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山田浩之 著
『歴史,文化,慣習から考える開発経済学』
→〈「第1 章 イントロダクション」「第8 章 歴史,文化,慣習と開発経済学」(pdfファイルへのリンク)〉
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第1 章 イントロダクション
本書の目的は,これまでの開発経済学ではややもすると分析の簡略化のため除外もしくは抽象化されてしまいがちであった歴史,文化,慣習といった要因が,人々の社会経済活動にいかように影響を及ぼしているか・及ぼしうるかに関して実証分析を用いて探求することである.とりわけ,東・東南アジアにフォーカスを当てて,具体的な事例を扱って実証分析を試みる.
開発経済学はほぼ一貫して政策志向的な学問として発展してきた.とりわけ,古典的な開発経済学は経済発展論から多くの知見を取り入れており,国家のマクロ政策に指針を与えるようなモデルが提示されてきた.具体的にはマクロ経済の仕組みを説明するモデルを構築したHarrod (1939)やDomar (1946)らの研究である.その後,それらのモデルを修正する形で爆発的に研究領域が広がったのが新古典派経済成長理論である.こういった経済理論においては,フォーカスを当てたい経済問題の側面をクリアーに描き出すために必要最小限な経済変数のみを経済モデルに組み込んで構築されることが作法となっているといっても過言ではない.その点では経済モデルの抽象化のエレガンスさが追及されているともいえよう.しかしながら,その過程で,モデルには組み込み難い要素が除外されている可能性は多分に考えられる.その例が,本書で取り扱う歴史,文化,慣習である.
また,本来政策志向的な学問である開発経済学が,開発問題の解決に対して適切な処方箋を提供できていなかったことも深刻な問題となっていた.第2 次世界大戦直後から有力であった開発途上国の開発モデルの典型は「輸入代替工業化政策」と呼ばれるものであった.輸入代替工業化政策とは,経済発展における市場の失敗を強調し,それを是正するため政府の計画と指令の強化によって,資本蓄積の強化と国内の近代産業の保護育成を図ることを強調するアプローチであった.しかしながら,1960 年の末頃からすでにこのアプローチの限界が明らかになり始め,1980 年代には社会主義経済の行き詰まりと崩壊によってそのことがより明確となった.加えて,1982 年のメキシコから始まる一連の開発途上国のデフォルト(債務返済不能)も,輸入代替工業化政策の限界を露呈した.
この開発経済学を取り巻く重苦しい状況を一変させたのが,無作為化比較実験(Randomized Controlled Trial : RCT)を用いたミクロレベルの研究である.このことは,2019 年のノーベル経済学賞が現在も第一線級の経済学者であるマサチューセッツ工科大学のアビジット・バナジー氏,エスター・デュフロ氏とシカゴ大学のマイケル・クレーマー氏(受賞時はハーバード大学)に授与されたことからも明らかであり,開発経済学は経済学の分野でも実証分析の識別問題に関しては最先端の分野の一つに躍り出た形となった.実証分析の識別問題における無作為化比較実験アプローチのパワフルさは開発経済学者であればおそらく誰もが認めるところであろう.しかしながら,無作為化比較実験は原則的に,対象となる集団を無作為にプロジェクトやプログラムの恩恵を受ける処置群と,そのような恩恵を受けない比較対象群に振り分け,一定の期間後にその両者の群の間の差を検証する試みである.この手法は明快かつ上に述べたように識別戦略として極めてパワフルであるため,多くの開発途上国で大々的にも局所的にも実施され,数多くの研究が世に出た.しかし,その厳格ともいえる無作為化比較実験のプロトコルゆえに,本書が関心の中心に据える歴史,文化,慣習といった要素が盛り込まれることが大変稀なようにうかがえる.加えて,文化や慣習といった要素はその形成に長い時間を必要とするという側面もあることから,比較的短期間のスパンで実施される無作為化比較実験の対象となることもまずないと考えられる.
以上のことから本書の目的をクリアーにさせるならば,以下のようになろう.つまりは経済理論モデルや実証分析におけるパワフルな識別戦略が必ずしも十分に考慮できてこなかった,歴史,文化,慣習といった要素そのものが社会経済にどのような影響を及ぼすのかを,綿密な実証分析を用いて解き明かす一助となることである.
歴史に関しては経済史という一大研究分野があり,膨大な研究がある.しかしながら,因果関係にまで踏み込んだ研究が隆盛してきたのは近年になってからと考えられている.本書では歴史的事象の長期的な社会経済への影響に関して取り上げる.このような試みはミクロデータやアーカイブデータなどがより利用可能性が増してきた近年において経済史分野でも急速に見られる動きであり,2021 年に刊行されたThe Handbook of Historical Economics のいくつかの章でも詳細が取り上げられている.例えば,Caicedo (2021)では操作変数法や回帰不連続デザイン(regression discontinuity design : RDD)を用いた研究が,Cantoni and Yuchtman (2021)では歴史的事象を自然実験に見立てて分析を行う応用実証分析に関して議論がなされている.
