あとがきたちよみ
『開発経済学研究 渡辺利夫精選著作集第2巻』

About the Author: 勁草書房編集部

Published On: 2024/12/17

 
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渡辺利夫 著
『開発経済学研究 渡辺利夫精選著作集第2巻』

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渡辺利夫精選著作集第2 巻 開発経済学研究──まえがき
 
 私の研究者人生は,『開発経済学研究─輸出と国民経済形成』(東洋経済新報社,1978 年)により博士号(慶應義塾大学経済学研究科)を授与されたことから始まった.この著作については本巻Ⅱの「まえがき」で解説する.
 博士号を取得してからの私の研究は,当時まだ十分な市民権を得ておらず,その全体系も何かぼんやりとしていた開発経済学の分析仮説を,思い切ってまとめあげようというものであった.その頃,アメリカの学会で繁く発表されていたラテン・アメリカを対象とした開発途上国の関連文献,タイ,インドネシアなどのアジア諸国を舞台にした,やはりアメリカ人学者による文化人類学系統の論文,日本でも次第に盛りあがりをみせつつあった主としてアジア経済研究所のスタッフによる諸研究を編んだ機関紙『アジア経済』などに掲載される論文のコピーを積みあげ,これらを読み込み2 年ほどかけて『開発経済学─経済学と現代アジア』(日本評論社,1986 年)を執筆した.日本評論社の雑誌『経済セミナー』に12 回の掲載をお願いし,刷りあがったコピーを同学の諸兄に読んでもらってコメントを求めた.コメントを寄せてくれた西島章次さん,大野明彦さん,木村光彦さん,小島眞さんなどには今でも感謝している.その折,渡辺さんの論文にコメントをするための研究会を立ち上げようという提案が誰彼からともなくだされて,毎月1 回の研究会が六本木の国際文化会館で開かれた.西島さんなどの時に鋭いコメントは本書のクオリティをあげるのに大いに役立った.
 ありがたいことにこの著作は,大平正芳記念財団からの1987 年度の第3 回大平正芳記念賞を賜ることになった.そんな次第で私には本著は深い思いがあるのだが,次の事情で本著作集にはこれを収録しなかった.収録したのは2001 年に出版した『開発経済学入門』(東洋経済新報社)である.
 私は,2000 年に拓殖大学国際開発学部の設置に関わることになって,その学部長となり,設置後はこの学部の中心科目である開発経済学を担当することになった.そこで上述の『開発経済学─経済学と現代アジア』よりも整合的で,何よりも平易で,経済学の知識をさしてもたなくとも読み込むことができるような開発経済学のテキストを書いてみようという思いに駆られ,2000 年4 月の授業開始から1 年をかけてこれを書きあげた.こんなに集中して物を書いたことは前後にもなかったような気がする.それゆえ本著作集では,この著作で私が開発経済学をどのような体系としてまとめあげたのかを順序立てて記しておこうと思う.
 
 (1)まずは開発の理念についてである.人間が一個の自然生命体としてこの世に生を受けた以上,その生存をまっとうすることが第一義的な重要性をもつ.貧困はこの与えられた生のまっとうを不可能にしてしまいかねない.貧困国においては,子供が出生してもこの子供が5 歳を迎えることなく死んでいく確率が高いのである.
 さらに,人間がこの世に存在することの意味は,個々の人間の中に秘められている潜在的能力を開花させることにある.能力が顕在化されねば一国はその資源を大きく浪費したことになる.人間はその潜在的能力を顕現して,そうして経済的,社会的,政治的な自由を享受することができる.この自由が人間が人間として生きて在ることの証である.潜在的能力を顕在化するためには教育が必要である.しかし,貧困国の特に弱い立場にある女性の識字率は今なお低い.また一国の発展のためには,中等教育の広範な広がりが必要である.残念ながら貧困国では中等教育はいまだ不十分な状況におかれている.
 アマルティア・セン教授は,「極端な貧困という経済的不自由は,他の種類の自由を侵害し,人を無気力な犠牲者にしてしまう」といい,それゆえ開発とは相互に関連する自由が一体となって拡大していくことだ」と述べた.開発とは所得水準の上昇を通じて,人間が本来もっている潜在的能力を顕在化し,そうして経済的,社会的,政治的自由を手にしていくプロセスだということができる.
 
