あとがきたちよみ
『[増補改訂版]心の哲学入門』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2026/3/2

 
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
 
 
金杉武司 著
『[増補改訂版]心の哲学入門』

「増補改訂版はじめに」「初版はじめに──心とは何か?」「第6章 心のありか」(pdfファイルへのリンク)〉
〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
 

*サンプル画像はクリックで拡大します。本文はサンプル画像の下に続いています。

 


増補改訂版はじめに
 
 本書の初版が出版されたのは一八年も前のことであるが、心の哲学を実践する上で基礎となるものは今でもほとんど同じままであり、本書の内容が今もなお入門書として利用できるのは幸いなことである。初版の序章から第5章までは、説明不十分だった箇所や誤り、文体の修正を除いては、内容上の大きな変更なしに、増補改訂版にそのまま収められている。他方で、初版出版時には扱わなかったが、現在の心の哲学において重要性がより大きくなってきた話題が少なからずある。今回の増補改訂で新たに追加した第6章「心のありか」には、そのような話題がいくつか組み込まれている。そのほかに、巻末の「参考文献と読書案内」も更新した。初版出版時以降に出版された文献を追加していったところ、思いのほか多くの文献を紹介することになってしまったが、初学者への道案内として少しでも役に立つならば幸いである。
 初版執筆時には、本書が本当の意味での「入門書」になることを目指して、入口の敷居をできるだけ低くすることを心掛けたが、読者が少しずつステップアップできるように、ページ数が大きくなるにつれて徐々に難しい内容になっていた。今回の増補部分の第6章もやや専門性の高い内容になっている。哲学書には、入門書といえども一度読んだだけで内容を十分に理解できるものはないと言って過言ではない。読者には、難しい内容に直面した場合には、粘り強く繰り返し、ときにはページを遡って、読み直していただきたい。そうすることではじめて見えてくる風景に出会うことが、哲学書を読む醍醐味の一つであることは間違いない。また、増補改訂版の執筆に際しては、初版執筆時と同様に、できるだけ内容に偏りが生じないようにと心掛けたが、上記の通り専門性がやや高い増補部分の第6章において、初版よりも少しだけ自分の見解を前面に出してしまった(初版でも、解釈主義に関わる論述が少なからずあり、その限りで偏りがなくはなかったが)。この点は大目に見ていただきたい。
 本書の増補部分は、JSPS科研費JP22K00017の助成を受けた研究の成果である。
 増補改訂版が出版されることになったのは、何よりもこれまで本書を手に取って下さった多くの読者がいたお陰であり、読者の皆さんに感謝申し上げたい。また、今回の増補部分は、國學院大學文学部哲学科での授業をもとにしている。授業を受講してくれた学生の皆さんにも感謝したい。アプリオリ研究会の皆さんと野矢茂樹先生には、増補部分の草稿にさまざまなアドバイスとコメントを下さったことに感謝申し上げる。勁草書房の土井美智子さんには、初版出版時と変わらぬ、いやそれ以上に丁寧な編集で、お力添えを頂いた。また何よりも、増補改訂の機会を頂いたことにも感謝申し上げる。そして、ちょうど本書の初版が出版された当時から、私と人生をともにしてくれている妻に感謝し、本書を捧げたい。
 
二〇二五年一二月
金杉武司
 


 
初版はじめに──心とは何か?
 
 われわれはふだん、人々が心を持つことをごく当たり前のこととして生活している。そして、「あの人は心が広い」とか「私は心の中では、口で言ったこととは別のことを考えていた」というように、ごく当たり前に、心について語ったり考えたりする。しかし、そもそも「心」とは何なのだろうか。心はあまりに身近にあるため、われわれはふだんそれについて顧みることがないが、「心とは何か?」といざ問われると、簡単には答えを示せないように思われる。心は、椅子や机のように単に身近にあるだけでなく、われわれが生きていく上でその土台を成す非常に基本的なものだと言えるだろう。しかし、そのように基本的なものであるにもかかわらず、それが何であるかをすぐに答えることができないように思われるのである。
 哲学とは、このように、われわれが生きていく上でその土台を成すにもかかわらず、それが何であるかが必ずしも明らかでないような基本的なものごとの本質について問う学問である。このような基本的なものごととしては、「心」の他にも、たとえば、「時間」や「(道徳的な)善し悪し」、「知識」、さらには「存在」のようなこれ以上抽象的なものごとはないと思えるほど抽象的なものまで挙げることができる。われわれは、「今日は時間が経つのが早かった」とか「まだ時間は残っている」などと言うことがあるが、そもそも「時間」とは何なのだろうか。盗みが悪いことであり、人助けが善いことだといったことは、ごく当然のこととして考えられているが、そもそも「善い」とか「悪い」とはどういうことなのだろうか。また、われわれは、「彼女は自然科学の知識が豊富だ」とか「あの人は常識を知らない」などと言うことがあるが、そもそも「知識」とは何なのだろうか。「この部屋には椅子が三つある」と言うときや「この絵にはたとえようのない美しさがある」などと言うときには、同じように「ある」という言葉が使われるが、「ある(存在する)」とはそもそもどういうことなのだろうか。このように、哲学にはさまざまな問題があり、扱う問題ごとに、「心の哲学」、「時間の哲学」、「道徳の哲学」(あるいは「倫理学」)、「知識の哲学」(あるいは「認識論」)、「存在の哲学」(あるいは「存在論」「形而上学」)といった呼び名がつけられている。
 本書は、これらのうちの一つである「心の哲学」の入門書である。以下では、「心とは何か?」という問いに対して、どのように考えていくことが心の哲学であるのか、そして、実際に心の哲学ではどのような議論が展開されているのかを示し、読者の皆さんを心の哲学へと誘っていきたいと思う。本書は、本当の意味での「入門書」になることを目標としている。そのため、心の哲学に関する通常の解説に加えてQ&Aのコーナーを設け、できる限り、哲学の初学者の目線から議論を進めることを心掛けた。
 しかし、目標はそれだけではない。本書は「心の哲学」の入門書であるが、それと同時に、「哲学」一般の入門書となることも目標としている。本書が扱う問題領域は「心」に限定されてはいるが、「心」について哲学的に考えるとはどのようなことなのかを示すことによって、そもそも「哲学的に考える」とはどのようなことなのかをも示すことを心掛けた。また、その点を念頭に置いて、哲学一般において重要だと考えられる事柄について解説するコラムもいくつか設けている。本書を読み進める際には、このコラムにも是非、目を通していただきたい。
 


