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パトリシア・ヒル・コリンズ 著
湯川やよい・松坂裕晃・佐原彩子・藤浪 海 訳/河 庚希 解説
『インターセクショナリティの批判的社会理論』
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序章
インターセクショナリティ(intersectionality )は、二〇世紀の、社会がきわめて大きく変化しつつあった時代に誕生した。アフリカ、アジア、ラテンアメリカでの反植民地闘争、グローバルな女性運動の登場、多文化的背景をもつ民主主義諸国における公民権運動、冷戦終結、南アフリカでのアパルトヘイトの打倒などは全て、長きにわたる支配の諸形態の終わりを示すものだった。〔だが〕根深い社会的不平等は一夜にして解消されるものではなく、社会的不平等がもたらす社会問題が消えないこともまた、明らかだった。変わったのは、社会的不平等と社会変化の可能性に対する人々の新しい見方である。植民地主義、人種差別、性差別、ナショナリズムが生み出す様々な社会問題を相互に関連づけてみることによって、社会変化の可能性に対する新しい視座が生まれたのだ。多くの人々が、より良いものを望むようになり、自分自身と他の人々の人生における新しい可能性を思い描くようになってきた。
インターセクショナリティはこうした歴史的遺産から生まれ、その遺産を受け継いでいる。人々と社会問題、様々な思想が相互に関連する状況についての議論は、かつてはばらばらに拡散していたものの、現在では、批判的な探究とプラクシスとしてのインターセクショナリティの中心に存在する。しかし、インターセクショナリティが成熟するにつれ、インターセクショナリティ自体とそれを取り巻く世界は、どちらも変化してきた。脱植民地化は新植民地主義へと変容し、フェミニズムは根深い女性蔑視に直面するようになり、公民権はカラーブラインド・レイシズムの波にのまれ、冷戦思想は宣戦布告のない代理戦争の形で続き、人種隔離は国境内および国境を越えても再構築されてきた。社会的不平等は依然として強固に続いているように思われる。こうした新たな社会状況において、新たな社会問題が過去から連綿と続く諸問題を補い、強化するように存在している。一見、あらゆるところに変化が生じているようにみえるが、その変化とは、当初インターセクショナリティを提唱した人々が思い描いていた展開とは異なるものだ。自由、社会正義、平等、人権といった理想の実現を約束していたはずの民主的諸制度は、人民に奉仕することよりも権力の維持に熱心なリーダーたちによって、その内部からますます切り崩されている。こうした壮大な理想は、過去数世紀には有用であったが現在では達成されえない、的外れで時代遅れの概念にみえるかもしれない。社会的不平等の及ぶ範囲と根深さ、不平等によって引き起こされる社会問題の数々を考えれば、幻滅するのも当然だろう。このような、私たちの時代に特有の変化の中で、人々はどのように社会的行為(social action )に関わるのか。逆に言えば、そうした社会的行為を形成するために最も有効と考えられるのは、どのような思想なのだろう。
この問いが本書を書いた理由であり、本書をいま完成させようと考えた理由でもある。インターセクショナリティが登場した初期に寄与していた知識人゠活動家(アクティビスト)たちがその当時に直面した課題と、今日向き合っている課題には、重要な類似がある。本書『インターセクショナリティの批判的社会理論』において私は、インターセクショナリティが、その実践者を含め多くの人々が想像するよりもはるかに広い射程をもつと考える立場だ。社会変化の手段を指す総称としての「インターセクショナリティ」のもとに集まった思想の配置がもつ可能性を、私たちはまだ十分に理解しきれていない。言説としてのインターセクショナリティは、異なる場所、時代、視点から成る思想を束ねて、かつては禁じられ非合法化されていた思想、あるいは単に曖昧な状態にあった思想を、人々が共有できるようにしている。ただし、〔一般的な意味での〕思想とはそれ自体として社会変化を生み出すものではないため、〔その点で〕インターセクショナリティは単なる思想にとどまらない。むしろ、思想が社会的行為に影響を与えるからこそ、インターセクショナリティ〔という独自の〕思想は、社会的世界に様々な結果をもたらすのだ。
