あとがきたちよみ
『私のなかのアジア 渡辺利夫精選著作集第1巻』

About the Author: 勁草書房編集部

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Published On: 2024/12/10

 
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渡辺利夫 著
『私のなかのアジア 渡辺利夫精選著作集第1巻』

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渡辺利夫精選著作集第1巻 私のなかのアジア──まえがき
 
 『本著作集』第1巻のⅠは『成長のアジア 停滞のアジア』(東洋経済新報社、1985年)である。
 大学院に入学を許された1967年頃から、私は慶應義塾大学経済学部の山本登教授の指導を受け、当時、アジア経済研究所で研究部長の任にあった原覺天先生に私淑し、お二人から指示されたアジア研究に関する文献を、慶應義塾大学図書館やアジア経済研究所図書資料室でひたすら精読する生活をつづけた。読書を通じて、アジア各国の経済や政治社会についての知識を豊富に得ることができたものの、この地域諸国のことごとがばらばらに頭の中に入ってくるだけで、アジアの全体像をどう把握したらいいのか、分析的というより全体を俯瞰できる枠組みがどうしても頭に浮かんでこない。今後、アジア研究、開発経済学研究に入っていくにしても、初めから迷路に迷い込んでしまいかねない。
 若気の至り、というのであろうか。それでは、よし、今までの読書経験で得た知識を総動員して以前から読み込んでいた古典派経済学やマルクス経済学やガーシェンクロンの発展理論などを用意立て、自分自身のアジア分析の枠組みをつくりあげてみようと臍ほぞを固めた。そこから博士号取得に至るまでの数年間は、この枠組みづくりに精出した。さらに、開発途上段階を脱して先進国への道を必死に切り開こうとしていた新興工業経済群のひとつ韓国経済のありようが、この枠組みづくりのためには欠かすことのできない素材となるのではないかと考え、原覺天先生の指導のもとで韓国経済研究にも熱を入れることになった。
 さて、アジアをみる分析枠組みについてである。まずは韓国をはじめとする、当時、新興工業国家群(NICS)と呼ばれていた国グループがあり、これが欧米諸国の歴史的経験を凌駕する速度の発展をみせていた。先発国の発展に誘発されて生じた注目すべき現象であり、「南北問題」という二分法的世界の構図を突き崩す画期だと私にはみえた。新技術を開発し、これを体化した資本ストックを蓄積し、さらにはそれを運営する企業者群と熟練労働者群を創出する過程が「インダストリアリズム」である。新興工業国家群とは、先発国に発したインダストリアリズムの波が後発国に伝えられ、波の伝播を受けてこれを内部化し急速な発展に乗り出すことに成功した国家群のことである。新興工業国家群において観察されたこの事実をまず明示することから、私の枠組み構築が始まった。新興工業国家群がつづく後発国の発展を誘発する先発国となって、これがインダストリアリズムの新たな発生源となる。後発の「内生的」な工業力が先発に発する「外生的」なインパクトによって顕在化され、そうして後発の急速な経済発展が誘発されるのである。イギリスの工業化が大陸ヨーロッパ諸国とアメリカの工業化を誘い、欧米諸国全体に渦巻くインダストリアリズムの波が次いでロシアと日本の岸に及んだという歴史的経験をみごとに描いたものが、ガーシェンクロンの歴史仮説である。
 ここから二つの考え方の枠組みが導かれる。一つは、先発国のインダストリアリズムの波及を受けて開始される後発国の工業成長は、先発国のそれよりも一段と激しいものとなる傾向がある。後発国は先発国の開発した新技術、先発国の蓄積した資本を導入しながら工業化を進めることができるという、ガーシェンクロンのいう「後発性利益」の享受のゆえにそうなるのであり、先発国を追い上げて新しい地位を確保しようという後発国のしばしば熱狂的なナショナリズムのゆえにもそうなる。実際、新興工業国家群の成長過程は「趨勢加速」の様相をみせ、先発国の成長過程を「圧縮」して実現されたと表現し得る。
