あとがきたちよみ
『ジェンダー史入門 』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2025/11/6

 
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アントワネット・バートン 著
髙内悠貴 訳
『ジェンダー史入門』

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日本語版への序文
 
 過去四〇年間で、西洋文化におけるジェンダーに関する概念やジェンダーに対する言及は爆発的に増加してきた。かつてジェンダーは比較的狭い意味の技術的なカテゴリーであり、言語学の研究や語学の授業における文法の議論を超えて用いられることはほとんどなかったが、今では個人のアイデンティティを表現し、自分自身を語るための概念として広く流通するようになっている。本書の原稿を読んだ担当編集者には「ジェンダーを二元論(バイナリー)的なカテゴリーとして言及する表現は、「ベリー・ショート・イントロダクション」シリーズのターゲットである一般読者には専門用語のように感じられるため削除するべきだ」と指摘された。しかし私は、ジェンダーやジェンダー・バイナリーという概念はもはや難解な専門用語ではなく、アメリカ合衆国やヨーロッパでは極めて一般的な用語であり、その意味を知らなかったり、日常会話の中で用いたことがない一〇代の若者を探すほうが難しいだろうと答えた。
 本書を執筆した目的は、今日、ジェンダーという概念が広く用いられるようになったからこそ、ジェンダーには歴史があると強調することである。そして、学問分野としてのジェンダー史もまた、どのように私たちがジェンダーの様々な意味や機能を理解するに至ったのかについての物語の重要な一部をなしている。この確信は、過去三五年間にわたりアメリカ合衆国の学界で研究と教育に携わってきた経験からくるものである。まさにこの時期に、ジェンダー史は一つの研究領域として成立し、歴史学の主流へ入り込み、そして近年では、ジェンダー・バイナリーを単なる研究対象としてではなく批判の対象、さらには解体の可能性さえあるものと考える姿勢が、アメリカ合衆国のみならず国際的に注視されるようになった。
 私は一九九〇年にシカゴ大学で歴史学の博士号を取得した。これは、学術雑誌『ジェンダーと歴史(Gender and History)』が創刊された翌年にあたる。本書で論じているように、『ジェンダーと歴史』はジェンダー史という学問分野の正統性を確立するとともに、ジェンダー史家が自身の研究成果を発表する場を提供する重要な役割を果たした。私の博士論文の指導教官は、女性史やジェンダー史がそもそも一つの学問分野として成立しうるかについて控えめに言っても懐疑的な立場を取っており、私のフェミニスト歴史学者としてのキャリアの最初の一〇年以上は、自らの研究成果の正統性が認められるために闘わなければならなかった。また、第三章で詳述するように、私はジェンダーをインターセクショナリティの視点で捉えることを重視してきたが、これも議論の的となった。つまり、歴史学においてジェンダーをアイデンティティの複数の軸や権力構造の一つとして位置づけ、過去に生きた男性または女性とされてきた人々の生活や経験、歴史を考察する際に不可欠な視点とすることは、学問的に受け入れられるまでに相当の時間を要したのである。
 アメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人史やラティーナ史の研究者たちは、当初からインターセクショナルな視点を理解していた。実際、彼女らの初期の研究によって、ジェンダーは常に人種、エスニシティ、階級によって形成され、それと同時にこれらの要素もまたジェンダーによって形作られることを否定するのは困難、あるいは不可能となった。私の研究もまた、こうした問題をイギリス帝国の文脈、とくに南アジア系女性たちと彼女たちが生活した場所─英国、南アフリカ、あるいはインド本国─において追究してきた。