インターセクショナリティは、批判的社会理論となるべき道を着実に歩んでいる。その理論とは、現代的な社会問題と、その解決に必要とされる社会変化を取り扱うものだ。ただしそれは、インターセクショナリティの実践者たちが、批判的社会理論としてのインターセクショナリティについて理解すると同時に理論として磨きあげることではじめて、可能となる。批判的な探究とプラクシスの一形態であるインターセクショナリティは、批判的社会理論としての可能性をいまだ実現しておらず、その知の生産の過程も人々に向けて十分に開かれてはいない。しかし、その基盤は、すでにそこにある。インターセクショナリティは、知の基盤、現在進行中の様々な問い、多くの熱心で学際的な実践者たち、そして、その理論的可能性を集合的に支えるようなプラクシスの伝統を備えている。その姿勢は、独立した理論的空間を発展させるものであり、その空間は現在進行中の問いや関心に道筋を与えうるものだ。とはいえ、真剣な自己反省(self-reflection )なしには、インターセクショナリティもまた、いともたやすく現状維持に暗黙裡に加担する社会理論の一つになりかねない。実践者たちがその批判理論としての可能性を追求しないなら、インターセクショナリティも、友人の言葉を借りるならば「アカデミックなたわごと(academic bullshit )」の一形態、つまり進歩的(progressive )で革新的な可能性を失ったプロジェクト群の武器庫に加わるにすぎない。要するに、生まれては消える思想の一つになってしまいうる。
批判的社会理論は、批判的分析と社会的行為の間にある適所に位置しており、両者の間での最強の連関を生みだす理論こそが、最もレジリエンスがあり有用性が高いことがわかっている。〔こうした状況において〕批判的社会理論としてインターセクショナリティを発展させるうえで、二つの課題に直面している。一方で、現在は、インターセクショナリティという範囲(parameters )の中でその批判理論としての可能性を明らかにしようとする好機である。他方で、アカデミズムにおいて批判的社会理論としてのインターセクショナリティを前進させるには、すでに残された時間はわずかかもしれない。インターセクショナリティ自らが、批判理論としてのプロジェクトを明示しないならば、他に取って代わられるだろう。
なぜ批判的社会理論なのか? 岐路に立つインターセクショナリティ
本書『インターセクショナリティの批判的社会理論』では、批判的分析(critical analysis )と社会的行為がいかに相互に影響し合うかを考えるレンズとして、インターセクショナリティを用いている。私が知りたいのは、どのように、そしてなぜ、インターセクショナリティは批判的分析と社会的行為を作動させる批判的社会理論になるのかだ。学界においては研究、教育、執行の各領域でインターセクショナリティが重要な役割を果たしているものの、実際にインターセクショナリティとは何なのかについて合意はない。学術文献の中でのインターセクショナリティは、パラダイム、概念、フレームワーク、発見的装置(heuristic device )、理論など、あらゆるものとして概念化されている(Collins and Bilge 2016 )。私の考えでは、このように混淆的に概念化されるのはよいことであり、多様な観点からインターセクショナリティを作り上げることを促進するし、それがインターセクショナリティのダイナミックな特質を表してもいる。「インターセクショナリティ」という概念により包摂される仕事の広がりは、インターセクショナリティに特有の問い、関心、分析を明確にするうえでの確かな基盤となっている。
