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松下佳代・川地亜弥子・森本和寿・石田智敬 編著
『ライティング教育の可能性 アカデミックとパーソナルを架橋する』
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まえがき
本書は、ライティング(書くこと)の教育的広がりや深みについて、さまざまな立場・角度から探究し、その可能性を示すことを目的としている。
本来、ライティング教育は、書き方に関するテクニカルな指導にとどまらないものだ。歴史をふりかえれば、自らの価値観を形成すること、社会の中で話し人々の心を動かすこと等を含みこんできた。だからこそ、書くことは教育という営みの中心に位置づけられてきた。
とりわけ、アカデミック・ライティングは、論理的な思考と表現を生み出すものとされ、教育の重要な手段かつ目的とされてきた。日本においても「大学生なら論理的な文章が書けるのは当たり前(指導不要)」という時代は過去のものとなり、アカデミック・ライティングの議論が盛んにおこなわれるようになった。初年次教育を中心にライティング指導の実践的研究も進められている。
しかし、ともすれば、現代日本のアカデミック・ライティング指導は、調査した内容を、論理的かつ分かりやすくまとめるテクニックの指導にとどまりがちではないだろうか。ライティングの指導がそうしたテクニックの指導に留まるのであれば、生成AIによる文章産出が容易な時代に、ライティング教育は「コスパ(かけた時間に対して得られる成果)が悪い」と指導者・学習者の双方からとらえられてしまうのではないだろうか。そうなれば、ライティング指導は一部の恵まれた人(ライティングの教育的意義を明確に位置づけている教育機関に通っている人)にだけ味わうことができる「贅沢品」になってしまう。それはあまりにももったいない。
そこで本書では、ライティング(書くこと)を教えること・学ぶことの人間にとっての意味を深めたい。アカデミック・ライティングの意義やその評価に関する議論を含みこみつつ、しかし、「ライティング教育=アカデミックな文章の技術指導」という狭い見方に限定されず、人間形成全体におけるライティング教育の可能性を探る。そのために、アカデミック・ライティングに対してパーソナル・ライティングという軸を立てた。
もとより、アカデミック・ライティングとパーソナル・ライティングははっきりと区分できるわけではない。ある個人が書く際にどうしてもその人の価値観が反映されるという点で、すべての作品はパーソナル・ライティングの性質を有する。また、作品における論理性を追求する場合、それはアカデミック・ライティングの性質を強める。
しかしながら、「ライティング指導=アカデミック・ライティング指導」という理解が広がる中で、もう一つの軸を設定して分析することは、ライティング教育を深める上で有効であろう。本書では、アカデミックとパーソナルのそれぞれを深めつつ、両者を架橋していくことを目指す。
日本、米国、フランスを中心としながら、中国、カナダ、スペイン・カタルーニャの事例や知見も検討対象とし、ライティング(書くこと)の多様さを示す。ライティング教育の世界を広げつつ、その可能性を示すことを試みる。
本書の構成を紹介しておこう。各章を通じて、ライティング教育の可能性や、日本における課題を追求することができるだろう。
第Ⅰ部第1章では、古代から近代以前におけるライティング教育について論理的に整理されており、第2章以降を読み解く地図を得ることができる。アカデミック・ライティングとパーソナル・ライティングは、「混ぜるな危険」ともみなされてきた一方、教育という文脈でこそ交流が図られてきたことが理解できるだろう。
第Ⅱ部は、アカデミック・ライティングの指導と評価に関して、第2・3章ではアメリカ、フランスを中心としながら深め、第4・5章ではとりわけトランスナショナルに展開されている評価の問題について迫る。
第2章では、アメリカのアカデミック・ライティングが大学教育の歴史的な変化にどう対応したか、哀愁を込めて語られる。論理や合理性が経済原理に正当化され成り立っていること、5段落作文をめぐる激しい論争や、教育コスト削減と文章指導の関係について、歴史をふまえて学ぶことができる。
第3章では、フランスの学校における、型に基づく論理的弁論術の重要性と、それを鍛えるものとしての文章作成の意義が理解できる。共通の型を持つことで、多文化社会における対話が可能になる一方、選抜機能を発揮してしまい社会的不平等の再生産に至っていることが理解できる。