 (2)それでは,貧困とは経済学的にみてどのようなメカニズムをもつものなのか.このメカニズムは経済学の始祖たち,リカードやマルサスなどの古典派の学者が追究したテーマであった.
 人間が生存していくための絶対的な必要条件は,食糧の確保である.食糧生産のためには土地と労働力を要するが,土地の供給には限りがある.一方,労働力(人口)は急激に増殖する.人口増加は食料需要の増加をもたらす.そうなれば,未開の土地を開墾するなどして農耕地を拡大していくものの,しかしやがて「耕境」の限界にいたる.
 農業技術が進歩しないという条件のもとで,さらに人口が増加すれば,1 人当たり食糧供給量は減少してしまう.一定の耕地に労働力を多投していけば,食糧供給量は増加するものの,その増加分は次第に減少していく.これが「収穫逓減法則」である.1 人当たり食糧供給量の減少は,やがて人間がどうにか生存を許される「生存維持的水準」にまで落ち込んでしまう.1 人当たり食糧の一層の減少は人間の生存を許さず,人口の淘汰が始まる.土地供給が制約的で人間が増殖していく社会の帰結は,1 人当たり食糧が増えも減りもせず,それゆえ人口も増えも減りもしない「定常均衡点」である.これが「マルサスの罠」である.いかにすればこの「罠」から人間社会を脱却させることができるか.これが開発経済学のまずは何よりも重要なテーマである.
 
 (3)そもそも人口は人間社会を低水準の「罠」におとしめるほどまでになぜ増殖するのか.貧困な社会における出生率は高い.なぜならば,この社会においては死亡率が高く,それゆえ高死亡率を上回る出生率を維持しなければ社会が消滅してしまうからである.ミクロ的な観点からいえば,親が希望する子供の数を得るには,子供の死亡率の高い社会においてはより多くの子供を生まなければならないのである.これが高出生率・高死亡率の社会である.
 所得水準の高まりとともに死亡率は急減する.しかし,高出生率の方はそれを支えてきた価値観がそう簡単には変わらないために変化は緩慢である.ここに人口の「爆発的増加」が始まる.高出生・低死亡率の社会である.しばらく前までアジアはこの人口爆発に悩まされてきた.とはいえさしもの高い出生率も次第に減少し,死亡率も下限に近づいて,低出生・低死亡率の人口増加率の低い社会となる.今日のアジアはこういう社会へと変化しつつある.人口増加率が高位段階から中位段階を経過して,低位水準にいたる過程を説明した模式が「人口転換」である.
 経済発展とともになぜ出生率が下がるのかを説明する論理が,「出生の経済学」である.追加的に生んだ子供が両親にもたらす効用と不効用を比較し,前者が後者を上回れば子供を生み,逆であれば子供を生まないという論理である.現代のアジアはこの「出生の経済学」が示唆する通りに,人口増加率の減速局面に入っており,「マルサスの罠」から脱したとみていい.
 
 (4)現実のアジアの人口動態をみてみると,人口爆発期を終え,逆に「少子高齢化社会」に急速に踏み込みつつあることがわかる.合計特殊出生率とは,1 人の女性が生涯を通じて生む子供の数のことである.この値の2.1 が,一国の人口を長期的に静止・安定させる「人口置き換え水準」である.アジアの国々の合計特殊出生率は軒並みこの水準を下回りつつある.日本はすでに人口の絶対的減少期に入っている.しかし日本はもとより,韓国,台湾,中国さらにはタイなどの東南アジア諸国も,そう遠くない将来にこの局面に入っていくであろう.
 少子化と同時に高齢化も急速に始まっている.総人口に占める65 歳以上人口の比率が7% を超え14% へと倍加する速度は,今日のアジア諸国は日本と同じ速度か,もしくはそれ以上の速度をもって進んでいる.所得水準が先進国に及ばない中にあって,少子高齢化の社会的負担にアジア諸国がいかに耐えていけるかが問題である.
 このことを考える理論的枠組みが「人口ボーナス」論である.老齢人口がまだ少ない社会において開始される少子化は,次の段階で生産年齢人口の比率を高めるという,発展にとって最も有利な時期である.生産年齢人口は所得をつくりだし,貯蓄に励む年齢層である.少子化は生産年齢人口の増加という「ボーナス」を一国に与えるのである.このボーナスを次にやってくる高齢化社会のためにいかに有効に用いることができるか否かに,その社会の命運がかかっている.このことを人口ボーナス論は教えている.
 
