アメリカのロースクールに行くことに決めた時点では、ロースクールを出て弁護士資格を取得してから何をするのかは漠然としか考えていなかった。人権や環境の問題に取り組む国際機関で働きたいとは思っていたけれど、当時はインターネットが今のように発達していなかったし、どういう組織があってどうやったらそこに入れるかを調べようにも、日本にいながらではごく基本的なこと以上は調べようがなかった。ただ、そういうことに関心があるなら国際機関が多く集まるワシントンDCにあるロースクールに行くといいよ、と知人が助言してくれたのを信じて、DCにあるロースクールに行く手続きをしていた。
日本の大学の法学部を卒業してからロースクールに入るまで数カ月あったので、その間、法律事務所でアルバイトをしていたのだが(といってもただの「法律事務所のバイト」ではなかった。日本の弁護士たちによる意義ある活動に関わることができ、実に貴重な経験をした)、タイで開かれた国際シンポジウムに招待された弁護士の通訳をするために私も一緒に行くことになった。
そのシンポジウムはミャンマーの環境問題と法がテーマで、当時も軍政支配下にあったミャンマーでの様々な環境問題と法との関係についての発表が、少数民族の観点からのものも含めていくつも行われた。そのうちの一つに、ミャンマー沖のガス田(ヤダナ田)からタイにガスを運ぶパイプラインの建設に際して深刻な人権侵害や環境破壊が起きていることを取り上げたものがあった。
ヤダナ田からタイへのガス輸出は、ミャンマーの石油ガス公社と欧米の石油会社が計画した事業である。輸送パイプラインがミャンマーを横断する部分はカレンなどの少数民族が暮らす地域で、そこではミャンマー軍政に抵抗する少数民族武装勢力も活動していた。そんな状況でパイプライン建設を滞りなく進めるため、建設開始前にミャンマー軍がパイプラインのルート沿いに展開し、武装勢力の拠点を攻撃したほか、少数民族の村に無茶な移転をさせたり、住民に労働を強いたりした。強制労働は特に過酷で、死者も出るほどだった*1。
程度の差こそあれ、開発事業によって現地住民に悪影響が及ぶ事例は残念ながら世界中にある。しかしヤダナパイプライン建設が画期的だったのは、被害を受けたミャンマーの住民が、アメリカの裁判所で、事業に出資するアメリカの石油会社ユノカルに損害賠償を求める訴えを起こしたことだった*2。強制労働などの人権侵害行為を直接したのはミャンマー軍だが、そのミャンマー軍による「安全確保」から恩恵を受ける欧米の石油会社にも責任があるはずだと考えたアメリカの若いローヤーたちがいて、彼らが原告の代理人になったのである。
そんな内容の発表に私は大きな衝撃を受けた。開発事業に関連して起きた被害を人権侵害として見ることができること、被害者がたいへんな危険を冒して訴訟の原告となったこと、そして人権侵害について企業の責任を追及することの正しさを疑わずに活動する弁護士がいること。何より鮮烈に印象に残ったのは、その発表をしたのがアースライツ・インターナショナル(ERI)というNGOの、私とあまり年の変わらなそうな女性のインターンだったことである。
ERIはこの訴訟を起こしたローヤーたちが設立したばかりのアメリカのNGOで、そのインターンはまだロースクール在学中だった。女性のロースクール生が国際シンポジウムでこんな訴訟について発表するなんて! 人権侵害の法的責任追及を業務とするNGOがあるなんて! 私もそういう仕事をしたい! この発表で人生が変わったと言うと大袈裟だが、ロースクール修了後に何をしたいのかがぼやっとしか見えていなかったのが、急に焦点が定まった瞬間だった。
ロースクール生活は大変だったが、上述の知人の助言を聞いてワシントンDCに行ったのは大正解だった。アメリカの政府機関や連邦議会はもちろん、世界銀行などの国際機関のほか、ERIのようにローヤーがスタッフとして働く環境保護や人権保護のNGOが本当にたくさんあるからである。そのようなNGOは訴訟を起こすばかりではない。私がロースクール在学中にインターンとして働いた国際環境法センター(CIEL)では、一流のロースクールを出た優秀なローヤーたちが、たとえば国際条約をよりよい内容にするためにアメリカ政府に提言をしたり、世銀の開発事業による悪影響を法的に分析したりしていた。
そんなローヤーたちが大勢いること、そしてその人たちに、民間ローファームほどではないがそれなりの給与や待遇を提供できる組織が数多くあることは、アメリカ社会のすばらしい一面であると思う。それはまた、本書『レイディ・ジャスティス』に登場する女性ローヤーたちの活躍の下地でもある。
ちょうど私がロースクールを修了する頃にERIがワシントンDCに事務所を開設し、幸運にもそこに就職することができた。秋に弁護士試験の合格通知が届き、肩書きに Staff Attorney (専属弁護士)を加えてもらったときの嬉しさは格別だった。もちろんユノカル訴訟の仕事もした。といっても原告弁護団の中では下っ端なので、経験豊富な先輩ローヤーたちが裁判所に出す書面を準備するのに必要な判例をひたすら調べたりする地味な作業が主だったが、歴史的な裁判に直接関わることができて夢のようだった。それから20年以上経った今ではまた別の意味で夢のような思い出である。
注
*1 EarthRights International, Total Denial Continues: Earth Rights Abuses Along the Yadana and Yetagun Pipelines in Burma (2000) などを参照。
*2 ドー対ユノカル事件。1996年に提訴、2003年に和解。ユノカルは2005年にシェブロンに買収された。
女性+法=変革! 法を公平、平等、尊厳を得るための力に変えてきた女性法律家たちの闘いを描くエンパワリング・ノンフィクション。
『レイディ・ジャスティス
――自由と平等のために闘うアメリカの女性法律家たち』
ダリア・リスウィック 著、秋元由紀 訳
3,850円(税込) A5判 336ページ 2024年8月1日発売
ISBN 978-4-326-60372-5
https://www.keisoshobo.co.jp/book/b647474.html
【内容紹介】 人種差別、人工妊娠中絶の阻害、投票権の制限、性暴力……トランプ政権時代の暴政に抗して自由と平等を守るべく即座に立ち上がったのは、多くの女性法律家たちだった。女性やマイノリティができることや望めることを常に規定してきた法。その法を権利獲得のための武器に変えてきたアメリカの女性法律家たちの歴史と現在の闘いを描く。
本書の第1章の一部と訳者あとがきはこちらからお読みいただけます。→《第1章/訳者あとがき》
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第1回 アメリカの弁護士たちは「海の底」?