文化や慣習に関しては,その定義からしてさまざまなものが考えられ,統一見解を得られうることはまずないと考えられる.そのような事情も鑑みて,本書においては,次のように幅広く解釈できる定義を念頭に置くこととする.まず「文化」は文脈によって多様な定義があるが,本書では「複数名により構成される社会の中で共有される考え方や価値基準の体系」として定義する.「慣習」については,「ある社会で古くから受け継がれてきている生活上のならわし,しきたり」と定義する.
さて,定義としては上記に与えられたものを念頭に置くとして,本書はここで大きな課題に直面する.それは,文脈によっては,歴史,文化,慣習のすべてもしくは複数が不可分な関係にあることが多々あることである.例えば歴史的事象に端を発して文化や慣習が生まれることは多分に考えられよう.また,文化と慣習に関してもどちらか一方に完全に区別しきれるものではないことが多分にある.よって,本書ではあえて,各章を歴史,文化,慣習という区切りで分けることはせず,そのような事象によって引き起こされる社会経済の変容に着目するケーススタディーをいくつも含める形をとることとする.
より経済学的に解釈するならば,本書のとりわけ文化や慣習に関するテーマを扱った章は,人間の中に内在する「ディープパラメーター」の探求の試みと捉えることも可能である.本書ではディープパラメーターを「人々の行動を規定する,政策などによって動かすことが極めて難しいパラメーター」と定義することにしよう.本書の目的に照らし合わせるならば,文化や慣習は長い時を経て形成され容易に変化しないが,人々の効用関数の中に内在する要素であり,行動や意思決定に重要な影響を及ぼすものと考えられる.よって,それらの働きを炙り出すことは,現実の社会経済の中で生きる人々の行動を理解するためには,必要不可欠なことだといえる.この点は強調してもしすぎることはないといえよう.最も直感的な例の一つとしては,その人の持つ宗教感が考えられよう.宗教が異なれば,その教えや行動規範にも差異が存在する.この宗教感を考慮に入れずして,単に画一的な政策的議論をすることに限界があることは容易に想像できよう.極端なケースでは,本書で扱うようなディープパラメーターで完全に人々の行動や意思決定が規定されてしまうことも想定される.
それでは,ディープパラメーターだけで人々の行動や意思決定が規定されてしまうのであれば,政策志向的な開発経済学が提示する政策提言は無意味となってしまうのだろうか.答えは必ずしもそうとは言い切れないと考えられる.むしろ,政策提言の際に,その政策と文化や慣習との相互作用により細心の注意が必要であることが求められることを意味すると考えられる.
ここでは,Ashraf et al. (2020)を具体例として文化・慣習と政策の相互作用についての重要性を紹介する.Ashraf et al. (2020)では,大規模な小学校の新設という教育分野の供給面における重要な政策と,新郎が新婦の家族に結婚時に支払う金額(Bride price)の相互作用について,インドネシアとザンビアを事例に挙げて比較分析を行った.両国共に,Bride price の文化・慣習の存在する民族グループとそうではない民族グループがあり,その存在の有無によって,小学校の新設のインパクトがどのように異なったかを調べた.結果,Bride price の文化・慣習のない民族グループにおいては,学校建設計画は女子の就学に何の影響も及ぼさなかった一方,そのような文化・習慣のある民族グループでは大きなプラスの効果があった.これは,娘の教育が,結婚時に親が受け取る金額を増やすことによって,親が娘を教育する追加的なインセンティブを生み出すからであると結論付けられている.この研究は,一見誰もが賛同するように思われる小学校建設のインパクトの帰結が,存在するBride price という文化・慣習のために必ずしも思ったような効果が得られなかったことを示す一例といえよう.言い換えるならば,文化・慣習は今日の政策の議論と密接なつながりがあるということがわかる.この一例をとってしても,政策志向的な開発経済学を探求する際には,その地域に根付く文化や慣習というものを軽視してはならないことが容易に理解できよう.
冒頭で述べたように,本書では東・東南アジアの事例を扱い,歴史,文化,慣習の影響を丁寧に見ていくことを主眼とする.それぞれのトピックではできる限りの利用可能なデータを用いて実証分析的なアプローチをとる.ここで実証分析に関して何点か留意点を述べておきたい.
