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田中宏樹 著
『公教育における運営と統制の実証分析 「可視化」「分権化」「準市場化」の意義と課題』
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まえがき
今日,公教育のあり様をめぐる議論は,過去にも増して百家争鳴の状態にある。分けても児童生徒をより高次の自律的学習者に引き上げようとする「学びの個別最適化」は,従来の学校像に転換を迫るものとして,政策理念・政策規範に関わる重要な論点となっている。
学習指導要領に提起された「主体的・対話的で深い学び」は,学ぶ行為の裁量を児童生徒自身により委ねようという教育理念に立脚するものだが,教育の現場を中心に,学ぶ者の主観と責任に過度に依拠した教育実践を生み出しうるのではないかという懸念もささやかれている。そうした懸念に部分的には同調するものの,学びの本質として打ち出された「主体的・対話的で深い学び」という教育理念に基本的に賛同するというのが,筆者の立場である。
教育の特質を経済学の視点で紐解いたRothschild and White(1995)は,教育達成は,その消費者たる児童生徒の行動(学びに向かう意欲および能力)にも左右されるという意味で,教育は消費者たる児童生徒と生産者たる教師との「結合供給」により生み出されることから,児童生徒は教育達成にも関わる「Customers as Inputs」とみなされるべきであると論じた。Rothschild and White(1995)の指摘は,教師に教わったことが,児童生徒に知識として定着する程度に個人差が生じている現実と整合的であり,児童生徒が学びの主体性をより発揮できる環境を整えるべく,自由進度学習,協働をベースとする課題探究学習の比重を高め,既存の一斉教授型の教育供給を見直すことは,少なくとも卓越性を指向する教育実践に照らして,理に適っていると考えられる。あくまで個人的な主観にはなるが,他者の助言や助力を仰ぎつつも,自らが判断し決定した事柄は意欲的に取り組めるし,また,結果についても他人のせいにせず,自分事として冷静に振り返ることができる。いわゆる自ら能動的に行動を起こす「行為主体性」は,教育にこそ当てはまるといえるのではないか。
本書の目的は,自律的学習者の育成に重きを置く新たな教育原理に相応すべく進む公教育供給の変容への教育実践現場の受容の実態を,実証的手法を用いて検証し,公教育の質の向上や学習機会の保障の視点から,政策変容の効果を評価することにある。「学びの個別最適化」を進める個別具体の教育実践は,学力テストやデジタル教材等を活用した学習履歴の把握,ICT に支援された個別進度学習やデジタル機器を介した児童生徒同士のコミュニケーション活性にけん引される協働での課題探究学習の導入,教育達成の定量化およびその検証評価に裏打ちされた教育内容・手法の意図的・計画的・組織的配列(カリキュラム・マネジメント)等として表出することから,学校現場における公教育供給の変容は,教育課程運営の刷新をまずは要請することとなる。
ただし,公教育供給の変容は,教育課程運営の刷新に先導されつつも,それだけに止まるものではない。それは,教職員の配置や職能形成,教職員同士の協働深化といった人的資源管理,地域社会と地続きの探究学習を実践するための学校外の組織との連携強化を意図した地域資源活用にまで伸長することが予想される。その点を踏まえるならば,自律的学習者の育成を目指す公教育供給の変容は,学年別・教科別組織が主導する教育課程運営の刷新に加え,保護者や地域社会を巻き込んだ「協働による組織的教育実践」を担保すべく,校務分掌組織が主導しうる学校組織運営の刷新も射程に収める必要がある。平たくいえば,「主体的・対話的で深い学び」の実践を児童生徒に求める以上,教育を施す側である学校においても,教育供給をめぐる裁量性と創造性をより発揮することで新陳代謝を続け,教育実践課題に探究的に向き合う「学校組織としての自律的運営(School-Based Management)」の実行が求められるのであり,教職員は児童生徒,保護者,地域社会,教育行政の管理者である教育委員会,そして同僚である教職員同士の協働性の再構築を迫られるといえよう。
