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アマルティア・セン 著
鈴村興太郎・蓼沼宏一・後藤玲子 監訳/栗林寛幸・坂本徳仁・宮城島要 訳
『集団的選択と社会厚生 拡大新版』
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新しい序文(2017 年) 社会的選択と本書
社会は様々な選好と優先順位を持つ一群の人びとから構成されている.集団を的確に代表する社会的決定を行おうとすれば,社会は人びとの(多種多様でありうる)見解と利害を,真摯に考慮する必要がある.集団の総合的な評価は社会的選択理論で中心的な意義を持っているが,総合的な社会的評価の形成という課題は,決して生易しいものではない.詩人ホラティウスによってつとに指摘されたように,「人びとの数だけ異なる選好評価がある」からである.この難問に取り組むことこそ,社会的選択理論の課題である.
社会的選択の問題は,一国の統治機関の選出や,公共政策を決定するための国民投票の実施,人びとの経済的・社会的な機会の拡大,個人や少数者の権利と自由の保障など,様々に異なる姿で登場してくる.さらに我々は,地球規模の多様な問題とも取り組む必要がある.これらの問題には国際貿易と経済関係,国境を越える平和の維持とテロ活動の抑止,人口の国際移動に関する合理的な取り決め,教育及び文化的な交流の促進,そしてもちろん現在非常に挑戦的な課題となっている世界的な気候の健全な維持に関する決定が含まれている.このように我々の生活は多種多様な社会的選択の問題に取り巻かれているのである.
国民的・国際的な政策とその社会的な優先度の決定という,非常に難しい重要課題に加えて,社会的選択の課題には,一国ないし全世界の人びとといった集団になにが起こりつつあるかという困難な判断を形成することも含まれている.その集団は以前よりも豊かになったのか.集団内部の社会的な不平等は縮小したのか拡大したのか.集団内部の貧困は,従来よりも増大したのか,どれほど広範囲にわたっているのか.また,制度的な評価の問題に立ち入れば,現在姿を現しつつある社会的な決定は真に民主的な決定といえるかどうか.
社会的選択理論の起源は,コンドルセ侯爵を嚆矢とする18 世紀フランスの数学者たちの研究に求めることができる.そうした貢献は啓蒙主義と民主主義の双方に共感する社会で行われた.当時の社会では,人びとを平等かつ内省的な創造物として扱うべきことが大勢の見方となっていた.こうした見方はフランス革命において最も鮮明に表現されることになるのだが,初期の社会的選択理論の研究者――コンドルセやボルダなど――が,人びとを平等な存在として取り扱うという一般的な目標を共有する数学的な定理を提示したまさしくその時代に,フランス革命は爆発的に広まったのである.ケネス・アローは20 世紀の現代的な社会的選択理論の創始者だが,彼もまた,この平等主義的な伝統に連なっている.
アローの不可能性定理は,社会的な決定を個人の選好に関連づける手続きが民主主義的であることを求める一見控えめな一群の公理がどんな決定手続きによっても満足されることはないという驚嘆すべき重大な結果を,厳密な論法を用いて証明するものだった.(この重要な定理が提起する問題については,後続の「新しいイントロダクション」と第A1 章から第A2* 章で議論することになる.)アローによる社会的選択の問題の定式化が,不可能性定理と同様に非常に重要な意義を持っていることは,社会的選択理論という学問分野の発展が示している通りである.アローの不可能性定理については,それに挑戦する試みと並行して,それを拡張する試みも存在している.さらに,アローの公理及び不可能性定理の倫理的・政治的解釈に関しても,数多くの貢献がなされてきた.アローの否定的な定理は,社会的選択の可能性に関する驚くほど多数の文献を弁証法的にもたらしたのであり,ある程度まで本書もその文献の一部である.