第1 に,近年の信頼性革命との関係である.信頼性革命とは実証分析において因果関係を特定するときに必ず付きまとう「内生性」や「逆の因果関係」の問題をいかに回避・克服するかという試みである.上で触れた無作為化比較実験は信頼性革命の核心的手法といえる.しかしながら,既述のとおり,歴史,文化,慣習といったテーマを無作為化比較実験の俎上に乗せることはほぼ不可能であり,このアプローチは本書では用いられない.その代わりに,本書のいくつかの章では「自然実験アプローチ」を用いて因果関係を推定するという方法論を採用している.「自然実験アプローチ」とは,偶発的な事情や政策変更によって引き起こされた,分析したい要因が疑似的にランダム(無作為)とみなせる状況を分析する手法のことである.とりわけ,歴史的な分析に関してはこのアプローチが援用できる側面も少なくないと考えられる.信頼性革命にどれだけ耐えうる実証的手法がとられているかは,取り扱うテーマが,歴史・文化・慣習ということから限界がある側面もあり,その許容の判断は読者に任せたい.
第2 に,「外的妥当性」という面からの本書の内容をどう考えるかである.外的妥当性とは,ある研究で見いだされた結果が,他の文脈においてや,あるいは同じ文脈であっても規模を拡大した場合に妥当性を持つのかを問うことである.この問いはとりわけ小規模な政策介入やプロジェクトを扱う無作為化比較実験では厳しく問われる点である.しかしながら,本書に関しては扱うテーマゆえ,外的妥当性に関しては検証のしようがないというのが答えとなると考える.というのも,本書で扱うテーマは,その国独自の歴史的背景や,固有の文化・慣習がほとんどである.ゆえに,外的妥当性を問うことはほぼ不可能であると同時に,あまり意味がないことであろう.
しかし,この点が問えないがために本書の価値が下がるとは考えていない.なぜなら,歴史,文化,慣習のそれぞれが人為的な「実験」では得難いというある意味逆説的な意味で重要性を持つからである.とりわけ歴史にまつわる名言はいくつも存在するため,そのいくつかを紹介しておこう:
─ We are not makers of history. We are made by history.(私たちは歴史を作る者ではない.私たちは歴史によって作られている.)Martin Luther King Jr.
─ History repeats itself.(歴史は繰り返す.)Curtius Rufus
─ A generation which ignores history has no past and no future.(歴史を無視する世代には過去も未来もない.)Robert Anson Heinlein
多くの慣習・文化が歴史的起源から由来していることも含めて考えれば,本書の価値が外的妥当性の一面のみから下がるとは考えていない.
本書の具体的な構成は以下のとおりとなっている.第2 章では,儒教文化の影響が強く存在するベトナムにおいて,その影響の濃淡が今日のさまざまな社会経済的変数にどのような影響を及ぼしているかを検証する.第3 章では,仏教を信奉する人々が大多数のミャンマーにおいて,なぜ商業的性行為が,たとえ違法であるにもかかわらず広く普及しているのかに関して,性的売春婦をインタビュー調査したミクロデータを用いて検討する.第4 章では,いわゆる政治家の出生地縁故主義的慣習を,ベトナムの政治家リストと企業活動のデータを組み合わせることで炙り出す.第5 章では,日本でも過去にはよく見られたであろう慣習である,医療従事者への心付けを,ベトナムの文脈では賄賂の慣習として捉え,それらの患者の厚生へのインパクトや医療保険加入への影響を検証する.第6 章では,カンボジアを対象国として,歴史的背景や変遷する価値観,経済状況によって出生順序の影響がどのように時間を通じて変化していくかを検証する.第7 章は,迷信を取り上げる.迷信は「道理に合わない言い伝えをかたくなに信じること」と定義されるように慣習の一例として考えられうる.第7 章では,日本の過去3 回(1846 年,1906 年,1966 年)の丙午の迷信を取り上げ,それによって出生行動がいかように変化したかを検証する.補論では第7 章を受けて,直近(1966 年)の丙午年生まれの女性が本当に悲惨な人生を送っているのかどうかを,ミクロデータを用いて検証する.第8 章は結語の章となる.
(注は割愛しました)
第8 章 歴史,文化,慣習と開発経済学
本書では,標準的な経済理論や実証研究において,ややもすると組み込み難い要素である歴史,文化,慣習といった要因が,人々の社会経済活動にいかように影響を及ぼしているか・及ぼしうるかに関する実証分析をさまざまな東・東南アジアのいくつかの国のケーススタディーを用いて示した.多くのケースで,人間は歴史,文化,慣習といった要因から無関係ではいられないことが明らかとなった.これらより,政策志向的な開発経済学を探求する際には,対象とする国や地域の歴史や,根付く文化や慣習というものを軽視してはならないことが強く示唆される.
また,歴史,文化,慣習らが(開発)経済学においても重要であるという認識は,実はひそかに政策に近いもしくは政策を担っているエコノミストの耳目を集めている可能性も重々考えられる.筆者の体験談になってしまうが,過去に勤務していたIMF での次のような経験を紹介したい.
