あとがきたちよみ
『明治の芸術論争――アートワールド維新』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2024/10/17

 
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西村清和 著
『明治の芸術論争 アートワールド維新』

「第一章 「美術(芸術)」の「妙想(アイジヤ)」」(pdfファイルへのリンク)〉
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第一章 「美術(芸術)」の「妙想(アイジヤ)」
 
1 「アートワールド」維新
 文芸評論家雅川滉(成瀬正勝)が昭和七(一九三二)年に、つぎのように記している。

「畢竟、明治文学の流れは、レアリズムへの道である。その道の上で、作家の刻苦経営した跡が、時に写実派と謂はれ、観念派、深刻派と呼ばれ、また浪漫派と名づけられて、自然主義にまで結実したのである。このことは非常に重大であって、写実派の後に浪漫派が起り、それに対して自然派が起ったなどといふ皮相な見方では、明治文学を理解することは遂に出来ない。明治文学の道は、一面、欧州文学に対する消化力の跡とも云へる」。

 これは明治において近代小説が成立する過程を見る上で、きわめて重要な指摘というべきである。じっさいここであげられている写実派、観念派、浪漫派、自然主義といった呼称にしても、それが用いられた時点において、いずれも概念としてはきわめて曖昧であり、明治文学を理解するには、それぞれの時点でこれらの概念がどのように理解され、論争においてどのように議論され、創作の上でどのように実践されたのかをあきらかにする必要がある。
 明治維新で西洋の文明・文化の圧倒的な力に直面して、これをすみやかに消化吸収することを至上命令とした明治日本の知識人にとって、西洋近代の文学、よりひろくいえば芸術もまたそのように吸収し、これにならって自己形成するべき文化領域である。それはことばをあえて使えば、それまで日本には存在しなかった西洋近代の「アートワールド」を自己のものとする企てである。アメリカの分析哲学者アーサー・ダントーは、一九六四年にアンディ・ウォーホルが、ブリロの洗剤の商品パッケージである段ボール箱にそっくりに似せたものを合板で作って、ギャラリーの床に、あたかも商品倉庫に置かれているかのように積みあげた作品を展示したのを見て、「なぜこれがアートなのか」と自問し、おなじ年に論文「アートワールド」を発表する。そこでかれは、ある「もの」が「芸術」作品といわれるのは、それまでの芸術論で考えられてきたように、それが時代や民族、地域をこえて普遍的に共通する「芸術」の不変の本質をもつからではなく、それぞれの時代や地域においてあるものを「芸術」として理解し、受け入れ、同意する、その社会に特有の「芸術」についての歴史や理論や批評といったディスクールに支えられたひとつの「雰囲気」にもとづくという。ダントーは、この特定の時代、特定の社会の芸術をめぐる雰囲気を「アートワールド」と呼ぶが、ブリロの箱はすくなくとも一九世紀までの西洋近代のアートワールドではけっして「芸術」とはみなされなかったはずである。要するに西洋の一九世紀までと二〇世紀半ばとでは、芸術の歴史や理論や批評にもとづいてある「もの」に「芸術」の身分を付与するアートワールドが変化したのである。明治以前の日本にも小説はあり、絵画や彫刻もあったが、それらをとくに「文学」と呼び「美術」と呼んで、これに「芸術」の身分を授与するディスクール、つまりは西洋近代のアートワールドは存在しなかった。それゆえ文学や美術の領域における社会的実践としての明治維新とは、本書の副題にもあるように、まさに「アートワールド維新」なのである。
