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ヘレン・フロウ 著
福原正人 訳
『戦争と平和の倫理学』
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はじめに
戦争ほど多くの道徳的問題を惹起する出来事はない。戦争は、その性質からして生命を奪ったり財産を破壊し、しかもそれが大規模に行われることが多い。戦争に従事する人間は、わたしたちの最も基本的な道徳的信念、つまり生命を奪ったり危害を加えるのは不正な行為であるということに背いている。それにもかかわらず、これに背いて行為するはずの人物――兵士や政治指導者――が、ときに英雄として称賛される。兵士は子供の憧れの的であるし、紛争からの帰還兵はパレードで迎えられる。戦場で生命を落とした兵士は讃えられ、勇気や技量を見せた兵士も表彰される。戦争での殺人が、道徳的に許容されるだけではなく賞賛すべきであるとみなされるのは、一体なぜなのか。危害行為は通常では禁止されるわけだが、こうした明らかな例外は、果たしてどのように説明すべきなのか。
正戦論者は、何世紀にも渡って、とくにこれらの問題に回答を与えようと膨大な議論を積み重ねてきた。正戦論の主要な課題は、戦争の開戦時と戦闘が行われる手段の双方について、戦争のルール(rules of war)を確定してこれを説明することである。いくつかの論点は、ある程度の合意が成立している。たとえば、ほとんどの論者は、少なくとも戦闘に従事する一部の人間――戦闘員――とそうでない人間のあいだには、道徳的に重要な区別があるということを受け入れている。しかし、その他の多くの論点では、戦争がどのような場合に正当化され、どのように行われるべきなのかについて、大きな意見の相違が存在する。
当然のことながら、現在の国際情勢は、哲学者や法学者、政治学者、そして普通の市民のあいだで、こうした最も古典的な問題への関心を高めることになった。テロリズムが国際社会の表舞台に出現し、イラクとアフガニスタンでの直近の戦争が論議を呼び、そして発展途上国での人道危機に関心が高まるにつれて、多くのひとが、正義や権利、そして人間が殺し殺される大義について、根本的に考えざるをえなくなった。西洋民主主義諸国で暮らすわたしたちの大半にとってすでに解決済みとされてきた問題が、現実に深刻な影響をもたらし、社会を分断する論点として再浮上したのである。政府が政敵を拷問することが許される状況はあるのか。被拘束者にテロリストの疑いがある場合、裁判なしの無期限拘留は許されるのか。普遍的人権の理念を確立するため、その道を切り開いてきた国々は、いまや国内外で人権侵害のかどで非難されている。非国家主体の役割が、国家そのものに匹敵するようにもなり、戦争の特徴は変化しつつある。これに対して正戦論者は、正戦論や国際法で伝統的に支配的であったいくつかの見解を再検討することで対応してきた。
本書の主たる目的は、現代正戦論の論争を概説することで、読者自身の見解を問い直したり、戦争倫理について自分の立場を確立するように促すことである。まずはじめに、本書が射程とする範囲について、いくつか重要な特徴を強調しておきたい。第一に、本書は、戦争の哲学的問題について入門的な役割を担うという意図に基づき、哲学者が執筆したものである。哲学研究に焦点を当てるからといって、他分野の研究の妥当性やその重要さを否定するつもりはない。たとえば、政治学や国際関係学、心理学など、数多くの専門分野で、戦争について興味深い指摘がなされている。これら無数の分野で、戦争がどのように研究されてきたのかを概説することは、本書の目的を越えているし、無謀でもあるだろう。それでも本書が、哲学以外の分野で戦争を研究する専門家の他、戦争の哲学的問題を考えてみたいと望んでいるひとにとって、関心があるものであることを強く願っている。
