あとがきたちよみ
『ベンサム論集――法哲学・政治哲学』

About the Author: 勁草書房編集部

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Published On: 2025/7/29

 
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H. L. A. ハート 著
森村 進 訳
『ベンサム論集 法哲学・政治哲学』

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訳者あとがき
 
 本書はH. L. A. Hart, Essays on Bentham : Studies in Jurisprudence and Political Theory (Oxford University Press, 1982) の全訳である。原文のイタリックによる強調は太字とした。また〔 〕内は、節の題名も含めて、訳者による補足である。
 著者のH・L・A・ハート(一九〇七-一九九二)は多年にわたってオックスフォード大学の法理学教授をつとめた二十世紀後半を代表する法哲学者だから、本書を手にする読者にはわざわざ説明する必要もないだろう。彼の生涯については、ハート夫妻と多年にわたる親交があった法学者ニコラ・レイシーによる『法哲学者H・L・A・ハートの生涯 上・下』(中山竜一・森村進・森村たまき訳、岩波書店、二〇二一年)が詳しい。特にこの伝記の第十二章はハートのベンサム研究について書いているので、本書に興味を持たれた方には併読をお勧めする。
 ハートの著書は本書以外に次のものがある。出版社はすべて本書同様オックスフォード大学出版会である。

Law, Liberty, and Morality(1963)
The Morality of the Criminal Law(1965)
Punishment and Responsibility : Essays in the Philosophy of Law(1968)
Essays in Jurisprudence and Philosophy(1983)[『法学・哲学論集』矢崎光圀ほか訳、みすず書房、一九九〇年]
(A.M. Honoréとの共著)Causation in the Law, 2nd ed.(1985)[『法における因果性』井上祐司ほか訳、九州大学出版会、一九九一年]
The Concept of Law, 3rd ed.(2012)[『法の概念[第3版]』長谷部恭男訳、ちくま学芸文庫、二〇一四年。ほかに原書初版(一九六一年)の訳として『法の概念』矢崎光圀監訳、みすず書房、一九七六年がある]

 なお日本で独自に編まれた論文集『権利・功利・自由』(小林公・森村進訳、木鐸社、一九八七年)は、『ベンサム論集』から三編、『法学・哲学論集』から四編の論文と、初期の単行本未収録論文「自然権は存在するか」を収録したものである。そのうち『ベンサム論集』からの三編は第Ⅳ、Ⅶ、Ⅷ章で、すべて私が訳したものだが、本書に収録するにあたって手を加えた。
 本書は翌一九八三年に刊行された『法学・哲学論集』とともにハーㇳの最晩年の論文集となったものだが、重要性にもかかわらずこれまで翻訳されていなかったのは不思議なくらいだ。その理由は、十八世紀末から十九世紀初めに活躍した哲学者ジェレミー・ベンサムに関する論文集という形式が思想史の専門家向きすぎるように見えたからかもしれない。しかし本書を読んでいただければわかるように、ハートはここでベンサムの思想の知られざる・興味深い・現代的意義のある諸側面を明らかにするとともに、特に本書の後半でベンサムの著作からヒントを得ながら今日の法哲学に重要な寄与を行っている。そこでのハートの論述の方法は〈大昔の哲学者の著作をあたかも昨日出版された哲学文献のように論ずる〉という非歴史的な分析哲学者の方法の実例のように読める。このような部分はベンサムに関する研究というよりもベンサムの思想に触発されたハート自身の思索の開陳という性質が強くなるので、読者はハートの代表作『法の概念』を前もって読んでおいた方がよいだろう。
 とはいえ私は本書の思想史研究としての意義をいささかも否定するつもりがない。私は本書刊行からの四十余年間にも著しい進展をとげてきたベンサム研究について門外漢なので、日本におけるベンサム法理論研究の第一人者である戒能通弘教授(同志社大学)に「ハートと現在のベンサム研究」という題名の「補説」を書いていただくことにした。
 
