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エレーヌ・ランデモア 著
福家佑亮・小林卓人・小須田翔・田畑真一・山口晃人 訳
『民主的理性 みんなで決める政治の正しさ(上・下)』
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プロローグ
二〇〇五年五月二九日、フランスではEU憲法の批准に関する国民投票が実施された。政治的・知的エリートの期待や予測に反して、フランス国民はこの憲法条約を拒否することを決定した。この結果に対し、評論家たちは口を揃えて非難した。「国民は間違いなくEU憲法を完全に誤解していた。国民は政府(特に当時の大統領ジャック・シラク)に制裁を加える不適切な機会を得て、無責任にもヨーロッパのプロジェクトを台無しにしてしまったのだ」。
フランスの市民として私も、当初は同じように国民投票の結果に反応した。どうして私の同胞市民はこのような無知な投票をしてしまったのだろうか。もし彼らが自分のことばかり考えてさえいなければ、グローバル化がもたらす経済的・文化的課題に自ら対処することが困難な国にとって、ヨーロッパが唯一可能な未来であることに気づいただろう。憲法案は、ヨーロッパ・プロジェクトに対する様々な政治的構想の間の、不完全かもしれないが、最終的には理に適った妥協であった。いずれにせよ、憲法案を受け入れることが、ヨーロッパの建設を前進させる唯一の方法であった。ヨーロッパの建設は、現代化と必要な制度改革を約束するものであったため、よりいっそう必要なものだった。国民投票には正しい答えがあり、私はフランス国民が間違った答えを出したのだと考えた。
しかし、あらためて考え直し、今日のヨーロッパにおいてフランス人であるとはどういうことかについて、特殊で限定された経験しかない一個人としての私は、フランスのニーズについての判断を下すのに最適な立場にはないかもしれない、と考えるようになった。一五〇〇万人以上の人々が間違っていて、私が正しいということはもっともらしいだろうか。おそらく、一三〇〇万人近い同胞市民が私と同じように投票したという事実に、私は慰めを見つけられるかもしれない。しかし、結局のところ、人口の五五パーセントが間違っていて、残りの四五パーセントが正しい可能性が高いのだろうか、あるいはその逆の可能性が高いのだろうか。いくつかの仮定を置けば、これは、(例えば〈コンドルセの陪審定理〉で公式化されている)大数の法則が予測するようなことではない。少なくとも、この種の確率的な考慮は、国民投票の結果に対する私の評価に含まれるべきだったように思う。このようにして、私自身の判断よりも、そして私が属する少数派の判断よりも、多数派の判断を信じるよい理由がないのだろうかと考えるようになったのである。もっと広く言えば、そもそも私たちが多数決を用いる理由は、それが一般に信頼できる決定手続きだからだとしたらどうだろうか。
即座に思いつく異論は、著しい間違いを犯した多数派の例を挙げるものだ。多数派はソクラテスを死に追いやった。多数派はヒトラーを権力の座に就かせたと言われている。実際、世界中で、公式・非公式の多数派が非合理的、外国人排斥的、人種差別的、反ユダヤ的、性差別的なイデオロギーを支持している。もし、憲法プロジェクトを拒否したフランスの多数派が、邪悪ではないにしても、同じように間違っていたとしたらどうだろうか。ある立場に多数派が同意しているという事実は、その立場の内在的な価値について多くを語らない、とその疑念は続く。
もう一つの異論は、さらに根本的で、政治的な問題に正しい答えや間違った答えがありうるという考えそのものに異議を唱える。憲法条約に関する国民投票の「正しい」答えは、単に投票の結果によって手続き的に決定されるものだと考える人もいる。そうした見方では、多数派の決定を是認することは、市民が投票する際に暗黙のうちに引き受ける民主的なゲームのルールの一つに過ぎない。しかし、重要なのは、独立に与えられた「正しい」答えを導き出すことではない。
第一の異論は、歴史、特にマイノリティに対する差別の歴史の観察者であれば、当然出てくるものである。しかし、歴史上のデモクラシーの失敗例を挙げることは、集合的意思決定ルールとしてのデモクラシーの一般的妥当性に対する本格的な反論にはならない。さらに、アテナイの悪名高いシチリア遠征のようなデモクラシーの古典的な失敗例の多くには、常に異論の余地がある。さらに、デモクラシーの失敗の数だけ、デモクラシーの成功、あるいは少なくとも非民主的な体制のより悪い失敗を指摘することができる。「歴史上、誰が最も失敗したのか」というゲームにおいて、デモクラシーが敗者であることは明らかでない。マキァヴェッリが『ディスコルシ』で指摘したように、大衆を軽蔑するエリート主義の伝統は、手に負えない群衆と稀に見られる思慮深い善良な君主との間の偏った、方法論的に欠陥のある比較に依存している。マキァヴェッリは、リンゴとオレンジの比較をやめて、ともに「法に縛られている」人々と君主を比較すると、証拠は、人々にはるかに有利で、君主に不利であると示唆する(Machiavelli 1996 : 117〔邦訳二五八頁〕)。マキァヴェッリ自身は、彼自身の歴史観察から、民衆は君主よりも「判断力に優れている」と結論づけた(Machiavelli 1996 : 115–19〔邦訳二五〇-二五九頁〕)。現代の政治学者には、その主張に挑戦し、検証するための統計的手法とツールがある。一方、政治理論家も、異なるルールとその期待される特性に関する抽象的なモデルを比較することで、先験的な観点からの比較を試みることができる。