 そもそも西洋における「美術(芸術)」にしても、近代に成立する概念である。中世までは彫刻や絵画、建築も一般に職人の技芸(ギリシャ語でtechne、ラテン語でars)に属し、教会や宮殿等を荘厳するものとして、宗教的な権威や政治的な権力に奉仕するものであった。しかしルネサンスの文化のなかで画家や彫刻家たちの社会的地位がたかまった結果、かれらにしても自分たちの仕事がたんなる職人技とはちがうという意識をもつようになり、一七世紀後半になると詩や絵画、彫刻、建築、音楽などわれわれがこんにち芸術という概念で包括しているものをひとつにして、これらに共通の本質的なきずなを、それらがもっている美と調和、およびそれがわれわれにあたえる快楽に見る考えかたがでてくる。古代ギリシャ以来、絵画や彫刻は「自然の摸倣」とされたが、現実の雑多な現象それ自体はつねに美しいとはかぎらない。それゆえこれらの技芸にはあるべき自然の理想的ないし理念的な美しいかたちが要請された。こうしてルネサンス以降、人間精神の特別な能力である「天才」の、雑多な現象をひとつの理想(理念)のもとに調和した美しい全体へと構想し作品として提示する能力、したがって芸術家の自由で独創的な想像的創造力が必要と考えられるようになる。こうした変化を経て、こんにちわれわれになじみの「美しい芸術(美術、fine arts, beaux arts)」ということばが浸透するのは、ようやく一八世紀も半ばのことである。そしてその所産である「作品」も、宗教や王権に対する従属から解き放たれて、その作り手である芸術家の、その独創と天才において他に際だった精神にひとしい、それ自体一個の自立した存在として自己を主張する。そのかぎりで「美しい芸術」は、人間精神の「自己表現」でもある。享受者もまたいっさいの社会的な、あるいは実用的な関心にかかわらない、カントのいう「無関心性」においてなりたつ純粋に美的な観照において、よき趣味をそなえた一個の精神として作品にむきあうものとなる。明治の日本人が西洋近代の芸術、とりわけ文学や美術にふれたとき、それを支える西洋近代の芸術概念と芸術理論、つまり西洋近代のアートワールドとはこのようなものであった。
 明治維新における西洋文明受容の圧力の下で、在来の日本の絵画や彫刻は顧みられなくなり、それをになう絵師や仏師たちもパトロンであった武士階級の没落とともにその庇護をうしなって零落し、その多くは輸出用の工芸品の図案や絵付けなどに従事するほかはなかった。一方で高橋由一(1828-1894)のように、少年時代に狩野派や北派を学んだが、友人に洋製石版画を見せてもらって「悉皆真に迫りたるが上に一の趣味あることを発見し、忽ち修学の念」をおこすものもいた。かれは一八六二年、三五歳で、幕府によって設置された洋学の研究教育機関である蕃書調所(のちに開成所と改称、明治維新後は開成学校となり、明治一〇年発足の東京大学の母体)の画図局に入学して教官川上冬崖のもとで洋画を学んだが、冬崖の西洋画はなお「絵図」、したがって製図や測量図といった科学技術の一端としての画学であって、蕃書調所では油絵など見ることはできなかった。そこでかれは、『イラストレーテド・ロンドン・ニュース』特派員で挿絵画家として横浜にいた画家ワーグマンに入門したり、のちには明治九年に開設された、わが国最初の西洋美術教育機関である工部美術学校の画学科教授として来日した画家フォンタネージを訪ねて学んだという。「美術」ということばがわが国ではじめて使われたのは、明治六年のウィーン万博に出品をうながすべく、明治五年一月に全国各府県に発せられた「出品差出勤請書」に添付された出品規定においてであり、このなかに「美術(西洋にて音楽、画学、像を作る術、詩学等を美術といふ)」という語がでてくる。しかしじっさいに出品されたものは、出品計画を依頼された、大学のお雇い教師であったドイツ人ゴットフリート・ワグネルの進言によって日本の伝統的工芸品が中心で、ウィーン万博では「工芸(クラフト)」に分類されて展示され絶賛されたという。以後明治政府は陶磁器、漆器、七宝などの伝統工芸品の輸出に力をいれるようになり、明治九年に工部美術学校が設置されたのもその一環である。