あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
ジョセフ・ラズ 著
森村 進 訳
『実践的理由と規範』
→〈「訳者あとがき」(pdfファイルへのリンク)〉
→〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
*サンプル画像はクリックで拡大します。「訳者あとがき」本文はサンプル画像の下に続いています。
訳者あとがき
本書はJoseph Raz, Practical Reason and Norms, second edition (Princeton University Press, 1990)の全訳である。本書は一九七五年に初版が同じプリンストン大学出版会から発行され、この第二版で「後記」が加えられた。また一九九九年にはこの第二版と同じ題名の本がOxford University Pressから刊行されたが、本書と内容に変化はない。
題名の中の “Practical Reason” は複数形でないから「実践理性」と訳すこともできるだろうが、本書では理性よりも理由の方が論じられることがずっと多いし、カントの『実践理性批判』への無用な連想を避けるためにも、訳題は『実践的理由と規範』とした。
著者のジョセフ・ラズ(一九三九―二〇二二)は現代の法哲学(法理学)・政治哲学の学界に巨大な貢献を果たしたイスラエル出身の哲学者であり、オックスフォード大学法哲学教授、コロンビア大学ロースクール教授、キングズ・カレッジ(ロンドン)教授を歴任した。
本書以外の単書には次のものがある。
The Concept of Legal System, Second edition(1980)(邦訳『法体系の概念――法体系論序説 第二版』松尾弘訳、慶應義塾大学出版会、二〇一一年)
The Morality of Freedom (1986)
Ethics in the Public Domain, Revised edition (1995)
Engaging Reason (1999)
Value, Respect, and Attachment (2001) (邦訳『価値があるとはどのようなことか』森村進・奥野久美恵訳、ちくま学芸文庫、二〇二二年)
The Practice of Value (2003)
The Authority of Law, Second edition (2009)
Between Authority and Interpretation (2009)
From Normativity to Responsibility (2011)
The Roots of Normativity (2022)
なお日本で独自に編まれた論文集『権威としての法――法理学論集』(深田三徳編、勁草書房、一九九四年)と『自由と権利――政治哲学論集』(森際康友編、勁草書房、一九九六年)は前期のラズの代表的な論文を八篇ずつ計十六篇収録しているが、その多くは改訂の上でThe Morality of Freedom とEthics in the Public Domain の中に含まれたものである。
ラズの前期(大体二十世紀中)の著作は、『法体系の概念』と本書を中心として法哲学の分野に属するものが多いが、その後の著作は政治哲学や価値論に属するものが多くなった。
法哲学の著作の中でも、博士論文に基づく最初の著作である『法体系の概念』は、ハンス・ケルゼンの「純粋法学」とラズのオックスフォードにおける指導教官だったH・L・A・ハートの法理論の影響が強く、彼らの議論への批判的検討を行っていても彼らの問題圏の内部にとどまった。それに対して本書は、「排除理由」という概念に基づく権威の分析をはじめとしてラズ独自の発想や問題提起に満ちている。特に権威の概念についての「先取りテーゼ」、権威それ自体の正当化について権威の発する命令に従う人の利益に訴えかける「サーヴィス的理解」と「通常の正当化テーゼ」、法についての「超然たる言明」といったラズの法理論の核心的な観念は、その名前こそまだ使われていないが、実質的には本書の中にすでに登場している(「先取りテーゼ」「サーヴィス的理解」「通常の正当化テーゼ」の内容は本書第1章第2節・第2章第2-3節と「後記」の中で、また「超然たる言明」については第5章第4節の中で)。法哲学に属する後のThe Authority of Law がモノグラフではなく論文集であることを考えると、本書は法理論におけるラズの代表作と言えよう。
本書にやや立ち入って触れている重要な日本語文献としては、前記の『権威としての法』の編者解説のほか、次のものがある。
石井幸三(一九八五)「ラズ『実践理由と規範』について(一)(二・完)」『龍谷法学』十八巻一・二号(全体の紹介)
大上尚史(二〇二〇)「ラズにおける排除理由の概念:C・エッサーの批判を手がかりに」『法律論叢』九十三巻一号
三浦基生(二〇二四)『法と強制 「天使の社会」か、自然的正当化か』勁草書房(本書第5章第2節の批判的検討を含む)
これらの論者に限らず、日本の法哲学者の間で本書は広く知られていたが、その重要性にもかかわらず今日まで翻訳されてこなかった。それには次の原因が考えられる。
第一の原因は面倒な文章である。ラズは決して好き好んで難しい文を書こうとしたわけではないだろうが、議論の厳密さを重視するあまり、二重三重に節や関係詞が重なり合う長大な文章を書いたり、独自の用語法を用いたりすることが多い。そのため読解には多大の注意が必要になる。この翻訳では長い文節を〈 〉に入れたり、〔その一方〕といった語句を補ったりすることで読者の理解を少しでも容易にしようとした。〔 〕内の語句は訳者による挿入である。
もう一つの原因は第一章第一節「理由の構造について」である。この部分は論理記号を多用するなど本書の中でも特に緻密に書かれているが、無味乾燥かつ難解であることは否定できない。そして本書を最後まで読めばわかるように、この節は第一章第二節以後を理解するためだけならば不必要な部分が多い。実際それ以後はほとんど論理記号も出てこない。
