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大澤真生 著
『二人称的他者と両義性の倫理 カール・レーヴィットの共同相互存在論』
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はしがき
本書の目的は、カール・レーヴィットの『共同人間の役割における個人―倫理学的諸問題の人間学的基礎づけのために(Das Individuum In der Rolle des Mitmenschen – Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme)』(以下本文では『個人』、文献表示ではIRMと略する)において展開される共同相互存在論を、その構成に従いながら体系的に整理し、その内在的な論点を剔抉するとともに、レーヴィットの『個人』における中心的課題である、一人称と二人称の二者関係をめぐる共同相互存在の構造分析が有する哲学的意義を明らかにすることである。
『個人』はレーヴィットの最初の著作として、師であるハイデガーに提出された教授資格請求論文を刊行にあたって改訂したものでありながら、その核心にハイデガーの『存在と時間』における現存在分析に対する批判的視角を有している。レーヴィットはハイデガーがその現存在分析において見過ごした人間的生の位相を、人間の「互いに共に在るありかた(Miteinandersein)」として把捉した。人間が「共同相互存在」であることの第一の含意は、その表題にもあるとおり、「私」は他者との関係のうちに身を置き、他者に対する「役割」を身に帯びることをつうじて「個人」としての自己を構築するということにある。なぜなら、他者に期待された「役割」を引き受けるということのうちには、他者からの「呼びかけ」に対してみずから(すなわち主体的に)「応答」するという呼応の関係が成り立っているからである。
このことはしかし、「私」が他者に「呼びかけられる者」として他者に従属し、他者との関係に規定され、こうした経験をつうじて「みずから応答する者」としての主体的な自己を獲得するという、段階的で一方向的な自己構築のありかたのみを意味するものではない。「私」が他者との関係に規定されてあることと、他者の呼びかけに主体的に応答するものであることは、つねに不可分であり、両者の存在体制は相互に浸食しあい、したがって共同相互存在としての人間は本質的に両義的な存在である。他方でまた、こうした両義性はつねに「私」に内在する人間的生の本性であると同時に、自己と他者の「あいだ」に生じる関係の可能性と危険性を特徴づけるものでもある。すなわち両者は互いに徹底的に従属しあうことによって相互所有(相互支配)の関係へと頹落するのか、それとも相互承認の関係を形成して互いに共に自立的なありかたへと至るのか、ということである―もっとも、レーヴィットにとって共同相互存在の自立は、他者への従属や依存を回避した先にあるものではないのだが。
人間を共同相互存在として把捉することの第二の含意は、自己と他者との関係は、その一人称と二人称との直接的な「相互性」において特権的な頹落と自立の可能性を有するということにある。「私たちが他者について、あるいは共同世界について問うのであれば、それはその存在にとって他者たちが「他者」であり、「世界」であるような一者についての問いをも含意している。すなわち、他者と一者とが互いに共にあること(Miteinandersein)が問われるのである」(IRM, 89 )。かくして、この二つの含意をそれぞれ日常的・公共的な共同相互存在の様態と、本来的・直接的な共同相互存在の様態をとおして描出することが、『個人』におけるレーヴィットの主要なこころみとして立ちあらわれるのである。
「レーヴィットの同書が当時、哲学の討論のなかに持ちこもうとしたものを要約することが許されるならば、「きみ」が徹底して単独の者である場合、それが人間存在にとって何を意味するかを解明することであった」と、ガダマーは共同相互存在をめぐるレーヴィットの企図を総括する(Gadamer [1977], 231ff. =[1996], 277ff.)。しかし「私」にとって或る他者が「きみ」であるということは、他者が単独の者であることを第一義的にはその要件としていない。「私」と「きみ」とが「二人―で―あることは、けっして三人―で―あることや四人―で―あること等々の量的な減少を意味しない。むしろそこからは導きだすことのできない、互いに共に在ることの質的な昂進(qualitative Steigerung)を意味しているのだ」(IRM, 144)。「きみ」は「私」にとってもっとも閉ざされた世界であると同時に、もっともひらかれた世界でもある。対話(互いに共に語りあうこと)、自立性、相互承認といった主要なテーマのなかで、レーヴィットは「きみ」の「質的な昂進」としての特権的地位を明らかにしていく。それゆえ本書において以下に続く議論も主としてまた、レーヴィットの『個人』における中心的課題である、一人称と二人称の相互に自立的なありかたを解明すること、すなわち「私」と「きみ」の共同相互的なありかたが体現する積極的な価値の内実を提示することにあてられる。
