あとがきたちよみ
『トルコ共和国のイスラーム教育と世俗主義 1940年代から1970年代における宗教政策』

About the Author: 勁草書房編集部

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Published On: 2024/11/26

 
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上野愛実 著
『トルコ共和国のイスラーム教育と世俗主義 1940年代から1970年代における宗教政策』

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終章
 
 一九八〇年九月、世界的な経済危機がトルコを襲い、国内では左右闘争や民族主義運動の激化により多数の死者が出るほどに社会の混乱が極まるなか、軍部はこれを鎮めるべくクーデタを起こした。クーデタを率いた参謀総長ケナン・エヴレン(Kenan Evren, 一九一七―二〇一五年)を大統領とする軍事政権は、国民統合を目的としてトルコ・イスラーム総合論を国家イデオロギーとして採用し、公教育の分野ではこれを教育内容へ取り入れ、さらに国父であるアタテュルクに関する教育内容の強化に努めた。一方、宗教教育に関しては、トルコ・イスラーム総合論を取り入れるとともに、選択希望制の宗教科と必修の道徳科を統合し、その受講を義務づけた。
 一九八二年にケナン・エヴレンは、国民に向けて行った演説のなかで、宗教教育の必修化について以下のように説明した。

子どもを政府の学校に通わせず、秘密裏の反逆の野心を実現するためのクルアーン教室を開く無知蒙昧な人々に預けている母親、父親に呼びかけます。[…]これからは、小学校、中学校、高校において、宗教の授業が必修化されることになりました。こうしてあなた方の子どもたちは、宗教の知識をこれらの学校で得ることができるのです。