わたしは、多くの哲学者がそうしてきたように、戦争に関わる見解を説明するために、頻繁に仮想事例を用いている。歴史を紐解けば、この目的に適した実例が多く存在するのだから、これを奇妙だと感じる読者はいるかもしれない。しかし、歴史的事例の複雑さは、明らかにしたい原則を分かりづらくすることがある。たとえば、多くのひとには、アメリカの政治道徳についてすでに確固たる見解があったりする。そうすると、アメリカの行動が関わる歴史的事例を用いた場合、その事例についてすでに知っていたり信じていたりすることに基づいてその行動を評価しがちである。一般的なルールや原則を明らかにしたいのであれば、わたしたちの評価に不当に影響を及ぼしうる要素は取り除いておきたい。仮想事例は、そうした場合に役に立つわけである。
第二に、本書の焦点は、戦争の法的次元ではなく、道徳的次元にある。これら二つの次元は重なり合っていることが多く、法を出発点にしつつ正戦論の特定の側面を説明することもある。さらに本書は、戦争に関する情報を提供するために、現行の武力紛争法について詳細な概要を示すことがある。しかし、「戦争のルール」という表現を用いる場合、概して国際法として成文化された戦争法ではなく、正戦論者が研究するその道徳的ルールに言及していると理解してほしい。
第三に、わたしの目的は、この分野で活躍する哲学者が、現在どのような議論をしているのかを読者に知ってもらうことにある。こうした事情から、本書では、正戦論の起源や現在に至るまでの歴史的展開には言及せず、最近の研究(その多くは、ここ二〇年ほどのあいだで刊行されたもの)に焦点をあてて検討している。むろん、歴史的概観を得ることは、正戦論を包括的に理解するうえで有益であり、そうした点に関心をもつ読者は、歴史的な観点に依拠した多くの著作のなかから、少なくとも一冊は目を通すことを薦めておきたい。ポール・クリストファー著『戦争と平和の倫理』(The Ethics of War and Peace)は、アウグスティヌス、ヴィトリア、グロティウスなどの主要な思想家たちを取り上げており、正戦論の歴史的発展について見通しのよい概観を得ることができる。マイケル・ウォルツァー著『正しい戦争と不正な戦争』(Just and Unjust Wars)は、戦争倫理に関心をもつ読者にとって、もう一つの必読書であり、過去五〇年のあいだで正戦論に最も影響を与えた著作である。現在では、ウォルツァーの著作は、正戦論の「伝統的な」(orthodox)見解と呼ばれるものを代表しており、この分野の多くの後続研究の着想点(そして、検討対象)になっている。本書も、ウォルツァーの見解のいくつかの側面を検討するが、とくに彼の著作は、有用な歴史的事例を豊富に取り上げており、原著にあたる価値は大いにある。
本書の目的は、これらの著作に取って代わったり対抗することではない。正戦論は、哲学研究のなかで最も重要かつ刺激的な分野の一つである。この分野について、今まさに何が議論されているのかを分かりやすく、そして批判的に紹介すること、これが本書の目的である。よって、いくつかの理論や見解は扱うことを諦めざるをえない。しかしそれは、論じる価値がないからではない。紙面の構成上、現在この分野で仕事をしている哲学者のあいだで最も関心を集めている論点に絞ったためである。この取捨選択に納得しない読者もいるだろう。しかし、わたしが取り上げる論点だけでも、現代正戦論が扱おうとする問題の多さとその奥深さを示すことに成功していると願いたい。
第四に、読者に対して、特定の見解に説得されることを期待してはいないと強調しておきたい。大学で講義をする際に、入門書の読者に対して、特定の論争をめぐって正しい見解や好ましい見解があるとか、著者が否定したい見解が誤っていると一般的に理解されているかのような印象を与える類書に落胆することがある。哲学の世界では、良識あるひとが持ち得ないような、まったくあり得ない見解はそう多くはない。これこそが、哲学が最も豊かで、そして同時に興味深い学問である所以である。わたしは、検討される様々な立場について、いくつかの批判を加えていくが、そうした批判が決定的であるとか、批判した立場が明らかに否定されると指摘したいからではない。こうした事情から、いくつかの見解を比較したうえで、いずれの見解が有力であるのかを結論付けないことも多い。わたしの仕事は、あくまでも複数の見解を解説することである。いずれの見解が最も魅力的であり、有望であるのか、そしてそれがどのように擁護されるのか。これらを判断するのは、本書の読者である。
