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ジョン・ローマー 著
後藤玲子・吉原直毅 訳
『機会の平等 境遇による格差から自由な社会に向けて』
→〈「第1章 イントロダクション」「訳者解説1 よりよき経済社会を志向する知的探求の旅と「機会の平等」論」「訳者解説2 規範経済学への貢献と現代正義理論に与える展望」冒頭(pdfファイルへのリンク)〉
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第1章 イントロダクション
欧米の民主主義においては,機会の平等についての2 つの構想が広く知られている.1 つめは,地位をめぐる競争をしている諸個人間の「競技場を平準にする(level the playing field)」ために,社会はなしうることをすべきである,というものだ.より一般的に言えば,社会は人格形成期間に諸個人間の競技場を平準化し,その結果として,関連する潜在力を兼ね備えたすべての個人が,ゆくゆくは地位を競合する候補者の予備軍となる権利を有するようになるだろう,ということだ.2 つめの概念は,私が非識別原理(nondiscrimination principle)と呼んでいるものだが,社会での地位をめぐる競争において,当該地位の職務遂行に関連する属性を持っているすべての個人は,適格であるとして候補者の予備軍に含められ,そして,ある個人にとって可能な地位の占有は,その地位に関連する属性という点のみによって判断されるとする.最初の原理の1 つの例は,不遇な社会的背景を持つ子供達に補償の教育が供給されると,その結果として,彼らの大部分が,より有利な子供時代を送った人との間で後に起こりうるジョブをめぐっての競争に必要とされるスキルを獲得するであろう,ということである.2 つめの原理の1 つの例は,当該地位の職務遂行において人種や性が無関係な属性である限り,人種や性のようなものは,地位の適格性に値すると考えられてもいけないし,不利になると考えられてもいけない,ということである.
実際のところ,競技場の平準化原理のある特定の解釈から非識別原理が引き出されているとみなすことができる.その解釈とは以下のようなものである.不当な識別が存在するということは,地位をめぐる競争において,他人に対して不公正な有利性を有する人がいるということだ.実際には考慮されるべきではない社会的態度や実践のために,彼らの当該地位への適格性が優れているとみなされるからである.そのような態度や実践は実際には考慮すべきではないと要求することによって,競技場は平準化される.
しかし,競技場の平準化原理の典型的な適用は,非識別原理よりもさらに進んでいる.たとえば,平等な機会は,公立学校に通う児童1 人当たりの教育支出が州ないし国において平等にされることを要請するかもしれない.もしこのような平等化が実行されなければ,そして非識別原理だけであれば,仕事をめぐる競争において,平等な機会の供給は成り立ちえないだろう.というのは,もし裕福な学区出身の子供達が,貧しい学区出身の子供達よりもより良い教育へのアクセスがあるのであれば,競技場の平準化が早い段階でなされていないことになるからだ.実際のところ,児童1 人当たりの教育支出の平等化は,このようなケースでは,競技場を平準化する方向に向かっては十分に進んでいないかもしれない.もし教育を受けた子供というものが,その子供にとって「内在的」なもの遺伝子,家族,近隣の人々,そして学区によって「外的に」与えられうるもの先生,学校,本といった投入物ないし資源の束に対して,ある種の技術を先んじて適用した帰結なのであれば,競技場の平準化というのは,劣った内的資源の束を持つ人々を,追加的な少量の外的資源によって補償することの要請と考えられるかもしれない.
いかなる先進民主主義国の市民においても,平等な機会が何を要請するかに関しては,一定のスペクトラムで異なる見解が見出される.一方の極には,非識別的な見解があり,他方の極には,社会的供給の普及によってすべての不遇な様式を是正するという見解がある.しかしながら,これらの見解に共通しているのは,平等機会の原理とは,何らかの点で,当該の有利性の達成その有利性が教育達成水準であれ,健康,雇用状態,収入であれ,経済学の言うところの効用や厚生であれに関する答責性は個人にある,という規準である.したがって,機会の平等の概念には「事前」と「事後」が存在することになる.競争が始まる前には,もし必要であれば社会的な介入を通じて,機会は平等化されるべきであるが,しかしそれが始まった後は,諸個人は独力でやっていくことになる.機会の平等に関する異なる見解は,どこに「事前」と「事後」を隔てるスターティングゲートを設置するかということによって分類される.
私は本書で,平等な機会についての異種の見解を体系づけうる厳密な方法の提案を試みる.どこがスターティングゲートであるべきかについて,もしくは,諸個人がゆくゆくは享受する結果ないし有利性に関して答責性を負うべき程度について,異なる人々が異なる構想を抱いている.私の目的は,とくに,社会(もしくは社会の計画者)が,このような個人的答責性に関するいかなる見解をも,その見解と調和する種類と程度の機会の平等政策に変換するアルゴリズムを提案することである.(以下、本文つづく)
訳者解説1 よりよき経済社会を志向する知的探求の旅と「機会の平等」論
吉原直毅
1980 年代以降の新自由主義レジーム下での過度な「市場原理主義」の結果,極端な富の偏在化,貧富の格差拡大が進行した.それに伴い,公共機関や地域社会のコミュニティの中で担われてきたさまざまな社会生活上の諸機能が市場化・民営化され,生活上の基本的ニーズの充足に要する貨幣支出額は増大している.結果として,生活の困窮化と社会の不安定化が進行し,総じて資本主義の「第3 の危機」(日本経済新聞2022 年元旦)が生じているという現状認が広がっている.
