを下支えするのが「競争政策」の本懐とするところなのだ。

幸福は健康と同じだ。人は幸福には気づかない。気づくのは苦痛だけだ

 
 
あとがき
 
 本書は、筆者の研究遍歴に沿い、「プラットフォーム」に関して行なった近年の学術的研究(Adachi and Tremblay 2020; Adachi, Sato, and Tremblay 2023; Tremblay, Adachi, and Sato 2023)についての解説を中心としながらも、「不完全競争の経済学」こそが市場理論、いや経済学の中心的な位置を占めるべきとの持論に関わる諸論稿(下記参照)を集成することによって一書にまとめたものである。経済学的知識の多寡を問わず、より多くの読者にとって、21世紀の市場と競争を考えるための材料に資するものになればとの意図で執筆された。
 本文中での記述とも重複するが、筆者による主張の要諦は、

(1)競争の意義は、何よりも、選ぶ側にとっての多様性確保に求められるべきこと
(2)安全性や公共性といったような理由で、「自然なマークアップ」に帰属する成果を生み出していると考えられる技術・慣行であっても、科学の進展や社会の価値観などの変化に伴い、「作為的なマークアップ」に結びつくものだとして認識を転換し、見直すべき可能性は不断にあること

の二点にまとめられる。後者に関して補足しておくと、セキュリティー要因や、第7章で見たような広い意味での「交渉的」要素によって、「自然水準のマークアップ」として捉えられているような企業あるいはプラットフォーム側の取り分であっても、その正当性に対しては常に再考の余地があるということだ。企業やプラットフォーム側からのグッド・プラクティスの一環として絶えず検討の俎上にあることが望ましい、とは言うものの、それだけでは不十分な場合は、社会全体として対応をしていかなければならない。ただ、素朴な「正義感」だけでは、市場における「出会い」の機会、すなわち取引量にとってマイナスの影響を及ばしかねないことを留意するような「バランス感覚」が求められることもまた、本書では指摘してきた。
 手前味噌ではあるが、以上のような視点が「競争政策」の理念的基礎に位置づけられるべきではないだろうか。第1章では、読者諸賢に対し、「競争政策」という名称に対する代替案を募っていた筆者ではあるが、本書で提示された論点を糸口とし、各自が「競争政策」についての考えを巡らせていただけるのであれば、既に皆さんは、通俗的な競争観からは解き放たれているのであり、したがって、この「あとがき」に至って筆者は、「競争政策」に替わる新たな名称の考案は不要なのではないかという境地に達している。
 人類の科学技術がどのような変化を遂げたとしても、本書で提示した論点は、何も「21世紀の」市場と競争だけではなく、20世紀までの、そして、22世紀からの市場と競争を考える上でも一貫して当てはまるものだと考えている。「プラットフォームの経済学」が勃興する前の前世紀末から経済学を学び始め、プラットフォームの機能に関する考察を通じて、プラットフォームに限らず、広く市場や競争についての理解を深めることができたのは幸いであった。
 前著『データとモデルの実践ミクロ経済学 ジェンダー・プラットフォーム・自民党』の「あとがき」の執筆時点(2022年1月)で、筆者は、今後、「不完全競争の経済学」を主軸として研究活動を行ない、自身の関心は「既に、新たなる書籍のための研究に向かっている」(安達 2022, 212頁)ことを表明していたが、それから2年が経過して日の目を見る本書は、しかし、その「新たなる書籍」ではない。とは言え、あくまで中間報告的意味合いの強い一里塚的位置を占めているに過ぎないものの、現時点における共同研究の成果を述べ、また筆者自身の市場観・競争観も打ち出しているという意味では、今後の展開にとって重要な一書であると位置づけている。前著と同様、以下で言及させていただく方々以外からも多くの間接・無形のご助力を得ることができた。
 1933年、イギリスの経済学者ジョーン・ロビンソン(1903─1983)が『不完全競争の経済学』(The Economics of Imperfect Competition)を出版してから90年あまりが経過し、2033年はその出版100周年の節目にあたる。当座はそれを意識しながら、今後も引き続き、「不完全競争の経済学」を主軸においた研究活動を継続していく所存だ。ここでは、直近の研究助成である日本学術振興会・科学研究費助成事業「不完全競争下における公共政策の厚生効果:市場支配度指数アプローチによる理論と実証」(基盤研究C: 21K01440)に言及し、感謝する機会としたい。
 上述のように、第7章と第8章で扱った内容は、佐藤進氏、そしてマーク・トレンブリィ氏と行なった共同研究に基づく既発表の論文に依拠している。協業の機会を与えてくれた両氏に改めて感謝したい。ただし、本書での説明は筆者の理解に基づいたものであり、したがって、論文の内容に関する記述において誤りが残っているとするならば、それは偏に筆者のみが責めを負うものである。
 本書の初稿に対しては、黒田敏史先生と丸山雅祥先生から全体的に目を通していただいた上で、改稿に際して有益なコメントを頂戴した。また、善如悠介先生は第9章における記述の正確さに関わるご助言をくださった。以上の三先生からのご厚意に深く感謝を申し上げる次第である。
 本書の編集を担当されたのは、勁草書房編集部の黒田拓也氏である。実は、黒田氏のご高名は、デジタル・プラットフォーム全盛以前の20世紀末より一方的に存じ上げていた。なぜならば、