その学校規則に「美術学校は欧洲近世の技術を以て我日本国旧来の職風に移し、百工の補助となさんが為に設くるものなり」とあるように、ここにいう「美術」も「百工」すなわち工芸技術一般を意味し、「欧洲近世の技術」によって「吾邦美術の短所を補ひ、新に真写の風を講究」することで殖産興業を果たそうというのが、美術学校設置の目的であった。ここで小山正太郎、浅井忠ら、わが国の近代洋画の開拓者が学んだのも、従来の狩野派などの粉本─各流派の先学の下絵や古画の模写本─をもとにした修練ではなく、写生をふまえた西洋リアリズムの方法であった。明治一〇年には第一回内国勧業博覧会が開かれ、その出品区分名称のひとつとしてあげられた「美術」には彫像術、書画、版画、写真、建築学、各種工芸がふくまれているが、ここにいう「書画」とは書や水墨画、日本画、油絵とならんで、蒔絵や陶磁器、七宝など絵付のある工芸品もふくまれる。
 明治一二年には殖産興業政策を指揮し、ウィーン万博事務副総裁をつとめた佐野常民やのちに帝国博物館総長となる文部官僚の九鬼隆一、そして輸出業者によって組織された美術団体「龍池会」が設立されるが、これはわが国の古美術保護と工芸品の輸出振興を目的とした、政府の殖産興業政策を支える外郭団体である。そして明治一〇年に来朝して東京大学のお雇い教師をしていたフェノロサが明治一五年五月一四日に龍池会で講演「美術真説」(大森惟中筆記)をおこなうが、これがわが国において西洋近代の「美術(芸術、fine art)」という概念がはっきりと示された最初である。
 フェノロサは美術の種類を列挙して「音楽、詩歌、書画、彫刻、舞踏等」とするが、これらの美術が「通常職工」の「非美術」とことなる、その「善美(イキセルレンス)」たる資格は、たんなる「技倆の精巧」でも、それがあたえる「愉悦」でも、また「天然の事物に擬似する」ことでもなく、それが全体と部分のあいだの有機的な調和・統一を実現することで、天然万物には存在しない完全性を提示するところにあるとして、この完全性を「美術の妙想(アイジヤ)[idea]」という。そして「妙想なるものは各般の物件に属する」が、画家はこの「事物の精神を感覚する」ことで作品のうちに「其妙想を顕す」が、この妙想を案出する能力は「意匠の力」であるというように、フェノロサはプラトン的イデアにもとづく近代観念論美学の立場をとっている。かれはさらに美術作品の、外部の現実世界からの自立性と、そこに描かれたものに対する実践的欲求や利害から解放された「無関心性」についても言及している。その上でかれは、さいきんの欧州の画家はもっぱら写真のごとき模写に終始しているのに対して、日本の絵画は余白をのこして「自由且つ簡易に妙想を顕す」点で油絵にまさっているが、それにもかかわらず油絵の新奇なるを激賞する一方で固有の絵を蔑視して旧来の画家を排斥したことは深く憂うべきことであるとして、「日本画術」を興すべく美術学校を設立することを訴えるのである。
 こうして明治前期の欧化が一段落した一〇年代の後半には一転して、日本の伝統的な文化・美術の再評価へとむかう反動の風潮がおこる。明治一五年に開催された第一回内国絵画共進会では洋画の出品が拒否され、明治一六年には工部美術学校が廃校になる。そして明治二〇年には、東京大学卒業後文部省に勤め、フェノロサの助手として欧米美術行政の視察を終えた岡倉天心が中心になって東京美術学校が設置(開校は二二年)されたが、これは工部美術学校とは逆に、絵画科は日本画のみ、美術工芸科は金工、漆工、彫刻科は木彫のみであった。こうした洋画排斥の動きに対して、洋画家小山正太郎は明治一五年に論考「書は美術ならず」を発表するが、これが次節に見るような、日本美術と西洋油絵をめぐる論争に発展する。
 この時代の、西洋近代のアートワールドと「芸術」概念の受容をめぐる重要なできごととしてはもうひとつ、明治一六年に文部省の、最新の美学書で大学の教科書として使えるものをという委嘱に応えて中江兆民が訳したフランス人ユジェーヌ・ヴェロン(『美学』1878)の『維氏美学 上冊』(下冊は明治一七年)の出版がある。ヴェロンは一八五〇年に文学部門の大学教授資格を取得するものの、のちに教職をしりぞいてジャーナリズムに転じ、七五年以降パリの『芸術(l’Art)』誌の編集長として活動した。かれは旧態依然としたアカデミー、すなわち美術学校やサロン展を牛耳る芸術院やそれが信奉する古典派の教義、すなわちプラトン以来の「理想の美という絶対的観念」はたんなる「荒唐無稽な存在論」にすぎないとして、この時代の心理・生理学や進化論と、それに呼応したフランスの文学史家イポリット・テーヌの、芸術を「社会環境(ミリュー)」の所産とする思想を基礎にした実証主義的芸術論を展開している。
