あとがきたちよみ
『眠れる主権者――もう一つの民主主義思想史』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2025/3/14

 
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リチャード・タック 著
小島慎司・春山習・山本龍彦 監訳
『眠れる主権者 もう一つの民主主義思想史』

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解題
 
はじめに
 本書はRichard Tuck, The Sleeping Sovereign: The Invention of Modern Democracy(Cambridge University Press, 2016)の全訳である。二〇一二年にケンブリッジ大学で開催されたジョン・ロバート・シーリー記念講義が基になっている。著者のリチャード・タックは、トマス・ホッブズを中心とする一七、一八世紀の政治思想史を専門とする著名な思想史家であり、いわゆるケンブリッジ学派に属する代表的人物である。ケンブリッジ大学に勤めたのち、現在はハーヴァード大学に在籍している。この分野における第一人者といってよいだろう。日本でもこれまで二冊が翻訳されている(田中浩・重森臣広訳『トマス・ホッブズ』(未來社、一九九五年)、萩原能久監訳『戦争と平和の権利』(風行社、二〇一五年))。
 
本書の内容
 タイトルからもわかるとおり、本書の主題は主権論である。タックによる主張はシンプルなものであり、以下の二点に集約されると思われる。第一に、主権者の権力は国家の統治全般に及ぶわけではなく、憲法に関する領域での決定権および統治者(政府)の選任に限られる。すなわち主権者と統治を行う政府の次元は明確に区別されるべきである。第二に、統治者は主権者の選任を受け、一定期間、統治のほぼ全領域を司る。そして統治者(政府)が再び選任されるときがくるまで、原則として主権者はあらわれることはない。これが「眠れる主権者」の意味である。そして、この主権と統治(政府)の区分こそが、古代ギリシャのような直接民主主義が現実的なものではなくなった近代におけるデモクラシーの基本的前提だという。また、驚くべきことに、この主権論は、ジャン・ボダンによって提唱されて以来、ホッブズからルソーへ、そしてさらには革命期のフランスや独立後のアメリカ大陸へと継承されたものであるとされるのである。
 主権論はもともとアリストテレス以来の政体論と密接に結びついていた。しかし、アリストテレスによる政体分類論、特に混合政体論を批判したのがボダンだとされる。ボダンによれば、主権とは憲法レベルの領域での決定権および統治者(政府)の選任を行う権限を意味する。日常の統治を行う権限は主権とは別に存在する。つまり、政体を分類するために必要なのは、誰が政治上の実権を握っているかを分析することではなく、その実権を誰が与えているのかを分析する必要がある。このように考えれば、主権を分有するものとしての混合政体などは存在しないことになる。
 主権と政治の実権は異なるため、主権のレベルでは民主政でありながら、統治のレベルでは君主政という国家もありうることになる。実際にはボダンは君主政を擁護するために主権論を提唱したけれども、それはあくまで統治のレベルにおける君主政の擁護であって、主権が人民にありうる可能性も理論的には認めていたとされるのである。こうしてボダンは近代国家のための主権理論を準備した。
 もっとも、君主主権、および君主による統治を擁護するボダンの議論からは、近代のデモクラシーにおいて主権―統治理論がどのような意義をもつかが明らかではない。タックによれば、このボダンの主権―統治の区分論を近代におけるデモクラシーという文脈に位置づけて再生したのがホッブズとルソーに他ならない。
 ホッブズは、当時ヨーロッパに広く影響を与えた『市民論』において、ボダンと同様に混合政体論を否定し、主権の所在を政体の基準とした。ボダンと明らかに異なるのは、ホッブズは、国家の起源は人民主権であり、君主政も貴族政もそこから移行したものであると考える点である。ここでいう「人民」とは、意思決定機関である会議体(convention)を備えたものであり、多数決によって単一の意思をもつ主体である。すなわち、ホッブズのいう人民とは、ばらばらの大衆ではなく、統一的な意思決定を前提としており、その意味で君主と互換可能な主体なのである。
