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米盛裕二 著、今井むつみ 解説
『新装版 アブダクション 仮説と発見の論理』
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まえがき
拙著『パースの記号学』の出版(勁草書房、一九八一年五月)から今年で二十六年が経ちました。幸い、この本は初版が三ヵ月で売り切れて、同じ年の十月に二刷目が、翌年には三刷が出るというふうに版を重ね、昨年十刷目が出まして、いまなおこの本を読んで下さる読者がおられるようです。この本の出版後、思わぬところから、私とは専門分野がまったく違う人工知能の研究者、コンピュータ・サイエンティストたちの諸学会や研究機関(日本情報処理学会、日本ファジー学会、日本人工知能学会、日本創造学会、富士通国際情報社会科学研究所、国際ファジー工学研究所、社会経済生産性本部、日本IBMなど)から講演やシンポジウムへの参加依頼があり、はじめは戸惑いを感じながら、そしていまなおコンピュータ・サイエンティストたちが私に何を求めているのか十分には理解できぬまま、お付き合いをしています。しかし私のほうは、コンピュータ・サイエンティストたちから多々学びました。いま述べた諸学会、研究会で行った私の講演やシンポジウムのテーマは記号論的認識理論、推論の理論(とくにアブダクションの理論)、哲学とファジィネス、創造性の問題、言語理解の問題、常識知の問題など、多岐にわたるものでした。これらの問題は私がとくに関心をもっているものですが、いま述べた諸学会や研究会でのディスカッションをとおして、私はこれらの問題についてさらに関心と理解を深めることができ、むしろ私のほうがコンピュータ・サイエンティストたちから学ぶものが多かったと思います。それらの諸学会や研究会に私を招いて、コンピュータ・サイエンティストたちと交わる機会を与えて下さった方々に厚くお礼を申し上げます。
コンピュータ・サイエンティストたちの諸学会や研究会で私が行った講演について詳しく述べると長くなりますので、いくつかの要点をごく簡単にあげると、つぎのような内容のものです。⑴記号とは何らかの意味をいい表わすあらゆる表現体を意味し、外界の対象はすべてその対象を認識する者に対してつねに何らかの表意体あるいは記号として現われると考えるのが、拙著『パースの記号学』の基本的な考え方です。ある人工知能の研究者もいうように、つまり「外界の対象は、われわれの経験においては、記号としてのみ認識される」(コラーズ、スマイズ)ということです。いいかえると、人間の認識思考は本質的に記号過程であり、あるいは記号処理過程である、ということです。そういう記号の考え方(記号論的観点)に立ちますと、伝統的な哲学の認識論(epistemology)とは違う、新たな認識または認知の理論というものを構想することができるのではないかと考えられます。⑵人間の認識思考は記号過程であるとしますと、記号過程というのは複雑多様な意味の世界を把握し認識することですから、したがってわれわれの認識思考のすぐれた特性は曖昧なもの、ファジィーなもの、不明瞭な意味を理解し、あるいは複雑で不確実な状況について思考しその状況に応じた適切な行動をすることができる、というところにあるといえるでしょう。記号の曖昧性に関して、パースも、記号(言語記号も含めて)はその広さ(外延)と深さ(内包)の程度に差はあれ、すべて「一般的なもの」をいい表わすもので、つまり記号の意味は「一般性(generality)」の特性を有するものであり、そして一般性はその程度に違いはあれ、基本的に曖昧(vague)であるから、したがって記号は本質的に曖昧である、と論じています(J. Buchler, Charles Peirce’s Empiricism, p.25)。
