あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
橋本 努 著
『自生化主義 自由な社会はいかにして可能か』
→〈「はじめに」(pdfファイルへのリンク)〉
→〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
*サンプル画像はクリックで拡大します。「はじめに」本文はサンプル画像の下に続いています。
はじめに
自生化主義とは、自生的なものを生成させるための一つの思考術である。
自生的なものは、おのずから生まれるものである。それを「生成させる」というのは、語義矛盾にみえるかもしれない。けれども自生的なものは、しばしば作為的な条件のもとで生成する。自生化主義は、自生的なものを介助したり、あるいは滋養したりすることができると考える。それはいわば庭師の術であり、古くはソクラテスの産婆術的な問答法、直近では、AI(人工知能)を用いて芸術を創作する術にみられる。
この自生的なものの生成術は、自由な社会を構成する際の手がかりとなる。自由な社会とは、自生的なものが多産に生成される社会である。その場合の自生的なものとは、繁殖の可能性を秘めた野性的自然である。自生化主義は、そのような力能をもった自然を理性によって飼い慣らすのではなく、むしろその生成を促して、社会のなかで活用できると考える。
英語にrambunctious(多自然の)という言葉がある。「騒々しい」とか「ヤンチャな」と訳されることもあるこの言葉は、自生的なもののある特徴をつかんでいるだろう。自生的なものとは、飼い慣らしがたい多産な自然である。私たちはこの自生的なものを促すことで、社会をいっそう自由にすることができる。本書は、このような自生化主義の観点から、自由主義の新たな思想を構築する試みである。
これまで理想の社会をめぐる探求は、さまざまに試みられてきた。なかでも自由主義やコミュニタリアニズムやマルクス主義といった規範理論は、社会はどうあるべきかについての私たちの直観を、論理的に幾重(いくえ)にも積み上げてきた。規範理論は多様であるが、そこには三つ基本的な思考パタンがある。
一つには、私たち人間のよい部分、例えば、理性的に考える力や、豊かな人間関係を築く力などの美質を当てにして、よい社会の構造を描こうとする理論がある。理想の社会においては、私たち人間もまた、理想的に振る舞うことができるはずである。そのような社会と人間の理想を描く規範理論は、しかし、人間の悪い部分を軽視する結果として、絵に描いた餅にすぎないこともある。私たちは「これが理想だ」と理解しても、理想によって鼓舞されるわけで
はない。人間は往々にして天邪鬼(あまのじゃく)であり、理想をストレートに追求することが苦手であったりする。
これに対して、人間の悪い部分を直視しつつ、理想の社会を描く理論がある。私たち人間は、本当はずる賢くて貪欲で、煩悩を脱することができない存在である。そんな性悪な人間たちが集まって、どんな理想の社会を築くことができるのか。人間の理想には期待せず、人間の悪しき本性を見極めたうえで、あるべき社会を描く規範理論がある。けれどもこの考え方にも、やはり限界がある。最低限に望みうる社会を超えて、私たちはどこに向かうことができるのか。想像力をかきたてるところがない。
しかし第三のタイプの規範理論がある。それは私たち人間を、いわば鵺(ぬえ)的な存在とみなして、理想の社会を描くものである。鵺とは、平家物語で語られた伝説の妖怪である。頭はサル、体はタヌキ、尾はヘビ、四肢はトラ、そしてトラツグミに似た陰気な声で鳴く。最後は残念なことに、源頼政によって退治されてしまう。鵺的な存在は、何だかよく分からないけれども、エネルギッシュな力を秘めていると思わせるところがある。権力に対しては脆弱だけれども、不思議な魅力がある。鵺のそうした特徴は、実は私たちにも多かれ少なかれ備わっている。私たち人間は、自分がどのような存在であるのかについて、よく理解しているとは言いがたい。人間には、よいとか悪いといった道徳の観点からは捉えることができない特徴がたくさんある。けれどもその捉えどころのない特徴は、理想の社会を築くために役立つのではないか。そのような発想から築かれるタイプの規範理論がある。
経済思想の伝統においては、とりわけこの第三のタイプの理論が展開されてきた。例えば、C・フーリエの「産業引力」、V・パレートの「残基」、W・ゾンバルトの「ファウスト的精神」、J・M・ケインズの「アニマル・スピリット」、J・シュンペーターの「創造的破壊」、F・ハイエクの「自生的秩序」、H・マルクーゼの「エロス的文明」、A・ネグリ/M・ハートの「マルチチュード」などは、その代表例である。日本でも高田保馬の「勢力」論や、福岡正信の「無」の哲学などは、この系譜に位置づけることができる。こうした思想に共通するのは、人間は善でも悪でもない力に導かれて、理想の社会を築きうるという考え方である。