ところで私は陶淵明同様、「書を読むを好めども甚だしくは解することを求めず、意に会うこと有るごとに欣然として食を忘る」という人間で、趣味でなく研究のために本や論文を読むときでさえ、大体の趣旨がわかればよくて、細部のよくわからない点にはこだわらず自分に関心がある個所だけ精読すればよい、そうでもなければ多読できない、と思ってきた――今回のように翻訳するときはまた別だが。本書の読者もそのような態度をとった方がよいかもしれない。私は昔初めて本書に接した(読んだとは言わない)とき、この最初の部分で挫折してしまったから、著者ラズの意図には反するかもしれないが、第一章第一節を読み進めることに困難を感ずる多くの読者には、序論からすぐに「排除理由」という本書の中心的なテーマを取り扱う第一章第二節に進むことをお勧めする。
この排除理由という概念は本書全体を貫くライトモチーフになっているだけでなく、ラズのその後の法理論のみならず政治哲学・倫理学にもわたる思想全体の中で重要な役割を果たし続けたし、それ自体として重要な指摘だと思われる。ところがそれは規範や理由に関する今日の哲学文献の中で軽視されているきらいがある。(たとえばDaniel Star (ed.), The Oxford Handbook of Reasons and Normativity, OUP, 2018 という千ページを超える巨大なハンドブックの中でも三ページ足らずで片づけられている。) そこでこの訳書では、私と違ってラズの業績全体に通じている服部久美恵さんに排除理由について書いてもらうことにした。 本書が取り上げるトピックは冒頭の目次から見てとれるが、排除理由以外で私が特に関心を持ったものを取り上げれば以下の通りだ。
第二章第一節 ハートの〈規範の実践説〉への批判(六九頁以下)
ラズはハートと共に現代の法実証主義の代表的な論者と目されてきたが、ハートの実践説にはここで三つの理由から異を唱えている。それらの理由はあまり理解しやすくないが、ともかくそこに共通するのは〈実践説はルールの規範的性質を十分に説明していない〉という要素だ。だがその一方、ラズは後述の第四章第三節などでは法体系の存在の規準として法適用機関(典型的には、「一次的機関」と呼ばれる裁判所)の実践を中心に置いているのだから、結局のところハートとラズの立場の相違は微妙なもののように思われる。
第三章第一節 排除的許可(一二二頁以下)
ラズは第二章と第三章で規範を義務的規範と許可的規範と権能付与規範に大きく三分するが、許可的規範の中では排除的許可という「強い許可」を特に重視する。これは「排除理由」と似て非なるものだ。排除理由はある行為を支持する特定の諸理由を排除する理由だが、排除的許可は行為の差し控え(その行為をしないこと)を支持する決定的理由を無視・排除することへの許可である。その許可の対象の例としては、ラズがあげている〈義務を超えた行為を行なわないこと〉とともに、憲法で保障されているような基本的自由権もあげられるだろう。
第四章第一節 ゲームという規範体系の自律性(一六五頁以下)
法や道徳と違って、(「言語ゲーム」といった比喩ではない)本物のゲームの規範に関する哲学的検討は少ないが、ラズは本書でそれを行っている。中でもゲームがそれぞれに内在する独自の意義を持っているという指摘は興味深い。この発想はスポーツ倫理学に応用できそうだ。
第四章第三節 〈規範創造機関よりも規範適用機関の方が重要である〉という主張(一八二頁以下)
規範の形式と体系性だけに着目すればこの主張は適切かもしれないが、社会的な影響力を考えれば、規範創造の方が重要ではないか? 議会と裁判所ではどちらの方が社会を変える力が大きいだろうか? また公務員でない私人の法に対する態度も重要ではないか?
第四章第三節 公務員が認定のルールを実践するとはどういうことか(二〇七頁以下)
この部分でラズは認定のルールに関するハートの主張に微調整しか加えていないのように見えるが、そこで言う第五の命題に反して、その後The Authority of Law では〈公務員は法の道徳的な正当化可能性を信じているか、あるいは信じているふりをしている〉と主張するようになった。この改説は改良か改悪か?
第五章第一節 法体系の三つの特徴:①包括性、②至高性の主張、③開かれた体系(二一五頁以下)
初めの二つの特徴は確かに普遍的であるように思われるが、法の歴史を考えると、閉じた社会では、開かれていない法体系も存在した(また存在しうる)のではないか?
第五章第二節 制裁なき法体系の論理的可能性(二二七頁以下)
法理論にとっては、「天使の社会」までも考慮に入れる論理的可能性より、経験的人間性を前提とした現実的可能性の方が重要ではないか?(前掲の三浦『法と強制』やマーモー『現代法哲学入門』(勁草書房)五六―五九頁を参照)
第五章第四節 法についての内的言明でも外的言明でもない第三の種類の規範的言明の存在(二四七頁以下)
ラズはこの種の言明をその後「超然たる言明(距離を置いた言明)detached statements」と呼ぶようになった。用語法の相違こそあれこの三分法は現在広く受け入れられているようだ。しかし私は「超然たる言明」も「外部から見た内的言明」と言えば十分であって、二分法をあえて捨てる必要はないと思う(私の『法哲学講義』(筑摩選書)一五九―一六一頁と「ハートの法理論はいかに発展させられるべきか?」『一橋法学』一八巻三号(二〇一九年)四四―四六頁)。
本書は他にもたくさんの興味深いトピックと発想を蔵している。読者はどうかその宝庫を自分自身で探索していただきたい。
* * *
この訳書を完成させるにあたって、服部久美恵さんに訳稿を読んでもらった結果多くの訂正・改善すべき点を指摘していただいただけでなく、前記のように有益な解説エッセイを寄稿していただいたことに感謝する。だがまだ残っているかもしれない訳文の誤りはすべて私の責任である。
最後になるが、「基礎法学翻訳叢書」の一冊としての本書の刊行に賛同し編集作業を行っていただいた勁草書房編集部の山田政弘さんに感謝する。
二〇二四年秋分の日
森 村 進