ただし、わたしは、(多くの正戦論者と同じように)ある種の道徳実在論(moral realism)――道徳的事実は存在しており、道徳的主張の真偽を判断できるとする立場――が正しいと考えていることは断っておきたい。このことについては、とくに議論をしていない。よって、わたしがたびたび用いる道徳が要求するには(what morality requires)という表現は、実在論を否定するひとや、これを踏まえた議論に異議を唱えるひとから哲学的な反発があるかもしれない。さらに言えば、特定の道徳的問題について、多くのひとがどのような態度を取るのかを仮定したうえで議論を進めることもある。これは、正戦論研究ではよくあることなのだが、哲学の方法として万能ではないし、議論の余地がないわけでもない。ただし、こうした仮定に基づいて議論をしている箇所ははっきりしているし、そこから導き出される結論もまた仮説にすぎない。読者が、特定の事例でどのように行為すべきなのかについて、わたしの仮定に同意できるならば、そのことを踏まえた推論にも納得することもできよう。しかし読者には、可能な限りでよいので、わたしの推論には反論してほしい。この方法を用いることが、扱っている問題について議論を妨げるのではなく、むしろそれを拡げる助けとなることを期待している。
最後に、戦争の学術的研究には、正戦論という領域に分類されないものがある。アレックス・ベラミーは、「正戦の伝統」はより広い意味で戦争をめぐる法、道徳、そして政治的観点から構成されるが、「正戦論」はそのなかでも道徳的観点から分析される研究を指すと述べる。こうした区別の仕方については思うところがあるが、正戦論者の道徳的分析が、戦争研究の唯一の方法でないことは確かである。ただし、本書が注目するのは、正戦論者による分析である。そしてその関心は、すでに言及したように、正戦論の多様な特徴が発展してきた経緯ではなく、それらが現在この分野に携わる哲学者のあいだで、どのように扱われているのかを明らかにすることである。
むろん、戦争の道徳的分析のなかには、正戦論に分類されないものもある(これがベラミーの分類を否定したい理由の一つである)。わたしの理解では、正戦論者は、少なくとも理論上は、戦争は正しい場合があり、さらに戦争に適用される道徳的ルールが存在しうると考えている。しかし、これらの主張のいずれか、あるいはその両方を否定しようとする論者もいないわけではない。厳格な平和主義(pacifism)は、どれだけ望ましい目的を達成するためであったとしても、その手段として暴力に訴えることは正当化されないと考えている。平和主義者は、理論上でさえ戦争が正当化される場合があることを否定するのだから、平和主義は、正戦論の内部ではなく、それを否定するものとして位置づけられる。この見解によれば、戦争のルールを確定する正戦論の試みは、最初から失敗している。平和主義を支持する議論のなかにも説得的であり重要なものもあるが、ここでは扱うことはできない。
他方で、現実主義(realism)もまた、正戦論の代替案である。現実主義者は多様な形があるものの、戦争が道徳的ルールをもって規制される活動であるという理念を否定する点で共通する。正戦論に共感しているひとでも、戦争のなかに道徳的ルールを持ち込むことに困惑するひともいるようである。そこで第5章は、少し時間をかけて現実主義の立場を検討する。ただし、ここで正戦論という試みそのものを擁護するつもりはない。むしろ戦争が、少なくとも理論上は正当化される場合があり、戦闘行為が、わたしたちが理解するように努めるべきルールをもって規制されるという二つの前提に基づいて議論を進めていく。
各章の概要