 (5)こうしてアジアの人口増加率は減少期に入った.しかし,過去の高い増加率のゆえに人口は現在なお増加中である.それゆえ,(1)で説明した「罠」の命題はまだ生きている.だが多くのアジア諸国は,この「罠」からの脱却を,「緑の革命」と呼ばれる,米を中心とした穀類の高収量品種の開発・普及・拡大によって可能ならしめた.
 農業の技術進歩とは,導入された肥料によりよく「感応」して単収を高める「多肥多収性」改良品種を創出することである.アジアの伝統的な米の品種であるインディカ種と日本のジャポニカ種の「交配」を無限に繰り返すことによって,アジア各国の土壌や気象条件に適合的な改良品種を開発し,これを圃場に普及・拡大させることによって「革命」と名づけてもいい成果をアジアは手にした.
 この農業技術進歩は,速水佑次郎教授によって「誘発的技術進歩」と名づけられた.人口増加によって1 人当たりの耕地規模が減少すれば,単収の増加が図られない以上,米の収量は当然のことながら減少する.その意味でアジアの農業は高い人口増加率と単収増加率との競合のもとにおかれていたのである.この競合に敗れれば「罠」にとらえられてしまい「生存維持的水準」での生計を余儀なくされる.だが,同一の事実は,改良品種を創出しようという人間努力を誘いだす.そうした人間努力がつくりだした技術進歩という意味で,速水教授はこの緑の革命の技術進歩に「誘発的」という形容をつけたのである.アジアの農民の合理的な行動様式を示す一つの証でもある.
 
 (6)さて,人間社会の進歩の起点が「マルサスの罠」であった.アジアはここからの脱出には成功した.しかし,一国経済は農業部門のみで成り立っているわけではない.むしろ農業社会を脱して工業社会をいかにして実現しうるかが大きなテーマとなる.一国の経済発展の一段と強力な牽引車は工業部門の拡大と進化に他ならない.
 実際,アジア諸国の工業化は,各国の産業構造の地図をすっかり塗り替えてしまうほどに力強いものであった.発展とともに,農業を中心とする第一次産業の比率が下がり,次いで製造業を中心とする第二次産業の比率が上昇し,最後にサービス産業を中心とする第三次産業の比率が上昇するという,いずれの先進諸国でも観察された「ペティ=クラーク法則」に沿う動きがアジアでも明瞭にみられた.
 第二次産業の比率が上昇するのは,一つには,発展とともに人間が需要する財が食糧から工業製品へと変わるからである.二つには,第一次・第二次・第三次産業就業者それぞれの所得を全産業就業者の所得で割った相対所得(相対労働生産性)において,第二次産業が他の部門のそれより高いからである.
 経済発展とは,農業部門(伝統部門)の労働力を吸引しながら工業部門(近代部門)が拡大していくプロセスとして描かれる.このプロセスを理論化したものが「二重経済発展モデル」である.低所得の労働力が農業部門に大量に滞留している限り,工業部門はこの伝統部門の低所得,したがって低賃金の労働力を用いて利潤を大きくしながら自分を拡大していくことができる.しかし,農村に余剰労働力が存在しなくなった時点以降,工業部門は技術革新により労働力を節約的に利用しながらより高度の産業に移行していくことになる.この同じ事実,すなわち農業における余剰労働力の消滅は,農業部門自体が近代化しなければならないことを意味する.これが経済発展の「転換点」である.開発経済学の主要テーマは,この転換点を開発途上国がいかにしてはやく迎えられるかにある.
 