以上の点を考慮し,本書では筆者が専門とする公共経済学の知見を手掛かりに,公教育における運営と統制の改善に資する政策選択は何かについて,筆者なりの見解を提示することを意図している。公共経済学では,政府が私的な意思決定に介在する根拠,政策の目標,および政策の手段が考察の対象となる。政府の介在根拠としては「市場の失敗」が,政策目標としては効率性と公平性を主軸に構成される「社会的厚生の最大化」が,政策手段としては「租税,公共支出,法規等」が想定されており,公益性を担保しつつ,選択や競争の有益性を加味することで,公共サービスの利用機会の確保と質の改善をいかに達成するかに,学術的関心が寄せられている。医療,介護,福祉といった公共サービスの政策立案に活かされているその知見は,政策対象を市場で供給できない公共財とみなし,競争原理を公共サービスの供給に持ち込めばすべてうまくいくという市場原理主義(もしくは新自由主義)の絶対視や教条化にはくみしない。
本書が,公教育供給の変容を考察する手がかりとした4 つの理論モデル(「信頼モデル」,「目標モデル」,「発言モデル」,「選択と競争モデル」)を提唱したLe Grand(2007)も,公共サービスの供給モデルとして,「選択と競争モデル」の相対的優位性を主張しつつも,公共サービス供給への単純な市場原理の導入には懐疑的な立場をとっている。公共経済学の分析枠組みに立脚し,公教育運営と統制の新たな潮流として,教育達成の「可視化」に重きを置く学校運営,「分権化」よる学校裁量性の拡大を基盤とする多様なアクターによる学校統治,「準市場化」を通じた選択と競争の自由度を高める教育供給を提示し,その意義と課題を考察した本書においても,市場原理への過度な信頼を排した主張を展開しているという意味で,Le Grand(2007)と同様の学術的スタンスに立つものといえる。
ただし,本書では,公教育供給の特質・特性を考慮し,変革の進む公教育運営・統制の着地点として,Le Grand(2007)が結論づけた「選択と競争モデル」の相対的優位性とは,一線を画する論理を展開している。その理由は,以下の2 点にある。
第1 に,公教育に要請される目標の多様性についてである。前述のとおり,政策目標に関する公共経済学でのオーソドックスな理解は,効率性と公平性を尺度とする「社会的厚生の最大化」である。「学びの個別最適化」は,教育の卓越性(効率性)を推し進める手段となりうる一方,児童生徒の教育達成の差異が顕在化する側面も併せ持つため,学びの機会を均等化し,教育達成をめぐる極端な序列化(格差)が生じることなく,質の高い公教育サービスの利用から排除される児童生徒が出ないよう,「教育機会の均等化」による学びの平等性(公平性)も同時に達成されなければならない。加えて,個々の児童生徒の社会経済的背景はもとより,多様な価値観や心情にも可能な限り配慮すべく,「社会的包摂の適正化」による多様性の追求も実現しなければならない。卓越性と平等性に加え「社会的厚生」の要素に一般的には加えられていない多様性を加味した最適解を,教育実践の現場は導き出さねばならない点に,教育改革をめぐる議論が錯綜・複雑化する根本的な理由がある。
政策目標と政策手段とが同数必要であることを主張する「ティンバーゲンの定理」に反し,人的・金銭的・時間的制約に縛られ,利用可能な資源に乏しい学校現場では,複数の政策目標に単一の政策手段で応じなければならない状況に,日常的に直面している(個人・集団での学びを深めたい子どもと,学びの手前で校風や雰囲気に漠然と違和感を覚えている子どもとが教室内に併存し,担任がそれぞれに個別対応を求められるようなケースなど)。自律した学習者の育成という新たな教育理念に相応した公教育供給の変容を構想する場合,学校現場の自助努力に委ねるだけではなく,公教育供給の受け皿たる学校の力量を引き上げるための保護者,地域社会,企業および教育行政を司る教育委員会や文部科学省の重層的支援が不可欠である。多様な政策目標の同時追求を宿命づけられた公教育の特性に照らせば,選択と競争の自由度を高めた市場での供給に準じた「準市場的統制」のみに既存の公教育供給を置き換えれば事足りるとする単純な論理は当てはまらない。