同僚のエコノミストA 氏の下でインターンをしているアメリカの大学の博士課程に在籍中の学生がいた.その学生は,IMF から刊行されるワーキングペーパーをA 氏とともに執筆すべく,マクロ的な経済成長の要因に関してクロスカントリーデータを用いた実証分析を試みていた.標準的に推計に含められる物的資本水準や人的資本水準の変数,制度の変数,気候の変数らに加えて,本書で触れているような歴史的な起源の代理変数や,文化的な要素の代理変数を苦労して探していた.この学生に対してA 氏は,「歴史や文化などの経済成長への潜在的な影響は重々考えられるが,それらに対して政策的な側面から何かアクションを起こすことは不可能だよ.だから,それらはあくまで推計式の中ではコントロール変数の一部であり,仮に統計的に有意な結果を得たとしても,IMF のワーキングペーパーとしては政策的含意が小さいかもね」とコメントしていた.マクロ経済政策を主に担っているIMF のエコノミストとしては,当然とも言えるまっとうなコメントであるようにうかがえるし,筆者もA 氏の意見に対して決して批判的ではない.
その一方,IMF 勤務時はそれと真逆のような体験もあった.IMF では非定期に大学の研究者を招いてIMF エコノミスト向けのさまざまな内部研究セミナーが開催されていた.とある研究セミナーは,経済成長・発展の源泉に関して過去を遥かに遡って探求するような内容のものもあり,その中では歴史や,文化的な要素に関してもデータをたどって細かく丁寧に触れられていた.筆者も上司の許可を得てその研究セミナーに参加したが,驚いたことになんと満員御礼の入りであった.IMF エコノミストが政策議論とは程遠いような経済成長・発展の歴史的起源や文化的差異の話に熱心に聞き入っていたのである.
この一見相反するような2 つの経験を結び付けるものは何であろうか? おそらく,「政策エコノミストは歴史,文化,慣習といったものが経済に影響を及ぼしうることは認識しているものの,それらに関しての一般的知識は必要最小限必要だが,深掘りすることは業務の範疇外であり,耳学問として吸収するにとどまらざるをえないのではないか」というのが筆者の解釈である.実際,日々変動する目の前の数字を追うことに時間をかけねばならず,業務に直接的にはつながらない歴史,文化,慣習といった要素を深く考えている余裕がないのも事実である.
このような体験に基づいて考えた場合,研究としての歴史,文化,慣習から見た開発経済学の重要性は,単に純粋なアカデミックな興味本位なものにとどまらず,政策立案者や政策エコノミストに有益な知見を提供しうるという観点からも正当化できると考える.
開発経済学という学問分野は,マクロ的な内容もミクロ的な内容も包含する極めて裾野の広い学問分野であり,それを研究するものはさまざまな応用経済分野の領域の知識を兼ね備える必要がある.加えて,データを用いた実証分析が主流となっている今日の開発経済学では,計量経済学の最先端の手法の知識も常にアップデートする必要がある.実際,開発経済学のトップジャーナルの論文で用いられている計量経済学的な識別戦略は極めて精緻なものが多い.
これら一連の内容を習得するだけですら途方もない道のりであるのに,そこに歴史だ,文化だ,慣習だとさらに追加的な話を持ち出す本書は,開発経済学徒の方々にさらなる負荷を加えるように受け取られるかもしれない.加えて,仮に自身が扱っているトピックにおいて文脈的に歴史や文化,慣習が重要だという認識を研究者が持ったとしても,それらを実証分析に取り入れることができるようなデータが存在するか・入手できるかはまた全く別の問題・課題であり,ここにも大きな壁が立ちはだかる.
しかしながら,第1 章で述べたように,政策提言の際に,その政策と歴史や文化,慣習との相互作用に細心の注意が必要であることはここで再度強調したい.また,相互作用だけでなく,歴史,文化,慣習が経済活動の背景・土台となっているケースも世界を見渡せば尽きないことから,これらと経済行動の関係の研究は,政策立案者や政策エコノミストに有益な知見を提供する可能性を大いに秘めている.最先端の研究成果を生み出すべく研究に励みながら,個別の国や地域の文脈を深く追求していくことは極めて労力のいる困難なプロセスではあるが,政策志向的な学問である開発経済学にとっては宿命的な避けては通れないものであるのかもしれない.
これから本書のような方向性の研究を考えている開発経済学徒の方は,自身が対象としている国や地域の情報に関して文献からネットニュースに至るまで全方位に情報のアンテナを張り巡らせ,可能であれば対象国・地域の人とあくまで中立的な立場から語り合い,得られた情報・仮説を扱えるようなデータがないか視野を広く持って探し,必要であればフィールド調査を実施し,どうしたらデータに落とし込めるかというプロセスをその都度繰り返していくことが肝要であると考える.これは,今後もこの方向性の研究も継続したいと考えている筆者自身への自戒であることは言うまでもない.