 以下各章について簡単に説明しよう。
 序論は本書の各章に触れているが、本文だけ読んだのではわからないような広範な見通しをそれらに与えてくれるから、全体を読了した後でもう一度読み返す価値がある。なお冒頭(二-三頁)でも明示され、本文でも随所で繰り返されているように、ハートはベンサムの一般的法理論が彼の法典化の提案のような実践的関心から一応独立した道徳的に中立なものだと理解したが(このような理解にはジュリー・ディクソン『法哲学の哲学』(勁草書房、二〇二四年)二三五頁も従っている)、「補説」で紹介されている通り、今日のベンサム研究者スコフィールドはこの見方に反対している。ベンサムは事実と価値との概念的区分を行わず、価値を快苦と同一視する自然主義者で、ベンサムによる法の同定も行為主体にとっての快苦という価値を考慮に入れている、というのである。しかし各行為者にとっての個人的価値と功利の原理から判定された全体にとっての最終的価値とは別物だろう。後者の方が実践的法理論の対象となる価値である。またベンサムが記述的法学と実践的法学をハートの言うように区別していなかったとしても、ハートがベンサムの法理論を記述的法学として解釈し利用したことが不当だとは言えない。それはちょうど、農学者が品種改良とか疫病予防といった実践的目的のために何らかの生物学上の学説を発表しても、その目的から独立して生物学説としての是非を検討できるのと同様だ。
 第Ⅰ章と第Ⅱ章はベンサムの十八世紀的啓蒙思想家としての面に焦点を合わせているが、彼がどんな点にもおめず臆せず功利の原理を徹底する態度は、当時も今も彼を奇人とみなしたくなる十分な原因になっている。
 第Ⅲ章はハートの論文の中で一番ヒューマン・インタレストに富むものだ。最後の二頁など感動的とさえ言える。中でも私にとって一番面白かったのは、カサノヴァやカリオストロといった同時代の国際的山師を思わせるジョン・リンドに関する部分だ。リンドがアメリカ植民地に対するイギリス政府の政策を擁護する文書の中で〈財産というものは法律に依存しており、その内容は国法が決めるのだから、課税は市民から財産を取り立てるわけではなく、市民が本来持つ権利のない公共の財産を返させるにすぎない〉と主張しているところは、現代のリバタリアニズム批判の先駆けと言える。
 第Ⅳ章は『法学・哲学論集』に収録された論文「功利主義と自然権」と密接な関係がある。そちらでは〈自然権の主張は無政府状態に至る〉という政治的な批判の方が重視されていたが、こちらでは〈道徳的権利という観念はそもそも考えることができない〉という論理的な批判が取り上げられている。この論文によると、道徳的権利の存在を認めないベンサムとそれを認めるミルの相違は一見するほど大きくないように思われる。両者の主たる相違は、彼らが法的権利が存在すべきだとみなす場合に、ミルはベンサムと違って〈道徳的権利が存在する〉と述べるのをためらわなかった点にある。
 第Ⅴ章は『法一般論』(現在の版では『法学の刑事法分野の領域について』)の紹介に始まるが、ベンサム版の法命令説の検討が主要なテーマになっている。ベンサムの説は義務論理の先駆を含み、また法と制裁(サンクション)の間の微妙な関係を指摘するなど、その後のジョン・オースティンの法命令説よりも洗練されたものだが、やはり問題を残していた。
 制裁というテーマが第Ⅴ章で取りあげられたが、それは第Ⅵ章でも重要な役割を果たす。この章はその前半で法的義務の性質に関するベンサムの記述を詳細に検討し、後半で法的義務と道徳的義務の関係に関する現代のドゥオーキンとラズの説を批判する。ここでのドゥオーキン批判は特に注目に値する。というのは、〈ハートは死後公刊された『法の概念 第二版』の後記以外の文章でドゥオーキンの法理論に応答したことがなかったから、「ハート=ドゥオーキン論争」と称されるものは実際には存在せず、ハートの生前はドゥオーキンによるハート批判しかなかった〉という誤った神話が流布されているからだ(たとえば、題名からも明白なNicos Stavropoulos “The Debate That Never Was”, Harvard Law Review, vol.130 (2017) 2082)。