現代の正戦論者は、国家間の武力行使について、個人間の暴力行使を統制する道徳的ルール――とりわけ自衛および他衛に関する明白なルール――を参照して分析することが多い。個人の自衛権に注目することで、戦争についてどれだけのことが言えるのか。これは、大いに議論の余地がある。それでも自衛に関する道徳は、正戦論に少なからず影響を与えてきたのだから、本書でもいくらか検討してしかるべきであろう。そこで第1章では、自衛の有力な見解をいくつか検討する。とくに個人の自衛のなかでも明らかに戦争に関連する側面、つまり必要性(necessity)と比例性(proportionality)という要件、二重結果の原則(the doctrine of double effect:DDE)、それから他衛の義務も注目しておきたい。
第2章は、戦争と個人の自衛のあいだの関係が、どのように理解されてきたのかを詳細に検討する。まず、国家間の侵略行為という観念は、「国内類推」(domestic analogy)――諸国家と市民社会の類比――を導入することでのみ理解できるというウォルツァーの主張を概観する。さらに、戦争と「日常生活」は、単なる類推以上のものであるとする還元主義的な主張を取り上げよう。この見解によれば、これらは、道徳的に区別されず、同じ道徳的ルールから規制される。さらに、ジェフ・マクマハンやクリストファー・カッツ、デイヴィッド・ロディン、ヘンリー・シューの仕事を踏まえつつ、戦争をめぐる還元的な個人主義(reductive individualism)と、これとは異なる〔非還元主義的な〕集団主義(collectivism)のあいだの論争を検討する。本章の目的は、戦争倫理を理解する最善の方法を明らかにすることではない。読者に対して、こうした抽象的な問題についても議論が続いていることを理解してもらうことである。これ以降の章では、そうした問題は少し脇に置いたうえで、正戦論の個別領域について議論してゆく。
正戦論者は、一般的に、ユス・アド・ベルム(jus ad bellum)、ユス・イン・ベロ(jus in bello)、ユス・ポスト・ベルム(jus post bellum)という三つの段階に戦争を分類する。ユス・アド・ベルムは、戦争を行う権利に関わっており、戦争を行う正当原因があることを確定するルール(わたしは、これを条件と呼ぶことがある)を指す。ユス・イン・ベロは、交戦時の正しさに関わっており、戦闘を行う手段を規制するルールとして「交戦規定」(the rules of engagement)と呼ばれることもある。これらのルールは、戦闘で使用可能な兵器や攻撃対象の種類、攻撃の程度などを定めている。
ユス・ポスト・ベルムは、戦後の正義である。三つ目の段階は、正戦論のなかで、おそらく最も未発達な領域であるが、戦犯法廷の普及や西側諸国によるイラクとアフガニスタン駐留の長期化をうけて、近年になって学術的な注目を集め始めている。ユス・ポスト・ベルムの射程は、戦争の他の段階と比較してはるかに広範なものであり、占領の倫理や戦犯法廷、賠償、処罰、そして和解にまで及ぶ。こうした事情から、ユス・ポスト・ベルムは、ひとまとめのルールや条件としては理解されていない。関連する問題のなかでは、戦後賠償の負担や戦犯法廷の手続きなどは、そうしたルールが適用できるが、たとえば過去に戦争状態にあった集団間をどのように和解させるのかといった問題は、異なる種類のアプローチが必要となるであろう。
第3章は、ユス・アド・ベルムについて検討する。この章ではまず、開戦時の七つの形式的条件を概観することから始める。これらの条件があることは、正戦論者のなかでほぼ合意が成立している。つまるところ、戦争は、正当原因(just cause)があり、比例性(proportionality)を満たし、成功の理にかなった見込み(reasonable chance of success)があり、正統な権威(legitimate authority)のもとで、正しい意図(right intention)があり、最後の手段(last resort)であり、そして公的な宣戦布告(public declaration of war)をもって行われなければならない。正戦論者は、戦争が正しいのは、これらの条件をすべて満たす場合だけであると考えていることが多い。わたしがこれらをユス・アド・ベルムの形式的条件と呼んでいるのは、たとえば戦争は侵略に対して釣り合った対応であるべきであるという〔比例性の〕原則に合意が成立したとしても、実際に、何をもって侵略に釣り合った対応とみなすのかについては意見が異なるからだ。本書を読み進めて行けば、これらの形式的条件の実質的内容について、どれほど合意に至っていないのかがわかるだろう。とはいえ、とくに正当原因と比例性という二つの条件は、現代の有力な正戦論者から注目されており、本章の後半は、関連する議論を詳細に検討したい。