 注釈の二つめとして、次のことが指摘されねばならない。アジアにおける新興工業国家群の対極が、バングラデシュに代表される南アジアの、しばしば「絶対的」と形容されるところの貧困に覆われた地域である。ここでは先発国のインダストリアリズムが総体として伝播するのではなく、その一部のみが伝播し、他の部分は容易に入り込まないという跛行が発生し、この跛行的状態が構造化してしまっているという構図である。
 現代のインダストリアリズムの重要な一部である新しい医療技術や防疫手段は、経済成長段階をまだ迎えていない最貧開発途上国にまで及んでおり、彼らの人口増加と平均寿命の大幅な延伸を可能にした。しかし、インダストリアリズムが人間の生命にのみ及び、人間の生存をその基盤において支える産業にまで波及し得ない場合には、ここに一つの悲劇的なドラマが展開される。これが古典派の経済学、その論理的帰結となった一人当たり所得水準の「生存維持水準」での均衡に他ならない。
 人口増加が食糧需要の増加をもたらし、この増加した需要に応ずるべく増加した人口は農耕地に投入される。しかし、ここで収穫逓減法則が作用して食糧生産の増加率は人口増加率に追いつかず、一人当たり食糧供給量は生存維持的水準という「定常均衡点」において低迷せざるを得ない。古典派のこの論理的枠組みは先発国の経済発展を説明する力をもたなかったものの、現代アジアの一部の最貧国の経済的低迷を説明する原理として再登場したのであり、この理論の骨太さを感得せざるを得ない。
 新興工業国家群と南アジアとの対極について述べてきたが、それぞれの発展シナリオが混在して、その将来を描き出すことが難しい国家群もある。新興工業国家群と南アジアに挟まれた島嶼国家群、東南アジア諸国の経済発展の姿をどのように描いたらいいのか。これら諸国の近年における工業成長率は新興工業国家群のそれに勝るとも劣らない。しかし、その工業化が政府の手厚い産業保護政策と外国資本によって主導されたものであったがために、雇用吸収力は意外なほど弱い。そのために農工間の労働移動はさしたる規模で発生することはなく、したがって工業成長が農村の過剰労働力を吸収し、農業生産性を向上させるインパクトとなることは少ない。
 長らくつづいた高い人口増加率のために、東南アジアでも南アジアと同じく農耕地拡大の余地はすでに制約下におかれている。フロンティアの消滅である。農耕地フロンティアが消滅する一方、農村の人口増加率はなお高く、これが土地の細分化を招いて零細農家を増加させ、農村貧困の解決を遠くしている。ここでは繁栄する工業部門と停滞する農業部門との「二重的併存」が構造化しているとみなければならない。
 以上のような主張がこの著作『成長のアジア 停滞のアジア』の骨子であり、この骨子を分析的に証明する各章が構成される。
 とはいえ、なにしろ1985年、今から40年も前の「貧困のアジア」というイメージが一般的であった時代のデッサンである。新興工業国家群の発展が驚きをもって迎えられる一方、南アジアはもとより東南アジア諸国の将来にもまだ暗い影が漂っていた時代の論理的な整理である。その後、とりわけ1990年代に入った頃からアジア全域が変貌期に入った。私の分析枠組みは新興工業国家群の展望はともかくとして、全体的に陰鬱な論理構成になっていたことは否めない。この著作集が第1巻から進んで第5巻に入る頃から、私のアジア評価は全体としてより闊達なものへと変化している。
 この著作『成長のアジア 停滞のアジア』は、幸いなことに1985年の吉野作造賞を受賞することができた。
 『本著作集』第1巻のⅡは『私のなかのアジア』(中央公論社、2004年)である。
 私は地域研究者が一般にそうであるような一国の専門的研究者ではない。先に記したように、アジアの地域を俯瞰的に観察するという視点が私のものである。本書は私の中にあるさまざまなアジアを拾い上げ、これを自分史に重ね合わせて書いたものである。自分史をどうして書いたのか、研究史それ自体というより、自分の特に青春時代について書いたところをこの「まえがき」では強調しておこうと思う。