 ホッブズはこの人民を後継者のいない絶対君主にたとえている。この人民=君主は会議を開き、日常の統治を行う者を任命し、再びその後任を任命するときがくるまであらわれない。いわば「眠る」のである。本書のタイトルはホッブズが用いたこの比喩に由来している。もっとも、次にいつ会議を開くかを約束しない人民は、眠ったまま起きることのない君主と同様であり、それゆえに主権をもはやもたないことになる。こうして君主政や貴族政への移行が生じる。
 タックによれば、ルソーもこうした主権―統治の区分論を引き継いでおり、これを踏まえなければ『社会契約論』を始めとするルソーの国家論をよりよく理解することはできない。実際、『社会契約論』において、ルソーは、主権者である人民は集会を開き、多数決で意思決定を行う主体であり、日常の統治者である政府を任意に任命することができると述べている。ルソーがホッブズと異なるのは、主権は人民に属するものであり、かつそれを譲り渡すことはできないとしている点である。
 『社会契約論』によれば、主権者である人民が一般意思に基づき法律を制定する。法律は一般的なものであり、それを適用、執行するのは特殊、個別的なものである。前者は主権者の任務、後者は政府の任務である。そして政府は法律によって設立されるものである。注意しなければならないのは、ここでいう「法律」を、現代でいう議会制定法のようなイメージで理解してはならないことである。ルソーのいう「法律」は、主権者の多数決で決定する法規範であるから、現代でいう憲法に相当する規範であると考えられる。
 ルソーによれば、この主権―統治論は、近代においてデモクラシーを実現するために必要不可欠な構想である。ここでいう近代とは、各人が自らの生計を立て、個人的利害のために必死に活動しなければならない世界だとされる。デモクラシーの源流とされる古代のアテネやローマとは異なって、このような世界では、人民が日常的な統治について日々集まり、意思決定をするということは不可能である。人民にできることは、主権者として、一定のタイミングで、基本的な法律を制定し、統治を行う者を選任するという任務しかない。
 以上のようなボダン、ホッブズ、ルソーの主権―統治論の系譜を辿る第一章から第三章の前半までを、本書におけるいわば理論編とするならば、第三章の後半から第四章は、実践編である。すなわち、理論としての主権―統治論が現実の政治にいかに反映されたのかが中心に描き出される。
 ルソーも『ポーランド統治論』などで具体的な国家をイメージした提言を行っていたが、実現には至らなかった。主権―統治論が現実味を帯びるのは、大革命後のフランスである。というのも、主権者である人民の多数決による意思決定という理念が、人民投票というアイデアによって初めて具体化されたからである。
 それを担ったのは、ブリソやコンドルセら、いわゆるジロンド派である。フランス革命期に、ジロンド派は、特に新憲法の制定を念頭に置き、代表者たちによる議論によってではなく、全人民の多数決によって承認されなければならないという議論を展開した。ジロンド派による憲法草案は、それを具体化したものである。政争によってジロンド憲法は結局施行されることはなかったけれども、新憲法が人民の投票によって承認されるべきであるという理念は消えることはなく、その後のフランス政治に定着したとタックは主張する。
 そして、実はほとんど同時期に、アメリカの邦(state)でも人民投票による新憲法の制定ないしは改正が現実のものになりつつあったという。マサチューセッツやニューハンプシャーといった邦では、実際に人民投票が行われていたのである。なお、当時はまだ連合規約が結ばれる前であるから、これらの邦はそれぞれ一つの独立した主権国家に相当することに注意する必要がある。タックによれば、人民投票による人民の意思決定という考え方は、アメリカ合衆国が成立してからも、各州の州憲法に定着するようになったという。
 しかし、現在の合衆国憲法には人民投票の規定は存在しない。憲法修正の手続を定めるアメリカ合衆国憲法第五条は人民投票を要求せず、各州の州議会や特別に招集される会議体による承認で憲法修正は成立すると規定している。したがって、主権―統治論の立場から見ると、合衆国憲法は、主権者である人民の決定権を制約するものとしてみなされることになる。タックの立場によれば、主権者であるアメリカの人民はまさに「眠っている」のであり、再び起き上がるための制度が存在していないのである。