1950 年は,若い大学院生だったアローを革新的な社会思想の世界的指導者に押し上げた,社会的選択理論の先駆的な論文(Arrow 1950)が公刊された年である.同じ年には,現実の社会的選択にとって興味深い多くの地政学的な展開があった.共産主義の中華人民共和国が広範な外交上の承認を受けたのは同年であり,国際連合が朝鮮戦争に国連軍を派遣したのも,インド共和国が新たな民主主義的な憲法のもとで発足したのも,ジョセフ・マッカーシー上院議員がアメリカ人のなかの「反アメリカ主義」を摘発するキャンペーンを張って,政治的に暴走していたのも,同じ1950 年のことだった.これら高度に現実的な問題に対しても,社会的選択理論は――異なる方法によってだが――有効である.C. P. スノーが,大衆的な人気を博した小説『学寮長(The Masters)』で鮮やかに描写した学寮長選挙という学術界の集団的な選択に関わる権謀術数の論脈でも,社会的選択理論は有効である.スノーの小説が出版されたのは,1950 年のアローの論文が提起した教訓を,総合的に展開した古典的な著書『社会的選択と個人的評価』(Arrow, 1951a)が出版されたのと同じ1951 年のことだった.
社会的選択の理論の現実との関連性にもかかわらず,これらの社会的選択の現実的な事例に対して,形式化された社会的選択理論が直接的に適用可能だと考えるなら,いささか誇張が過ぎるというべきだろう.数学的な社会的選択理論の発展は,(本書で議論され例証もされるように)現実の懸案事項と究極的には関連しているが,即席の応用とは一定の距離を保って,理論的な分析に集中する傾向がある.形式的に整備された分析と形式に捉われない議論がそれぞれ担う役割と両者間の相互関係を理解することは重要である.直裁な応用と一見距離を保つことには利点があり,それは厳密な論理と数学的な分析手法の発展を促進することにはとどまらない.もし,すべての分析上の新展開が日々の出来事への即座の応用の観点から正当化されなければならないとすれば,洗練された理論的な分析の発展は到底望めないことになるだろう.
公理的方法は概念的な普遍性を持っていて,きわめて多様な分野に対して類似した分析結果の適用を可能にしてくれる.例えば,アローの直接的な関心は厚生経済学にあって,とりわけ功利主義的な厚生経済学が瓦解した廃墟の上に「社会厚生関数」を再構築するというアブラム・バーグソン(Bergson 1938) とポール・サミュエルソン(Samuelson 1947)が主導したプランの批判的な検討に絞られていたが,彼が到達した結論は,民主主義と参加型の統治という政治的な問題に対しても,等しく有効性を持っていた.サミュエルソン(Samuelson 1957, p. viii)が正しく指摘したように,アローの「数理政治学」は「民主主義の長い歳月を経た難問に新たな理解の光」を投げかけたのである.
社会的選択理論のアプローチは,不平等,貧困,流動性,生活水準の指標など,多様な経済的・社会的な測度を工夫する問題とも,密接な関連がある.これらの関連は,本書(1970 年の初版及びこの拡大版の新しい章)が探求する主題に部分的に含まれていて,社会的選択の純粋理論と多くの分野で我々が直面する多種多様で実践的な問題――応用厚生経済学,社会的・経済的な成果の評価,民主主義的な手続きの評価,自由と人権の追求,及び正義と不正義の精査など――の関係を,鮮明に例示することに役立っている.
個人的評価と社会的選択
アローが創始した現代的な社会的選択の理論を,我々はどのように理解するべきだろうか.バーグソンとサミュエルソンを継承して,アローは人びとの利害関心を表現する集計的な社会厚生関数に関心を持ち,社会における個人の評価を集計的な社会厚生関数に関連づけている.1951 年の著書『社会的選択と個人的評価』でアローが提示して,社会的選択アプローチの決定的な定式化となったのが,個人的評価と社会的選択の間の関数関係だった.彼の1950 年の論文の議論は,この著書によってさらに深められたのである.
1970 年の本書初版が提示して,この拡大版で拡張されている私の研究は,アローの先駆的な研究によって直接に触発されたものである.本書の焦点は大筋において事実の説明と予測を目的とする投票理論ではなく,規範的な社会的選択の理論に絞られている.実際に適用されているか,また適用することが可能な様々な投票手続きの検討も興味深い課題であり,私は他の所,なかでも「投票方法の判定の仕方」という論文(Sen 1995b)で,投票手続きを議論している.だが本書は,主として社会的選択の理論と厚生経済学の基礎,及び倫理学や政治哲学とこれらの研究課題の関係に関わっている.多数決のような基本的な投票方法は規範的な社会的選択理論とも深い関係を持っていて,その文脈で本書も投票方法に注目することになる.
