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須田悠基 著
『真理の本性 真理性質の実質性を擁護する』
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はしがき
本書が主題として扱うのは,〈真理truth〉である。真理の本性の探究を行う〈真理論truth theory〉と呼ばれる哲学分野の議論に定位し,真理とはなにかという問いに答えることが本書の目的となる。
この問いに答えることには,重要な意義がある。なぜなら,真理は,哲学の諸分野におけるいずれも重要な議論において参照されているものだからである。たとえば,我々は,「地球は丸い」「拷問は悪い」「約束は守るべきだ」といった平叙文を主張したりするが,こうした平叙文はいかなる場合に真となるのか。文の真理条件を検討するこのような試みは,言語哲学の議論の重要な一部を占めている。同様に,哲学の主要分野の一つを担う認識論は,真なる信念を最大化し,偽なる信念を最小化することを目標とする営みとしてしばしば定式化される。この目標に照らして,どのような信念を抱くことが望ましいかを認識論では評価しているのである。さらに,哲学における重要な手法の一つとされる論証は,真なる前提から別の真なる結論を導くための手法である。
このように,哲学諸分野の重要な議論のいくつかは,〈真理〉と切り離してはおけないものである。そのため,真理の本性がどのようなものであると判明するかによって,そうした哲学諸分野の議論も影響を受けることになる。また逆に,真理の本性が一切分からないとなれば,そうした哲学諸分野の議論も宙に浮いたものとなりかねない。それゆえ,真理の本性がどのようなものなのかという問いに答えを与えることは非常に重要である。
しかしながら,この問いをめぐっては,いくつかの混乱がある。詳しくは本書の序章で論じることにするが,従来の分析哲学の各領域における議論では,「真理truth/真であるis true」という述語をめぐる議論,真理という性質をめぐる議論,真理という概念をめぐる議論という三つのレベルの議論がしばしば混同されており,さらに性質としての真理の本性をめぐっては,現在まで論争が続いていて統一見解がないのである。
そこで本書では,真理に関する述語/性質/概念の議論を明確に区別した上で,性質としての真理の本性の解明を目指すことにしたい。その際,真理性質の本性をめぐる議論における二大陣営である〈インフレ主義inflationism〉と〈デフレ主義deflationism〉と呼ばれる立場の対立を参照しながら検討を進めていくという手法を採る。おおまかには,インフレ主義は,真理が実質性を持つ性質であると主張する立場であり,他方のデフレ主義は,真理はなんら実質性を伴わない性質であると主張する立場である。本書では,このうちデフレ主義の見解は正しくなく,少なくともある種のインフレ主義的な理解を真理性質に認める必要があることを示し,真理性質の本性について必ず合意しなければならないいくつかの主張を導くことにしたい。
そのために,本書ではまず序章において,真理についての議論を,述語に関する議論,性質に関する議論,概念に関する議論に区別する作業を行う。また同時に,インフレ主義とデフレ主義それぞれがいかなる立場であるかを正確に定式化し,本書で論駁を目指すこととなるデフレ主義の二つの核となるテーゼを明示する。
序章での作業を終えた後,本論ではデフレ主義の論駁を目指す議論を具体的に見ていく。デフレ主義の論駁に際しては,〈形而上学metaphysics〉と〈認識論epistemology〉の二つの領域の議論からアプローチする道がある。そのため,二部に分けてそれぞれのアプローチから真理の本性に迫っていくことにしたい。まず,第Ⅰ部となる第1 章~第3 章では,〈形而上学〉の議論から,真理の本性を探究する。具体的には,〈真理〉という性質がいかなる場合に成り立つのかを示す構成理論を特定する,という試みの見込みを精査する。第1章では,真理の一元主義と呼ばれるインフレ主義のヴァリアント―対応説・整合説・プラグマティズム説―を,その理論的道具立てとともに確認し,それぞれの立場が抱える問題を指摘する。第2 章では,真理の多元主義と呼ばれるインフレ主義のヴァリアントを,その理論的道具立てとともに確認し,この立場が解決困難な課題を抱えていることを示す。第3 章では,道徳文の真理を説明する各種メタ倫理学説を精査し,これらの立場のうち,いずれが正しいかを判断する形而上学的根拠が現状では存在しないため,形而上学的な議論から真理の本性を明確にすることは今のところ困難であることを明らかにする。
第Ⅱ部となる第4 章~第6 章では,上記の形而上学的探究の見込みの薄さを受けて方針を転換し,〈認識論〉の議論から,真理の本性に関するインフレ主義の擁護を試みる。具体的には,〈認識論という分野においては,インフレ主義的な真理理解を採用しなければ説明できないようなことがらがある〉という主張を裏づけることでデフレ主義を論駁する,という議論を複数検討していく。第4 章では,認識論において用いられている〈認識的理由epistemic reason〉と呼ばれる理由が特定の信念を抱くべき規範性を持つ理由―規範理由―となる根拠を,真理の実質性に紐づけて与えようとする議論を複数検討する。その上で,このような議論はいずれも十分な説得性を持つに至っておらず,また,認識的理由が規範理由として扱われる根拠は,真理の実質性に紐づけることなく説明可能であるため,この議論によってインフレ主義を擁護することはできないことを明らかにする。第5 章では,認識的理由の〈規範性〉ではなく,認識的理由という概念そのものが,実質的な真理性質を前提しなければ適切に理解できないものであることを示す。そのために,まず,認識的理由を参照しながら特定の信念を抱くことの正当性/合理性を評価する〈認識的評価epistemic evaluation〉と呼ばれる実践を取り上げ,この実践はそもそもどのような営みなのかという点を,メタ認識論の議論を参照しながら明確化する。この作業により,認識的評価は,認識的理由という〈真理が特定の実質を伴う性質であると前提しなければ適切に理解できない道具立て〉を必要とする実践であるため,この認識的評価の実践を適切に保存するためには,真理性質の本性に関するインフレ主義の理解を受け入れざるをえない,ということを明らかにする。第6 章では,第5 章で行った論証に対するデフレ主義からの反論の余地について検討し,これを退けるとともに,筆者独自の新たなインフレ主義の立場を提示する。
最後に結語において,本書の道筋を再確認し,本書の議論を通してなにが論証されたのかを位置づけることにしたい。