 タックはこうした現状に明らかに批判的である。国家にとって重要な決定を下す権限は主権者になければならず、そのためには人民投票のような制度が不可欠だからである。タックにとって、本書で描き出した主権論は、現代においても妥当すべき理論である。さらにタックは、自身の理論から合衆国憲法をどのように解釈すべきかという憲法解釈方法論にまで踏み込み、人民の主権を前提とした独創的な議論を提示している。このように、本書は壮大な政治思想史研究であるだけでなく、現代のデモクラシーのあり方を模索する、すぐれて実践的な書物にもなっているのである。
 
本書の評価
 主権と統治(政府)の区分という考え方自体は、ボダンやルソーなど個別の論者についてこれまで指摘されてこなかったわけではない。タックの著作の独自性は、グロティウス、プーフェンドルフ、シィエスら、主権と統治の区別を認めない論者の系譜と対比しながら、主権―統治区分論をボダン、ホッブズ、ルソーに通底する思想として描き、さらにそれを現代のアメリカの憲法論にまで敷衍した点にあるといえよう。タックと似たような主権と統治という問題意識から議論を展開する研究も近年見られるようである。
 本書の出版後、さまざまな書評が発表されている。総じて本書の独創性や現代政治へのアクチュアリティを高く評価するものであるが、ここでは批判や疑問を提起する書評を若干紹介したい。たとえば、ホッブズとルソーを主題にした著書も出版しているロビン・ダグラス〔Robin Douglass〕は、ルソーとホッブズの関係について、タックは連続性を強調し過ぎており、ルソーにおける断絶を軽視していると批判する。主要な点に絞って紹介すれば、第一に、ホッブズは主権と統治を区別しているとしても、ルソーの用語法は、立法権と執行権とで区別している。これはロック的用語法であり、伝統的な政治思想史が位置づけるように、ルソーはロックの系譜を意識していたのではないか。第二に、タックはルソーの法律(loi)を基本法、すなわち憲法であるとするが、ルソーは『社会契約論』第二編第一二章で、民法と刑法もまた法律に分類している。したがって、タックの限定は恣意的ではないか。第三に、ホッブズは主権者が数十年にもわたるかなりの長期間「眠る」ことも認めるが、ルソーは政府に主権を簒奪されないように定期的な人民の集会を提唱していたのであり、この点でもホッブズとルソーに連続性を認められるかは疑問である。第四に、ルソーが主権は人民に存するのであって、これは譲渡不可能であると述べたことは些細な相違ではなく、ホッブズとの断絶を示しているのではないか。
 このダグラスの批判の妥当性について筆者は判断できる能力を有していない。しかし、仮にホッブズとルソーの断絶を強調するとしても、主権と統治の区分という枠組み自体が両者に共通していること、そしてその枠組みがもった歴史的意義は失われないように思われる。また、タックはルソーについて、ホッブズの議論を近代的な民主主義のために前に進めたという評価をしており(本書一〇五頁)、単純な継承関係にあると論じているわけではない。タック自身、別の論文で、あらためてホッブズとルソーの連続性を強調しているところであるがv 、両者の関係については今後も議論が続けられるだろう。
 また、アダム・スミスなどのスコットランド、イングランド思想史を専門とするポール・セーガー〔Paul Sager〕によれば、タックの一八世紀に関する議論はルソーにしか着目しておらず、イングランドやスコットランドの思想家、とりわけデヴィッド・ヒュームやアダム・スミス、エドマンド・バークを等閑視している。彼らは、政府の背後には主権どころか何も存在せず、ただ「人々の意見(opinion of mankind)」、いわば世論のみが存在すると論じた。主権とは、人民の多数決による究極的な権威ではなく、さまざまな世論による権力闘争の結果として獲得される正当性に過ぎない。これはまさにルソーが排除したものであるけれども、商業社会における人民の要求にこたえる方策としての選挙権の拡大というデモクラシーの歴史をよりよく説明できるのは、世論による政治という概念ではないか、とセーガーは主張する。そして、ルソー的な人民投票は現代における標準装備とはいえず、実際、アメリカ合衆国憲法はタックも認めるとおり人民投票規定をもっていないではないか、と疑問を呈する。