格差の進行は80 年代以降の先進諸国,そしてロシア,中国,インドなどの今日の新興諸国においても共通の事象である.たとえば,アメリカでは富の超富裕層への集中が1940 年代と同程度にまで進んでいる.また,2024 年の国際NGO オックスファムの報告書によれば,2020 年に比して世界で最も裕福な5 人の総資産が2 倍超の8690 億ドルに増えた一方,全世界で50 億人が以前より貧しくなっている.また,グローバル大企業に関しても,21~22 年の世界の大企業の利益は17~20 年の平均と比べて89 パーセントポイント増となっている.結果として,世界の最大企業5 社の株式の時価総額は,アフリカ,ラテンアメリカ,カリブ諸国のGDP の合計を上回っている.
こうした格差を「スーパースター効果」と合理化する論理の破綻も,現在では明瞭になった.つまり,労働所得の格差と生産性との相関性は皆無ないしはごくわずかである.むしろ格差の主要因として,1 つは「作業の自動化」,AI,遺伝子工学などの資本集約的なイノベーションによって,所得中間層が担ってきたタイプの労働力の過剰化が挙げられている.また,イノベーションの成果である準レント収益に関わる知的所有権強化の制度改革が行われてきた結果として,資本の集中と資本収益のレント化,全要素生産性の低下が観察され,それは経済のデジタル化のもとで顕著になっている.また,政府の力を凌駕するほどになっているグローバル大企業の力も,2024 年オックスファム報告書も強調するように,政治的意思決定における寡頭制化による民主主義の形骸化と,巨大機関投資家の株主としての巨大な投票権に依拠した,経済的意思決定における寡頭制化を生み出し,結果としての経済的不平等の拡大・格差化を著しくさせている.
このような世界情勢のもとで,これ以上の世界的な経済的格差の拡大を止め,世界の圧倒的多数の人々にとっての善き生(wellbeing)の改善・向上に寄与するような経済社会を志向していくためには,現代の経済理論から広く学び,そこで提示される政策的・制度設計的処方箋の積極的適用を検討することも,ますます必要となってくるだろう.とりわけ,格差という経済的帰結に関する不平等の著しい進行と,その世代をまたぐ継承・再生産の構造もあって,人生選択の機会に関する人々の間での不平等も顕著になってきている.このような背景もあって,本書は,原書が四半世紀前の出版物ながら内容的に全く色あせることはなく,そこで論じられる「機会の平等政策」論は,とりわけ日本社会における経済民主化を今後推進していくうえでも必読な知見であると言ってよい.
本書は
Roemer, J. E. (1998): Equality of Opportunity, Harvard University Press.
の全訳である.また補論として
Roemer, J. E. (2003): “Defending Equality of Opportunity”, The Monist, 86 2, pp.261 282(「機会の平等を擁護する」).
を収録している.なお,原書において残されていた間違いは,訳者の判断で訂正してある.
本書の著者であるジョン・E. ローマーは,現在,イェール大学政治学部および経済学部のエリザベス・アンド・ヴァリック・スタウト記念教授である.ローマーは理論経済学を専門とする世界的に著名な経済学者であるが,その研究領域は狭い意味での経済学の分野を超えて,広く哲学や政治学の分野に及び,それらいずれもそれぞれの分野における一流学術誌に掲載されてきた.また,よく知られているように,ローマーはジェラルド・コーエンやヤン・エルスター等とともに分析的マルクス主義の主唱者の1 人であり,とりわけ経済理論の分野での分析的マルクス主義的研究の主導的研究者である.その分析的マルクス主義の経済理論,分配的正義の理論,および市場社会主義の理論的構想などの研究の国際的卓越性に対して,ローマーは2023 年に第10回経済理論学会ラウトリッジ国際賞を受賞している.
実際,ローマーの手掛けてきた研究テーマは,生涯一貫して左派的な規範的立場に基づいている.それは,現存する資本制経済社会の孕む貧困,不公正,不平等,搾取,支配と抑圧などの諸矛盾の基本原理の解明とその解決・改善の政策的・制度設計的処方箋に関わる基礎理論的研究に向けられてきた.本書もまた,彼の生涯の研究経路の中での1 つの卓越的研究成果として位置づけられるのだが,その経路を辿る中でこそ,その価値も意義づけられよう.
以下では,本書の関連する研究分野を含め,ローマーのこれまでの多様な分野にまたがる研究経路を辿り,それぞれの分野における主要研究成果の意義を整理していく,そして,本書のテーマであるところの「(実質的)機会の平等」論の,彼の全生涯的研究活動上での意義を探ってみたい.それを通じて,本書の意義もあらためて適切に位置づけられよう.
