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西岡文彦 著
『印象派の発明 美の技術革新と市場の創造』
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はじめに 印象派は「発明」されている
印象は個性であり、鑑賞は表現である
印象派は「発明」されている。
私たちの知っている個性の表現としての絵画は、この発明によって生み出されたものであり、発明者であるモネによれば、画家の個性は画家の感じた「印象」にあるという。
であるならば、私たちが絵画を見て感じた「印象」もまた、私たちの個性であることになり、絵画を鑑賞することは、私たちの個性の表現に他ならないことになる。
印象派の軽やかな画風は、チューブ入り絵の具の発明で絵画が屋外で描かれ始めたことから生まれたものだが、この携帯画材で自分の「印象」を描いたモネは、抽象絵画の起源ともなった新しい絵画を発明して、私たちと絵画の関わり方を変革しているのである。
二〇二四年、印象派の誕生一五〇周年を記念して、印象派の殿堂オルセー美術館で開催された展覧会は、「パリ一八七四年印象派の発明」と題されている。
屋外制作がモネを光の画家にした
屋外での制作は絵画に、従来よりはるかに鮮やかな色彩をもたらすことになった。
モネが、私たちの知る光の画家となるのはこの屋外の色彩を得た後のことで、当時の画家の登竜門とされた「サロン」という公募展に入選した若きモネの作品は、まだ別人のように暗い色彩で描かれている。
モネが印象派を代表する画家となるのは、セーヌ河畔の屋外制作で新たな絵画の手法を発見した後、画家仲間と会社を設立して、絵画の自主流通のための展覧会を開催した以降のことであった。この「画家、彫刻家、版画家等、芸術家株式会社第一回展覧会」の出品作『印象日の出』の革新的な画風を皮肉った「印象派の展覧会」という新聞記事のおかげで、モネは印象派という新奇な画家集団の頭目と見なされたのである。
当時、絵画は筆の跡を残さないように丹念に仕上げない限りは完成作品と見なされず、屋外で即興的に描かれた絵画は、未完成品としか映らなかったのである。
革命の恐怖と脅えられ 絵画の進化と称えられ
そんな作品を公開するなど言語道断として、この展覧会を「絵画の革命、恐怖の開幕」と評した戯画が新聞に掲載されるほどであった。フランス革命の流血の歴史もまだ記憶に新しかった時代に「革命」と例えられたことからも、印象派が人々に与えた衝撃の大きさが推察される。当時はでたらめとしか思われなかった印象派の画風は、以降、猿の描く絵や猫がピアノの鍵盤を踏む音楽などに例えられ続けることになる。
ダーウィンの『種の起源』をむさぼるように読んだ自然主義文学の巨匠エミール・ゾラは、印象派を「絵画の進化」と称賛したが、こうしたわずかな理解者を除く大半の人々にとって、印象派は正気すら疑わしい謎の画家集団としか映らなかったのである。
印象派の筆致の中でも、保守的な人々の神経を逆なでしたと思われるのが、新開発の金属の口金を用いた平筆の塗り跡で、ペンキの刷毛による「塗装」を思わせるこのタッチほど、「古き良き絵画」に不似合いなものはなかったであろう。
『印象日の出』を酷評した新聞評は、描きかけの壁紙以下と決めつけている。
職人仕事の手描きの壁紙より雑な仕事と見なされたわけで、同様に、平筆の跡も露わに立体感を描いたセザンヌや、うねるような筆致で内面を表したゴッホも、まっとうな画家とは見なされず、新聞には印象派の作品を武器に戦う兵士の戯画まで掲載されている。
いみじくも、最前線の兵士を指す「前衛」すなわちアヴァンギャルドという軍事用語が芸術用語として一般化したのがこの頃のことで、絵画に、旧来の写実描写を超える前衛的な表現を確立することが迫られていたのも事実であった。
写真を軽蔑したゴッホと脅えたピカソ
その最前衛たるゴッホは、筆の跡も残さぬアカデミックな写実絵画を「写真まがい」と軽蔑していたが、一世代後の前衛画家ピカソは、写真の発明を絵画の死亡宣告と見なしていた。近代人の心象風景を描いた『叫び』(1893)で知られるムンクによれば、ピカソは写真が絵画に取って代わることを本気で心配していたという。
実際に、写真を目の当たりにして「絵画は死んだ」と叫んだアカデミーの画家もおり、写真の普及で失業したり写真家になったりする画家も続出したが、ゴッホに傾倒していたムンクは、天国や地獄を撮影できない限り写真は恐るに足らないと一笑に付している。
器の絵付け職人から画家へ