 セーガーの批判も興味深いが、タックは、終章において、イギリスは議会主権の原理によって、本来は政府に過ぎない議会が憲法事項を変更できることを指摘し、そもそも主権と統治の領域が未分離であるため、その点で前近代的であると評価している。この点がイギリス圏の政治思想が評価されない要因とも考えられる。もっとも、人民投票規定をもっていないアメリカ合衆国憲法が近代的な民主主義のモデルといえるのか、という疑問は真剣に受け止める必要があるだろう。むしろ、ブレグジットをめぐる国民投票が行われ、まさに本書でいうような主権者人民が決定を下したようにみえるイギリスの方が、この後に紹介するレヴィンソンが指摘するように、本書の議論が妥当するようにみえるからである。今後はブレグジットを経験したイギリスも射程に入れた議論が必要になるといえるかもしれない。
 さらに、本書は憲法学を専門とする研究者からも注目を集めている。タックの主権論は憲法論に大きな示唆を与えるものであり、本書の構成からしても、アメリカを中心とした現代の民主主義論、人民主権論のあり方に強い関心があることが容易にみてとれるからである。たとえば、著名なアメリカの憲法学者であるサンフォード・レヴィンソン〔Sanford Levinson〕は、イギリスの国制に本書の議論を適用している。特に重要なのは、二〇一六年に行われたブレグジットの国民投票の結果を受けて、人民主権の原理によって長年維持されてきた議会主権の原則が覆されてしまった可能性を指摘する点であろう。こうしてレヴィンソンは、狭義の政治学者のみならず、「主権」や「民主主義」を考えるすべての人々にとって本書が有益であると評価している。
 他、人民を「主権者」として実体化することへの警戒から、現代ではむしろシィエスやグロティウスを再評価すべきではないかという実践的な観点からの評価やx 、タックの議論は主権者人民が立ちあらわれる前提条件を無視し、人民を所与のものとして単純化することで多数決主義に還元してしまうものとして批判するものがある。今後もタックの議論をめぐって活発な論争が繰り広げられることが期待されよう。
 
憲法学者が本書を翻訳する意義
 さて、本書の訳者たちもまたレヴィンソンと同様、政治思想や歴史に強い関心をもっているものの、もっぱら実定法としての憲法を研究する者たちである。したがって、本書の思想史研究としての厳密な評価はそれぞれの専門家に委ねる他ない。それにもかかわらず我々が本書を翻訳するのは、本書の主題が、すでに言及したように、憲法学にとってもきわめて重大な問題を提起しているからである。本書の訳者たちも含め、タックの議論を素材にした研究が憲法学において続々とあらわれているのはその証左であろう。では、本書が憲法学にどのような示唆をもたらすのか。いくつか簡単に提示してみたい。
 第一に、国民主権の解釈である。日本国憲法が国民主権を採用していることは良く知られている。しかし、そこでいう主権の意味とは何かについて、憲法学では、フランス革命期の主権理論も踏まえて、かつて活発な論争が繰り広げられたことがある。論争を経た現在、定評のある憲法学の教科書では、国民主権について、国民が自ら統治のあり方を最終的に決定するという権力性の要素と、国家権力を正当化し権威づける根拠が国民であるという正当性の要素があると説明されている。
 本書の主権論を前提にすると、国民主権はその権力性の要素こそが本質だということになろう。そして、ここでの「国民」は抽象的で理念的なものではなく、具体的に投票行動をすることのできる有権者団を意味することになる。また、「最終的に」決定するというのは、具体的にいえば、憲法改正や統治者の選任といったきわめて重要な事柄の決定権を有するという意味として解釈すべきであり、日常的な権力行使については、選任した統治者(政府)に委ねるべきだということになる。日本国憲法がタックのいう主権理論を採用しているかはまた別の問題であるが、通説的見解に新たな光を照らすものであることは間違いないだろう。