 私は1988年から2000年まで、東京工業大学に在職した。退職時には長年の習わしとして「最終講義」がある。この講義で何を話そうか、随分思いあぐねたことを思い起こす。経済学者が経済学のことをしゃべってもさして興味をもってくれそうにはない。そう予想して私は「センチメンタルジャーニー─私のなかのアジア」と、ややくだけたタイトルのレクチャーにした。通常はあまり語ることのない自分史を、最後の機会なのだから一回くらいはみんなの前で話すのも悪くはないか、といった気分であった。
 この最終講義にPHP研究所の総合雑誌『Voice』の編集長が聴講にきてくれていた。レクチャーが終わったところで氏は、“先生、今日の話、面白かったです。テープにとっておきましたので、それを原稿に起こしますから、朱入れしてうちの雑誌に掲載させてください”という。ゲラに結構な量の朱入れをしてできあがった論文を掲載してくれた。“最終講義が雑誌に掲載されるなんて初めてのことだと思いますよ”と後に氏からいわれた。
 この雑誌論文のタイトルが「私のなかのアジア」であった。これが当時の『中央公論』の編集長の平林孝氏のお目にとまり、ある日、パレスホテルの喫茶店に誘いだされ、“渡辺さん、この論文にさらにいろいろ書き込んで、一冊の自分史として出版しませんか”といわれた。東京工業大学の定年退職は当時は60歳。退職後は新たに設置される拓殖大学国際開発学部の学部長となることが決まっていて、相当に忙しく駆け回っていた時期でもあった。“お誘いは大変嬉しいのですが、目下はそんな次第でものすごく多忙です。それにまだ自分史を書くのははやすぎるような気もします”と答えたのだが、平林氏は、“渡辺さんは戦争体験もありますしね。安保闘争なんてもういまの若者は知らないんですよ。60歳がまだ若いなんてことはありませんよ。お忙しいことはわかりましたので、二、三年はお待ちします”といわれ、“まあ、なんとかやってみます”ということになった。自分の人生の断片について、アジアのことどもとともにあれやこれや書き連ねたものを『私のなかのアジア』として出版してもらった。平林氏は出版の直前に逝去されてしまった。
 私の場合、青春時代の中で最も象徴的なできごとは「安保闘争」であった。私が大学2年の時のことだった。山梨県の片田舎から上京して慶應義塾大学経済学部に入り、最初の2年間を横浜の日吉で過ごしたのだが、その時に安保闘争が燃え盛った。「六〇年安保」といわれたから、もう60数年も前のことである。全国から集った若者たちが私には難しい政治用語を滑らかに使いながら、日本の政治状況や日米関係のことなどを論じる姿に少し酔いにも似たような感覚を覚えて、少しずつその運動の熱気の中にのめり込んでいった。酔っていたのは体の方だけで、頭の方は奇妙なほどに冷めていた。安保闘争の論理の中心が不透明だと感じ始めていたのである。まわりの同学や先輩たちが語っている論理はひょっとしてまちがいではないだろうかという感覚が、初めはぼんやりと、しかし次第にはっきりと私の頭の中に像を結んでいった。
 安保闘争が終焉した頃は、逆に日米安保改定は不可欠だと私は考えるにいたった。その後は、日米同盟は日本の防衛の要であり、これを強固なものにしなければ日本の安全は保障されないという考えの持ち主となって今に至っている。私が安保闘争の中で何を考えたのかは、自分史の中での貴重な思考過程であった。自分史では、当時の自分の考えをそのまま再現しつつも、その後に得た知見を加えて現在の自分があるわけだから、自分史の中にその知見が入ってもかまわないし、むしろその方が自分史としては正当であるかのように思う。『私のなかのアジア』ではこう書いた。
 「安保闘争が隠しもっていたものはナショナリズムである。太平洋とアジアで敗走を繰り返し、原爆投下により無数の国民を殺傷されたものの、日本は本土決戦に敗北して国力のすべてを失ったわけではない。無条件降伏ではあったが、米軍に対する敵愾心や対抗の構えまでを摩滅されてしまったのではない。戦後復興は予想を超える速度で進み、昭和三〇年代の中頃には、未曾有の高度経済成長期を迎えた。政治的屈辱と経済的自信とがないまぜになって、この頃には戦後鳴りを潜めていた大衆的ナショナリズムが高揚し始めたのである。ならば、ナショナリズムが反安保改訂へと傾斜していったのはなぜか。