この演説には、軍事政権が、宗教反動への恐怖を喚起することで宗教の国家管理を正当化するとともに、国家の提供する宗教教育のみを是とするという、これまでの諸政権が行ってきた宗教教育政策を踏襲したことが表れている。アタテュルクの遺志を受け継いでいるはずの軍事政権が宗教教育科目を必修化にしたことからは、国家が積極的に宗教を管理するという形での政教関係が、政治的なイデオロギーを問わず規定路線とされた転換を見ることができる。さらに、このことは、イスラーム教育科目の必修制が科目の導入と同じ一九八二年に改定された憲法に明記されたことによって決定的なものとなった。普通教育、すなわち全国民が受ける初等・中等教育のなかでイスラーム教育科目の必修化を義務づけるという選択からは、この年に、国家がイスラームの権威としての役割を全うする方向へと完全に舵を切ったことが示されている。
 こうして小学校四年生から高校最終学年の三年生(当時)まで宗教文化・道徳科が必修科目として教授されることになった。この科目は宗教科と同様、スンナ派イスラームの信仰を前提とした宗派教育を行うものとなった。宗教・道徳科ではなく、宗教文化・道徳科という名称の選択には、実際には宗派教育であるのに対し、宗教そのものではなく宗教に根ざした文化を教える科目として同科目が定義され、宗教教育の必修化をあくまで文化の教育として位置づける姿勢が表れている。そしてそれは、一九五〇年代から始まり、一九七〇年代後半に達成された、イスラームをトルコ国民性と統合させ、国民文化に包含するという政治的意図の結実であると見ることができよう。イスラームはトルコ人の国民性と切り離せない文化であるという発想は、一九八二年の宗教文化・道徳科の必修化によって、トルコ共和国の公的見解とされたのだった。
 宗教教育科目の必修化をめぐるこれまでの研究では、クーデタ後、軍事政権が各分野において新たな方針を模索するなか、当時アンカラ大学神学部の学部長であったヒュセイン・アタイが宗教教育の必修化を求め、軍部に文書を送ったことが、必修化の道を開いたと見られている。アタイは、エヴレンを含む軍関係者や教育相と面会し、宗教教育の現状の不足点、すなわち選択希望制に起因する規律や統一性のなさを強調することによって、当時、国民統合の強化を目指していたエヴレンらを説得し、結果として、必修化が決定されたという。アタイの試みは当時の神学部関係者から全面的な賛同を得たわけではなく、そのために、宗教教育の必修化は、彼個人の尽力と、エヴレンら軍事政権幹部の決定によるところが大きいと考えられてきた。
 クーデタやその後の軍事政権が、宗教文化・道徳科の導入に至る直接のきっかけをつくったことは確かであると思われる。ただし、宗教教育科目の必修化は、こうした短期的な政治変動の結果からのみ理解すべき問題ではなく、一九四〇年代から一九七〇年代のあいだの政治家たちの、各時代における政治、社会情勢に応じた政策と国民形成、そして国是であるライクリキとそれらの兼ね合いをめぐる試行錯誤という背景を受けて実現したものとして理解すべき事象である。そして、この紆余曲折の過程は、まさにトルコの政教関係の転換を示すものだった。
 本書では、宗教教育が必修化されるに至るまでの経緯を、二〇世紀中葉における公教育内での宗教教育の再開にまで遡って見てきた。ムスタファ・ケマル・アタテュルクはトルコ共和国を建国すると、宗教に関わる分野において抜本的な改革を行った。青年トルコ世代たる彼やその周辺の政治家たちは、科学とナショナリズムの融合を説く新しい「宗教」、すなわちケマリズムのもと、政治や社会から宗教とその担い手の影響力を排除することが、トルコ共和国の近代化に不可欠であると理解していた。その一環として、建国当初は小学校、中学校、大学で行われていた宗教教育を一九三〇年代末までにすべて廃止した。そして、共和人民党の綱領に盛り込まれていたライクリキを一九三七年に国是とすることで、共和国の世俗化改革を正当化する根拠とした。
 しかしながら、一九三八年にアタテュルクが死去すると、徐々に、彼の急進的な政策に対する反発が表面化していく。宗教について議論することは憚られていたため、当初、それは道徳の頽廃を喧伝するという形をとることになり、さらに、一九四〇年代半ばからは宗教教育の必要性が訴えられるようになった。共和人民党政権にとって国民の要望に応え、宗教教育を再開するためには大きな課題があった。すなわち、アタテュルクの世俗化政策を否定せずに、いかに宗教教育を導入するかという問題である。共和人民党政権内でそれは当初、公教育の外部で宗教教育を行うという構想に結びついたが、その後、ライクリキの解釈を読み替えることで公教育の内部において宗教教育を再開する方向に移行していく。その背後には、複数政党制の導入に伴い、宗教的実践を望む国民の支持獲得のために宗教を政治利用する必要性が高まったという事情があった。こうして、一九四〇年代当初は、国家と宗教の分離を堅持する方向性が政権内部で優勢だったのに対し、一九四八年以降、国家による宗教の管理と促進を目指す方向性がこれを上回っていく。
 一九四九年に小学校に選択希望科目として宗教科が設けられると、それは一九五六年に中学校へ、一九六七年には高校へも導入されることになる。こうして、宗教教育を重視する姿勢を示すことによって国民の支持獲得を目指す手法は、政権交代や軍事クーデタにもかかわらず継承されていくが、それを説明するための論理は時代に応じて変化していった。一九五〇年代、アタテュルクとともに革命の時代を生きた政治家たちが姿を消していくなかで、ライクリキの政教分離の側面に代わり用いられるようになったのが良心の自由という概念だった。民主党政権は良心の自由を、トルコ国民がムスリムとして信仰を持ち続けることという意味に転換させ、国家がそれを保障するという論理のもと、公教育のなかで積極的に宗教教育を拡充させていった。一九六〇年代、クーデタ後の新政権下において、そうした宗教教育は継承、拡大されていき、この時代にそれは、宗教教育に国民教育としての意義を見出すことによって可能とされた。こうした手法は、さらに一九七〇年代に入り、イスラームとトルコ国民性を結びつけ、両者を分かちがたく統合されたものとして捉える理解へとつながった。
 宗教科の教育内容はイスラームの基礎的な教義を教えるものであったのと同時に、イスラームの観点から道徳的な行動や殉教といった信仰実践を国家への奉仕と結びつけて論じるものでもあった。そして、この傾向は一九七〇年代において、イスラームの教えとトルコ国民の性質を同じものだとする言説により強化されていった。こうした性格は一九七四年に設置された道徳科にも見られ、道徳科ではイスラームを根拠とした道徳が説かれると同時に、イスラームとトルコ国民性との親和性が強調された。このような転換は、世俗性に依拠したトルコ国民像を実現するための政策の代わりに、トルコ人の国民性とイスラームを結びつける理解が教育政策の既定路線となったことを示している。そして、イスラームをトルコ国民の文化と見なす動きのなかで、イスラームを単に宗教としてだけでなく、文化としても扱う姿勢が共和国政府によって取り入れられていったのである。
 今日のトルコを見ると、国家が国民の信仰を管理し、それを積極的に支えるという状況は自明であり、こうした状況は建国初期以来、続いてきたもののように思われる。しかしながら、トルコの政教関係のなかでは、宗教の排除や国家と宗教の分離が目指されていた時代は確かにあったのであり、現在の政教関係の様相は一九四〇年代から七〇年代を通じて、時間をかけて形成されていったものなのである。そして、こうした政教関係の転換の契機となり、またその関係を発展させていったのが、他でもない宗教教育、そして道徳教育に関する政策だった。
 一九八二年、宗教教育科目が選択希望科目から必修科目となったこと、また宗教マイノリティを取りまく時代状況の変化により、アレヴィーをはじめ、一部の国民は宗教文化・道徳科が必修科目であることに反対の意を示している。二〇〇二年から二〇二四年現在まで与党の座を維持する公正発展党政権は、イスラーム内の少数派やこれまで認められてこなかった信仰を国家が許容するイスラームの範囲に組み込むという手段を通じて、こうした反対意見を封じようとしている。二〇一二年からは、中学校、高校において、これまでの必修制の宗教教育科目に加え、選択制の宗教教育科目が導入されるなど、公教育における宗教教育はさらに拡大しており、こうした勢いは留まるところを知らないかのように見受けられる。公正発展党は、その党イデオロギーから共和人民党と対比される傾向にあるが、同党のこうした宗教教育政策は、アタテュルク亡き後の共和人民党政権による政策転換の試みの延長上に位置づけられるものであり、今日の宗教教育のあり方は、軍事政権を含むその後の諸政権がその政策を継承し、発展させていった結果だと見ることができるのである。
(注番号は割愛しました)
 
 
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