私たち人間は、よい部分と悪い部分の二つから成り立つのではない。むしろ圧倒的には、よく分からない部分から成り立っている。その意味で、私たちは鵺的な存在である。では鵺的な存在としての人間は、いかにして理想の社会を築くことができるのか。それはすなわち、自生化主義の術(art of spontanietism)によって、というのが本書の答えである。理想の社会は、到達点としてあるのではない。それは自生化のプロセスを支える一つの理念としてある。ではそれはどのような内実をもつのか。これが本書の主題である。
自生化主義とは、これをやや乱暴に単純化して描くと、次のようになる。私たち人間は、理想の社会において理想の人生を送ることができるとして、では理想の人生とは、どのようなものか。おそらく描くことのできる理想の人生は、究極のものではない。「これが理想だ」といっても、私たちの欲望は矛盾しており、やがて理想ではなくなってしまう。理想を更新するために必要なのは、「よい/悪い」という道徳的な判断をこえて、自分のなかのまだよく分からない部分、野性的な部分に力を与えることである。人間は、自分の欲望に矛盾を抱えている。そのような矛盾的存在が、いかにして理想の社会を築くことができるのか。それは自分の未知の欲望にチャンスを与えることによってである。社会も自己も、生成の過程にある。ならば、その生成に力を与えようというのが、自生化主義である。
かつてケインズは、経済学者や政治理論家の思想は、それが正しい場合も間違っている場合も、一般に考えられているよりもはるかに強力であり、実際に世界を支配しているのは思想以外にないほどだ、と語ったことがある。私たちの世界を支配しているのは、端的に言えば思想である。これまで諸々の思想に影響を受けた人たちはもちろん、思想に影響を受けていないという人たちもまた、理想の社会や人生について考えるときには、亡き思想家たちの奴隷にならざるをえない。では私たちは、思想への隷属状態からいかにして自由になることができるのか。それは思想家たちと向き合うことによってである。本書は、さまざまな思想家たちと対質しつつ、新しい思想を紡いでいく。
*
本書の内容を紹介しよう。
第一部「自生化という思考」は、本書の導入にして中核である。私にとって自生化主義の原点は、ハイエクとの対質にあった。一九八九年に東欧革命が起きたとき、マルクス主義の思想はすべて誤りであるかのように思われた。反対に、社会主義を根本的に批判したハイエクの思想は、その正しさが証明されたかのようにみえた。けれども、ハイエクの思想は本当に正しいのか。そんな違和感からハイエクの思想を徹底的に解体し、自生化主義への道筋を示したのが、第一章「自生的秩序論の解体」である。本章は、自生化主義の思想を組み立てるための地平を与えている。
私たちはこの地平から、自生化主義へと向かう。その手がかりとなるのは、M・ポランニーの「暗黙知」論である。あまり強調されないが、暗黙知には共有された次元がある。共有された暗黙知を、私はK・ポパーの世界3論に引きつけて「世界4」と名づけた。第二章「共有された暗黙知」は、暗黙知論の探究であり、自生化主義の基礎に置かれる知の理論である。
この共有された暗黙知を基礎にして、第三章「自生化主義 野性的な繁殖可能性を秘めた自然の活用」は、自生化主義の理念を正面から論じる。この章は本書の核心である。しかし、最も基礎が固い部分というわけではない。自生化主義は、思考術をベースにしているため、実践的な思考を喚起するとはいえ、それ自体としては哲学的に掘り下げられていない。そこでつづく第二部では、この自生化主義の理念を哲学的に探究する。
第二部「自由の哲学」は、自生化主義の観点から展開した自由の哲学である。自由論、問題論、他者論、選択論、精神論の五つのテーマからなる。
第四章「自由論」は、自由な社会を、「全的自由」の理念によって基礎づける試みである。現代の自由主義(リベラリズム)の主流は、J・ロールズ以降の正義論である。それはしかし、必ずしも自由に価値を置いてはいない。自由が大切だと思う人も、そう思わない人も、いかにしていっしょに暮らしていけるのか。それは各人が公平に処遇される場合である、というのが正義論ベースの自由主義の主張である。しかし自由主義の本義は、自由を最大化することにあるのではないか。全的自由の立場はこのように問う。本章はこの全的自由の理念を、I・カーターの自由論を摂取しつつ、哲学的に展開する。