しかしドゥオーキンの方がはるかに多くのインクをこの論争のために費やしたとはいえ、実際にはハートはこの第Ⅵ章や『法学・哲学論集』収録の「イギリス人の見たアメリカ法理学」でドゥオーキンの『権利論』を批判していた。もっともドゥオーキンはその後一九八六年に『法の帝国』を発表し、『権利論』で明示的に論じなかったテーマに争点を拡張したので、ハートの批判は応答されるというよりも逸らされてしまった(そして『法の帝国』に対する反論は死後になってから公表された)わけだが、ともかくハートは生前からドウォーキンの批判に自著の中で反論していたのである。
 ところでこの章の第Ⅲ節ではベンサムの義務理論の〈混合理論〉に代わる不成功の理論の一つとして「二重命令理論」が紹介される。この理論によると、法的責務を作り出すために必要なのは、ある行動を命令あるいは禁止する主要な法律(①)と、その法律の違反への処罰を命ずる補完的法律(②)の結合だけで、〈義務違反への帰結として現実に苦痛が与えられねばならない〉という条件までは要求されないという点が〈混合理論〉と異なる。この「二重命令理論」をさらに一歩進めて、違反への処罰を命ずる法律(②)さえあれば法的義務があると提唱したのがケルゼンの純粋法学だと言えそうだ。ケルゼンによれば、本来の意味での法規範は公務員に向けられた規範であって、一般人に向けられた規範は二次的なものにすぎないそうだから。
 次の二つの章は法律関係に関するベンサムの議論を検討するものだ。中でも第Ⅶ章の「法的権利は、今日でも法的権利の意志説(ハートのヴァージョンはむしろ彼の表現通り「選択説」と呼ぶ方が適切だろう)を代表する論文として法的権利に関する文献では必ずあげられるほど、現代の古典としての地位を確立している。たとえばケンブリッジ大学教授のMatthew H. Kramer は最近Rights and Right-Holding : A Philosophical Investigation (Oxford University Press, 2024)という大著とLegal Rights and Moral Rights (Cambridge University Press, 2025)という短い本の両方で法的権利の利益説を力説したが、そこで彼もハートのこの論文に詳細な批判的検討を加えている。また日本語文献でも管見の限り、森村進『権利と人格』(創文社、一九八九年)第1部第3章、青井秀夫『法理学概説』(有斐閣、二〇〇七年)第3章、小林公『法哲学』(木鐸社、二〇〇九年)第3章、田中成明『現代法理学』(有斐閣、二〇一一年)第7章1、亀本洋『法哲学』(成文堂、二〇一一年)第3章、瀧川裕英=宇佐美誠=大屋雄裕『法哲学』(有斐閣、二〇一四年)第5章、佐藤遼『法律関係論における権能』(成文堂、二〇一八年)第5章、酒匂一郎『法哲学講義』(成文堂、二〇一九年)第2章など多数の書物が多かれ少なかれハート説に言及している。
 本章はそれほど重要な論文だが、ハートは論文の冒頭で言及しているホーフェルドの『法の基本的諸観念』の用語法を当然の前提としているから、読者にはその予備知識が必要だ。むろんベンサムは二十世紀のホーフェルドによる法的関係の分類など知るよしもなかったが、ハートがしているように、ベンサムの思想をホーフェルドの図式にあてはめてそれを権利の利益説の一種と理解することは不当でないし、議論の明確化に資する。今あげた文献ではホーフェルド図式についても触れられている。ここでは有斐閣の『法律学小辞典 第6版』の「ホーフェルド」の項目の、「[彼は]あらゆる法的関係を2当事者間の権利=請求権(right)、無権利(no-right)、義務(duty)、義務の不存在としての自由=特権(privilege)、権能(power)、無権能(disability)、負担(liability)、免除(immunity)という8つの基本的概念に還元して分析しようとした。このシステムはアメリカ法リステイトメントの中に取り入れられて、英米の法学に巨大な影響を与えた」という文章を引用し、それに加えて私がかつて『権利と人格』四一頁にあげた表を前頁に再掲することだけで簡単な説明にかえたい。