ジェンダー史と帝国史を、互いを構成し合う分析の枠組みとして、また権力の場として捉える実践が、アフリカ、インド、白人入植植民地(アメリカ合衆国を含む)におけるジェンダー史研究へと私を導いた。奴隷制度や帝国支配、さらにはそれに対する抵抗とジェンダーの形成を結びつけて論じる研究に触れることで、私のインターセクショナルな視点はさらに研ぎ澄まされた。それゆえ、「ベリー・ショート・イントロダクション」シリーズの一巻である本書においても、一九八〇年代のジェンダー史の勃興以降、この分野がどのように展開してきたのかを説明する際、多様な事例を取り上げることになった。
 研究活動はジェンダー史の意義を理解するうえで極めて重要な役割を果たしてきたが、それ以上に、この三〇年間の教育活動こそが、私のジェンダー史への理解を深め、研ぎ澄ます決定的な要因となった。学部レベルの授業においては、概論科目から応用科目に至るまで、ジェンダーの歴史を探究の対象とし、歴史がどのように展開するのかを説明するための枠組みとして組み込んできた。もしジェンダーが、ジョーン・スコットが論じたように権力の関係を表す「第一義的な(プライマリー)」方法であると信じるならば、私たちは授業計画を慎重に設計し、学生たちが大なり小なりの歴史的出来事や経験へのジェンダーの影響を明確に理解できるようにする必要がある。その際、ジェンダーの二元論(バイナリー)的性格、そしてそれが人種、階級、年齢といった歴史的に重要な要素とどのように絡み合ってきたのかを示すことが不可欠である。私はそのために、本書の中で引用する多くの著者や歴史研究の成果を活用してきた。なぜなら、ジェンダーという概念が日常的に広く用いられるようになったのと同じく、ジェンダー史という学問分野もまた、私たちが過去をどのように考え、そして再考するかを根本的に変革してきたからである。
 私のキャリアの中で、多くの博士課程の学生を指導する機会に恵まれてきた。とくに、過去二五年間所属してきたイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校では、多くの大学院生とともにジェンダー史を探究してきた。本書で引用する議論や著者の多くは、こうした大学院生たちのジェンダー史における学問的訓練の基礎を築いてきたものであり、大学院生たちにとって馴染み深いものであるはずだ。その中には、本書の日本語訳を行なった髙内悠貴博士も含まれる。彼女がイリノイ大学の博士課程に在籍していた際、私は彼女とともに研究に取り組む機会を得た。私たちは、ジェンダー・バイナリーのいわゆる「自然さ」とされるものに歴史的視点から疑問を投げかけ、その概念が人種的・帝国的支配の枠組みにどのように組み込まれてきたのか、さらには強制的異性愛や、とくに女性を搾取する経済システムとの関係について考察してきた。現在、悠貴自身が大学教員として教育・研究に携わり、女性と帝国主義の歴史家としての訓練を形作ったこの分野を、日本の読者にとってより身近なものにしてくれることはこの上ない喜びである。
 本書は短いながらも、読者に考えてもらいたい重要な論点をいくつか提示している。第一に、ジェンダーは常に単独で存在するのではなく、人種的、性的、経済的な制度を含む他の諸制度が経験される一つの様式であるという点である。第二に、ジェンダー史は本質的に進歩的なプロジェクトではないということである。この分野は西洋において成立したがゆえに、グローバルな近代性に内在する帝国的な前提をある程度引き継いでおり、あらゆる時代・地域においてジェンダーを歴史化する最適な方法とは限らない。最後に、ジェンダー史はその限界を抱えつつも、もっとも批判的かつ自己省察的な形で展開されるとき、支配的な歴史叙述や権力構造を転覆しうる学問でありつづけているという点である。まさにこの点こそが、近年の世界的な政治の右傾化の中でジェンダー史が攻撃の対象となる理由の一つであり、それと同時に、権力がどのように、誰のために機能し、それが私たちの日常生活にどのような影響を及ぼすのかを考察するうえで、依然として不可欠な視座であり続ける理由でもあるのだ。
 
