
書評 わかりやすさの罠・性別確認検査
評者 速水螺旋人

長年、オリンピックをはじめとするスポーツの場で女性アスリートには性別確認検査がおこなわれてきた。先だって開催された東京世界陸上選手権でも女子選手には遺伝子検査が義務づけられている。
なぜ検査をするのか、多くの人は漠然と競技は公平におこなうべきだから、と考えるだろう。『アザー・オリンピアンズ』は女子スポーツに性別確認検査が導入された経緯を検証したノンフィクションである。著者マイケル・ウォーターズは20世紀前半の女子スポーツやオリンピック、クィアにアスリートの個人史など多様なトピックを縦横無尽に飛び回り、そしてひとつのテーマへとあざやかに迫る。
女子スポーツは第一次大戦後のヨーロッパで興隆した。近代オリンピックを創設したクーベルタンは名高いが、女子スポーツの発展に大きく寄与した国際女子スポーツ連盟初代会長のアリス・ミリアについては本書ではじめて知った。彼女はその後忘れ去られ、墓の場所すら不明だったという。
ミリアをはじめとする多くの人の尽力により、オリンピックにも女性競技が登場するのだが抵抗は大きかった。スポーツ界を運営する上流階級の男性たちは女性アスリートを認めることに消極的で、クーベルタンその人も例外ではない。特に陸上競技は労働者階級や白人以外の選手にも門戸が開かれ、彼女たちの鍛えた身体もあいまって「女らしくない」と評された。
ここで二人の陸上選手が登場する。チェコスロバキアのズデニェク・コウベクとイギリスのマーク・ウェストンはいずれも女性として生まれアスリートとして活躍するが、男性でありたいと性別適合手術を受ける。1930年代のことだ。当時このことは大きく報じられ話題となった。なかには偏見にとらわれない好意的な記事もあったという。すでに性差は男か女かの単純な二元論でないことが知られつつあった時代だ。
だが、彼らの存在に衝撃を受けた国があった。単純でわかりやすい世界観が支配する国、ナチ・ドイツである。男は男らしく働きそして戦い、女は女らしく家を守り子を生み育てなければならない。
ドイツのスポーツドクターはコウベクを性別を偽って大会に出たと非難し、オリンピックに参加する女性選手は性別検査を受けるべきだと主張した。しかしなにが「女らしい」のかは明確にされない。彼にとっては自明だったのだろう、見ればわかる、常識ではないか。ユダヤ人やクィア、障害者を排除するのと同様の、自らと違うもの・マイノリティへの不安や恐怖、差別なのだ。
ベルリン・オリンピックを開催させるため、IOCは女性選手への性別検査導入を決定する。なかでも大きな役割を果たしたのが後年IOC会長となるブランデッジだ。彼を含め、スポーツ界の幹部は差別に加担している意識はなく、公平さを求めているだけではあったろう。
だが差別なのだ。
身体検査は遺伝子検査に変わり、後にホルモン検査となり、建前としては性別検査ではなくなった。今の国際陸連には男性ホルモンの一種であるテストステロン値が高い選手の参加を制限する規定がある。しかし著者によればテストステロンによって競技の結果が有利になるエビデンスはないという。もし有利になるとしても、ならばなぜ男性選手にはホルモン検査がおこなわれないのか? 男性でもテストステロン値の高低はあるだろう。いや、そもそもその発端から男性選手に性別検査が実施されることはなかった。また先天的な素質、育った地理的・経済的環境、トレーニングを受ける状況、それらの差異は不公平ではないのか?
科学的な装いをまとった性別確認検査に対し、著者は男性と女性という単純な二元論を守り、その範疇から外れるトランスジェンダーやインターセックスなどの選手を追い出すためだと結論づける。検査の起源がナチによるベルリン・オリンピックであることは偶然ではないと。
僕は本書のテーマには門外漢の漫画家だが、職業柄わかりやすさには気をつけている。漫画はわかりやすさが大事だからだ。そのために、いかに多くの情報を削ぎ落としているかをよく知っている。
わかりやすさは罠だ。簡単にわかってはならない。不安や曖昧さ、馴染みのないものを受け入れて日々を送るのはなかなか難しいが、道はこれしかないのではないだろうか。世界がそもそも多様でわかりにくいのだから。そこで手っ取り早い理解を、安心を手に入れようとすると誰かを追い出すことになってしまう。いや、追い出されるかもしれないのだ。
ひとつ方法があるとすれば、そこにいるのは男や女やトランスジェンダーやアスリートという抽象的な分類そのものではなく、それぞれの背景を持つ個人であることを忘れないことだ。ズデニェク・コウベクの半生を詳細に書いたマイケル・ウォーターズの意図でもあろう。
漫画家。京都府出身。作品は『大砲とスタンプ』(講談社)、『靴ずれ戦線』(徳間書店)、『男爵にふさわしい銀河旅行』(新潮社)、『スターリングラードの凶賊』(白泉社)ほか。
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『アザー・オリンピアンズ――排除と混迷の性別確認検査導入史』
- 著者
- マイケル・ウォーターズ
- 訳者
- ニキ リンコ
- 解説
- 井谷聡子
- ジャンル
- 社会・女性
- 出版年月
- 2025年6月
- ISBN
- 978-4-326-65449-9
- 判型・頁数
- 四六判・344ページ
- 定価
- 3520円(税込)
1930年代、男性に性別移行した4人のアスリートがいた。優生思想が重なる女子スポーツ黎明期、歴史は選手たちをのみ込んでいく。
勁草書房ウェブサイトへ https://www.keisoshobo.co.jp/book/b10136143.html