第五章「問題論」は、G・ドゥルーズと対質しつつ、自生化主義の哲学を掘り下げる。ドゥルーズの哲学は、存在論の次元で新たな知を拓いた。私は拙著『社会科学の人間学』で、〈問題主体〉という概念を提起したが、ドゥルーズはこの「問題」という(非)存在の哲学的性質を明らかにしている。本章は、規範理論の観点からドゥルーズを捉え直し、問題なるものの哲学的・思想的な性質を検討する。問題とはすなわち、存在の潜勢的な可能性(ポテンシャル)を出現させるための開口部である。私たちの社会は、そのような問題の開口部をうまく編成したときに、自生的なものの生成を促すことができると論じる。
第六章「他者論」は、E・レヴィナスとの対質である。レヴィナスは、M・ハイデガーの存在論がもつ全体主義的危険を乗り越えて、他者性の哲学を築いた。レヴィナスのいう他者はしかし、個々の倫理国家を超える普遍的な正義の理念をもたらすのではない。そのような理路は論理的に破綻する。レヴィナスのいう他者は、むしろ、国家が雇う「師としての他者」として機能する場合に、国家=全体性を超える創造的自由をもたらすのではないか。私はレヴィナスのいう絶対的他者が、自生的なものを生成させる「師」の役割を果たすと論じる。
第七章「選択論」は、J・P・サルトルとの対質である。サルトルは、私たちが実存=存在として自由であるために、自らを限界状況に投げ出し、根源的な選択をなすべきだと考えた。このサルトルの選択の倫理は、私たちが問われた存在であり、また存在の本質を欠如していることに不安を抱くはずだという想定から導かれる。しかし私は、存在論の原初にさかのぼって、「問う存在」に注目する。存在の本質の欠如については、これを解放の契機としても捉えうる。人間の根源的選択は、そこから派生的に、潜勢的可能性の価値を開示する。人間存在は、これを潜勢的な諸価値の自生的生成に開かれたものとして捉えることができると主張する。
第八章「精神論」は、道元との対質である。日本の仏教哲学の精華たる道元の『正法眼蔵』は、これを自生化主義の観点から読むことができる。道元が論じる真実の自己とは、意志や意欲をもった存在ではなく、自生的な仕方で自由闊達さにいたる存在である。道元によれば、それは修行を積むことによって可能になるが、その場合の修行とは、自生化主義的な実践術を身に着けることであると解釈できる。その精神の高みとしての全能感の獲得は、最終的には、他者の潜勢的可能性を引き出す実践、すなわち、自生化的な救済の実践を拓く。本章は、道元との対質を通じて、自生化主義の精神を論じる。
以上、第二部の五つの章は、自生化主義の哲学的基礎である。これらの基礎論を受けて、第三部は、自生化主義の規範理論、すなわち社会はどうあるべきかについての理論を展開する。私はこれまで、自生化主義の規範理論的な側面を「成長論的自由主義」と呼んできた。第三部「成長論的自由主義の思想」は、四つの規範理論を扱う。リバタリアニズム、マルクス主義、コミュニタリアニズム、および卓越主義である。ここで私は、成長論的自由主義の思想が、極左(マルクス主義)と極右(リバタリアニズム)の両方から学ぶものであり、また一見すると敵対的にみえるロールズの正義基底的な自由主義を、発展的に継承するものであることを明らかにする。
第九章「自己所有の臨界 リバタリアニズム論」は、日本を代表するリバタリアンの森村進と対質する。森村は自己所有権テーゼに基づいて、独創的なリバタリアニズムの思想を展開した。自己所有権テーゼは、他人を侵害しないかぎり、自分の身体と能力を好きなように用いる自由を肯定する。これに対して私は、身体といっても、その所有権には臨界があると論じる。また、角膜移植くじは公営制度として成立しうること、奴隷契約を一定の条件で認めうること、自由はデュナミスの快楽という観点から正当化しうることなどの考察を加え、身体の自由市場を想定した別の自由主義を擁護する。
第十章「平等という苗床 マルクス主義論(1)」は、現代の分析的マルクス主義の良質な部分を、成長論的自由主義が取り込む理路を示す。従来、分配をめぐっては、平等主義と自由主義が対立してきた。しかし成長論的自由主義は、平等な分配が苗床となり、自由を豊穣にすると考える。この考え方は、分析的マルクス主義の次のような発想と重なる。すなわち、階層間移動の流動化(階級の消滅)、生産性の上昇に基づく集合的不自由の克服、全能感としてのアバンダンスの称揚、未知なる成長の観点からの搾取批判である。本章は、分析的マルクス主義の諸理念を、成長論的自由主義に接合する。
第十一章「世界変革の方法 マルクス主義論(2)」は、マルクスがメモとして残した「フォイエルバッハに関する(十一の)テーゼ」のスタイルを真似て、私がマルクス主義をどのように批判的に継承するのかを示す。世界変革のためには、潜勢的可能性の理念が重要であると論じる。つづく第十二章「自己解釈の動態 コミュニタリアニズム論」は、私がコミュニタリアニズムの思想をどのように批判的に継承するのかを示す。文脈に位置づけられた自我は、自己解釈によって文脈を位置づけなおす、そのような動態があると論じる。