イリノイ州アーバナにて
アントワネット・バートン
 
 
訳者解説
 
 本書は、一般読者から研究者まで幅広い層に向けたコンパクトな入門書として定評があるオクスフォード大学出版局刊行の「ベリー・ショート・イントロダクション」シリーズの一冊である。ジェンダー史を取り上げた本巻の著者アントワネット・バートン(Antoinette Burton)は、一九世紀、二〇世紀のイギリス帝国を専門とするフェミニストの歴史家で、イギリス植民地時代のインドを中心に広くオセアニア、アジア、アフリカを研究対象とし、フェミニズムと植民地主義、帝国と国家または世界との関係に至るまで様々なテーマで執筆してきた。イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校歴史学部では英国史や帝国史、ジェンダー史、世界史など幅広いテーマについて教鞭をとり、同大学の人文科学研究インスティテュート(Humanities Research Institute)のディレクターとして人文科学研究を牽引している。
 ジェンダー史研究の入門書は日本語でも英語でも様々に出版されているが、本書の特徴は、ジェンダー史の史学史(ヒストリオグラフィー)を通じてこの分野を紹介している点である。ヒストリオグラフィーは、歴史学のある分野における研究テーマや手法、解釈の変遷をたどり、過去の歴史家たちが何をどのように記述し、理解し、それがどのような背景で変化しつつあるのかを批判的に分析した文章である。本書では、分野として成立してから現在に至るまで、ジェンダー史研究がいかに様々なテーマ─奴隷制度、資本主義、帝国、移民など─についての私たちの歴史理解を変革してきたかを広く紹介すると同時に、ジェンダー史家の間の共通の関心である「歴史を形成するジェンダーの力と役割」について、また「歴史記述においてジェンダーが持つべき適正な重み」についてなされてきた議論が辿られている。
 ヒストリオグラフィーとしての性質上、馴染みのない歴史家や書名が並ぶと困惑してしまう読者もいるかもしれないが、言及されている研究から著者がどのような議論を引き出しているかに注目して読み進めてもらいたいと願っている。そして、本書を読書案内もしくはシラバスとして捉え、ここで取り上げられている論文や本と並行して一章ずつ読み進めるという読み方をお勧めしたい。たとえば本書の核になっており、日本語にすでに翻訳されているジョーン・スコットの一九八六年の論文を読みながら第一章と第二章を読むと、スコットが提出したジェンダーの捉え方の革新性とそのインパクトについての理解が深まるだろう。本文中で論じられている文献で邦訳が確認できた文献については訳注で書誌情報を記しているので、そのような読み方に役立ててもらえれば幸いである。また、本文で直接言及されていない場合でも、同じ著者による関連邦訳文献が確認できたものは、訳者解説の末尾に読書案内として掲載した。
 また、決定版としてではなく、北米をベースとする白人女性でイギリス帝国を専門とする著者のポジションから書かれたヒストリオグラフィーとして、本書は日本のジェンダー研究やジェンダー史の専門家にとっても、北米と日本のジェンダー史の比較を試みたり、研究史を再確認するきっかけとなるだろう。日本のジェンダー史研究が欧米を中心に行われてきたジェンダー史研究とどのような関係を築いてきたか、どのように似ている、または異なるキャリアを辿ってきたかを考察することは、それ自体が価値のあるプロジェクトであり、そのような対話をインスパイアすることが著者の、そして翻訳者である私の、企図でもある。
 本書がヒストリオグラフィーというスタイルを採用するのは、「ジェンダー史にはそれ自体に歴史がある」ということが本書の一つの主張になっているからだ。ただし、その歴史は「女性史からジェンダー史へ、人種や階級の視点とインターセクショナリティ、さらにクィア史へ」という進歩的な軌跡を描いてはいない。このように「進歩」の物語としてジェンダー史の歴史が捉えられることが多いのは、近代西洋の歴史が、野蛮から進歩へという物語として語られることが常であるためであり、ジェンダーステレオタイプからの解放が進歩の指標の一つとして挙げられてきたためである。このようなよくある進歩の物語を離れ、本書では、ジェンダー史という学術領域を考えるとき、ジェンダー史は、それが生まれた政治・社会的背景、とりわけ一九八〇年代以降のグローバルな危機の状況の産物であると同時にそのような状況を形成する力の一つであることが強調されている。ジェンダー史という学術領域を特定の時代と地政学という文脈ともに理解することが重要であるのは、そうしなければ、ジェンダー史自体が、ジェンダー史がホームとしてきた二〇世紀後半の西洋のアカデミアがもつ様々なバイアス─西洋中心主義や近代優越主義─を再生産してしまう危険があるからだ。このようなジェンダー史の有用性とその限界をめぐる論争は、ジェンダー史の成立当初から現在まで続いており、それがこの分野の生産的な緊張関係を生み出している。
 ジェンダー史は実際にどのような歴史を辿ってきたかを論証するために用いられている一次史料が、主に英語圏で出版されている学術雑誌である。本書は『ジェンダーと歴史』など学術雑誌を単なるそれぞれの論文の寄せ集めではなく、時代背景の中で一定の指向を持つ生きた書物として扱う。そして、掲載された論文を精査し、ジェンダー史のフィールドがどのように形成され、変容してきたのか、その変遷を論じている。このように学術雑誌を一次資料として用いることで説得的に示されていることは、著者の言葉を借りるなら、ジェンダー史におけるジェンダーの主権性や唯一性(シンギユラリテイ)には、ジェンダー史のはじまりから常に疑義が突きつけられていたのであり、進歩ではなくこの緊張関係こそ、ジェンダー史の歴史を特徴づける、ということになる。ジョーン・スコットの「ジェンダー─歴史分析のための有用なカテゴリー」、クレンショーの「人種と性の交差を脱周縁化する」、バトラーの『ジェンダー・トラブル』の同時代性だけをとりあげても、進歩的な物語の不正確さは明らかである。さらに学術雑誌の歩みを精査することで明らかになるのは、女性史とジェンダー史が相互補完的な関係にあること、さらに、人種やクィアの問題はジェンダー史の周縁に後から加わったものではなく、その誕生当初から緊張関係を含み込んでいたということである。