第4章では、引き続きユス・アド・ベルムを検討するが、そのなかでも議論の余地がある戦争を扱う。ブッシュ政権は、二〇〇二年『国家安全保障戦略』(National Security Strategy:NSS)で、「新たな脅威」を発見しこれを未然に防ぐという方針を打ち出し、予防戦争と先制戦争の違いをめぐる議論の口火を切ることになった。こうした方針は、多くのひとにとって、許容される先制攻撃ではなく、許容されない予防戦争に該当した。本章では、NSSが、正戦論から擁護できるのかを検討する。さらに本章では、正当原因としての懲罰戦争という考えの他、人道的介入という戦争の許容性や、反政府組織への資金や兵器の提供のような間接的な軍事介入の許容性も検討したい。
第5章は、ユス・アド・ベルムとユス・イン・ベロの関係について検討する。伝統的な見解に従えば、正戦論者は、戦争におけるこれら二つの段階を道徳的に独立したものとみなしてきた。そのため、自国側〔の戦争〕に正当原因がなかったとしても、戦闘員は、戦争を正しく遂行することが可能である。この独立性を主に説明してきたのが、戦闘員に対して、不正な戦争を戦ったことの責任を負わせるのは不公正であるということだ。戦闘員ではなくその指導者こそが、ユス・アド・ベルムを満たす責任を負っている。戦闘員は、いかに戦うのか――つまりユス・イン・ベロを遵守すること――だけに関心を持っていればよい。本章では、非戦闘員免除や捕虜の扱いなど、多様な交戦規定の概要も示す。
第6章は、現代正戦論のなかで最も重要な議論の一つである戦闘員の道徳的地位について取り組む。まず本章では、ユス・アド・ベルムとユス・イン・ベロは独立した形で満たすことができるという見解に対する、ジェフ・マクマハンの有力な批判を検討することから始めよう。こうした独立性を否定する最も決定的な含意の一つは、戦闘員は、不正な原因から戦っているだけでは不正行為に及んでいるわけではないという見解を掘り崩してしまうことだ。そこで、不正な戦争を戦う戦闘員は不正行為に及んでいるという主張を支えるマクマハンの議論を検討する。この議論は、「不正な戦闘員」(unjust combatants)は、その殺害対象である「正当な戦闘員」(just combatants)とのあいだで道徳的に平等ではないといったようなものである。マクマハンの批判者たちが、こうした議論に対して、どのように戦闘員の道徳的平等を擁護してきたのかも検討したい。
第7章は、正戦論の根本的な教義である非戦闘員免除の原則(the principle of non-combatant immunity:PNI)を取り上げる。非戦闘員は、道徳的に攻撃を免除されるという見解は、ユス・イン・ベロの多くのルールを支えている。しかし、本章で検討するように、このことは、非戦闘員殺害が〔どのような場合でも〕許容されないということを意味してきたわけではない。DDEは、非戦闘員の付随被害(collateral damage)を正当化するものとして広く適用されてきた。むろん、意図した危害と自分の行為から単に予見しただけの危害を区別するだけでは、付随被害の許容性を説明するのに十分でないと訴える論者もいる。そこで、DDEの修正案や代替案について検討する。さらに本章では、異なる非戦闘員集団――とくに、軍事行為から利益を得る立場にある集団と、そうでない集団――のあいだで、どのように危害のリスクを分配すべきなのかという問題にも取り組む。最後に、非戦闘員を人間の盾として使用することに関連する道徳的問題も検討したい。
第8章では、PNIそのものを正当化するうえでのいくつかの問題を検討する。戦闘員と非戦闘員は異なる扱いをされる。これを説明するうえで決定的となる道徳的特徴は、それほどはっきりしているわけではない。非戦闘員は脅威を与えないという歴史的に〔当然視されてきた〕前提は、何をもって脅威を与えるとみなすのかについて、極めて狭い理解のもとでしか成立しない。非戦闘員の道徳的地位についての代替案をいくつか踏まえつつ、PNIを維持するための様々な試みを考察してゆく。
