報道するために必要な取材。その取材方法として許される限界はどこにあるのでしょうか。[編集部]
記者ゆえのジレンマに直面したとき、なにを考え、なにを優先するのか? あなたならどうするだろう。
1:: 思考実験
法務室長は大きな溜息を漏らすと、机を叩いて声を荒げた。
「よそのコンピュータに侵入しただけで不正アクセス禁止法違反になるんだ。サイバー犯罪をしておいて『取材です』なんて屁理屈が通ると、本気で思っているのか!」。
「いや、権力を監視するには」と食い下がってみた。だが、外部から侵入された記録が当局に残っていないはずはない。早ければ、週末を待たずにわが社が家宅捜索され、パソコンや情報端末のほか、取材関係データを軒並み押収されるかもしれない。だから、今夜にも緊急役員会を開き、うちの社員が国のデータを不正取得したので社内処分した、という社告を公表して無難に事を進めるべきだと言う。
発端は、編集部にサイバーセキュリティの技術者を迎え入れたことだった。
オールドメディアも「編集部門の多様化」を喧伝するようになったが、わがネットメディアは設立段階から、さまざまな知識や属性をもつ人材を即戦力として仲間に引き入れてきた。彼女もそんな人材の一人で、わが社に転職してくるまではとある研究機関に在籍していた。彼女は日がな一日、コンピュータと向き合うだけで、記事は書かない。というか、書くのは得意ではない。だが、取材者としてのセンスは優れていて、彼女がネット空間で探索してきた断片的な情報を基に、編集部の記者たちが裏付け取材をしてニュースとして発信している。
当初は「なんかヤバそうなヤツだな」といぶかる声もあった。それでも、著名な学者が論文のデータを捏造しているという疑惑や、某国の軍隊が民間人を機銃掃射して殺害している映像など、彼女が入手した情報のいくつかは、大きな注目を集めるスクープになった。どんなふうに情報収集をしているのかは判らないが、いまでは編集部の記者たちからも一目置かれている。
そんな彼女が、けさの編集会議で示したのは、政府機関のデータが漏出しているという情報だった。
「理屈を詳しく説明するのは難しいのですが、あるソフトウェアを使うと、ダークウェブを経由して、ファイルが閲覧できたのです。これがその一部です」。彼女はそう言い、データらしきものをディスプレイに次々と映し出した。一目見ただけではよくわからないが、「政府が収集した国民の個人情報です。わたし自身のデータも含まれていましたから、間違いありません」と彼女は断言した。
目を疑った。「政府保有の個人情報流出」「セキュリティに重大な欠陥」「犯罪悪用への不安広がる」……そんな見出しになりそうな言葉たちが脳内を流れていく。だが、気にかかることがあった。はたして取材は合法的だったのか。それを尋ねると、彼女は首を傾げた。
「政府の情報流出という噂を知って以来、探索し続けていて、ある人物の協力を得て、ようやく核心のデータにたどり着きました。協力者というか情報源というか、その人物が何者かは判りません。最初は信用していませんでしたが、その人の助言に従うと、バックドアが開いちゃった……つまり、はからずも内部に侵入してしまったというわけです」
「つまり、きみは政府のファイヤーウォールを突破したということか?」
「はい、結果的に。でも、犯罪目的ではなく報道目的です。もし侵入できれば、大ニュースですし、お行儀良くしていたら権力監視なんてできませんから」。そう言うと彼女は誇らしそうな笑みを浮かべた。
会議室はざわめいた。「情報源の思惑が判らないと気味悪い」「よからぬ連中に利用されたのではないか」「わが社が摘発される危険性はないのか」……。そんな声もあったが、記者たちは、みな興味津々のようすだ。
「ちょっと待った」わたしは咳払いをした。「この話、まだ口外しないように」。そう言うと、わたしは法務室に足を運んだのだが、法務室長は「サイバー犯罪だ」の一点張りで、彼女を「処分」して幕引きをはかろうと言う。
わたしは編集部員に「責任は取る。取材にかかろう」と指示することもできるが、もっと良いやり方がないかを検討することもできる。
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[A]取材を命じる
権力機関の過失を知ったのなら、速やかに国民に伝えるべきだ。杓子定規に法に従うことは、自主検閲をするようなものだ。
[B]取材を命じない
取材の原則は合法的にすること。権力の落ち度を明らかにする他の方法を探せ。その努力を怠って、違法な手段に手を染めてはいけない。
2:: 異論対論
抜き差しならないジレンマの構造をあぶり出し、問題をより深く考えるために、対立する考え方を正面からぶつけあってみる。
[取材を命じる立場] 政府による情報漏洩は国民を危険にさらしていて、すでに犯罪に悪用されているかもしれない。断片的な情報だけでも入手したのなら、一刻も早く社会に伝えるのがジャーナリストの責務だ。取材過程で法に触れたが、その必要があった。だれかに危害を加えたわけではない。彼女がしたのは犯罪ではなく、あくまでも公益を目的にした検証取材なのだ。
[取材を命じない立場] ダークウェブ、見ず知らずの情報源……。すべてが不確実であやふやだ。確実なのは、うちの社員が政府のコンピュータシステムに侵入したという事実だけ。法を破るのは取材ルールから逸脱する。それを回避するには、セキュリティ企業や専門家にデータ漏洩を検証してもらい、客観的に報道するというのが良い。リスクを取る必要はない。
[取材を命じる立場からの反論] 政府のミスによって国民生活が甚大な危険にさらされている。この際、情報源の意図や思惑はどうでもいい。いま・ここに危機があるという警笛を吹くことをためらってはいけない。自社のリスクを気にする報道機関は情けない。
[取材を命じない立場からの反論] 報道以前の問題だ。まず政府に「セキュリティに問題がある」と報告し、被害を最小限に食い止めることが重要。報道はそれからでよい。政府の情報管理に欠陥があるのかどうかを、実際に侵入できるか試してまで確認するのは報道の仕事ではない。社員が刑事事件として立件されたりしないよう慎重になろう。
[取材を命じる立場からの再反論] ジャーナリズムの鉄則に「情報源の秘匿」がある。所属組織の不正や犯罪の情報を提供してくれた通報者が誰なのかを報道機関は絶対に明かしてはならない。今回もその論理が準用できる。セキュリティの欠陥を修正するのは政府の責務。われらの仕事はあくまでも報道。政府に協力する義務はない。
[取材を命じない立場からの再反論] 情報を入手したうちの社員はプロのジャーナリストであり、「情報源の秘匿」が言う情報源ではない。プロには高い倫理性を求められる。緊急事態でなければ法は破ってはならない。今回の一件が悪しき前例となり、記者やディレクターが当たり前のように違法な取材をするようになれば、ジャーナリストとスパイの見分けがつかなくなる。
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