同時に、インターセクショナリティは学界に籍を置くことで、社会理論に関する学術的な縄張りの管理に向き合うことになった。社会理論について言うなら、マルクス主義は本当に終わったのかとか、なぜポスト構造主義は十分に批判的でないのかといった問題よりも、インターセクショナリティをめぐりアカデミックに論争されていることの方が、よほど重要な死活問題といえる。社会理論とは、単に机上の思想ではなく、それらの思想を生み出す理論化の実践にも関わるのだ。社会理論の意味とは、言葉の中だけに存在するのではなく、その思想が生み出され、用いられるありようの中にもある。成熟しつつある研究領域の一つとして、インターセクショナリティは、その理論化に際しての規準と実践を評価することが求められる。西洋の社会理論は、長く様々な支配体系に資するように存在してきた。重要なのは、理論が述べていることを読むだけでなく、その社会理論が社会の中でどのように機能しているかを理解することである―とりわけ、それが批判的社会理論であると自負するのなら、なおさらそうする必要があるのだ。
批判的社会理論として、インターセクショナリティは岐路(crossroads )に立っている。インターセクショナリティの意味するところを、真摯に批判的に分析することなしに「社会理論」とみなしてしまうことは、早計かつ問題である。交差的な(インターセクショナル)研究の間で、軽率に思えるやり方でインターセクショナリティを社会理論と特徴づけることが増えている現状は、その初期にインターセクショナリティに向けられた性急な関心と似ている。一九九〇年代、多くの人が比較的短い期間でインターセクショナリティの思想を取り入れた。インターセクショナリティが発見された当初は、活気に満ち溢れていた。だが、批判的な探究とプラクシスとしてのインターセクショナリティが成熟し、より多くの人々がその存在に気づくようになったからこそ、インターセクショナリティを主張する者は、その目的や分析と実践についてより自己反省的であらねばならない。具体的には、インターセクショナリティとは何であり、何をすべきで、なぜそうすべきなのかをめぐって、しばしば競合する複数の視点を見極める方法を見つけ出す必要がある。多くの人が、現状のようなばらばらのやり方でインターセクショナリティを主張し使用することで、その定義上のジレンマが生まれている(Collins 2015 )。この理論上のジレンマを検討せずに放置しておけば、ジレンマはさらに大きくなるだけだ。批判的分析と社会的行為がいかに相互に連関するかを分析しないでいると、インターセクショナリティは〔競合する視点で混沌とする〕交差点(crossroads )にはまり込み、異なる方向に引き裂かれ、思想の中に溺れてしまうかもしれない。持続的な自己反省を欠けば、インターセクショナリティは自らのプラクシス内部での変化も含め、社会変化のために立ち向かう人々を手助けすることはできないだろう。
私は本書において、社会理論とはある特定の種類の知識を構成するものと考える立場をとる。社会理論は社会的世界の説明を目的としており、ものごとがどのような状況にあるのか、それはなぜなのかをめぐる解釈や、それらが今後どのようになりうるのか、あるいはなりえないのかについての解釈を示している。というのも、理論が社会的世界を説明するということは、たとえはっきりとはわからないとしても、その理論が社会的世界に影響を与えているということだからだ。社会理論の中には抑圧的な力をもち、その理論の力こそが不公正な社会秩序を維持していることにほとんど気づかれないまま、非常に効果的な抑圧を実践しているものがある。他の社会理論には、大小様々な抵抗を触媒するような社会的世界に関する批判的説明を提供し、非常に大きな社会的行為を生み出すきっかけとなるものもある。社会理論は、既存の社会秩序を正当化することもあれば、それに対抗することもある。このように、社会理論自体がその一部であるようなこの世界の中で、批判的社会理論は既存の様々な社会的不平等を説明し、同時にそれに対する批判も行うことで、変革可能性を創造することへと目を向けた。言い換えるなら、批判的社会理論とは、現状を別の何かへと変革するのだという希望の下に改良することを目指すのだ。
