あとがきたちよみ
『日本弁護士総史――奉行所の世話人から渉外ローファームまでの200年余』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2024/11/28

 
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安岡崇志 著
『日本弁護士総史 奉行所の世話人から渉外ローファームまでの200年余』

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はじめに
 
弁護士制度の原点 繰り返した「二の次」扱い
 弁護士は明治26年法律第7号(旧々弁護士法)を施行した1893年5月1日に生まれた─これがわが国司法史の常識である。
 法制史研究の大家・瀧川政次郎國学院大学教授も論稿「日本弁護士史素描」を「弁護士といふ語を厳格に解するならば、日本の弁護士の歴史は、明治26年の弁護士法の制定に始まる」と書き起こした。
 しかし、これは間違っている。
 法制上、弁護士が誕生したのは、それより2年半も早かった。1890年10月に施行した行政裁判法、11月施行の裁判所構成法と刑事訴訟法、1891年1月施行の民事訴訟法の条文(一部略)を記そう。

・行政裁判法14条 行政訴訟の弁護人たることを得るは行政裁判所の認許したる弁護士に限る。
・裁判所構成法111条 裁判長は不当の言語を用ゐる弁護士に対し同事件に付き引続き陳述するの権を行ふことを禁ずることを得。
・同114条 開廷に於て審問に参与する弁護士も亦一定の職服を着することを要す。
・刑事訴訟法179条 被告人は弁論の為め弁護人を用ゐることを得。弁護人は裁判所所属の弁護士中より之を選任す可し。但裁判所の允許を得たるときは弁護士に非ざる者と雖も弁護人となすことを得。
・民事訴訟法63条 原告もしくは被告自ら訴訟を為さざるときは弁護士を以て訴訟代理人とし之を為す。
・同71条 原告もしくは被告は弁護士を輔佐人と為して共に出廷することを得。

 「当世の賢俊なる」訴訟代理人を世に紹介すると謳った銘々録の書題は、弁護士法施行前の1891年8月刊行なのに『日本弁護士高評伝』だ。この本には奇妙なところがある。後に貴族院議員となる名村泰蔵大審院判事による序文には書題以外に「弁護士」が出てこない。「此の書は代言人の資性、素行、偉蹟等を載せて詳らかなり」などと旧称だけを用いた。なぜなのか。理由は簡単。何者を弁護士とするかを定義する法律がなかったから、法の番人たる大審院判事として代言人を弁護士と呼ぶなどできなかったのだ。
 奇天烈な事態ではないか。現に効力をもつ法律に、法制上なんら定義を与えていない者が現われ、その正体不明の者に服務規律を課し職能を与え司法に参与させる。裁判の原告・被告が弁護人・輔佐人を探そうとしてもどこにも弁護士なる者は見つけられない。
 司法行政を所管した司法省は事前に弥縫策を講じ、1890年10月18日付で訓令を全国の各級裁判所に出し、各裁判所上席検事には監督下にある代言人たちにこれを周知徹底するよう命じた。

訴訟法中、弁護士の執る可き事務は、追って弁護士を置かるべきに付、当分の内、代言人之を取扱ふ儀と心得べし。(官報 明治第2192号に載録)

 行政裁判・裁判所構成・刑事訴訟・民事訴訟の各法律は大日本帝国憲法(明治憲法)に適合する司法制度をつくるために、既存の法令を改編しあるいは新たに設け、いずれも憲法施行(1890年11月29日)の前に公布した(第3章を参照)。
 司法機構を動かすのに欠かせない訴訟代理人に関する法令も一緒に整備しなければならないはずだが、政府は、何もしないまま、憲法施行を迎えた。既存の代言人規則を新法に置き換える手続きを始めたのは1890年12月4日。憲法によって開設した帝国議会の第1回会議に、政府は弁護士法案を提出した(第4章を参照)。
 弁護士がいなければ、裁判所機構や訴訟手続を整備しても西欧式の司法は機能しない。政府も分かっていて、帝国議会貴族院で「弁護士法の大趣意」を説明した山田顕義司法大臣はこう述べた。