第2 に,教育達成が学習者の意欲・能力に左右されるいう教育サービスの特異性についてである。冒頭でも述べたように,教育は消費者たる児童生徒と生産者たる教師との「結合供給」により生み出される点で,医療や介護といった他の対人接触型の公共サービスにはない特性を有している。Rothschild and White(1995)は,学習者自身が教育達成を生み出す投入要素になるという教育の特性を「Customers as Inputs」と呼び,消費者と生産者とが金銭を媒介して価値を交換する私的な経済取引の想定が単純には当てはまらないことを指摘した。児童生徒と教師による「結合供給」の性格を持つ教育サービスは,自律した学習者が自己裁量を発揮する「学びの個別最適化」との親和性が高く,教師が定型化された教育内容を児童生徒に一方的に教授する受け身の学習スタイルは,本来,こうした教育の特性に必ずしもなじむものではなかったといえる。学校現場のICT 化は,個別進度学習や課題探究学習の伸長と一斉教授型学習の後退を,今後ますます促進させることになるだろう。その際,児童生徒をより高次の自律的学習者に引き上げようという教育理念が,実際の教育実践において,教育方法・方式の違いに矮小化して捉えられ,教師不在の「孤立した学び」を引き起こし,単にデジタル機器に向き合いAI ドリルを解くだけでは到達しがたい,児童生徒同士や教師との協働や対話の往還を通じた「深く,考え抜かれた学び」に,自動的・必然的に昇華する保障はないことに留意する必要がある。コロナ禍で主流であった非対面での自由進度学習が,個々の学びの速修や拡充に大いに貢献したかについては疑問符がつく。
「学びの個別最適化」は,児童生徒と教師との「正解のない問い」へのひたむきかつ創造的な学び合いが呼応する中で効果が最大化されるのであり,教師も児童生徒とともに「探究的学習者」であることを要請する。一斉教授型学習では明瞭であった学びの内容,学びの方法,学びの成果はいずれも,非定型かつ不確実なものとならざるをえない。学び手と教え手とが教育達成への責任を共有している点を理解しなければ,教師が児童生徒の意欲や能力を公正に評価することができず,また児童生徒も旧来の受け身の学習スタイルから抜け出せず,学びへの自覚や責任感が芽生えることない。教育達成にサービス需要者の行為が関わりを持つことを等閑視して,教育供給者に成果達成の全責任を帰することは,エビデンスに基づく教育(Evidence-Based Education)の乱用・誤用につながり,その活用にあたっては,公正・中立な政策判断に資する公的な視座の担保が求められるが,その点に関する政策実務や教育実践の現場での十分な理解が浸透していない点が気がかりである。学習者への裁量拡大を意図した政策変容は,「可視化・定量化」された教育成果のみが達成すべき唯一無二の指標として衆目を集めることで,教育達成の対象が矮小化・極小化される事態に陥る危険性をはらんでいることも,認識しておくべきである。
以上の2 点に留意しつつ,本書では公教育供給の変容をめぐる教育現場での受容の実態を検証した実証分析の結果をもとに,公教育の質の向上や学習機会の保障の視点から,政策変容の効果を評価し,公教育における運営・統制の改善の方向性について,公共経済学の分析枠組みを手掛かりに筆者なりの見解を提示している。世界的な教育改革の潮流は,子どもを主語に政策体系を見直す機運を高め,教育政策への反映と教育実践への浸透を通じて具現化している。
(以下、本文つづく)