批判的社会理論もまた、社会的世界に焦点を当てるという点で、ある特定の種類の知識と言える。社会的世界は、人々が生み出し、人々が変化させるものでもある。批判的社会理論にとって、こうした社会的世界に対する焦点化とは、相互に関連する様々な言葉―社会的不平等、社会問題、社会秩序、社会正義、社会変化といった言葉―を生み出すものである。こうした言葉のいずれにおいても、人々が相互に関わることなしに社会的世界が存在しえないことを忘れてはならない。批判的社会理論にとって、社会的世界を理解し変化させることこそ、最も重要な目的といえる。こうした分析は、社会的世界への理解を深めるが、それに取って代わるものではない。
本書では、批判的社会理論と理論化(theorization )の区別もまた、重要である。理論化とは社会的世界を説明するプロセスであり、社会理論とは批判的分析の産物であると理解することによって、知識の創造を民主化することができる。理論化するのはエリートだけではない。日常生活を送る多くの人々が、自らの社会的世界について非常に説得力ある説明を提供している。例えば、私は以前の著作において、エリートではないブラックフェミニストたちが生み出した思想を、社会理論の事例として考察した(Collins 1998a, 2000 )。教育を受けた大学の研究者のみが批判的社会理論を作り出すわけではないが、批判的社会理論を主張したりその理論から利益を得ることが多いのは、大学の研究者たちである。しかし、学界の内外を問わず、どこで働くにせよ、リテラシーと教育、機会に恵まれた私たちは、知的生産を私益の溜め込みを目的とした個人的資産とみなすことで、この希少な資源を浪費してはならない。私の小中学校の社会科教師としての経験や、大学でアフリカーナ研究、社会学、社会理論を教え、数十年間にわたりこれらの問題を執筆し、活気ある研究者゠活動家(アクティビスト)たちの刺激的な仕事を読んできた大学教員としての経験に基づき、私は、思想と分析、そして批判的社会理論の重要性を確信している。ボルチモア、ソウェト、サンパウロ、バーミングハム・バーミンガム(アメリカとイギリス)、バンクーバー、ハバナ、オークランド、イスタンブールの研究者゠活動家(アクティビスト)たちは、全く異なる環境で知的な活動を行っている。かれらは直接顔を合わせることはないかもしれないが、驚くほど似かよった社会問題に取り組んでいるのだ。重要なのは、かれらが、植民地主義、家父長制、レイシズム、ナショナリズム、新自由主義的な資本主義などが、それぞれ単独で、あるいは組み合わさりながら、どのように現実を作り上げているかについて、説得的で複雑な分析を探究しているということだ。インターセクショナリティは、多様な社会的アクターが参加する広範で協働的な知的・政治的プロジェクトである。その混淆性はマイナスではなく、むしろ最大の強みの一つかもしれない。
本書の概要
本書では、インターセクショナリティが批判的社会理論として発展するうえで何が必要か、その中核となる概念や指針を紹介し、展開している。私は、批判的社会理論としてのインターセクショナリティの内実について詳述するつもりはない。むしろ、インターセクショナリティを批判的社会理論へとさらに近づけるため、一連の概念的なツールを発展させるつもりだ。言い換えれば、本書は、いままさに構成されつつある、批判的社会理論としてのインターセクショナリティについて考えるための、暫定的な基盤を提供している。
本書は、インターセクショナリティがそうであるように、広範な事柄を扱う。本書での主な論旨の流れを視覚化するため、全体構成がわかる詳しい目次を付録として〔本書巻末に〕掲載した。この目次は、議論同士のつながりを摑み、全体像を把握するためのナビゲーションツールとして収録されている。この目次に戻りながら読み進めれば、自分がどの位置にいるかを確認していただけるだろう。付録の目次が示す射程をご覧いただけばわかるように、あるトピックについてはよく知っているが別のトピックについては不案内だということもあるだろう。例えば、フェミニズムの理論はよく知っているがアメリカン・プラグマティズムについてはほとんど知らないとか、認識論は的確に把握しているがブラックフェミニズムについては不案内、あるいは、認知心理学や教育学に対する批判的思考の重要性はわかっているがそれに比べて優生思想の歴史については知らない、といったことだ。
