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久保田さゆり 著
『動物のもつ倫理的な重み 最小主義から考える動物倫理』
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序論
本書の目的は、動物倫理の営みについて、実践的な成功を目指すためにどのような議論がなされるべきかという観点と、そもそも倫理をめぐる議論とはどのようなものであるべきかという観点から検討し、動物倫理の議論のひとつの方向性を描くことである。実践的成功というのは、単純化して述べれば、動物倫理の議論を通して─それを実際に読み、考え、検討し、自身で(再)構成することで─動物にたいする人々のふるまいが変わる、ということである。そして、倫理をめぐる議論は、論理的に整理された論証を提示するだけでなく、そうした役割を担えるものでなければならないはずである。本書を通して描かれる方向性は、動物について私たちがすでにもっている理解を明確にし、その理解を精査したうえで論証の出発点にし、そこから何が導かれるのかを適切に提示する、というものになる。このようにシンプルに述べうる議論に書籍一冊分を費やすことの動機と、本書の特徴をまず素描しておきたい。
倫理学の議論の多くは、その関心の中心を人間に向けている。それは当然だろう、考えるべきは人間のことであって、動物が倫理的な重要性をもちうるなどという考えを真剣に受けとることはできない─そのように思う人もいるかもしれない。しかし、後に繰り返し述べるように、そのように思う人の多くも、動物には、私たちの倫理的配慮を誘発するような「何か」があるということをすでに知っているはずである。動物が単なる物体とは異なること、そしてその異なり方が、私たちのふるまいのもつ倫理的な側面に違いを与えうるものであることを、私たちはすでに知っている。怒りを壁にぶつけても何も問題はないが、怒りを子猫にぶつければ、私たちはそこに道徳的な評価が関係する問題があるとみなす。私たちが自覚していないのは、それが本当に意味することである。私たちの倫理的配慮を要請する、動物がもつ「何か」の重要性を改めて明示すること、その「何か」によって私たちにどのようなことが求められることになるのかを整理して明らかにすること、そしてその「何か」に応答することの重要性を示すことが、私の考えでは、動物倫理が取り組むべき主要な仕事である。
本書で特に注目するのは、動物がもつ豊かな内面と、野生動物、家畜動物、ペット動物といったそれぞれの動物との間に人間が結ぶ関係の違いである。動物がそれらの特徴─動物にある「何か」─をもつと認識されたなら、私たちに要請されるのはどのようなことなのか特定することができる。そしてそれによって、動物への配慮を論じる議論としてどのようなものが必要なのかを明らかにしていく。
動物がもつ豊かな内面は、動物倫理の議論において、これまで中心的な位置づけを与えられずにきたように見える。動物倫理の多くの議論では、動物が痛みを感じる存在であることが強調される。確かに、そうした議論には大きな利点がある。痛みのもつ道徳的な重要性は、それを否定するほうが困難であること、そして、科学的・実証的な仕方で動物の痛みの存在に説得力をもたせることが可能だということである。そして、動物が痛みを感じる存在であると強調することは、動物にたいして何をなすべきでないかを論じるために必要であり、動物への配慮を主張する議論の不可欠な部分である。しかし本書で論じるように、それだけでは一面しかとらえることができない。私たちは、人間についても、倫理的に重要なものとして、その苦痛だけを見ているわけではない。相手がいだきうる喜び、興奮、充足感といったポジティブなものもまた、その相手にたいして何をなすべきかを考える際に考慮されるはずである。本書で特に注目したいのは、こうした要素を考慮に入れることで、動物とのより適切な関わり方をとらえられる、ということである。