 ナショナリズムとは、他者に投影して自己を確認し、他者に対抗して自己を主張する民族心理である。自己を投影し対抗する他者が存在しなければ、そもそもナショナリズムは成立しない。日本という自己にとっての他者とは米国であった。他者が強大であり、しかもこれがかつて自己を圧した存在であってみれば、自己の存在を訴える対象としては申し分ない。人間の成長過程を心的深層から捉える発達心理学の示唆する通りなのであろう。戦後日本のナショナリズムは、米国に自国をぶつけて存在を主張する、つまりは反米ナショナリズムたらざるを得なかったのである。」
 青春時代の自分史を書く場合、私にはどうしても書いておきたいもう一つのできごとがある。私は大学を出てから日本化薬株式会社という民間企業に就職した。三年間、そこで働き、その後、母校の大学院に入って博士号を取得、母校ではない大学の専任講師として教員生活に入った。
 日本化薬時代はわずかだったが、私の人生に大きな影響力を与えてくれた。会社を辞めた理由は、会社の仕事がいやになったからではまったくない。“研究者としてなんとか自立したい。その道に入るにはこの年齢くらいが限界かな”と思いを定めたのである。会社での勤務は、私にはむしろ大変、充実した時間であった。
 会社に入ったのは1963年、翌年が東京オリンピック、「企業の時代」であった。私が勤務したのは、東京赤羽の荒川沿いに立地する医薬品製造工場。資材倉庫課に配属され、工場敷地内の各所への資機材の搬出入の事務を執り、かたわらフォークリフトで化学薬品のドラム缶を主要部所に運び込むといったことも私の仕事であった。フォークリフトの運転免許や危険物取扱主任者のライセンスも当時取得した。私が何より驚かされたのは、企業組織における人間関係であった。上述の自分史の中ではこう書いた。
 「赤羽の工場で観察した人間関係は、家族主義的としかいいようのない、暗黙の合意を前提にしたまことに協調的なものであった。工場長はいつも菜っ葉色の作業服を着て、ネクタイなどつけていなかった。彼は会社の取締役として経営者の一人でもあった。三〇〇人ほどの従業員に誰彼となく声をかけ、新入社員の私の名前もすぐに覚えてくれた。武田という苗字のその工場長は従業員からはタケちゃんと呼ばれ、飲み会にでもなれば、真っ赤な顔で畳に膝を擦りつけながら従業員に酌をしてまわった。
 終身雇用を疑う者はおらず、少しずつではあれ給料が上昇していくことを楽しみとしていた。労働組合は確かに存在した。組合の集会が月に一回くらい開かれ、私も毎回これに参加した。委員長が経営側との交渉の経過を説明し、次いで当時はやりの左翼用語でやや反体制的なことを演説した。これに組合員が和して拍手するのだが、緊迫感はまるでない。労働組合が〈経営側〉と何かを争うという雰囲気を感じたこともない。労働組合の方に、そもそも経営側などという認識があったかどうか。」
 私は『私のなかのアジア』を執筆する過程で文章を書くということの意味を徹底的に考えさせられた。つい先だってのことだが、産経新聞社主催の作文コンテストで審査委員長を務め、文章を書くことの意味について中高大生を前にこう語った。私の文章に寄せる気持ちを、やさしい言葉で語ればこうである。
 “君たちは、私などに比べればはるかに若い世代の人たちですが、それでもそれなりにいろんな経験を積んでこられました。家庭、学校生活、海外研修、地域社会活動、その他のさまざまな場で経験を積んできましたよね。しかし、そうした経験もこれを文章化しませんと、それらはいつの間にやら人生の中のささやかな経験のひとつとしてほとんどは忘れ去られていきます。
 経験は、これを文章化することによって、初めて「経験知」となり、これがひとつの確かなブロックとなります。別の経験を文章化してもうひとつの経験知のブロックができあがっていきます。いくつもの経験知のブロックを積みあげていくと、簡単には崩れない経験知の大きな塊になります。このブロックの塊の大きさが、人間が成長したことの証なのではないでしょうか。
 さまざまな経験を、本当に自分自身の人生にとってかけがえのないものとするには、文章化がどうしても必要です。経験の文章化を継続すること、これを自分のクセのようにしてしまったらどうでしょう。人間として成長していくには、これがどうしても欠かすことはできない条件だと私は考えます。”
 
 
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