 表の左の四つの観念は行為に関するものであり、右の四つの観念は地位に関するものである。両者は相互に還元できないとホーフェルドは考えた。(ただし片方がもう一方に還元できるという見解もある。佐藤前掲書第7章を見よ。)
 そしてホーフェルドは、広義のいわゆる「権利right」は請求権と自由と権能と免除の四つを包含すると考えたし、ハートも初期の論文ではそれに従っていたが(『法学・哲学論集』第一論文の注15)、この章のハートは請求権(責務に相関的な権利)と自由と権能という三つだけを権利として、免除は権利の中に含めていない(またベンサムもそう考えていたとハートは想定している)。しかし〈他人によって自分の法律関係を変えられることがない〉という免除の地位を自分で放棄できる(つまり、放棄する権能を持っている)場合、その免除もまた権利の選択説の中に取り込むことができそうだ。ともかく選択の権能という観念を中心に法的権利を理解するハートの基本的な発想は「権利保有者は……〔相手が負う〕義務がカバーする行動の領域では……小規模な主権者なのである」(二一七頁)という、しばしば引用される文章によって巧みに表現されている。
 なおハートの議論がもっぱら民事法上の権利を典型とするもので、憲法や国際法上の人権は大部分念頭に置かれていないということに注意する必要がある。
 第Ⅷ章は第Ⅶ章以上にベンサム説の再構成と批判にスペースがさかれている。ベンサムは同じ「権能(権限)power」という名前で呼んでいるが、彼の言う「権能」には二種類あって、両者は全く異なる。「接触の権能」はホーフェルド流に言えば「特権(あるいは自由)」の一種で、「支配の権能」の方がホーフェルドの「権能」にあたるのである。ハートは『法の概念』の中では法命令説という文脈の中でしか法的権能という観念に触れなかったが、ここではもっと積極的に解明していて、権能がルールに依存するという点を強調している。そしてこの章の後半は次の章と関係が深い。
 第Ⅸ章は、オースティンより繊細なベンサムの主権論も合法・違法と有効・無効の相違を区別していないとして批判する。これを日本の法学の用語を使って言えば、ベンサムの法理論では(禁止を排する)「許可」と(法律行為の効力を与える)「認可」が区別されない、と表現することもできよう。
 最後の第Ⅹ章はラズが『実践的理由と規範』で提唱した「排除理由」という観念を、「内容から独立した絶対的理由」という観念に置き換えて法命令説の検討の中で利用したものだが(二八九頁を参照)、ハートがこの実り豊かな観念をそれ以上発展させる機会がなかったことは惜しまれる。なおこの章の題名は本文では“Commands and Authoritative Legal Reasons” だが、目次では“Commands and Authoritative Reasons” で、“Legal” が抜けている。訳書では本文の題名に統一した。
 
 この訳書を完成させるにあたって、前記のように戒能教授に補論を執筆していただいたが、それだけでなく綿密に訳稿を検討して多数の指摘をいただいたことに感謝する。この指摘を受けなかったら本書ははるかに欠陥の多いものになっていただろう。しかしまだ残っているかもしれない誤りはすべて私の責任である。
 最後に、しかし最小でなく、今回も「基礎法学翻訳叢書」の一冊として本書の編集を担当していただいた勁草書房編集部の山田政弘さんに感謝する。
 
二〇二五年春分の日 森村 進
(「ホーフェルドの法の基本的諸観念」の表は割愛しました。PDFでご覧ください)
 
 
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