国民の身体及権利を保護するは(中略)裁判官弁護士相まって初めて能く司法事務の完全なるを得る。(貴族院第1回通常会議事速記録第1号に載録)

 それならば、一体なぜ弁護士制度だけを置き去り後回しにして、新しい司法制度を構築したのか。
 驚いてはいけない。「一体なぜだ」が、半世紀後、現憲法施行のときに繰り返した。
 統治機構を主権在民と三権分立に根本的に改め司法の独立を保障した日本国憲法に整合する司法制度を一から作らなければならなくなった政府は裁判所・法務府(司法省の後身。法務省の前身)・検察庁それぞれの設置法に始まり訴訟手続諸法、民法・刑法など実体諸法の改廃・新規立法を大がかりな突貫作業で仕立てあげた(第8章を参照)のだが、新しい弁護士制度を規定する法律はハナから後回しにした。
 新憲法施行後、新しい司法関係諸法と旧憲法下のままの弁護士法(旧弁護士法。1933年公布)との間に来した齟齬をツジツマ合わせする、前述1890年の司法省訓令と同じ類いの無体裁な応急処置が必要になり、旧弁護士法4条の「弁護士たる資格」に、新制度の司法修習終了者を追加する政令を新憲法施行当日に公布した。
 旧弁護士法を全部改正した現行弁護士法が成立したのは1949年6月、憲法施行から2年1カ月後だ(第8章を参照)。弁護士制度は、完全な自治を得て、全く新しい歴史に1歩を踏み出したときもまた、置き去りからの動き出しを強いられた。
 国家統治機構の中で司法の在り方を定める憲法を日本は2度持ち、2度とも、司法と市民・企業をつなぐ弁護士制度の策定を、政府は「二の次」扱いにした。異状・不可解な事態と現代の我々の目には映る。しかし明治期に西欧式の制度・機関を大慌てに移植した(第2~4章を参照)日本の司法の本性から生起した現象として観るならば、異状でも不可解でもない、むしろ必然であったと受け止められる。
 民事訴訟法学者で弁護士の実務経験があり、1993年発足の細川護熙内閣で法務大臣に民間から就任した三ケ月章による弁護士史関連の諸論稿を手がかりに、「二の次」扱いが必然の成り行きとなった理由を考えよう。
 
近代化がもたらした司法・弁護士制度の「特異性・ゆがみ」
 三ケ月の見解の要点を彼の文章を用いずにまとめるなら、およそこうだ。

領事裁判権を認めた不平等条約を撤廃させるために法治国家の体裁を整えようと、あわただしく西欧から法典と司法機関を移植して日本の近代司法は誕生した。「法による支配」という西欧近代司法の本質は必要とせず見向きもしなかった。「司法の本質= 法の精神」を欠くがゆえに日本の司法制度とその働きには〝輸入元〟である西欧・米国には見られない「特異性・ゆがみ」が生じ、解消されないまま新憲法下にまで至った。

 数多い論稿のうち1972年に英語学者の業績記念論文集に寄せた「法と言語の関係についての一考察」は法学が専門外である読者を意識し噛み砕いた書き方をした。

わずか20年足らずの間に、全くの無の状態から法治国的外観を作り出した(中略)注目すべきことは、この大事業の推進が、決して「法」のために行われたのではなく、又、法の使徒たるべき「法律家」が主体となって推進したものでもなく、「政治」的目的(不平等条約撤廃=引用者注)達成の手段として「政治家」によって推進されたことであり、その「実質」よりも、「形」の方こそが決定的に重要な問題であった、という事実である。こうした強引な移植のプロセスが、さまざまな問題を投げかけるに至るのは当然であり、現在の日本の法律制度がかかえているさまざまな問題点は、多くは、法の継受の歪みの後遺症といってもよいのである。[三ケ月「在野」「在朝」奇妙な区分けと格差1972a:267頁]