 (7)工業化の一般的命題を超えて,現実のアジア諸国においてどのような工業化が展開されてきたのかを観察しなければならない.多くのアジア諸国の工業化は,それまで輸入に依存してきた消費財の輸入を制限し,輸入制限によって生まれた保護された国内市場に向けて生産・販売する国内企業の育成を図るという「輸入代替工業化」であった.輸入を国内生産によって「代替」しながら工業化を進めるという方式である.この方式によって形成された産業基盤なくして,今日のアジアの工業化の成功はなかったであろう.
 しかし,この工業化の中心的役割を担ったのは誘致された外国企業であり,民族企業は容易に育成されることはなかった.また,輸入制限によって生まれた国内市場が狭隘であり,「規模の経済効果」が発揮されにくかった.外国企業が労働節約的技術を採用したために雇用吸収力は弱く,余剰労働力の解消に対する貢献が少ないという問題点をも残してしまった
 これと対照的に,韓国や台湾などNIES(新興工業経済群,かつてNICS といわれていた国家群の名称変更)と称される一群の国々が,積極的に輸出市場に活路を求めて「輸出志向型工業化」を図る挙にでた.その実績にはみるべきものがあり,NIES モデルとして開発経済学の焦点の一つともなった.
 広い国際市場に向けて輸出を拡大するために,輸入代替工業化の振興のために用いられてきた輸入制限政策をはじめとする保護政策を廃止し,逆に輸出を奨励するさまざまな政策が採用された.NIES が輸出志向工業化を開始した時点は,先進国の産業構造の変動が激しく,多国籍企業が低付加価値産業については自国ではなく,アジアに生産拠点を移管しようとしていた時期と重なった.そのためにNIES は先進国の優れた多国籍企業を豊富に導入しながら輸出志向工業化の道を歩むことができた.
 NIES の実績をみてNIES モデルを採用したのが,東南アジアと中国である.東南アジアと中国は,先進国はもとよりNIES からの企業をも導入して,今日ではNIES を凌ぐような高成長国となろうとしている.典型が中国である.外国企業を大規模に誘致し,彼らに輸出を担わせて高成長を実現し,経済大国の地位を掌中にしたのである.
 
 (8)アジアはNIES のみならずASEAN 諸国や中国をも含めて,グローバリゼーションの中に巻き込まれ,そこから大きな経済的メリットを享受してきた.その一方,グローバリゼーションのリスクにもさらされている.1997 年の夏には,タイを震源地とするアジア経済危機が全域を襲った.高成長アジアが簡単に手に入れられる短期資本(短資)を大量に導入し,投資国も高成長アジアに短資を流し込んでその運用益を得ようとした.
 短資は短資であるがゆえに,短期的利益の上げられやすい株式や不動産,オフィスビルなどに向けられた.そうして「資産バブル」が発生した.バブルはバブルであるがゆえに,あるきっかけから一気にはじける.短資のうえに組み立てられてきたアジア各国の屋台骨が折れて,経済成長率が反転下落したのである.しかし,繰り出された政策が功を奏して間もなくアジアはV 字型の回復を示した.アジア経済の潜在力がここでも示されたのである.
 もう一つの危機がアジアを襲った.2008 年のリーマン・ショックのアジアへの波及である.2008 年の震源地はアジアではなく,アメリカであった.アメリカで住宅ブームがつづき,低所得者でも容易に住宅が購入できるようなサブプライム・ローンが組成され,これが証券化されて内外に売り出された.この証券を購入した個人や機関投資家は一時は大いに潤ったが,バブル化していたアメリカの住宅価格の暴落によって金融機関の破綻が欧米で相次ぎ,経済が手ひどい低迷を余儀なくされた.証券化されたサブプライム・ローンを購入したアジア諸国は少なく,これに由来する損失は欧米に比べれば少なかった.しかし,アジアの圧倒的に大きな輸出市場である欧米の市場がリーマン・ショックによって低迷して,アジアの成長率を下落させてしまった.アジア経済危機とリーマン・ショックはグローバリゼーションの光と影を見据える必要性を示唆している.
 