第4章では、現代の学習評価論を基礎づけた一人であるロイス・サドラーの所論が起点となっている。サドラーの所論を中心として、ライティングの評価における現代的論争点、すなわちルーブリック論争を読み解くことでその到達点を示し、教育的に価値あるこれからのライティング評価論のあり方を提案する。
第5章では、ルーブリックに基づく評価をいかに再構築するかが論じられる。日本における「ルーブリック評価」の特殊性を指摘し、論証という点からルーブリックの「飼いならし方」の例が示される。対話型論証や学生の評価知の向上、ルーブリックを使用した評価と合わせて行われる個別コメントの有効性が提案されている。そしてまた、評価そのものが論証という性格をもつことが指摘される。
第4・5章は、共にルーブリックをめぐる議論を展開しながら、その提案内容は対照的である。ぜひ読み比べて、論点を深めていただきたい。
第Ⅲ部では、パーソナル・ライティングとして、アカデミック・ライティングとは一線を画する多様な指導について知ることができる。
第6章は、アメリカのパーソナル・ライティングを通じて、プロダクト(作品)とプロセス(過程)という重点の変遷や、「書けてしまう」問題、つまり、型どおりの書き方ができているにもかかわらずレリバンス(有意味性)が低く見える学生の指導について深めることができる。
第7章ではフランスの初年次教育において、自己を社会に位置づけ、社会的な枠組みにおいて理解することをめざした日誌指導が検討されている。社会学の知見を背景に指導し、自分について書くことを通じて青年が大学生になることを重視する、ユニークな取り組みである。
第8章では、日本の高等教育におけるパーソナル・ライティングの取り組みが描かれる。自己について書くことを重視する点はフランスの「日誌」の取り組み(第7章)と共通しているが、大学生になる・するということ以上に、セルフ・オーサーシップを重視している。学びのモチーフと人生のモチーフに連携する自己形成を促進するような学びが生じていたという点で、高等教育としての意義と同時に、青年期教育としての意義も見出すことができる。
第9章は、日本の小学校における自由な作文教育(生活綴方)の歴史と特徴が描かれる。アカデミック・ライティングにもパーソナル・ライティングにも進みうる生活綴方を通じて、第1~8章で繰り返し立ち表れてきた、「書けてしまう」問題、意欲の問題、指導と評価の系統の問題、作品を読む共同体の形成等が日本でどのように議論されてきたかが示される。
第Ⅳ部は教師教育におけるライティング教育の可能性、教師教育が示すライティング教育の可能性が示される。教師や看護師等の対人専門職になるための養成カリキュラムでは、実習等で記録を書くことが必要である。公的な文書として、専門知識に基づく正確な記述と分かりやすさ、人権感覚等が求められ、明確に評価される。その一方、日々新しい経験を得て自らの価値観が揺さぶられる中で書くという点ではパーソナル・ライティングの側面も有し、これが全くない実習の記録は、実習に対する姿勢を問われることもある。
第10章ではアメリカにおけるケース・メソッドが取り上げられ、読む活動の組織化や、コンサルテーションの重要性が示されている。教師の力量形成のためのライティングとはどのようなものか、書くことそのものの教育と異なる点が明快に示されている。加えて、近年の映像、動画などが組み込まれた事例を考察することによって、書くことの教育的意義を改めて浮き彫りにしている。
第11章では、日本において、教育委員会とも連携したナラティブなスタイルの教育の記録の追求を知ることができる。教員養成(pre-service)段階でもそうだが、教員研修(in-service)の段階において、記録づくりは大変な労力を必要とする。「書かざるを得ない」記録でありながら、教師個人としても意味深い書くことを追求しており、日本の教師教育における書くことの可能性が示されている。
加えて、各章の関係を深めるために役に立つのが、2つの座談会と5つのコラムである。2つの座談会では、特に日本の課題を深めることができる。5つのコラムでは、アカデミック・ライティングとパーソナル・ライティングの関係や、日本と他の国のライティング指導の相違について深めるために、有益な視野を得ることができる。
なお、本書は、日本語を媒介としながら、各国・文化の書くことの指導と評価について架橋している。人間形成・エッセイ・ダイアリー・日誌など、英語を使用していてはその多様さが感じられにくい、ライティングの広がりや可能性を感じていただければ幸いである。
本書を通じて、「書くことはおもしろい」「書くことの指導はおもしろい」と感じ、新しいライティングの世界を広げる人が増えることを願っている。
2025年3月
川地 亜弥子