しかし、この課題に取り組むことは同時に、そして逆説的に、「私」と「きみ」の共同相互のありかたにひそんでいる独特の危うさと困難を浮き彫りにするはずである。なぜなら、本来的な共同相互のありかたが各人の生にとって核心的な有意義性をもつものであればあるほど、その関係が適切に築きあげられなかった場合には、各人は決定的な実存的危機にさらされることになるからである。「生が良きものであるか、災いとなるか、生の幸不幸は、ひたすら、他者に対する一者の関係によって規定されている」(IRM, 270)―これは『個人』最終節(第四五節)の最終段落の一節であるが、この最後の一節と呼応するように、序論においてもレーヴィットは『個人』の課題を、「共に在る人間がどの程度まで、そしてどの範囲まで、―有益なしかたであるいは有害なしかたで、実践的もしくは理論的に―いわゆる個人の生を構成しているのか。このことを示すことが、共同相互存在の現象学的構造分析の企図するところにほかならない」と提示している(IRM, 89 )。レーヴィットは二人称的他者との関係がもたらす積極的価値と消極的価値(いわばその危険性・有害性)を両面から描出することで、共同相互存在の本質的な他者への依存性を、人間の現実として見つめ直すのである。
以上のように、レーヴィットは共同相互存在としての人間とその「あいだ」に取り結ばれる関係の様相をめぐって、両義的な可能性に目を配りながら議論をすすめる。こうした論理の構成上、『個人』におけるレーヴィットの共同相互存在論については、しばしばその不徹底が指摘されている(例えばGadamer [1987]; Theunissen [1977]; Wolin [2001]=[2004]など)。すなわち、レーヴィットは「関係」においてはじめて「個」が存立することを強調するかたわらで、ハイデガーの現存在分析の方法論を踏襲し、カントの実践哲学を積極的に援用する点において、はじめに「個」と「個」があり、次いで「関係」を構築するというモデルを暗黙裡に受け入れているようにも見えるのである。こうした問題については本書において各章の課題にそくして検討していくこととするが、一方で人間を両義的な存在者として把捉することそれ自体は、レーヴィットの論理の本質的な欠陥や不足を示すものではない。むしろ人間をめぐる両義的解釈は、レーヴィットの共同相互存在論を根幹において支え、また、『個人』におけるレーヴィットの主張に独特の哲学的意義をもたらすものなのである。
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本書は全九章によって構成されている。以下に各章の課題を簡潔にしるしておく。
第Ⅰ部「ペルソナ」では、レーヴィットの共同相互存在論の主題のひとつである、他者に対して「役割」を有する「個人」としての共同相互存在のありかたが検討される。
第一章の課題は、人間の存在体制を両義的に把捉することがレーヴィットの共同相互存在論をいかなるかたちで基礎づけているのかを示すことである。人間存在の両義的把捉は、デカルト以来の近代哲学の伝統である人間存在の(「精神」と「身体」という)二元論的把捉とは根本的に異なるばかりか、二元論的な人間解釈を乗り越えようとするものである。こうしたこころみを西洋哲学の文脈において最初に打ち立てたのが、フォイエルバッハであった。レーヴィットは『個人』における自身の課題を、フォイエルバッハの根本命題のなかに素描された感覚主義と他者中心主義の原理を訂正し拡張することだと述べている(IRM, 101)。フォイエルバッハ哲学との距離に目を配りつつ、共同相互存在論におけるレーヴィットの企図するところを概観する。