たとえば日常言語について考えてみましょう。言語についてのデカルトの考え方を批判した拙論「反デカルト主義的論考」のなかで、私はつぎのように述べています(付章、二二〇頁)。「デカルトの二元論が精神と物体の完全な分離独立を説くのは、精神をあらゆる物体的身体的作用から引き離し、精神をいっさいの物質的なものから純化して、純粋な精神の明証的な理性的認識を達成するためである。しかし日常言語には、この二元論の理念と要請とは全く相容れない、もう一つの重要な特性がある。それはすなわち、日常言語の意味や観念は本質的に曖昧で不確実なものである、ということである。言葉の曖昧性や不確実性は一般には言葉の欠陥としてのみ考えられがちであるが、しかしそれは言葉に対する偏見であり、間違った見方である。確かに、言葉の使い方によっては、あるいは言葉が使われる文脈や状況によっては、言葉の曖昧さが欠陥となり、大いに障害となる場合は多い。しかしわれわれの日常言語についてちょっと考えてみればわかるように、日常言語の理解と使用には、まさに曖昧さ(一般性、多義性、比喩、日常的生活世界の際限のない文脈における意味の転調など)を認識しうる能力、日常的生における複雑多様な、不確実な状況に応じた、いわば曖昧認識・曖昧思考を行いうる能力こそ、不可欠であり、本質的なものである」。ちなみに、世界と人間のファジィネスを誰よりよく知っているはずの哲学者たちがフアジィネスの本質を問おうとせず、逆に確実性と明証性を理念とし探究してきたのに対し、一方、精密科学者であるコンピュータ・サイエンティストたちには世界と人間のファジィネスがよくみえて、ファジィネスの本質を追求している、というのは甚だ対照的で、興味深いものです。
⑶思考・推論の論理について考えますと、われわれは日常、あるいは科学的探究においても、演繹的にのみ思考しているのではないし、まして厳密な記号論理の方法と体系にしたがって推論を行っているのではないということはいうまでもありません。現実の人間の思考においてはむしろ、M・ヘッセがいうように、「前提から結論にいたる合理的なステップは通常は非─論証的(non-demonstrative)で、つまり帰納的、仮説的、類推的思惟によって行われる」のです。現代の論理学は論理の数学化によって大きな発展を遂げ、それはまさに二十世紀の知的革命の一つといえるでしょう。しかし論理学者たちの関心はもっぱら論理の数学化にのみ向けられてきたために、論理学はますます現実の人間の思考の論理から離れてしまって、それとはまったく関係のないものになってしまいました。はたしてこれでよいのかというのが私のずっと以前からの疑念です。⑷人間が行う推論には「厳密な推論(rigorous inference)」と「厳密でない推論(non-rigorous inference)」がありますが、従来論理学者たちはもっぱら「厳密な推論」のみを論理的な推論とみなし、「厳密でない推論」(不確実な結論に導く推論)は切り捨ててきました。しかし人工知能の研究者たちは「厳密な推論」だけでなく、「厳密でない推論」も重視していて、とりわけ人間の創造的思考に関心をもつ人工知能論者たちはむしろ「厳密でない推論」に人間の推論の特質を見出そうとしているようです。そして同じような考え方を私もずっと以前からもっていまして、そういう観点から私が注目したのがパースの演繹・帰納・アブダクションの三分法の推論の概念であり、とりわけ創造的思考、科学的発見において重要な役割を果たすと考えられるアブダクションです。
本書『アブダクション──仮説と発見の論理』は、アメリカの論理学者・科学哲学者チャールズ・パース(Charles Sanders Peirce, 一八三九~一九一四)が提唱している「アブダクション(abduction)」または「リトロダクション(retroduction)」と呼ばれる新たな推論の概念に関する研究です。本書を書くにあたって、私はこんどはアブダクションに注意を集中し、もういちど『チャールズ・S・パース論文集』(Collected Papers of Charles Sanders Peirce, 全八巻。以下、『論文集』)を最初から読み直さなくてはなりませんでした。パースは演繹の論理学の形式的体系化において先駆的な仕事をし、現代の記号論理学の創設者の一人でもあり、かれはまた、帰納の論理学についても独創的な思想を多作しています。そしてそのうえに、かれはアブダクションという第三の種類の推論の概念を提唱しているのです。こうしたパースの幅広い論理学的思想は、アリストテレスを除くと、これまでの哲学者や論理学者たちに例をみることはできないもので、かれらの思想とはまったく違うものであり、新たな論理学的研究の方向を示すものとして、注目に値すると考えています。