対照的に、写真技術の発達のおかげで画家になったのがルノワールであった。
少年の頃から食器や壺に絵付けをする修業をしていた彼は、写真を応用した機械技術による量産品に仕事を奪われ、画家に転身したからである。ルノワールの作品に描かれた壺やカップの絵柄には、その修業を物語る流麗なタッチを見ることができる。
磁器で知られるリモージュで生れ、パリで修業した職人の仕事を十七歳で失った彼は、扇子絵やカフェの内装等で食いつなぎながら通い始めた絵の塾で、共に印象派を代表する巨匠となるモネと知り合っている。
この二人に、先輩画家のドガが加わり、印象派と呼ばれるグループが形成されることになるのだが、今日と違って当時の画家が作品を発表できる機会は極めて限られていた。
画家の登竜門は、アカデミー主催の公募展であるサロンしか存在せず、美術業界に影響力を誇る批評家の目に留まるにはその入選が必須であった。落選者の中から自殺者が出るとまでいわれたサロンの独占体制に対抗する試みが、モネ達の開いた自主流通展だったのだが、印象派という悪名以外はさしたる成果は得られずに終っている。
最下級の風俗画と見なされた印象派
印象派がアカデミーやサロンで不評だったのは、斬新な手法もさることながら、彼らが描いたパリ市内やセーヌ河畔の同時代風俗という題材にも原因があった。
当時のアカデミーで王道とされたのは、聖書や神話を題材とした「歴史画」と呼ばれる絵画であり、印象派の画家達が描いた近代パリの都市風俗やセーヌ河畔のリゾート風景は「風俗画」と呼ばれる最下級の絵画の題材と見なされていたからである。
これに抗して、同時代の女性を神話の女神に見立てて描いたのが、印象派の先輩画家のマネだったが、その意欲作は不謹慎の極みとして罵倒と嘲笑の嵐にさらされている。
女神でなく人間のヌードを描いたおかげで下品で不道徳とされたマネの変革に学び、同時代の風俗や風景を題材とした上に、筆の跡を残さぬ写実絵画に対抗し、タッチも露わな絵画を描いたのが、モネであった。
アカデミーや批評家に、嘲笑され非難されるのは当然であった。
絵画芸術の「発明」と「独立」
今日ではマネは近代絵画の父とされている。理想化されたヌードを聖書や神話を題材に描いた絵空事ではなく、近代女性の「現実」の裸身を描いたからで、二十世紀フランスを代表する哲学者ミシェル・フーコーは、マネを絵画芸術の発明者としている。が、当時の人々はそんなマネを不道徳と怒り、理解者であったゾラも、マネの作品のルーヴル入りを予言する際には、わざわざ「ノストラダムスの向こうを張る気はないが」と断っている。
今となっては、その頃「高尚」とされたヴィーナスの方が、写実の妙技も手伝い扇情的に映るのだが、女神であれば裸も不道徳ではないというのが当時の建前であった。
そうした古色蒼然とした絵画を刷新して、目の前の風景や風俗から個々の画家が感じた「印象」を描いたのがモネを筆頭とする印象派であり、このマネの現実主義とモネの印象主義によって、近代絵画の歴史は開幕することになる。
デッキブラシで描くとまで嘲笑された印象派は「アンデパンダン」すなわち「独立派」とも称され、後に開催される無審査の「アンデパンダン展」の創設の契機となり、今日のインディペンデント・レーベルいわゆる「インディーズ」の先駆ともなっている。
新時代の色彩を求めて
印象派は、絵画の色彩の輝きを探求したことでも知られている。
その基盤となったのが、ニュートンの光学やゲーテの色彩論を踏まえて、当時の科学者ヘルムホルツやゴブラン織の研究者シュヴルールが体系化した最新の色彩理論であった。
画面に色彩を斑点のように塗り、見る者の視覚の中で混色する印象派の手法は、これら最新の色彩理論を踏まえて編み出されている。絵の具は、筆で混ぜれば混ぜるほど色彩の鮮やかさや明るさを失うために、そうした彩度や明度の低下を防ぎ、観者の視覚でいわば光学的に混色することにより画面に鮮烈な色彩を実現したのがこの手法であった。今日の印刷におけるCMYK(青・赤・黄・黒)によるアミ分解や、パソコンや携帯電話のディスプレイにおけるRGB(赤・緑・青)の信号分解の基盤となった色彩処理である。
かくして近代絵画から今日のメディア技術の礎まで築いた印象派であったが、当初その真価は理解されず、その市場価値に至ってはほとんど皆無に等しかったのである。
市場の創成と印象派ブランドの確立
生前に絵が一枚しか売れなかったゴッホを経済的に支えたのは弟で画商のテオであり、彼に先立ち印象派の市場戦略を創案した天才的な画商がデュラン=リュエルであった。
(以下、つづく。それぞれの図表はpdfもしくはサンプル画像でご覧ください)