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柿並良佑・難波阿丹 編著
『「情動」論への招待 感情と情動のフロンティア』
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序章
難波阿丹
一 支配的な言説へのオルタナティブ・ストーリー
今なぜ「情動」なのか。「情動」および「感情」について議論を進めるにあたって、あらためてこの概念に賭けられたさまざまな可能性について考えておきたい。「情動」に対立する概念とは「理性」、あるいは「意識」といえるかもしれない。単純にいうなれば、西洋近代の学問は理性や意識を中心に物事を語ってきた。そして、客体となる対象を理性的、また意識的に観察する主体という構図が、科学的な記述を支えている。
「情動」とは、理性を中心とし、ある特定の主体が、対象を客観的に記述するという従来の科学的記述の限界が反省されるにつれて注目を集めてきた概念だ。私たちの考えが、必ずしも透明な理性によって形づくられているわけではないことは、日常的な動作ひとつをとっても理解できるだろう。例えば、空腹によって判断能力が衰えることを、私たちはよく経験しているし、好き嫌いの感情によって、人事評価が左右されることもままある。それゆえ、理性とは、生理現象を括弧に入れた私たちの意識の働きの一部に過ぎないと考えられることも多くなってきた。
このように局所的、あるいは限定的な理性の範疇に収まらない現象や事象を、「情動」という概念を通してまなざそう、あるいは触知しようというのが、本書の目標である。この概念によって、私たちは、理性が支配的となっている言説に対する「オルタナティブ・ストーリー(代替となる物語)」を語りうるにちがいない。
実際に、「情動」をめぐる議論は、理性の外側の領域に関心を向け、従来の規範には回収されず、それまでに名指しえなかったものやことを焦点化してきた。例えば、それは意識をつかさどる中枢神経系統や、視聴覚といった支配的な感覚に対して、低次とされてきた諸感覚群、例えば、触覚、味覚、嗅覚等も含めた五感の総合的な働きへの理解を促進している。
社会・政治的な文脈においても、「情動」論は非常に重要な意味をもっている。フェミニスト、クィア理論家、身体障害をもつ活動家、そしてサバルタンの人々等、ときに(白人)男性中心主義的な理性の外部に放逐されていた人々、もしくは理性が最上位にある階層秩序において下位に位置づけられてきた集団にとって、「情動」は既存の支配的な秩序に対抗するために有効な枠組みを提供しているのだ。
例えば、ナラティヴの形式では語るのが難しいトラウマの記憶や身体的経験を「聴く」HVN(The Hearing Voice Network, 1991〜)のムーヴメントや、狂気や精神疾患との結合によりロゴス中心的な読解から疎外され、ジェンダー
化・人種化・階級化された劣等とされる主体の構築をも「情動」ということばは名指し、照準化する可能性を孕んでいる。
以上をやや抽象的に捉え直すなら、「情動」は、「触発(アフェクト)し触発(アフェクト)される」という動態性により、主体と客体、あるいは心身二元論に拘束された静態的な秩序を乗り越えて、非―二元論的な語り、「触覚/触感(tactile/haptics)」的な語りの可能性を開くのだということができるだろう。例えば、イヴ・コソフスキー・セジウィックが、非―二元論的な思考や教育技法を探るプロジェクトにおいて、J・L・オースティンの「遂行的発話(performative utterance)」に認められる言語の質感や効果に注意を払っているように、「情動」によって、構造的な観点からは指示しえない遂行的(パフォーマティブ)な言説の繊細な表現を検討することができるだろう。また、「情動」の動態性から、情報を媒介するメディウムの直接性あるいは「間― 性」に注目し、主体から分離した客体をめぐる科学的記述の範疇では理解しがたい、今日的なソーシャルメディア・プラットフォーム上の群衆行動や、従来の規範的秩序から周縁化されてきた性的マイノリティ、あるいは異種混合的な移民の声の多様性をも、議論の遡上へとすくい上げることが期待されている。
このように「情動」論と密接なかかわりがある非―二元論的思想は、モーリス・メルロ=ポンティの現象学やマルクス主義唯物論の潮流を受けつぎ、マルチモーダル性、「触覚」性、近位性に価値をおき、しばしば「情動」論に主要な枠組みを提供してきた。例をあげるなら、本書の第8章で論じられるイタリア未来派マリネッティの一九〇九年「未来派宣言」や一九二一年「触覚主義」も、二元論的思考法を脱し、「情動」にある多感覚性(マルチセンソリー)に重きをおいているといえる。加えて、マーティン・ジェイおよびジョナサン・クレーリー等の理論家も、西洋近代の視覚中心主義を批判する文脈で、視覚以外の感覚認識や知覚の身体性に価値をみいだし、「情動」論への道筋を切りひらいている。