およそ思想とは、同じ主義主張のなかにも多様な対立を含んでおり、違う主義主張のなかにも多様な共通点を含んでいる。以上の四つの章において私は、成長論的自由主義の立場が、対立する立場のどんな要素を発展させて摂取するのかを明らかにする。
第十三章「未知の自由のために 卓越主義論」は、成長論的自由主義の思想を卓越主義の観点から捉え直し、これをロールズ以降の自由主義の流れのなかに位置づける試みである。ロールズの思想は、「自尊心」の位置づけが曖昧であり、これを最小限の自尊心を満たす思想として解釈することもできれば、最小限を超える「強い自尊心」を満たす思想(すなわち卓越主義)として解釈することもできる。本章は後者の卓越主義の要求を認めたうえで、その新たな理路を展開する。私見では、卓越的な自由主義には、啓発教化型、既知実現型、未知挑戦型の三つがある。私は、未知の自由のために、未知挑戦型の卓越主義が必要だと論じる。
以上が第三部の内容である。成長論的自由主義は、どの自由主義が望ましいのかについての一つの応答である。それは同時に、どのリバタリアニズム、どのマルクス主義、どのコミュニタリアニズム、どのロールズ主義が望ましいのかについての応答でもある。成長論的自由主義は、さまざまな思想を発展させて摂取する。成長論的自由主義は、自生化主義の観点から、体系的に導かれる規範理論である。より原理的な体系化は、拙著『自由原理』をご参観願いたい。
第四部「自生化主義の実践哲学」は、自生化主義の実践的含意として、公共性と立法の二つを論じる。公共空間は、いかに編成されるべきか。また立法過程は、いかに編成されるべきか。この二つの問題に向き合う。
第十四章「公共性の本質」は、公共性の根源的な性質を「残基(残りもの)」として把握するという、独自の見解を示す。そしてこの残基を動力源として、社会の自生的な発展を導くための実践哲学を展開する。従来、公共性は、共和主義の思想においてはとりわけ、成熟した市民による統治空間を意味してきた。これに対して私は、公共性を、未熟さを克服しえない人間たちの統治理念として捉え直し、私たちの社会を成長論的に再編する理路を示す。
第十五章「公共空間のデザイン」は、公共彫刻広場モデルという、公共性の新たな構想を描いている。しばしば自由主義は、厳格な公私二元論に陥っていると批判される。しかし欧米の公共広場の空間には、私的創造性を象徴する大きな彫像が置かれ、私的自由の利用がアトミズムに陥らないための工夫がある。本章で私は、残基としての公共性という考え方を応用し、社会の中心を「非場所・無・非在・問題」として構成することが、自由と公共性の豊かな自生的関係を育むと論じる。
第十六章「立法の理論 闘争の諸段階」は、自生化主義の立法学である。立法過程における四つの対立を、段階論的に再構成する。四つの対立とは、特定の正義構想をめぐる闘争、特定の立法構想をめぐる闘争、立法構想を調停するためのメタ正義構想の闘争、および、支配― 被支配をめぐる闘争である。以上の対立をめぐって、私たちは必ずしも、話し合いに基づく合意を調達できるわけではない。立法の過程は、実際には根源的な正当化をすることができないまま先に進む。自生化主義は、その場合の立法の正当化問題を、よりよき立法の発見法とその制度化の問題へと置き換える理論を提示する。
さらにその立法過程のあり方を論じたのが、第十七章「立法過程のデザイン」である。自生化主義は、「可謬型」と「熟成型」の二つの立法過程を組み合わせることで、法を自生的に成長させることができると主張する。可謬型は、社会システム全体の進化のために、大胆な法案の提出とその批判的吟味を重んじる。これに対して熟成型は、一度廃案となった蔵入り法案が、水面下で熟成することを期待し、断続的に新たな視点で再発見・再解釈されることを奨励する。すぐれた法案は、設計主義的に作られるのではなく、一方では大胆な提起によって、他方では時間をかけた熟成によって、社会システム全体の進化を促すように作られる。これは残基としての公共性、すなわち、法を公共的に正当化する空間の臨界から、新たな立法を促して定立するための制度構想として提起されるものである。自生化主義の立法構想は、話し合いによる合意形成を理想とする民主主義を、可謬型と熟成型の組み合わせによる民主主義によって乗り越える試みでもある。
以上が本書の内容である。第一部は、本書の導入であると同時に中核である。第二部は、その哲学的基礎づけである。第三部は、自生化主義の規範理論である。第四部は、自生化主義の実践哲学である。最後に「終章」は、本書全体のまとめである。