 「実質」を無視して「形」のみにとらわれた近代化の危うさは、当の西欧文明への導き役であるお雇い外国人の1人が看破していた。
 ドイツから招いたエルウィン・ベルツ。1876年から東京医学校(東京帝国大学医学部の前身)で生理学・内科学を教え、滞日延べ29年に及び、伊藤博文、井上馨らの元勲や内務省、文部省の高官と密に接し、文明開化の現場の実際と、指導者たちの考えとの両方を知悉した人物だ。1901年11月、日本在留25年を祝う式典で文部大臣や東京帝国大学の総長、教授連にこう語りかけた。

西洋各国は諸君に教師を送ったのでありますが(中略)かれらの使命はしばしば誤解されました。(中略)かれらは科学の果実を切り売りする人として取扱われたのでした。(中略)日本では今の科学の「成果」のみをかれらから受取ろうとしたのであります。最新の成果をかれらから引継ぐだけで満足し、この成果をもたらした精神を学ぼうとしないのです(『ベルツの日記(上)』)。[ベルツ:239頁]

 「科学」を「法学」に「科学の果実・成果」を「法典・司法機関」に置き換えれば、三ケ月の見解に重なり合う。
 
「在野」「在朝」奇妙な区分けと格差
 では、どのような「特異性・ゆがみ」が日本の司法制度と弁護士の働きに生じたのか。長く尾をひいた問題が3つ考えられる。
 1番目は、現在は余り聞かない「在野」「在朝」の区別である。『広辞苑(第六版)』をみると「官職に就かないで民間にいること」「官職に就いていること」と出てくる、この2つの言葉を使った三ケ月の論稿「法典編纂と近代法学の成立─司法制度」を見てみよう。

法治国家の体裁を整えるために最小限のことは、司法官衙を設営し、そこに坐る人間を作り出すことであるがゆえに(中略)もっぱら「お役人』たる法律家─司法官僚、すなわち裁判官・検察官─の創出に集中されてしまい、諸外国で普遍的にみられる(中略)他の法律家の分肢─弁護士─の育成は、なおざりにされざるをえなかった。(中略)法律家層の中に、「在朝」「在野」という、東洋的ないし日本的な官民の格差がきわめて強い形でもち込まれざるをえなかったことにわれわれは注目すべきである。[三ケ月1972b:146頁]

 「在野」「在朝」の格差は揺るがぬ制度であり続けた。根拠法令は何度か改正したけれども、弁護士を司法官・司法大臣の監督下に、さらに司法官を司法省(一部の検事・判事が差配した)が統制する構造は、新憲法に依って司法関係法令をすっかり改めるまで続き、長い年月の間に司法官と弁護士の間の序列意識が司法界にとどまらず政治・行政に、さらには一般社会にも広く染みついた。新憲法施行時に再発した「二の次」扱いは、明治以来の制度と意識がもたらしたとみて間違いない。
 司法官と弁護士の制度上の地位格差は、弁護士層の司法官に対する不信・反発となり、やがて「権力への警戒と抵抗こそが弁護士精神である」との信条に転化した。
 戦後初めて司法機構全般の点検と制度の見直しを審議した、内閣設置の臨時司法制度調査会(臨司。1962~1964年)が意見書をまとめたとき、その提言に沿って司法制度改革に取り組むべきか。弁護士界の意見は割れ、結局、臨司の審議と意見書作成を主導した最高裁・法務省への不信・反発と「在野性」を高唱する心性が優勢を占め、意見書を拒絶し、法曹三者間の協議を停止した。当時の、東西冷戦の国際情勢を背景にした厳しい保守革新の対立という政治情勢ゆえに反権力・意見書拒絶派が力を得た側面はあったにせよ、明治以来の弁護士層の「特異性・ゆがみ」が、官側の提案による制度改革に対する絶対拒否となって表れたのである。臨司に関する弁護士層の動向は第9章で詳しく述べる。
 