 第二に、憲法制定権力である。シィエス『第三身分とはなにか』において主張された憲法制定権力は、憲法学においても議論の対象となってきた。もっとも、主権との異同や憲法制定権力論そのものの意義について、憲法学内部に明確なコンセンサスがあるとはいえない。シィエスの憲法制定権力論を額面どおり受け取るとすれば、それはまさに国民が憲法を制定する権力であり、本書が前提とする主権そのものであると評価できる。すなわち、憲法制定権力論は主権論に還元可能ということになる。ただし、本書では、シィエスは実際には主権―統治論の系譜ではなく、代表の理論を強調することによって、主権すなわち人民による決定権を否定的に解した論者であり、実際には統治の領域にのみ関心をもつものであると位置づけられている。シィエスや、その影響を受けたとされるカール・シュミットの位置づけについても再検討が迫られているといえよう。
 第三に、立憲主義と民主主義の関係である。アメリカ合衆国憲法第五条によれば、人民ではなく連邦議会の発議によって、そして人民ではなく州議会ないしは州の憲法会議の四分の三の賛成によって、憲法修正は成立する。本書の第四章から結論で詳しく論じられるように、「われら人民(We the People)」によって憲法が制定されたにもかかわらず、その憲法典は、憲法の改廃から人民を排除しているのである。また、実際には憲法修正自体も稀であり、むしろ連邦最高裁判所の判例によって憲法の内容が実質的に決定ないしは変更されてきた。すなわち、アメリカでは主権者は眠り続けているのである。こうした状況をどのように評価すべきか、人民の直接投票(民主主義)よりも憲法典および裁判所による憲法典の解釈(立憲主義)を優先すべきか、という問題は、アメリカの憲法学における最大の論点と言っても過言ではない。
 本書の主権論は、立憲主義よりも民主主義を優先するものと評価できよう。しかし、人民投票による多数決主義こそが民主主義である、という本書の議論には異論もありうる。特に、人権保障や法の支配の確保を任務の一つとする憲法学の伝統的な立場からすれば、法に拘束されない主権者は、きわめて危険な存在であるとも評価できる。実際、日本の憲法学においては、主権とは「マサカリのようなもの」であり「精密使用に耐える剃刀」ではない、とか、主権という「魔力からの解放」が必要であるといった一種の主権不要論が伝統的に主張されてきた。憲法典を解釈し、運用の方針を示そうとする憲法学が、定義からして実定法破壊的であるにもかかわらず、その内容が曖昧であった主権論に対して警戒するのはある意味当然ともいえよう。もっとも、本書の人民主権論は、従来の主権論とは異なり、人民投票による基本法の制定・改廃を行うものという明確な輪郭をもっており、従来の立憲主義と民主主義をめぐる論争に新たな視点をもたらす可能性がある。
 第四に、現代政治へのアクチュアリティである。タックは、原著の出版後、母国イギリスのEU離脱問題において、いわゆるリベラルな知識人としては異例なことに、離脱賛成派として論陣を張った。彼にとって、EUの憲法秩序は、各国の主権に基づく民主主義的決定のための障壁であり、これを除去すべきであるから、民主主義を重視する左派こそブレグジットに賛成すべきなのである。この主張が本書の主権論を基礎としていることは明らかである。このように、現代のアメリカ憲法の状況やブレグジットに積極的に主権―統治論を適用するタックの議論は、思想史研究にとどまらず、現代政治に対するアクチュアリティをももっているといえよう。
 日本においても、たとえば、憲法改正手続を定める日本国憲法第九六条の解釈論や、国民投票法の制度設計について一定の示唆が得られるだろう。さらに、理論的には、憲法改正に限界はあるのか、といった伝統的な論点や憲法改正権と憲法制定権の相違などにつき、本書の議論から、従来の通説が問い直される可能性が開かれている。
 以上の論点は、憲法学からみた本書の意義のほんの一部であるが、本書が政治思想のみならず憲法学にもきわめて豊かな視点を提供していることは明らかである。これこそが、本書をなぜ憲法学者たちが翻訳したのかの理由であり、そして、日々変化し続ける現代の民主主義や立憲主義のあり方を考える人々にとって、本書がきわめて重要な意義を有している理由でもある。
 最後に、勁草書房の山田政弘さんには本書の出版に際して大変お世話になった。記して感謝申し上げる。
 
訳者を代表して  春山 習
 
 
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