それぞれの種類の動物にたいして人間が結ぶ関係の違いもまた、動物倫理の議論においてはあまり重視されてこなかったと言える。本書ではこの点にも注目したい。つまり、私たちが野生動物、家畜動物、ペット動物などのそれぞれの動物をどのような動物として理解しているか、という点である。私たちの多くは、一方で、動物について、私たちの〈自由になるもの〉、何らかの意味で私たちに〈利用されるもの〉という見方をもっている。特に家畜動物に関しては、多くの人が、最終的に私たちによって〈食べられるもの〉であるということを当然のこととしているように見える。そうした見方によって、動物の殺害そのものを問題としない考えのほうに、暗黙の裡に説得力を感じやすくなる可能性もある。他方で、たとえばペット動物との間には、動物の生存や健康を気づかう─殺害や利用など頭をよぎることさえない─関係が築かれると多くの人が考えている。本書では、動物にたいするそのような対照的な理解を明確化して整理する。それによって、両者の間に想定されがちな区別を揺るがすための議論を展開することを目指す。
もしかすると、ペット動物のような存在は特殊であって、ペット動物との間に成立しうるそうした理解が他の動物にたいする倫理的配慮へと広がることにはなりそうにないと考える人もいるかもしれない。たとえば、ペット動物にたいする愛護を強調しているにもかかわらず、毎日のように肉を食べ、実験に使われる動物には気を配らない人もいるだろう。むしろ、動物愛護家にたいする典型的な─少なくとも一昔前の─イメージはそういったものであるとさえ言えるかもしれない。しかし、倫理的配慮の対象となっている身近な存在と類比的にとらえることによって、他の存在を配慮するよう動機づけられるということは、ごく普通のことである。たとえば私たちは、見知らぬ高齢の人にたいして、その人も─自分自身は高齢者ではないので、その人のあり方を実感することはできないとしても─自分の祖父母と同様に、何か楽しいことがあったら胸をときめかせ、新しいものに好奇心を覚え、わくわくしたりびっくりしたりするのだと理解することで、その人の倫理的な重みを感じるというプロセスを経ることがある。同様に、自分の身近なペットが見せる喜びや期待、人間への信頼など、さまざまな内面的な能力を知る人は、それと同じものが家畜動物のなかにもありうること、そしてそれゆえ、そういった性質をもつ存在との関係、つまり、自分のペットとの関係と似た関係を家畜動物との間にも築くことが可能だということを理解しうる。それは、家畜動物のもつ倫理的な重みを理解することにつながる。本書において強調したいのは、動物におけるそういった連関を明らかにして示すこと、つまり、何がペットとの関係を重要なものにしているのかを明らかにし、それが家畜動物の場合と倫理的に重要な差異がないことを明らかにしていくことも倫理学者がすべきことの重要な一部だ、ということである。
動物のもつ重要な性質が理解され、その倫理的な重みがひとたび認識されれば、動物が倫理的な配慮の対象であることは当然の事柄になりうる。そうした段階を経てはじめて、動物倫理の議論は、人間をめぐる倫理的議論と同等の土台に立つことができるようになるだろう。つまり、その段階を経てはじめて、配慮すべき存在をめぐるさまざまな状況にどのように対応すべきかを論じることができるようになる。たとえば野生動物との共生の問題や外来生物がもたらす問題などのさまざまな現実的問題にたいして明確な答えを提供できないのだから、動物倫理などというのは、あやふやで話にならないと考える人もいるかもしれない。しかし、動物の倫理的な重みが理解されるという段階が欠けていることをふまえれば、こうした考えが的外れであることが分かるだろう。そのような問題は、動物倫理における応用的な問題なのであり、それは、人間をめぐる問題を論じる応用倫理の諸難問と同様である。たとえば、難民をめぐる問題に明確な指針を与えられなくても、その問題は依然として本当の答えるべき難しい課題なのである。それに明快な答えを提供できないとしても、そのことをもって、人間をめぐる倫理自体が揺らぐわけではない。
これは、倫理とは何かという根本的な問いにもつながっている。私は、動物倫理を単に応用倫理の一分野としてとらえるべきではないと考える。動物倫理の議論は、それがどのようなものであるべきかを論じることから始めなければならない。こうした関心に基づき、本書は、特定の規範倫理の理論を特定の問題に応用するというアプローチをとらない。動物倫理の議論は、功利主義や義務論など、特定の倫理理論の応用という形で主になされてきたが、本書では、倫理理論と独立の基礎的な倫理的理解と、適切な動物理解という土台によって、動物への配慮の必要性を論じる。それは、本書の目的が、動物への配慮の必要性を、有無を言わさぬものとして外的な強制力を伴って確立することにあるというよりも、個々人の動物理解をより適切なものに向けかえたり、その一貫性に訴えたりすることで、すでに自分自身のなかにあるものとしての動物への配慮の必要性に気づくという内的な変化をもたらすことにあるからである。そして本書で示すそうした動物理解は、実際のところ、どの倫理理論においても重視されるものでもある。