初めから圧倒的に少なかった担い手
 2つ目の「特異性・ゆがみ」は弁護士人口の極端な少なさである。三ケ月は論稿「法の客体的側面と主体的側面」で「法の担い手の圧倒的稀少」「法曹階級の量質の面における弱体」と表現した。
 「弁護士が少なすぎる」は三ケ月が言い出した新奇な主張ではない。そもそも旧々弁護士法案を初めて審議した1890年12月4日の帝国議会貴族院本会議で、帝国大学(東京大学の前身)総長の政治学者加藤弘之議員が、山田顕義司法大臣に質した。

司法部のことを存じぬ者が考えると、弁護士という者の数が充分に世間の需要に応じないということが有りはしないか。どれほどの民刑訴訟があって、これまで代言人でどれだけに行き渡っているか。世の需要に応じないという不都合はないであろうか。(貴族院第1回通常会議事速記録第1号に載録)

 1979~1982年に最高裁長官を務めた服部高顕は東京地裁判事だったとき「日本の法曹─その史的発展と現状─」で要旨以下のように書いた。

裁判所が訴訟事件を公正かつ迅速に処理する観点から弁護士にしっかり事前準備をするよう求めてもなかなか応じてもらえない。弁護士は多忙に過ぎ、十分な協力をすることができないといわれることが少なくない(中略)日本の弁護士の数はきわめて少ない。(中略)弁護士自身、過当競争をおそれて、弁護士数を増大させることに対してしばしば反対し、少なくとも消極的である。[服部:204〜205頁]

 さらに前記の臨司意見書(1964年)は委員全員一致で「法曹人口が全体として相当不足していると認められるので、これが漸増を図る」と決議。法曹のなかで「弁護士の充実は、司法制度の適正円滑な運営のキー・ポイントである」と位置づけ「弁護士を増やさなければならない」と結論した。
 
狭小なまま100年過ごした活動領域・職域
 3番目の「特異性・ゆがみ」は、弁護士人口の少なさとコインの両面の関係にある、活動領域・職域の狭さである。三ケ月が分担執筆した『岩波講座 現代法6 現代の法律家』〈Ⅲ 現代の法律家の職能と問題点〉の〈弁護士〉の項から引く。

活動領域にも、当時(明治中期=引用者注)の日本の置かれていた状況─資本主義の日本的発展の特異性─の反映として、目にみえぬ厚い壁がはりめぐらされていた。(中略)明治期の日本の産業は、政商の活躍や政府の保護政策などの諸現象で彩られている。そのゆえに、自由職業としての弁護士が日本経済の「動脈」の中に大きくくい込んで行くことはきわめて難しかった。[三ケ月1966:216〜217頁]

 以上の記述は「特異性・ゆがみ」の原因として経済・産業分野の急速な近代化・資本主義化に限って論じているが、西欧法・司法制度の慌ただしい移植もまた「特異性・ゆがみ」の発生要因であったのは言うまでもない。
 まだ弁護士が代言人であった時代に司法関係者が匿名で書いた「商業社会と法律家」と題する雑誌記事がある。

商業社会に法律家の必要なるは今更余輩が喋々(ちょうちょう=ながながと)ここに弁ずるを要せざるなり。然れども我邦現時商業社会の情況を見れば、法律家と商業社会との関係は甚だ薄きが如く、商業社会が法律家を見るは訴訟代人たるの資格に於てのみと云ふも過言に非ざるべし。(中略)訴訟代人たる資格は法律家の変格にして常格に非ず。法律家の常格は法律の規定に準拠し取引を正確にして訴訟の起こることなからしむるに在り。[法学協会雑誌1890:417〜418頁]