岩井克人・伊藤元重(編)『現代の経済理論』(1994年)
神谷和也・浦井憲『経済学のための数学入門』(1996年)
青木昌彦・奥野正寛(編著)『経済システムの比較制度分析』(1996年)
伊藤秀史(編)『日本の企業システム』(1996年)
J.E.スティグリッツ/B.C.グリーンワルド(内藤純一・家森信善訳)『新しい金融論 信用と情報の経済学』(2003年)

など、学生時代の筆者が裨益した東京大学出版会の書籍のまえがき(あるいは、あとがき)では必ずお名前を見かけていたからであり、記憶に残らないはずがない。このように、黒田氏との「出会い」は一方的なものであったのだが、その後、黒田氏と筆者がやり取りをするようになったのは、2010年前後、まさにデジタル・プラットフォーム時代の申し子、SNSのTwitter(現X)経由ではなかったかと記憶している。初めてお会いしたのは、2013年9月に神奈川大学で開催された日本経済学会の機会を利用して設定された食事会の場であった。
 前世紀末に経済学系の編集者として出発された黒田氏は、21世紀になってからの歳月の多くを営業畑や事業統括の最前線でご活躍された。同時に、学術出版業界においても多大なる貢献をされてきたが、この2024年1月、職場を変え、一編集者として再出発されている。一学徒の卵として黒田氏のお名前を多くの書籍のまえがき(あるいは、あとがき)で見かけていた筆者が、初対面から10年が経過してしまったものの、他ならぬ自身の著書の「あとがき」において黒田氏のお名前に言及することは、孵化して間もない小鳥からの感謝の証と言って良いだろう。実際、編集作業に際して、黒田氏はまさに親鳥のように筆者を適切に導かれた。しかしながら同時に、本書の上梓は研究者としての自身の未熟さを示すものでしかなく、今後も引き続き、一学徒として確かな足取り、いや飛翔によってこの時代を進み、「経済学の時空」に導いてくださった黒田氏との「出会い」に対する感謝を示していくほかはないと考えている。
 最後になるが、本書で示されている見解や主張、そして残りうる誤りは、純然として筆者のみに帰するべきものであって、筆者が現在に至るまでに関係してきた機関、団体、及び個人等の見解を反映するものでない点を明記しておく。
 
2024年2月2日
京都・吉田山麓
安達貴教
(注と傍点は割愛しました。PDFでご覧ください)
 
 
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