今述べたことと関係する点として、補足をしておきたい。本書は、動物にたいする倫理的配慮が当然のものとなっていない現状において、人々に受けいれられやすい議論を提示することを狙いにしている。そして、特定の倫理理論に基づく既存の体系的な議論にたいして、現状で受けいれられにくいということを難点として指摘もしている。こうした論じ方の背景には、先述のように、倫理学の議論が、その理解や再構成を通して、人々が自身の信念を実際に変えることと不可分だという考えがある。つまり本書では、議論の内容─前提の真偽や妥当性など─からすれば外在的な、議論を受けとる人々の心理などの背景をも考慮に入れて、動物倫理の議論を提示したいと思っている。こうした作業を十全に行うには、私たちが動物についてもつ信念にたいして、それがどのように形成されたかという経緯や、私たちの信念に暗黙に影響を与えている文化的・社会的な背景なども考慮にいれる必要があるかもしれない。実際、動物の倫理的扱いをめぐって、そうした論じ方も展開されるようになっている。本書ではそうした取り組みを検討の範囲には入れていない。しかしながら、本書の狙いは、あくまで倫理学の「議論」を提示するという範囲のなかで、相当程度、達成できるのではないかと考えている。特に、人々のもつ信念の向きを変えるために言葉で語ることが「議論」の一部になるということを、本書で示したいと思う。
以上のような問題意識をふまえ、本書では、動物がもつ豊かな内面と、さまざまな動物と人間がそれぞれに結ぶ関係の違いとを考慮に入れることで、理性に訴えながらも理論ベースではない、現実的で、理論的にシンプルな、その意味で「最小主義(ミニマリズム)」的な動物倫理のアプローチを探究する。
具体的には、第1章で、動物倫理における主要な立場とされてきた功利主義と義務論による議論を参照し、そうした議論が、動物についての理解に偏りがある現状において抱える課題を明らかにする。そのうえで、本書でどのような議論を目指すのか、方向性をまとめる。第1章で見る両立場は代表的な規範倫理の枠組みではあるが、動物倫理の取り組みはそれらに依るものに尽きない。第2章では、人間にとって動物がどのような存在であるかという私たちの理解に注目する立場であり、動物にたいする積極的な関与について論じうる枠組みとして、徳倫理やニーズ論の議論を参照する。そして第3章で、動物のもつ倫理的な重みについて、それまでに見た特定の倫理理論の枠組みから離れて、倫理的に重要なものとして、動物のもつどのような特徴を挙げることができるかを検討する。そこでは特に、動物がもつ豊かな内面に着目する。それにより、苦痛に注目してきたこれまでの動物倫理の議論においてはとらえにくい、動物との倫理的な関係のあり方を指摘する。第4章では、〈豊かな内面をもつ存在〉であるという動物理解を人々が真剣に受けいれることにつながりうる見方として、ペット動物を助けるために活動する人々のもつ動物理解と、動物の生や人間と動物の関係を描く文学作品に注目する。大まかに分ければ、ここまでが、私たちが受けいれているはずの動物理解を明確にする作業である。それをふまえて、私たちの動物理解を精査し、そこから倫理的な要請として何が導かれるかを論じる作業に進む。
第5章では、特定の規範倫理理論に基づかない最小主義的な立場をとるT・ザミールの議論を詳しく見る。併せて、ザミールの議論に不足していると思われる点を指摘する。それは特に、動物が、野生動物や家畜動物、そしてペット動物という別々のあり方をしているという事実を反映した議論になっていない、という点である。第6章で、そうした点も盛り込む議論を展開する可能性を探究する。特に、家畜動物やペット動物という家畜化された動物にたいして、人間が特別の責務をもつ可能性を検討する。それを通して、さまざまな動物をどのような存在として理解することがふさわしいのかということが、動物倫理において重要な論点であることを示す。そしてそのうえで、ペット動物をめぐって現実に生じている問題や、動物園での動物飼育をめぐる問題について、本書のアプローチに基づいてどのように論じることになるかを検討する。最後に、第7章では、動物をめぐる実際の法的規制の変化が目指されるとしたら、それはどのような道筋をとりうるか、そしてそのなかで倫理学の議論はどのような役割を果たしうるか、本書のアプローチに基づいて検討する。
(傍点と注は割愛しました)