 明治の日本が大至急で実行した西欧法・司法制度の移植は、ひたすら「形」(法典と司法機関)の整序を目的としていて、「実質」(法治とその担い手である専門職の働き)を社会に行きわたらせるなど、法制度を作った為政者の眼中になかった。だから西欧の法治国で行われる、法に従った経済・商業活動とか、己の権利の保全とか、それを助言・指導する法律家の役割など、とてもではないが、社会の了解事になり得ない。商業家・経済人ばかりか多くの代言人(後の弁護士)自身の理解と想像が及ぶ法律家の活動領域は、幕藩時代から存在した訴訟の場(江戸時代の司法は第1章を参照)に限られた。
 上掲の記事は、うわべだけに終わっている司法の文明開化に対する同時代人の告発といえる。
 弁護士の活動領域の狭さは、長い間、日本の弁護士制度ひいては司法全体の弱点であり、社会の〝法治度〟を低くとどめた元凶である。
 前出の臨司意見書(1964年)は弁護士制度改革の目標の1つに「職域を紛争予防活動に拡張する」を挙げ、調査会の問題意識と審議経過を記した。

弁護士の職域の拡大は、国民の法的生活の水準の向上のために緊急に必要なことである。
 
国民の法的生活の向上に資するには、まず弁護士が紛争解決的活動のみならず、紛争予防的活動にまでその職域を拡大し、これを強化することが必要である。(以上、臨時司法制度調査会意見書 80、87頁に載録)

 
歴史に挑んだ司法制度改革
 西欧諸国に倣った国家を猛スピードで作りあげるために「形」のみを、法治の精神という「実質」抜きで移植した、張り子のような司法制度にあって、しかも「二の次」扱いに打ち遣られた法の担い手─これが日本の弁護士の出発点の姿だ。まったく浮雲を踏むような起点の有りようというしかなく、そこを足場にして動き出した弁護士層の歩みは、当然に、ユラユラ覚束なくなった。
 明治の近代化から100年以上経った2001年6月、司法制度改革審議会(第13、14章に詳述)は、最終意見書冒頭の〈今般の司法制度改革の基本理念と方向〉で司法制度の状況を評定して、未だ日本の国は法治の実質を我がものにしておらず、法治の担い手たる弁護士層は充分な働きをしていない、と断じた。明治維新期の国際情勢に強いられた、圧縮した近代化の歪みが歴史を羈束する力のしぶとさを改めて認識させられる。

民法典等の編さんから約100年、日本国憲法の制定から50余年が経った。当審議会は(中略)近代の幕開け以来の苦闘に充ちた我が国の歴史を省察しつつ、司法制度改革の根本的な課題を、「法の精神、法の支配がこの国の血肉と化すために、一体何をなさなければならないのか」(中略)を明らかにすることにあると設定した。(中略)自由と公正を核とする法(秩序)が、あまねく国家、社会に浸透し、国民の日常生活において息づくようになるために、司法制度を構成する諸々の仕組みとその担い手たる法曹の在り方をどのように改革しなければならないのか(中略)これが、当審議会が自らに問うた根本的な課題である。(司法制度改革審議会意見書 3頁に載録)

 しかし、視点を変えてみれば、違う景色が目に映る。そもそも改革審が発足したのは、弁護士層が歴史的な羈束の1つから脱却できたからにほかならない。近代化の歪みに起因する日本司法の「特異性・ゆがみ」である弁護士層の司法官・司法官庁に対する不信・反発・拒否感を弁護士層が自身の意志で拭い去り(実際には「暫時ワキに置いて」だったかもしれない)、政府・司法官庁と協働する決心をしなければ司法制度改革は実現しなかった。弁護士層の姿勢変化は第9~13章で描く。
 改革審意見書を青写真とする一連の司法制度改革は第15章に詳述するが、ここまで述べた司法・弁護士制度の「特異性・ゆがみ」の是正解決は改革審の主要な目標であり、第16、17章に書くとおり、現在なお、改革の調整と深化は続いている。
 明治の圧縮した近代化が遺した負の遺産の実相と、それが解消に向かう過程を追う視座に立って弁護士の歴史を振り返りたい。
(傍点は太字にし、四角囲み箇所も引用表示にしました。詳しくはpdfをご覧ください)
 
 
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