 ヴェロンによれば、アカデミー学派は美を「被造物それぞれの種に本質的な形式(形相)」であり、プラトン的「理想(イデア)」の「神的完全性の一属性」と考え、このイデアは、それが「物質(質料)」のうちに現実化される際には必然的に退化をこうむるが、芸術はこれを完全なものにし「理想化」するという。だがじっさいには「芸術は例外なくあらゆる感覚にうったえる」ものであり、美しいもののみならず醜いもの恐ろしいものでさえ対象として、しかも芸術であることをやめはしないし、そもそも『ボヴァリー夫人』の「どこに美があるというのか」と批判する。その上でヴェロンは、ひとが「美的感覚(les sentiments esthétiques)」によって作品の美とそれにともなう快を感じるとき、この快はもうひとつべつの感覚、「ほんらいの意味での美的快(le plaisir esthétique)、すなわち当の芸術家にそのような仕事を可能にした能力の卓抜さに対する、共感と好意をともなう賞賛を構成する感覚」と重ねあわされるという。醜怪な悪徳それ自体をひとつの客観的対象としてこれを正確に再現模倣したとしても、それが美(完全性)となることはありえない。それゆえ「最後に美的享楽(la jouissance esthétique)を引きおこす」ものは、その対象のうちにあるのではなく、その「生き生きとしたイメージを創造した詩人の個性(la personnalité)」すなわち「天才」のうちにある。そしてそれは芸術家が醜い自然対象に対してさえ、これをどう感じとり、いかにして生き生きと描出するかの能力であり、そのかぎりで芸術家の独創的な個性の、作品のうちへの「美的表現」である。それゆえヴェロンの立場は、一九世紀に主張されるようになった「自己表現の美学」といってよい。それはアカデミー学派のいう美しい自然対象の「模倣、再現、理想化」を事とする芸術とはことなるものである。また自己表現の美学にとって自然の美と区別される「芸術美」は上述のような狭義の「美」にあるわけではない。それゆえヴェロンは、この広義の芸術美の快をより広く「美的享楽」と呼ぶのである。
 兆民の訳はおおむね原書の論旨に即したものではあるが、まま省略や要約、大胆な意訳も見られ、また語義や論旨を説明するためにしばしば原書にはない兆民自身による解説も挿入されていて、忠実な訳とはとうていいえないものである。とりわけ術語の定訳がまだない当時のことで、「独創性(des originalités)」を「己れの固有の性を写し出す」、「主題(sujet)」を「旨趣」とするような訳語では、ヴェロンがはたしてなにをいおうとしていたかを理解することはむずかしかったといわなければならない。兆民はまた原文の、芸術はたんなる模擬ではないという議論に対して、これを説明するべく、芸術の巧みは「物の精神を発揮して其活発の気象を写すに在り」をみずからつけ加えたりもしているが、これはあるいはフェノロサ「美術真説」の「事物の精神」を参照したのかも知れない。ともあれこれは書籍の流通機構に乗らない政府刊行物ということもあって、従来は、かならずしも広く流布し読まれたわけではないと考えられてきた。たとえば森鴎外は明治二九年の『月草』序で、『維氏美学』は「非形而上学派といふよりは、寧ろ非学問派なる」もので、「これは我国の文学美術には、殆何の影響をも及ぼさなかった」といい、高山樗牛も「今日より是を見れば、其選択の無謀、訳文の粗笨は、当時の人が如何に斯学の歴史及び意義に昧(くら)かりしかを証するの一標章」(「現今我邦に於ける審美学に就いて」『太陽』明29・5)たるにすぎないという。