 (9)このようなグローバリゼーションのリスクからアジアが逃れていくためには,アジアの貿易や投資資金の「アジア化」を図り,欧米の経済的変動から身を守ることが必要である.幸いなことに東アジアは各国が高い成長率をつづけてきたために,域内の相互需要が高く,域内輸出比率は世界の中でも最もはやい速度で上昇してきた.また,その成長が高い生産性をともなったものであったがゆえに,アジアは域内のアジアからの輸入が大きくなり,つまり域内輸入比率の上昇も顕著なものとなった.
 加えて,高成長の結果,海外投資資金が企業に蓄積され,東アジアは東アジアの企業に積極的に投資するようになった.最も注目すべき投資国は韓国,台湾,香港,シンガポールなどのNIES である.NIES は東南アジア諸国はもとより対中投資においても傑出したポジションを誇っている.域内貿易比率とともに域内投資比率も急上昇したのである.現在の東アジアはEU(欧州共同体)やNAFTA(北米自由貿易地域)とならぶ世界で3 つの主要な経済統合体として立ち現れている.FTA(自由貿易協定)やEPA(経済連携協定)などを通じてこの統合がさらに進んでいくことが望まれる.
 
 さて,本著作集Ⅱの『開発経済学研究─輸出と国民経済形成』についてである.私の処女作であり,先にも記したように私の博士論文でもある.博士論文であるからには,全体の整合性はもとよりだが,何よりもその専門性,独自性,他の論者とは異なるユニークな視点を提示し,この視点にもとづいた分析が要求される.この点で本書のいわば目玉は,第1 章の「輸出と国民経済形成─アメリカ南部の綿花生産とタイ小農輸出経済の拡大過程」ならびに第2 章の「二重経済論の再考察─マラヤにおけるゴム小農の拡大と経済発展」の二つの章であり,これが本書の分量の3 分の2 を占める.
 輸出と経済発展というのは,経済発展論においてはやい時期から活発に議論されてきたテーマであった.このテーマが経済発展論において繁く展開されたのは,実はこれが国民経済形成史という歴史分析において比較的豊富な実績をもっていたからであり,私の2 つの章の展開もそれらの史的分析をベースにこれをアジア諸国の歴史に投映させたものであった.
 貿易はかつて周辺国の「成長のエンジン」として機能し,これが研究者の関心を惹きつけていた.周辺国としてかつて注目を浴びたのは,アメリカ,カナダ,オーストラリア,ニュージーランドなどの「温帯周辺国」であった.大陸ヨーロッパ諸国の強力な一次産品需要に応じて,これを供給する側に一次産品輸出という「貿易の利益」が生まれ,次いで一次産品輸出部門がそれに関連する工業部門,サービス部門の発展を誘発したのであり,これが「成長の利益」である.輸出部門がいかなるメカニズムをもって国内諸部門の成長を誘発したのか,あるいは誘発できなかったのか.その経緯が明らかにされれば,これは開発経済学における一つの重要な貢献となる.歴史研究の重要な対象が,アメリカの南部諸州における綿花生産の拡大過程であり,往時,「ステイプル・モデル」あるいは「輸出ベース論」としてアメリカの学会における重要なテーマとされていた.そこでは次のように論じられていた.
 