アローは社会厚生関数という用語を個人の評価と社会厚生の間の関係を描写するために使用している.この用語法の採用は社会的選択に民主主義的な基礎を賦与しようとするアローの試みの一部だったが,この試みはコンドルセ侯爵がフランス革命後のフランスの将来に関する理論で達成を企てたことと,完全に軌を一にしていた.だが,コンドルセが1780 年代の初頭に投票の数学理論を確立しつつあり,『人間精神進歩史』(Condorcet 1795)で形式的でない方法で研究を進めていた時代には,フランス革命はまだ水平線上にその姿を現しつつある段階だった.ヨーロッパ啓蒙主義の時代には,アダム・スミス(Smith 1759, 1790),トマス・ペイン(Paine 1776, 1791),イマニュエル・カント(Kant 1788),ジェレミー・ベンサム(Bentham 1789),メアリ・ウルストンクラフト(Wollstonecraft 1790, 1792)などにより,体系的だが非数学的な社会的評価の探索も追求されていた.以下で論じるように,これらの理念の多くも社会的選択の研究分野と深い関わりを持っている.
社会的選択理論に私が関与してきた経緯
アローの『社会的選択と個人的評価』は,社会的な決定の厳密な分析に革命をもたらして,現代的な社会的選択理論を誕生させた.この本が公刊された1951 年は,私がコルカタのプレジデンシー・カレッジで学部生の教育を受け始めた年だった.私は刊行後わずか2〜3 か月の学部1 年生当時にアローの著書に出会うという幸運に恵まれた.才気煥発の級友シュカモイ・チャクラバルティによって私はこの本に興味を持つことになったのである.彼は,他の多くの卓越した資質のうちでも,飽くことのない読書家であり並外れた学者でもある点で抜群の存在だった.彼はアローの新著を,寛容な店主がいる地元の本屋から借用してきた.ある朝のことだが,興奮した彼は私にアローの著書を見せて「この本に君は非常に強い興味を持つに違いない!」と言った記憶がある.彼は正しかった.カレッジの筋違いに位置するカレッジ・ストリートの喫茶店に座り込んで,シュカモイと私は「不可能性定理」を含むアローの数学的結果と,数学的でない洞察の重要性について,延々と議論を重ねた.これこそ私の終生にわたる社会的選択理論への関心の出発点だった.アローのこの著書は,私のなかですでに芽生えていた民主主義と正義に対する関心に,非常によく合致していた.世界の根源的な社会問題の取り扱いに,数学的な推論と非数学的な推論を混合するアローの方法は,大半の級友や教師にはかなり風変りに見えることを認識していた私だが,非常に魅力的な主題として直ちに社会的選択理論にのめりこんだ(その当時,非常に若い教師だったタパス・マジュムダーは勇気を鼓舞してくれる例外的な存在であって,私が興奮した主題について,マジュムダーと私は大いに語り合うことができた).
コルカタで経済学と数学を2 年間学んだ後,ケンブリッジ大学に入学した私が学生仲間――及び教師――たちを社会的選択理論に誘う試みは,みじめな失敗に終わった.わずかな例外のすべては,私が所属したトリニティ・カレッジにあった.その例外のうちには学部生仲間のなかで非常に広い関心の持ち主で才気ある経済学専攻のマイケル・ニコルソン,教師のなかではモーリス・ドッブとピエロ・スラッファ――2 人の偉大なマルクス経済学者――が含まれていた.私の教師のひとりだった傑出した経済学者ジョーン・ロビンソンは,概して私にはとても優しかったが,私が知的に優先するようになった事柄にいかなる関心も持ってくれなかった.彼女は私にはとても親身で,とても思いやりもあったが,社会的選択理論への私の関心を意志の弱さの類い――古代ギリシア人がアクラシアと呼んだもの――に過ぎないと考えていた.私は自信を欠いていたために,モーリス・ドッブが自然に湧き起こる自らの関心を追求せよと私を強く激励してくれたことは,非常に重要だった.偉大なインド人経済学者であって,家族ぐるみで親交もあり,私の教育に大きな影響力を持っていたアミヤ・ダスグプタが,「ジョーン・ロビンソンや他の誰かが勧告すること」に従うよりも,私自身が関わりたいと思うならばどんなテーマであれ追求する勇気を持てと指導してくれたことも,私にとって非常に重要だった.