だが高橋由一は明治一七年頃に、「本書を精読して克明なノートを作っていた」という。坪内逍遙は、かれが明治一六年から一八年にかけて『小説神髄』を準備していた時期にはまだ『維氏美学』を読んではいない。だが明治一八年八月ごろ、小山正太郎の弟子で、『当世書生気質』の挿絵の一部を担当した長原止水にこれを借りて読み、これに触発されて翌一九年『学芸雑誌』(明19・10・5、10・20、明20・1・5)に「美とは何ぞや」を連載しているが、その議論はほとんどヴェロンに負っている。小山が主催する画塾不同舎の『不同舎日記』明治二五年一月八日の条に、「毎週火曜日午後三時より美学輪講」とあって、この会で読まれていたのは『維氏美学』であったという。また内田魯庵が明治二五年に刊行した『文学一斑』の「第二 詩(ポーエトリイ)」には、「詩とは何ぞ」との問いに対して「ヴェロンは曰く」として、「文芸の才とは何物を指す乎、曰く此精神一種の感動なり、一種の想像力なり」につづく数行を引用し、またほかにも数か所の引用がある。
 逍遙は「美とは何ぞや」で、ヴェロンの美学論は大体において「実に周到なる議論なるのみか頗る正鵠を得たるもの」だと評価する一方で、「惜しや肝要なる定義に至りては甚だ不道理なる解釈を下し、極めて茫漠たる文字を用ひぬ」と批判するが、この批判はむしろ兆民の訳が負うべきものである。逍遙は、プラトンの荒唐なる極致[理想]論にもとづく「近代の極致主義」を批判する一方で「模擬主義の美学論」をも批判するヴェロンに賛同し、もしも芸術の美が現実の模倣にあるとすれば「醜穢惨刻の極端」を写したものも美となるはずだが、それはありえないとするヴェロンに賛同している。これに関連して逍遙は、西洋画の「模擬主義より出たる弊」について、「某氏[フェノロサ]此事をいたく慨(なげ)きて突然横合(よこあい)より異論を唱へて、美術の真髄はさうした者にあらず」と演説したが、「元来美学の理は兎の毛ほども」知らない日本の美術家は「それより某氏を神の如く崇(とうと)み」ただちに模倣主義の西洋画を排斥したことにふれている。逍遙は「某氏の論ずる所は重に「妙想」を写すことにあり、個人をマネよとの事」ではないのに、日本の美術家は「某氏のいはれし議論を十分了解する智力もなきゆゑ」、日本画がもっぱら粉本すなわち「古人の書て置し絵画のみを模倣し曾て発明する所」がないことに思いいたらないのは笑止だと批判する。その一方で逍遙は、ある論者が「美術の要は……物の精神を模擬するにあり」というのに対して「これはまた異な議論なり」といい、「無形の精神を模擬するとは、口にはいふべけれど行なふべくもあらず。且又精神とは如何なる者をいふや、其字の定解から聞かねば叶わず」と難じるが、この「論者」もおそらくはフェノロサを指している。またヴェロンが「醜穢の形状を模写」して鑑賞者にこれをも美と称せしむるのは「作者の才性なり」というのに対しても、そうだとするとヴェロンのいう「美」とは「有形の美にあらずして無形の才力といふ者にある」ことになると批判し、またヴェロンのいう「美学上に所謂才能」は「実用上にいふ才能」とはことなる「一種特別なる才能をさす」のだろうが、これを尋常一様の「才能」という語によって定義するのは曖昧だと非難する。そしてヴェロンが「口を極めて意趣の必要」を説いたのも、「才力の一語を以ては美の字を掩ひがたき由あれば」ではないかと批判する。だがこれも兆民が「天才(le génie)」を「才力」と訳したこと、また「意趣」とは当時の日本では「内容」ないし「旨趣」を意味するが、兆民はこれを芸術家の「自己表現」の訳語としたために、逍遙が「天才」や「表現」についてのヴェロンの説明を十分理解できなかったことによるものである。ともあれ逍遙の論文は『維氏美学』の評価と批判に終始して、本題である「美とは何ぞや」の問いに答えるところまでにはいたらず未完に終わっている。
(以下、本文つづく。注は割愛しました)
 
 
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