 このような進歩的なナラティヴを乗り越える必要があるのは、単にそれが不正確であるためではない。そこには現在ジェンダー史が置かれている政治的な状況と、ジェンダー史をより研ぎ澄ましていくという理論上の理由の両方がある。まず政治的な状況とは、二〇二五年の第二次トランプ政権の誕生が象徴する、権威主義的かつ排外主義的な右派とファシズムの隆盛と民主主義の危機に見られるリベラル政治の行き詰まりである。フェミニズムが登場し、LGBTの権利運動が一定の勝利を収め、社会はどんどん良くなっていく(イット・ゲッツ・ベター)と思われていたが、だとすれば二〇二五年現在の政治的状況は、そこからの一時的な逸脱としてしか説明できなくなってしまう。文化戦争に巻き込まれ、ジェンダー研究はますます右派の攻撃対象となっているが、過去と現在の権力のあり方を批判的に分析することで、その解体の道筋を照らす役割をジェンダー史が果たそうとするのであれば、リベラルな進歩という表層的な理解に安住する誘惑に抗って、ジェンダー史を脱植民地化する道を選ぶ必要がある。
 他方、理論上の理由とは、ジェンダー史の鍵概念であるジェンダーの捉え方に関わる。ジェンダーにはいくつかの捉え方があり、一般によく理解されているアイデンティティの側面としての理解がその一つである。それに対し、ジェンダー史がこれまで強調してきたのは、「ジェンダーは歴史の効果として生じる」ということである。この短いながらも、ジェンダー史研究のもっとも重要な貢献の一つであり、もっとも難解な一文を本当の意味で受け入れるならば、ジェンダー史の歴史が進歩的なナラティヴにならないことはより明確になる。
 「ジェンダーは歴史の効果として生じる」とはどういうことか? それは単に、男らしさ・女らしさのあり方は過去から現在に至るまで変わってきた、ということ「だけ」を意味するのではない。ジェンダーの二元論は、歴史の前提として捉えるべきものではなく、「特定の歴史的な出来事や条件が身体や主体性と衝突し、交わる結果として」(四四頁)生じるものであると受け入れることを意味する。しかし、これは簡単なことではない。たとえば、本書第四章に出てくる「私は、西洋のジェンダー論における基盤となる基本的なカテゴリーである「女性」は、西洋との持続的な接触が起こる以前のヨルバランドでは存在しなかったことに気づいた。共通の関心、欲望、または社会的地位によって特徴づけられる集団は、それ以前には存在していなかったのだ。」(一〇一頁)という言葉に、何の留保もなく同意することに、多くの人が困難を感じるのではないか。ジェンダー・バイナリーは私たちの生活の中にあまりにも自然化されており、どんなに注意深く意識して歴史を記述しようとしても、いつの間にかジェンダーは「結果」ではなく「前提」に滑り込んでしまう。実際、本書を取り上げたポッドキャストに出演した著者も、三〇年にわたる大学院での教育活動において、学生たちがもっとも理解しようと苦しむのがこの点であり、本当の意味でジェンダーを「前提」ではなく「結果」として分析し抜いた研究は稀少であると語った。それだけ真の意味でジェンダーを「前提」ではなく「結果」と捉える歴史記述を実現することは難しく、革新的な研究方法や理論が必要であり、それを多くの歴史家たちが探ってきたといえる。
 このようなジェンダーの捉え方は高度に学術的すぎて、その意義は限定的と思われるかもしれない。しかし、アイデンティティとしての側面だけではなく、ジェンダー(やセクシュアリティ、さらに言えば人種や階級もそうである)に歴史があることを理解することは、私たちがどんなフェミニズムを構想するか、という問いに直接関わる。ジェンダーを歴史の産物として捉えることは、インターセクショナリティの理論家たちが主張してきたように、ジェンダーがそもそも人種化された形で生産されてきた事実――とりわけ大西洋奴隷制度のジェンダー史家たちが丹念に暴いてきた事実――を受け入れることでもある。また、ジェンダーを歴史の結果と捉えることは、「女性」というカテゴリーすら歴史の効果――もしくは、歴史の中で構築される――とみなすということであり、それは女性を非歴史的なカテゴリーとして本質化するホワイト・フェミニズムに対する根本的な反論である。
 コンパクトな入門書であるがゆえに、どの研究を含む・含まないかは難しい判断である。その難しい判断の結果選ばれ本書で紹介された研究を見ると、イリノイ大学歴史学部の教員やそこで学んだ元学生たちの著作に溢れている。そのような意味でも、このジェンダー史入門は決して「決定版」ではなく、バートン教授が二五年を過ごしてきたイリノイ大学から見えるジェンダー史である。バートン教授の学生としてイリノイ大学で学んだ立場から見ると、本書が象徴するのはコミュニティである。この本がカバーする時代・地理的な広さは、もちろんバートン教授自身の研究分野の幅広さを反映しているが、どんなにバートン教授のように優れた研究者であっても、ジェンダー史という広大な分野を一人で俯瞰することはできない。本書は、バートン教授を中心にキャンパスの内外に作り出されたジェンダー史家たちのコミュニティの研究成果を反映しているのである。
 