第二章の課題は、ハイデガーの現存在分析とレーヴィットの共同相互存在分析とを比較検討することで、『個人』におけるレーヴィットのハイデガー批判の眼目と、共同相互存在としての人間の基本的な構造―すなわち「ペルソナ」として在る自己のありかた―を明らかにすることである。レーヴィットが『個人』において具体的に『存在と時間』における「ひと(Das Man)」をめぐるハイデガーの議論の不足を指摘していた第二一節の記述を手がかりに、共同相互存在としての人間が「ペルソナ」として在ることの意義を明らかにする。
第三章では、第二章で明らかにしたペルソナ的自己の構造を踏まえて、その(関係規定性と主体性の)両義的性格についてさらに検討をすすめる。このさい本章において主題となるのは、レーヴィットが『個人』第二三節で展開する、ピランデッロの戯曲『(あなたがそう思うならば)そのとおり』の解釈を再考することである。レーヴィットはピランデッロ作品を具体的に取りあげて自身のペルソナ論を補強することをこころみるが、レーヴィットとピランデッロはペルソナをめぐる見解が根本においてすれ違っているようにも思われる。両者の議論を比較検討しつつ、ペルソナ的自己が「構築された自己」であることにもとづくペルソナ的関係の危うさを示すこととしたい。
第Ⅱ部「対話」では、『個人』第二四節から第三二節にわたる「互いに共に語りあうこと(Miteinander-Sprechen)」としての共同相互存在の対話的関係の構造分析をめぐって議論が展開される。
対話は一人称と二人称の関係が有する積極的な価値を基礎づける営みであり、それゆえレーヴィットの共同相互存在論にとって核心的な意義をもっている。第四章ではこうした対話の根本構造を示すとともに、対話にもとづく共同相互存在の「責任あるありかた」を明らかにする。ここで示されるのはさしあたり、対話の「責任あるありかた」はそれ自体、頹落の傾向を孕んでおり、またそのことによってのみ責任ある態度を実現しうるということである。
第五章の課題は、トイニッセンによるレーヴィットの共同相互存在をめぐる批判的解釈を手がかりとして、「互いに共に語りあうこと」としての対話の本来的な意義を明らかにすることである。トイニッセンはレーヴィットの対話論を、フッサールやハイデガーに代表される超越論主義とブーバーに代表される対話主義のあいだに位置づけ、その両義性のゆえに対話論としては不十分であると指摘する。トイニッセンのこうした批判に対して、レーヴィットの対話論がもつ独自性を示しながら応答することをこころみたい。
第六章の課題は、レーヴィットが導出する「互いに共に語りあうこと」としての対話が、たんに理性的・随意的なコミュニケーションを意味するのではなく、感性的・非随意的なコミュニケーションにも基礎づけられていることを、第一章で示したレーヴィットの両義的な人間把捉に立ち返りながら明らかにすることである。そのさい、レーヴィットの両義的な人間解釈とカントの二元論的な自我観との距離が明確に示されることになる。
第Ⅲ部「相互承認と自立性」では、一人称と二人称の関係における相互的な自立性(Selbständigkeit)と相互承認の問題が取りあげられる。レーヴィットの共同相互存在論にとって自立性が問題となるのは、人間にとっては自立した孤立的個人であることが所与ではなく、反対に互いに共に在ること、他者と関係を取り結び、相互に依存していることこそが所与だからである。第七章では共同相互存在の相互承認にもとづく自立的なありかたが、レーヴィットの議論にそくして、ディルタイの外界の実在性をめぐる議論、カントの徳論における友情論、ヘーゲルの相互承認論を参照しながら多角的に問われる。レーヴィットは相互的な自立をめぐる議論をカントに引きつけて展開するが、レーヴィットがカントの徳論を参照することでカントの義務論における「自律」モデルを超えて共同相互存在の自立性を定義づけようとしていたこと、一方でそのこころみが相互承認の内実とその動機を把捉するうえでは限界があることが、第七章で示されることになる。
第八章では、『個人』の最終部にあたる「私」の唯一性をめぐる議論を主題として取りあげ、「私」の唯一性を問うことの意義をレーヴィットの自立論・相互承認論を踏まえて明らかにする。シュティルナーの『唯一者とその所有』における議論を対比的に参照しつつ、同時にシュティルナーの議論をレーヴィットの共同相互存在論に資するものとして位置づけてみたい。
そして最後に終章として、本書において示されたことを総括したうえで、レーヴィットの共同相互存在論がもつ現代的意義を検討することとする。とくにケアの倫理の議論に引きつけながら、対話的関係を基礎づける相互承認が現実的に抱えうる困難と可能性について考えてみることにしたい。
(傍点は割愛しました。PDFでご覧ください)