(以下、本文つづく。注は割愛しました)
訳者解説2 規範経済学への貢献と現代正義理論に与える展望
後藤玲子
ジョン・ローマー教授の業績の全体像については吉原直毅氏の十全な解説に譲り,本解説では,前半部で規範経済学における本書の意義を確認する.後半部では現代の正義理論を批判的に展開するためのヒントを,本書の意義から探る.
1. 規範経済学における本書の意義
1.1. はじめに
本書の冒頭には「私は,私と私の環境である」というホセ・オルテガ・イ・ガセットの言葉が記されている.その言葉は,「私は,私と私の環境である.そしてもしこの環境を救わないなら,私をも救えない(Yo soy yo y mi circunstancia, y si no la salvo a ella no me salvo yo)」という一文から引用されている.
いうまでもなく,個人は意識も行動も深く環境によって規定されている.だが,同時に個人は,意識においても行動においても,環境を強く規定し返している.ときには,その存在を賭して,環境を救い,社会制度の変革を試みようとする.本書の著者であるジョン・ローマーは,まさしく変革への意志を貫き通した(いまなお,貫き通している)稀有な経済学者である.本書にもその姿勢が堅持されていることを読者は力強く感じとるだろう.
1.2. 本書の主題
本書の中心的な問いは次である.個人がある行為をとると,本人に甚大な不利益がもたらされることがわかっている.個人はその行為をとらないように努力すること,それとは別の行動をとるように努力することもできた,けれども,結局,彼はその努力を怠り,その行為をとってしまった.その結果(案の定),彼は甚大な不利益をこうむったとしよう.そうだとしたら,彼はその甚大な不利益をその身一つで引き受けるべきだろうか.それとも,そこにはまだ公共政策を発動する論理が残されているだろうか.
たとえば,喫煙をやめようとしない,授業に出席しようとしないなど,不利益を回避するすべがあるにもかかわらず,その努力を個人が怠り,結果的に,健康を害する,進学できなかったなどの不利益が本人にもたらされたとしよう.その不利益の緩和に向けて社会的資源を移転することは妥当だといえるのだろうか.注記すると,ここでの関心は,現実的な妥協やその場その場のアドホックな解法に頼るのではなく(それらを無視するのでもなく),問題を原理的に問うことにある.数理的モデルの力を借りながら,問題の所在と,異なる条件下でつねに最適解をもたらすような解法を探究することが,本書の主題とされる.
1.3. 道徳的責任と答責性
考察の起点をなすのは,トマス・スキャンロンの道徳的責任論である.ローマーはそれを次のように解釈する.「スキャンロンにとって,ある人が,いわば健全な精神状態で,ある行動をすると決めたのであれば,それに対して道徳的に責任がある」(本書23 頁).彼はこのスキャンロンの道徳的責任論を受け入れる.自己の行為に対する個人の責任(responsibility)は,いかなる理由によっても減じられることはないだろうと.だが,とローマーは続ける.そのことといささかも矛盾することなく,結果に対する個人の答責性(accountability)を割り引くことはできる,なぜなら,個人の行為には環境が深く影を落としているからと.
かくしてローマーは,決して減じることのできない責任と,環境の影響を考慮して割り引くことのできる答責性を両立可能とする論理の探究に向かう.ヒントは「努力」概念の操作的な定式化にあった.その定式化をもとに,彼は「機会の平等ルール(EOp 政策)」を提示し,生産経済モデルのもとで,その実装を図る.
1.4. 努力水準と努力程度
通常,努力はきわめて個人的な要因と考えられている.努力するかしないか,どの程度するかしないかは,まったくもって本人次第ではないかと.この常識にローマーは疑問を差し挟む.たとえ努力の「水準」は同じでも,個人のタイプが違えば,努力の「程度」は異なるかもしれないと.彼の言う「タイプ」は個人を規定する環境(境遇)的要因を捉え,「程度」は一定の努力分布(一定の平均と分散を持つ)上でのランクを表す.ローマーの基本的アイディアは次である.各環境タイプはそれぞれの努力分布を持つ.たとえば,学習とは縁遠い環境にあるタイプt は,学習が身近な環境にあるタイプt’ と比べて,学習に関する努力水準の平均は低くとどまり,努力分布の分散は原点周辺に偏っているかもしれない.いま,2 人の子どもがいて,1 人はタイプt に属し,もう1 人はタイプt’ に属するとしよう.2 人の出席率はほぼ同じくらい低いとしたら,学習に関する努力「水準」もほぼ同じくらい低いと見なされる.だが,努力「程度」に関しては,不利な環境にある前者のほうが,有利な環境にある後者よりも高い可能性のあることは否めない.
1.5. 機会の平等化ルール(EOp 政策)
このような考察をもとに,ローマーは,個人の答責性を絶対的な努力「水準」ではなく,個人の属する環境タイプに固有の努力分布上の位置,すなわち努力「程度」に基づかせることを提案する.そして,環境タイプと努力「程度」を情報的基礎として資源分配を定める「機会の平等ルール(EOp 政策)」を提示する.「機会の平等」は,しばしば,個々人が競い合う「競技場を平準化すること(levelling the playing field)」と表現される.
(以下、本文つづく。注は割愛しました)