しかし本書はアブダクションに関するパースの論理学説・哲学説のたんなる解説ではありません。私がアブダクションの推論の理論に注目したのは前著『パースの記号学』を書いているころからですが、しかしアブダクションについて一冊の本にまとめたいと考えたのは、さきに述べた人工知能の研究者、コンピュータ・サイエンティストたちと交わって学んだことによるものです。そして本書の内容はもちろん私がコンピュータ・サイエンティストたちの諸学会や研究会で行った講演を踏まえています。そういうわけで、私はパースの著作にもとづきながら、しかし多分に私なりの解釈と考え方を入れて、パースの所説を大幅に敷衍して論じたいと考えました。そのために、逆にパースの思想を曖昧にしたり、パースの真意に反するすぎた解釈を行ったり、あるいは思わぬ誤解もあろうかと思います。せつに読者のご批判、ご教示を乞うしだいです。
なお本書の脚注では、パースの『論文集』からの引用は各引用文の末尾に巻数とパラグラフ・ナンバーを示してあります。たとえば第二巻の二〇八パラグラフは(CP:2.208)と記してあります。
本書への付章として二つの拙論を載せていただきました。「反デカルト主義的論考──言語の問題をめぐって」は岩波講座『現代思想』の第四巻『言語論的転回』(岩波書店、一九九三年)に収められているもので、言語についてのデカルトの考え方を中心にデカルト哲学を批判したものです。本書への転載をご許可下さった岩波書店に厚くお礼申し上げます。「常識知について」は、私の琉球大学退官を記念して編まれた『米盛裕二先生退官記念論集』に私自ら執筆し載せていただいたものです。それらの論考は直接にはアブダクションに論及してはいませんが、私にとってアブダクションについて考えるうえでその思想的背景になっているものです。
本書の執筆にあたって、私はとくにわが国の著名な科学史家・科学哲学者伊東俊太郎先生から多々学びました。伊東先生は私が拙著『パースの記号学』でアブダクションについて論ずる以前に、すでに「科学的発見の論理──創造の科学哲学的考察」というすぐれた論文を書いておられまして、そのなかでアブダクションに関するパースの思想の主要な論点をコンパクトに、とてもわかりやすく説いておられます。私は伊東先生の他のご著作からも学びましたが、とりわけいまあげた論文によって私はアブダクションに対する関心と理解を深め、拙著『アブダクション──仮説と発見の論理』を書くうえで大きな刺激を受けました。なお伊東先生は私の前著『パースの記号学』についてとても好意的な書評を書いて下さいました。ここであらためてお礼を申し上げたいと思います。(以下、本文つづく)
科学的思考の究極の熟達が「ひらめき」を生む──新装版に寄せて
今井むつみ(慶應義塾大学環境情報学部教授)
私は、人間の子どもの語彙と概念の発達過程を研究している。子どもがことばの意味を覚えられるのは、「大人が教えたことを子どもが暗記するから」と考えている大人は多い。しかし、子どもにわかるようにことばの意味を教えることはほぼ不可能である。「ウサギ」の意味を、語彙をほとんどもたない子どもにいったいどのように教えることができるのか。「白くて、耳が長い、赤い目をして、毛が白くて、やわらかい動物」と言うかもしれない。しかし、「ウサギ」を知らない子どもは「赤い」「白い」「やわらかい」「動物」ということばは知らない可能性が高く、説明を理解できないだろう。
しかも、ことばが指す一つの対象がわかるだけではそのことばを「わかった」ことにならない。「ウサギ」という音の塊を目の前のウサギに結びつけることができても、……(以下、本文つづく)