 本書を生み出したコミュニティのなかで学んだ一人として、どうしても私が翻訳し、ジェンダー史に関心のある日本の読者と共有したいという強い気持ちがあった。その思いを実現させてくれた勁草書房、そして伴走してくださった編集担当の橋本さん、そして原文との照合を丁寧に行なってくださった兼子歩さんに心より感謝を申し上げたい。そして、敬愛するバートン教授、本書を私に託してくださり、本当にありがとうございました。
 
訳者による読書案内
アンジェラ・デイヴィス『監獄ビジネス』上杉忍訳、岩波書店、二〇〇八年。
ジョージ・チョーンシー「キリスト教的兄弟愛、あるいは変態性欲?――第一次世界大戦期の同性愛アイデンティティと性的境界の構築」髙内悠貴訳、兼子歩監訳『男性学基本論文集』勁草書房、二〇二四年、三一一-三三九頁。
スーザン・ストライカー「トランスジェンダーの旅路」山田秀頌訳『ジェンダー研究』第二三号(二〇二〇年)七-二六頁。
デイヴィッド・ハルプリン『聖フーコー――ゲイの聖人伝に向けて』村山敏勝訳、太田出版、一九九七年。
ネル・アーヴィン・ペインター『白人の歴史』越智道雄訳、東洋書林、二〇一一年。
フィリッパ・レヴィン『一四歳から考えたい優生学』斉藤隆央訳、すばる舎、二〇二一年。
ムリナリニ・シンハ「ジェンダーと帝国主義――一九世紀末ベンガルにおける植民地政策と道徳的帝国主義のイデオロギー」鹿野美枝訳、兼子歩監訳『男性学基本論文集』勁草書房、二〇二四年、三四一-三五五頁。
 
 
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