したがって、いずれにしても、民主的な失敗の例は、民主的な決定手続きと非民主的な決定手続きの比較について、理論的にも実証的にもさらなる探究を促すはずである。特に多数決に関して言えば、こうした例は、いつ、どこで多数派が正しい可能性が高いのか、そしてこのことが民主的決定の権威にどのように影響するのかという(理論的観点からも経験的観点からも問われうる)確率的な問題を提起するはずである。
第二の異論は、純粋に手続き主義的なデモクラシーの理解に由来するものである。それによれば、デモクラシーとその決定の価値は、手続き的な公正さの観点からのみ評価される。この異論は、民主的な決定を評価するための客観的、実質的な基準の存在を否定するか、少なくともその主張を避ける。この見解では、民主的な決定がよいのは、それらが手続き的に公正であるからであって、何らかの意味で「よい」結果をもたらすからではない。しかしながら、デモクラシーの価値に対するこのような純粋に手続き主義的なコミットメントは、政治について議論し熟議するとき、そしてそのような熟議プロセスの最後で投票するときに私たちが望むのは、ハーバーマスの美しく示唆に富む言葉では「よりよき論拠の強制なき強制」が勝利することだという考えに反するものである。もし、どの選択肢もある意味で他の選択肢よりも真によりよいものでないとしたら、疑問が浮かぶ。なぜ政治家はわざわざ選挙運動をするのか、つまり、理由や論拠に訴え、国民に知らせようとするのか。彼らがこのような行動をとるのは、国民が政治についてより見識ある判断を下すのに役立つようにという明確な願いからではないのか。市民がヨーロッパのプロジェクトのためのこの文書の「適切さ」を判断するためでなければ、なぜ三〇〇ページもある憲法を市民に郵送するのだろうか。日常的に平均的な投票者の情報や知識の低さを嘆く批判者たちでさえ、政治的決定の価値には認識的要素があるという考えを認めている。
この考察は、私に二つの疑問を抱かせた。第一に、その手続きによって体現される価値(平等、正義など)によって、デモクラシーを内在的に価値ある体制として正当化することである。純粋に手続き主義的な正当化は、民主的な政府とその決定の根拠を脆弱なものにしてしまうように思われる。デモクラシーと民主的な決定が正統でないにしても完全に正当化されるためには、それが体現する価値以上の何かが必要であるように思われる。何らかの実質的なメリット、そして、何らかの「知性」がなければならない、と私は主張する。この点で、民主的権威の認識的側面に関するデイヴィッド・エストランドの研究(Estlund 1997, 2008)は、いくつかの重要な疑問を提起し、それらに答えている。しかしながら、民主的統治から期待されうる実際の認識的パフォーマンスについては、より多くの疑問が残されている。
第二に、この民主的な知性という考え方が妥当かつ適切であると仮定した場合、そうした知性は個人の知性の集計以上のものではないという考えに疑問を抱くようになった。市民の集合的知性、すなわち私がより広く「民主的理性」と呼ぶものは、実は個人の理性とは明確に異なるものなのかもしれない。心理学や認知科学、そして動物行動学は、知性が個人だけでなく集団の特性でもありうることを示している。「創発的知性」という現象は、アリやハチなどの社会的動物の社会を特徴づける。もう一つの関連する概念は、「分散した知性」である。それは、知性を、個々の行為者自身(頭と体)とその環境(制度、言語、象徴体系、その他の「認知的人工物」)の両方に広がるものと仮定する。
集合知を創発的あるいは分散的なものと捉える、これらの新しい概念は、民主主義理論にほとんど影響を及ぼしてこなかった。その理由の一つは、哲学者と同様に政治理論家も、大きな集団が賢くなりうるという考え方に疑念を抱くように訓練されているという事実とおそらく関係があるのだろう。もう一つの理由は、自律としての理性という観念に付属し、方法論的個人主義への政治学の原理的なコミットメントを支えている個人への注目と関係があるかもしれない。政治学者(少なくとも合理的選択理論の影響を受けた政治学者)の観点からは、関連する行為者性の単位は個人であると想定され、集団という上位レベル(あるいは、ついでに言えば、遺伝子という下位レベル)に位置づけられるべきではない。これに対して、集合知や分散した知性という観念は、社会的全体論の亡霊をもたらすように思われるかもしれない。しかし、それどころか、集合行為問題が、社会的選択理論の分析ツールと個人主義的方法論によって説明されうるのと同じように、これらの観念は、個人の選択と行動によって説明することが可能である、と論じることができる。