後に私がケンブリッジ大学の講師になったとき,カリキュラムに社会的選択を正式に加えようとする私の新たな努力はまたしても実を結ぶことはなかったが,「厚生経済学」という科目を工夫して,そこに社会的選択理論の雰囲気を盛り込むことには,なんとか許可を得ることができた.経済学部の教務委員会は,この許可は私へのきわめて異例な譲歩であって,私がこの措置に感謝することが期待されていると伝えられた.私は従順に謝意を表明した.
ケンブリッジで学んでいたサミュエル・ブリタン,ジェームズ・マーリース,クリストファー・ブリスとは社会的選択理論に関連した主題について啓発的な議論をする幸運に恵まれたとはいえ,周囲にいた少数の人びと――学生と同僚――を超えて社会的選択理論への体系的な関心を広めることができたのは,私がケンブリッジ大学を去った後のことだった.この素晴らしい成功は,私が1963 年に教え始めたデリー・スクール・オブ・エコノミクス(学生たちは「Dスクール」と呼んでいた)においてもたらされた.ケンブリッジの若齢の教師であった頃の私は,「自由時間」には社会的選択の問題と取り組み始めていたが,最初の頃はまったく別の主題――生産技術の間で選択を行う方法――に関する博士論文の作成作業も進めていた.これは,私の指導教員たちが[社会的選択理論より]「もっと価値があり」「もっと実践的な」課題であるといって私を説得しようとしたが,完全には成功しなかったテーマであった.拙速に書き上げた博士論文は『技術の選択』(Sen 1960)というタイトルで出版された.この論文は,当時活発に議論された代替的技術を評価する基準に関する論争を解決するものだったため,私はこの論文の出版に不満だったわけではない(幸運にも本書は数回にわたって重版されている).だが,このテーマへの私の関心はその後長くは続かなかった.
そうこうするうちに,私は社会的選択については多くの課題が残されていること,とりわけアローの不可能性定理は探索の経路の「終着点」――往々にして解釈されているように,理性的な民主政治への希望を優雅に破壊した成果――ではなく,さらに探索と発展が求められる体系的な学問の建設作業の「出発点」であるという確信をさらに深めていった.私はデリー・スクール・オブ・エコノミクスで,社会的選択理論に関する新鮮で建設的な科目を考案することを熱望していた.この熱望は,私がデリー大学で教えていたそれ以外の科目――D スクールにおけるミクロ経済学原理と初等的なゲーム理論,デリー大学のその他の学部における認識論と数理論理学――ともよく調和していた.本書の初版(1970 年)は,私がD スクールで準備した講義ノートにその起源を持っている.
(以下、本文つづく。注は割愛しました)
監訳者解題 センの規範的経済学と主著『集団的選択と社会厚生』
鈴村興太郎
1. プロローグ
本書の著者アマルティア・K. センが重要な学術的貢献を果たした研究分野は膨大だが,その核心が厚生経済学と社会的選択の理論及び正義論を巡る道徳哲学と政治哲学にあることは,衆目が一致して認めるところである.1998 年に彼がノーベル経済学賞を受賞した際に規範的経済学への彼の創造的な貢献が業績評価の核心として脚光を浴びたことは当然のことだが,彼の研究は自由論・権利論・民主主義論など,道徳哲学と政治哲学への幅広い関心に終始一貫して裏打ちされている.また,センの主要な貢献は規範的経済学の基礎論に寄与する理論的な性格のものだが,その研究活動は決して専門研究者のサークル外部では理解されない秘儀的なゲームにとどまってはいない.《人間生活の改善の道具》(アーサー・ピグー)を鍛える実践的な研究の水路を開拓して,応用研究と実践活動に多大な影響を及ぼした業績が質量ともに数多いことは,彼の研究の大きな特徴である.この事実は人びとの処遇の衡平性に関するセンの研究の卓越した影響力,貧困・飢餓・飢饉に関する彼の理論的な研究が開発経済学の分野において実践的研究を誘発してきたこと,国連と世界銀行の開発援助政策の変貌に重要な役割を果たしてきたことに,よく反映されている.センの研究の中核を占める理論的な成果から生まれる政治的メッセージを発信して,世界を変えようとする積極的な努力も,彼の精力的な活動の不可欠な一部なのである.この活動の代表的事例には,中国の《大躍進》期に進行していた悲惨な大飢饉を,ベンガル大飢饉以降にインドでは大飢饉の発生が絶無であるという事実と対比して,《報道の自由》と《民主的な選挙制度》が大飢饉の警告と防止に果たす機能を炙り出した研究や,ジェンダー間の衡平な処遇を要求する声を支援した “More Than 100 Million Women Are Missing” という論文[Sen(1990)],最近の例では,アメリカ大統領の予備選挙の制度的な仕組みは民意を的確に反映する機能を実現できているかという重要問題を巡ってエリック・マスキンと共同執筆した研究[Maskin and Sen( 2017)]などが含まれている.