多くの人々は社会理論に良い印象を抱いておらず、抽象的で自分たちには無関係のものと非難している。理論家は専門的な言語が複雑な考えを説明するのに重要だと考える一方、一般の人々はそうした専門的な言葉を排他的だと感じるかもしれない。ここからわかる課題とは、理論家も一般の人々も同じように、それぞれが複雑な経験や多様な視点を映し出す専門用語を保有しているということだ。私はこうしたジレンマを感じたため、幅広い読者に向けて書くための方法を見つけなければならなかった。私の解決策は、本書で登場する抽象的議論を読者が理解するために知っておいてほしいと思うことを、読者に伝えておくことだ。このことで、本書の執筆は著しく困難なものになったが、必要なことであった。
読者にご留意いただきたいのは、インターセクショナリティ自体がそうであるのと同様に、本書が通常は一緒に論じられることがない多様なトピック、テーマ、理論、議論を含んでいるということだ。この本を読むには、〔通常とは〕異なる読み方、つまり、自分と専門分野が全く異なる人々で作られる解釈共同体の一員であることを想像しながら読む、という読み方が求められる。私は、各章、場合によっては各節について、多様な背景をもつ読者がアクセス可能であり、独立した小論(エッセイ)として読めるような書き方をしている。本書は異なる考え方が対話する交差的空間において書かれたということを念頭に置きつつ、お読みいただきたい。私の目的は、本書が示す議論の一貫性・統一性を損なうことなく、異種混淆的な読者層に語りかけることだ。インターセクショナリティに取り組むことそのものが、そうした実践なのだから。
本書の構成は、インターセクショナリティの理論を構築する概念ツールを提供するべく、四つの部に分かれている。第Ⅰ部では、様々な社会的アクターが理論構築の議論に参加するための、基本的な用語を確認する。実践者の間でインターセクショナリティとみなされるもの(第1章)と、社会理論家の間で批判的社会理論とみなされるもの(第2章)の範囲に関する感覚〔の違い〕は、しばしば互いに全く異質な解釈共同体を生み出す。第Ⅱ部では、知的抵抗に焦点を当てており、これはインターセクショナリティの批判的役割において重要な側面である。インターセクショナリティは複数の抵抗知と結びついているが、その多くがインターセクショナリティの思想と実践の源泉として機能している(第3章)。また、自身の知的抵抗の限界と可能性に対して認識論の力がいかに影響を与えるかにも注意を払わねばならない(第4章)。第Ⅲ部では、インターセクショナリティを理論化する際の重要な側面である、知る方法(way of knowing )としての社会的行為を分析する。コミュニティという文脈の中で、経験と社会的行為をどのように概念化するのか(第5章)、および、社会的行為がインターセクショナリティの定義の境界をどのように特徴づけるのか(第6章)という問題は、交差的な理論化において重要な次元を構成する。第Ⅳ部では、インターセクショナリティの中で当然視されてきた二つの中核的構成物に取り組むことで、批判的社会理論としてのインターセクショナリティが、それぞれの構成物を自己省察的(self-reflexive )に分析しなければならないことを論じる。関係性(relationality )は、インターセクショナリティの中で批判的分析を必要とする、核となるテーマである(第7章)。インターセクショナリティの社会正義へのコミットメントは、もはや当然の前提とは言えない。その前提は構築される必要があるのだ(第8章)。
間違いなく、本書の執筆は私にとって困難な挑戦であったし、おそらく、読者の皆さんにとっても困難で挑戦が必要とされる読書となるだろう。多くの差し迫った状況がある中、とりわけ現在のような変化の時節において、これが最善のやり方であったと考えている。私は、本書での複雑な議論をわかりやすくするためにベストを尽くした。ここで紹介する議論があなたにとって何を意味するかを解釈するには、読者の皆さんにもベストを尽くしてもらう必要がある。
(以下、本文つづく。傍点と割注は割愛しました。PDFでご覧ください)