こうして私の考えがデモクラシーへの認識的アプローチに変わりつつあったのと同じ頃、「群衆の智慧」に関する文献が主流になりつつあった(Surowiecki 2004 が画期的)。それらは、情報市場の予測精度や、非専門家が協力して執筆した無料のオンライン百科事典ウィキペディアの誕生とほぼ一夜にしての成功という、当時はあまり理解されていなかった現象に焦点を当てた。これと並行して、インターネットの重要性、サイバー-デモクラシーやe-デモクラシーの可能性、新しい情報領域におけるブログやアマチュア市民ジャーナリストの役割に関する議論も、集合知の観念を中心に展開し、緩やかながらも、時にはデモクラシーの理念や理想と明確に結びついていた(最近では、Coleman and Blumler 2009 や、「ウィキ・ガバメント」という革新的な観念に関するNoveck 2009 を参照)。このような文献を、散らばった情報や知識の単なる集約よりも論拠の交換を重視する、より古典的な熟議民主主義のパラダイムといかに調和させうるかは、本書が取り組もうとする明白かつ最も興味深い課題の一つである。
最後に、政治状況そのものが、大西洋の両岸で、その熟議的側面と集計的側面の双方において、集合知の概念に関連するアイディアによって形作られるようになった。二〇〇七年のフランス大統領選挙では、社会党の候補者セゴレーヌ・ロワイヤルが、「市民の専門性」というデューイ派のテーマを掲げて選挙戦を展開した。彼女の主張は、複雑で情報にあふれた世界では、すべての市民が真実の断片を握っており、見識ある政治的決定の最良の源泉は、専門家ではなく、プロの政治家でもなく、国民自身の中にあるというものであった。このように彼女は、より直接的な参加民主主義の形態を提唱し、自らを国民の指導者というよりも、国民自身の判断の受け手、触媒として提示したのである。ロワイヤルの言説には、集合知という観念があった。政治的な解決策は、個人が互いに話し合い、彼らの知識の断片を国民全体の議論に提供することによって、しばしば国民全体によって最もよく導き出されるというアイディアである。
アメリカでは、熟議的というより集計的な文脈で、オバマ政権が「クラウドソーシング」の新しいツールや技術の実験を開始した。例えば、二〇〇八年には、特許審査のプロセスを少数の専門家からより多くの公衆に開放する「ピア・トゥ・パテント」実験の創設を奨励した。さらに重要なのは、二〇〇九年五月末のオープンガバメント・イニシアティブの開始であろう。このイニシアティブの原理─透明性、参加、協同─は、国中に分散する潜在的な集合知を利用して、新しい政策アイディアを前面に押し出すことを明確にしていた。オバマの選挙運動は、通常の利益団体や大口寄付者ではなく、一般市民の心や財布にアプローチする革新的な方法であると評価されたが、その後の発展は、新政権が票や資金を集めるだけでなく、通常は意見を述べる機会のない市民から知識、情報、アイディアを求めようとしていたことを示すものであった。
こうして、群衆の智慧、一般市民の集合知という考え方が徐々に広まってきた。最も大胆な実践の中でも、新憲法の起草そのものをクラウドソーシングするというアイスランドの最近の実験は言及に値する。アイスランドは実際、二〇〇八年の金融・経済の大暴落による制度的危機を受け、その基礎となる文書の大幅な見直しに乗り出した。そのため、二〇一一年七月現在、定期的にインターネット上に草案を掲載する憲法評議会の作業を補うために、アイスランドの一般市民は、インターネットやFacebook、Twitter、YouTube、Flickr などのソーシャルメディアのプラットフォームを通じてアイディアを提供するように呼びかけられている。これらの実験が成功するかどうか、またその欠点が何であれ、それらは集合知という考え方が主流になったという事実を反映しており、特に危機の時代においてその魅力を示している。
このような進展を踏まえて、私は今、本書を時代の産物であると考えている。それは、多くの情報源と多くの個人に分散し、明晰さを失うほど多くの異なる形で表現されているにもかかわらず、大衆文化や学術文化にすでに存在していた「知識」を集めたものだ。本書は、このような一般的かつ分散した暗黙知を収集し、まとめ、総合し、首尾一貫したデモクラシー擁護論に変える。包摂的な意思決定と認知的多様性の相関関係に基づいて、デモクラシーを支持する新しい議論を提示することによって、本書がこの知識を増やすことが私の望みである。
(注は割愛しました)