社会的選択の理論に関するセンの『集団的選択と社会厚生』(初版1970 年)の拡大新版(2017 年)の邦訳を提供するこの機会に,厚生経済学と社会的選択の理論の生成過程をたどりつつ,当該分野における彼の理論的貢献の骨格と性格及びその意義を監訳者の責務として簡潔に解説することにしたい.
2.規範的経済学の第一の主翼:厚生経済学の誕生と変遷
規範的経済学へのセンの主要な貢献の核心には,厚生経済学の情報的基礎の再構築と社会的選択の理論の創造的な革新がある.規範的経済学の生成過程に触れつつ,まずこの事実を簡潔に説明することにしたい.
厚生経済学(welfare economics)は,ジェレミー・ベンサムに発端するイギリス功利主義の伝統を継ぐピグーの『厚生経済学』[Pigou (1920)]によって独立した研究分野として確立された.その序文の末尾には,経済学者が追求する複雑な分析は単なる頭脳の訓練ではなく,《人間生活の改善の道具》を鍛錬する作業であるというピグーの創業の理念が述べられている.この理念を具体化するためには,人間生活の《改善》を目指す前提として,【善】の観念を明確にする必要がある.ピグーの『厚生経済学』は,彼が前提する【善】の観念を明示していないが,彼の厚生経済学の道徳哲学的基礎がベンサムに端を発する《功利主義》哲学の岩盤に立っていることは,多くの研究者が認めるところである.【善】の功利主義的観念を承認すれば,人間生活の【善】の追求とは人びとの《最大多数の最大幸福》の実現を目指すことにほかならないことになる.エッジワースと同様にピグーにとっても,人びとが財やサービスを得ることから獲得する《効用》は,彼らが獲得するリンゴと同じく個数を列挙できる《基数的》(cardinal)な概念であるうえに,《個人間で比較可能》(interpersonally comparable)な概念でもあった.そうであれば,社会的に望ましい経済的変化とは個人的な効用の社会的総和を最大化する変化であると考えるのは,論理的に当然だとはいえないまでも,ごく自然なことに思われたのである.
ピグーの【旧】厚生経済学の功利主義的な情報的基礎を破壊する批判の口火は,厚生経済学の建設の槌音もいまだ鎮まらない1930 年代初頭にライオネル・ロビンズ[ Robbins( 1932)] によって切られた.彼によれば,異なる人びとの効用を個人間で比較するとか,その社会的な総和を作ることには《科学的》な根拠はなく,人びとの間に利害対立が発生する状況で社会的《改善》を客観的に判定することは不可能な難題なのだった.彼の批判はピグーの厚生経済学の信認を大きく毀損して,人間生活の改善の科学を標榜する厚生経済学を志向する若い世代に,大きな衝撃をもたらしたのである.ロビンズの批判の激震を体験したポール・サミュエルソン[ Samuelson( 1981)]は,彼一流のレトリックを駆使して印象的な証言を後世に残している.彼によれば,
ロビンズが王様は裸だと叫んだとき,すなわち異なる人びとの効用を比較することの規範的な妥当性を,客観的な科学が駆使するいかなる経験的な観察によっても検証したり証明したりできないと述べたとき,その時代のすべての経済学者たちは,突然寒空のもとで自分は裸であると感じたのである.彼らのうちの多くは【善】を追求して経済学を専攻したのに,彼らの仕事は配管工や歯医者あるいは会計士のようなものに過ぎないと途中で気づくことは,悲しい衝撃だった