 アメリカ南部諸州が綿花生産に強い比較優位をもち,しかも綿花に対する海外需要が継続的に存在したために,南部の利用可能資源は綿花生産に充当されつづけ,結果として現れたのが「モノカルチャー型産業構造」の強化であった.南部においては工業部門のみならず農業部門が多様化することもなかった.農業の多様化の欠如がもたらした最大のものは食糧不足であり,これは西部の余剰食糧の流入によって賄われた.西部にとってみれば当時の南部は最大の食糧需要地域であり,また南部綿花生産者にとってみれば綿花生産の拡大もこの食糧流入なしには考えられなかった.その意味で,西部農民と南部綿花生産者,さらにこれにイギリス木綿業者を加えた共通利益の基盤,クリスティのいわゆる「三者同盟」が形成されることになった.
 南部には綿花生産への投入財産業はいうに及ばず,膨大な輸出収益がもたらす消費財需要に応える工業部門さえもほとんど形成されることはなかった.南部は工業製品を北東部からの流入にまたざるを得なかった.のみならず金融,運輸,保険などの綿花生産・輸出拡大のためのサービス部門も北東部に依存することになった.同時に,北東部の工業ならびにサービス産業は南部に需要を見出すことによって活発化した.こうして相互補完的な三地域間の分業体系が形成されたのであり,この三地域間の相互依存関係の要の位置にあったものが,綿花という単一の輸出ステイプルであった.
 海外需要に敏速に反応して試みられた綿花の輸出生産に依拠することなくして,当時のアメリカの国内市場を急速に拡大していく方法は他になかった.その意味で,南部における綿花は19 世紀前半期のアメリカ国民経済形成史において決定的に重要な役割を果たした.
 
 アメリカやカナダの歴史的事例から導かれるこれらと同様の事実が,熱帯の開発途上国の中にも観察されるのではないか.この発想を抱かされた時の感動は忘れられない.イングラムのタイ小農の経済分析やリム・チョン・ヤのマラヤ(マレーシア)におけるゴム小農の研究に,毎日,目を開かされながら私はそれら文献を読み込んでいった.アジア経済研究所の図書資料室で過ごした日々のことが懐かしく思い出される.
 わかりやすい一例として,マラヤのゴム生産について述べておこう.一般的な理解によれば,イギリス資本によって開発されたマラヤの大規模なゴムプランテーションは,この部門のみが突出して発展し,プランテーションを取り巻く伝統部門は停滞をつづけると考えられ,この考え方は「二重経済論」として
定式化され,この分野ではおなじみのものであった.しかし,事実を歴史資料によって多少なりとも詳細に分析してみると,二重経済論の虚構性は明らかであった.この虚構の事実を発見して,私はアジア経済研究所の機関誌『アジア経済』にいくつかの論文を発表し,アジア政経学会では,自分でいうのもなんだが,ずいぶんと意気軒昂な報告をした.主張の趣旨はこうであった.
 
 20 世紀に入る頃から,マラヤのゴム小農は,マレー連邦州と海峡植民地を中心に急速に拡大したプランテーション周辺部においてはやくもゴム生産を開始した.小農によるゴム栽培面積はすでに1910 年にマラヤ全土のゴム栽培面積の30% を超え,公式のゴム統計に現れた1992 年になるとその比率は48%と実に半分近い水準にまで達した.15 年をわずかに超える短期間に,経営知識や技術知識の乏しかったはずの伝統部門の小農がこれほどまでに急速に近代部門プランテーションの生産物を模倣し,与えられた市場機会に敏速に反応していったという事実は,植民地経済における「二重性」を念頭においてきた多くの研究者にとって確かに一つの驚きであろう.
 しかも,この急速な小農ゴム栽培の拡大過程を,植民地政府が何らかの政策を用いて支持した,という形跡はみられない.1922 年以降の統計を用いてその後の小農ゴム栽培の拡大過程を追跡することにより,私どもはプランテーションによる小農生産の「誘発」関係が強力に作用し,少なくとも第二次大戦にいたるまで衰えをみせていなかったことを知ることができる.
 そして,独立後のマレーシア政府は小農による多収樹植替費用に対しては,プランテーションのそれに比較してより手厚い補助金を用意し,さらに栽培面積の一段と小さい小農範疇には,政府による新開発地に優遇条件を与えて小農をここに入植させるという画期的な計画を用いることによって,伝統部門を近代部門化しようという試みにでた.
 このようなプランテーションの先行的発展による小農の誘発関係を歴史的に追跡すると同時に,かかる誘発関係を生起せしめた経済学的事実を見出そうというのがここでのもう一つの目的であった.
 
 
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