第9章では、いまや正戦論の中心的な議論の一つであるテロリズムの性質とその道徳性を取り上げる。すでに述べたように、テロリズムは、戦闘でますます顕著になっている。正戦論は、次のような非難が向けられることが多々ある。テロリズムに適切に対応できないのは、正戦論が時代遅れで現代の戦争にとって有意でないことを露呈しているからだ。確かに、正戦論は、主に国家間関係を背景として発展してきた。テロリズムという現象は、往々にして、そうした古臭い理念に対して新たな課題を提示している。本章では、現代の哲学者が、正戦論という文脈のなかで、どのようにテロリズムという概念とその道徳性を分析してきたのかを確認する。そのうえでテロリズムは、正統な権威と非戦闘員免除という理念からして、通常の戦争とは異なる意味で許容されないことを説明したい。ただし、ライオネル・マクファーソンをはじめとする哲学者たちは、テロリズムが提起する課題を踏まえて、正戦論そのものの修正が必要であると論じており、この点についても検討を加えることとする。
第10章では、テロリズムの法的分類の難しさを確認しつつ、引き続きテロリズムを検討する。一方でテロリストは、明らかに戦闘員であるように思える(少なくとも、非戦闘員には思えない)。他方で、政府からも独立して行動する準・国家集団を戦闘員とみなしてしまえば、そうした集団が、正真正銘の戦争に従事していると認めるのとほぼ変わらない。このようにテロリストを通常の戦闘員と見なすことの重大な影響と、非戦闘員と見なすことの不自然さから、彼らは「違法戦闘員(illegitimate combatants)」という特殊な分類を与えられるに至った。本章では、テロリストが実際に戦闘行為に従事していたとしても、ジュネーブ条約による保護を受ける地位にないという指摘を批判的に検討したい。
この章では、軍事戦術としての拷問の使用という注目度の高い議論も取り上げたい。こうした議論は、「時限爆弾」というシナリオが用いられることが多い。テロリストを拷問して情報を引き出せば、夥しい数の人間をテロ攻撃から救うことができるというものである。ここでは、功利主義から拷問の使用を認める議論とこれを認めない議論、そして拷問は正当防衛の一形態として正当化されうるという指摘を検討したい。
第11章は、軍事技術の顕著な発展――軍事兵器としての無人航空機(ドローンと呼ばれるもの)の普及――について検討する。無人航空機(unmanned aerial vehicles:UAV)は、研究者や普通の市民から注目を集めている。戦闘員は、各章の概要11実際に無人航空機によりリスクなく戦うことが可能となっており、(やがて)これを使用して戦争の経済的コストが大幅に削減されるかもしれないからだ。そこで本章では、遠隔操作による兵器使用に対する異論をいくつか検討したい。
第12章は、ユス・ポスト・ベルムを考えるうえで鍵となる論点をいくつか取り上げたい。ベラミーは、戦争終結の倫理を、最小主義(minimalism)と最大主義(maximalism)に分類する。最小主義は、勝戦国に対して、敗戦国を打ち負かしすぎないことだけを要求するが、最大主義は、勝戦国に対して、敗戦国が国家として機能するようにする義務を要求する。ここでは、とくに勝戦国には敗戦国を復興させる義務があるという見解を検討する。さらに、西側諸国がアフガニスタンから撤退した際に広く議論されたように、交戦国には、戦争中に自国軍と協働したひとを支援する特別に厳格な義務があるのかについても検討する。本章の後半部では、戦争犯罪についての道徳的問題をいくつか検討する。とくに戦争犯罪の上官命令抗弁について概説する。それによれば、戦闘員は、命令のもとで行った不正行為に対する訴追から一般的に保護されることが認められている。さらに、紛争後の和解を促進するという名目で、戦争犯罪に対する恩赦を認めるという見解も検討したい。
(注と傍点は割愛しました)