また近年多く提出されている「転回(Turn)」論者のなかでも、感覚人類学者のディヴィッド・ハウズが提起した「感覚論的転回(sensual/sensorial turn)」や、トラウマの臨床的研究で非―言語的な身体感覚に注意を向ける「身体論的転回(somatic/body/corporeal turn)」、そしてサラ・アーメッド等のフェミニズム思想は、これまで正統的な美学が超越的な経験を感知する機能をもつとして特権視してきた視覚や聴覚ではなく、「触覚」のような近位感覚にもとづき、「触発(アフェクト)し触発(アフェクト)される」という「情動」の動態性を基軸に、文化的認識論を再検討している。さらに、アンリ・ベルクソン、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド、ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ、また、彼らの思考を承けたエリザベス・グロスが展開している非―人間的経験を重視する哲学においても、非―二元論的、「触覚」的な知の形式は「情動」的な認識の基盤を提供しているのだ。
(中略)
三 本書の構成
本書では、現代社会のわれわれの生に決定的な要素ともいえる「情動」を多面的に把握するため、その議論がカヴァーする広大な学問領域へと読者を招待したい。とくに、「情動」論が近年顕著に議論されてきた人文学、メディア文化論、発達心理学および認知科学等の実践論の領域において、従来の図式を再検討しながら概念の変遷を跡づけ、その多元的前線の一部を紹介していく。
第Ⅰ部「「情動」の基礎理論」では、「情動」の理論的基盤の見取り図を描くことを目指している。そのため、第1章では、長滝が、現象学やギブソンの身体論・知覚論、感情心理学、分析系の感情哲学を横断する「情動」論の思潮を検討している。第2章では、リサ・ブラックマンが英米圏の「情動」論とその将来的展望を論じ、それと照応する形で、第3章において、柿並が主にフランス語圏における「情動論的転回」以後の論者の見解を解説している。さらに第4章では、遠藤がフロイト精神分析における「情動」の特異な扱いについて、意味論(質)と経済論(量)の齟齬という観点から照準する。
第Ⅱ部「多元的「情動」論の現在」では、第5章で難波が映像「情動」論として初期映画の「アトラクション」から近年のモバイル・テレフォニーに至る「情動論的転回」を論じ、第6章では野澤が、ASMR動画をめぐって、親密な声を媒介とした「接触」と「交感」のコミュニケーションに「導体」という概念装置から接近する。一方で、第7章では向江がゲームプレイヤーのモチベーションを駆動する「快」「不快」といった先進的な「情動」論を紹介し、第8章では日髙が、感覚の分断から全体の統合へと向かう多感覚性とクロスモーダル現象に着眼しながら、未来派とモンテッソーリ教育が前衛的に取り入れた五感と「情動」との結びつきを議論している。
第Ⅲ部「「情動」の実践論」においては、第9章で河野が男性性と情動という観点から、ロゴス中心主義、あるいはファロス中心主義から放逐されてきた「問題としての男性性」を照射する。そして、第10章では飯田が「感染する情動」というメタファーを用いて、パンデミックが喚起した情動のバイオ/ネクロポリティクスのモダリティを描きだす。第Ⅲ部の後半では、発達心理学、認知心理学における「情動」論を紹介する。第11章では深津が乳幼児の「罪悪感」に注目しつつ、発達心理学における「情動」理論の変遷をたどり、第12章では木村が脳と身体の相互作用という認知科学的観点をもとに、「情動」の生物学的基盤について解説している。
上述のように、さまざまな学問領域において、従来の枠組みではとらえきれなかった現象を、「情動」に基礎づけられた語りによって批判的に把握しようという動向が生じてきている。本書はその学際的かつ多元的な動向をマッピングし、多彩な議論が並び立つような「プラットフォーム」を開拓することをめざしている。上記の各章にみられるように、「情動」が、従来の学問の図式をどのように書き換えているのかを再検討しながら、その前線の動向を追っていこう。
(注は割愛しました)
終章に代えて
柿並良佑
この論集の起源を仮に定めるとするなら、二〇二〇年にオンラインで開催された表象文化論学会でのワークショップ、「「情動」論の現在―その多元的前線」がそれであったことになろう。本書の寄稿者でもある遠藤・難波・向江・飯田が順に発表し、柿並が司会の任にあった同ワークショップは少なからぬ聴衆を迎えることができ、寄せられた質問は今日の情動をめぐる関心の所在を探る契機となった。
学会のシンポジウムが一夜限りのイベントに終始するのは珍しくないが、我々のワークショップの場合にはこれに勢いを得て研究会を組織・継続し、曲がりなりにも一つの論集という形にまでこぎつけられたことは幸いであったと言わざるをえない。編者が寄稿者への礼を記すことは異例にも思われるだろうが、多忙なスケジュールを調整して参加されたメンバー諸氏に、さらには公開での研究会に参加されたすべての方々に感謝を捧げたい。
(以下、本文つづく)