 
第6章 心のありか
 
 心はどこにあるのか。心が存在する場所も心の基本的特徴の一つに数えることができるだろう。本章で扱うのは、まさにその心の場所である。しかし、本章ではこれまでとは異なり、心の基本的特徴に関する常識的見解を手掛かりとして心とは何であるかを考えるということは行わない。その代わりに、心とは何であるかに関するさまざまなテーゼを手掛かりとして、心の基本的特徴に関するある常識的見解に疑問の目を向けるということを行う。そう言うと、本章の内容は、これまで示してきた哲学のやり方に反しているように思われるかもしれない。しかし、そのような考察は、本書のこれまでにおいても行われていた。それは第4章で見た、心の因果性に関する常識的見解に疑問の目を向けるという考察である。そして、そのような考察も、志向性や合理性という心の別の基本的特徴に関する常識的見解(および欲求や信念の構文論的構造と脳状態の非構文論的構造に関する議論)に基づいていたことを忘れてはならない。哲学の議論や考察には、既存の常識的見解に疑問の目を向けることにより、ものごとの本質を探るという面もあるが、それもまた、別の常識的見解に基づいて行われるものなのである。本章での考察も同様である。本章では、心の場所という基本的特徴に関するある常識的見解に疑問の目を向けるさまざまなテーゼを扱うが、それらのテーゼもそれぞれ、心の何らかの基本的特徴に関する常識的見解に基づいている。本章では、そのような別の基本的特徴にも(それが本書で既出のものであれば改めて)言及しながら、考察を進めていく。
 
1 心のありかは脳だという常識
 まずは考察の出発点として、心の場所に関するわれわれの現在の常識的見解と思われるものを確認しておこう。それは、心のありかは脳(頭の辺り)だという見解である。読者の中には、「心のありかは心臓(胸の辺り)ではないか?」という疑問を抱く人もいるだろう。確かに、かつてはそれが心の場所に関する常識的見解だっただろう。しかし、脳科学の発展により、心と脳の密接な関係が解明されつつある現代では、心、特に思考(信念や欲求などの命題的態度)や視覚、聴覚などの知覚に関しては、そのありかは脳だという見解がほとんど常識だと言ってよいように思う。触覚や痛みなどの感覚、さらには感情のように身体の状態とより密接な関係にある心の状態についても、脳科学の発展により脳と身体との関係(たとえば、感情に密接に関わる心臓の動きが脳から心臓への刺激によって変化しうるといった関係)が明らかになるにつれて徐々に、そのありかは脳だという見解が受け入れられてきているように思われる。
 この、心のありかは脳だという常識的見解を最もうまく説明するのは、心脳同一説や機能主義のように、心の状態と脳状態の結びつきをそれらの同一性ないし実現関係で理解する立場だろう。各タイプの心の状態は特定のタイプの脳状態と同一であるから、あるいは何らかのタイプの脳状態によって実現されているから、心は脳にあると考えられるということである。
 もっとも、そのような意味で心の正体が脳そのものであるわけではないとしても、心のありかは脳だと考える余地はある。たとえば、二元論もまた心のありかを脳に位置づけることができなくはない。伝統的な二元論の下では、心は空間内に位置しない非空間的な存在者だと考えられる傾向にある。しかし、非物理的であることは本当に空間的であることと両立不可能なのかに関しては議論の余地があるように思われる。実際、伝統的な考えの下でも、非物理的な心と物理的な身体は物理的な脳において因果関係を成すと考えられ、その限りで、非物理的な心がまったく非空間的な存在者だと言うことはできないように思われる。それでは、非物理的な心が空間内に位置しうるものだとしたら、それはどこにあると考えられるのか。二元論においても、心は脳と何らかの関係(典型的には因果関係)を成すと考えられるのだとすれば、非物理的な心のありかは脳の辺りだと考えるのが一つの自然な回答だろう。(しかし、それは一つの回答に過ぎない。脳は非物理的な心と物理的なものが関係を成す場所に過ぎず、その限りでは、心のありかそれ自体は脳だけでなく身体全体に、さらには身体をも超えて外部世界にまで拡がっているという可能性が残る。このように、二元論の下で心のありかがどこだと考えられるべきなのかは明確ではない。)
 本章では、以上のような二元論の一つの考え方も含めて、心のありかは脳だという常識的見解を支持する立場をまとめて「脳局在論」と呼ぶことにしよう(「脳局在論」は、脳の部位ごとに特定の機能が分担されているという考え方の名称として使われることがあるが、ここではそれを指すわけではないという点に注意されたい)。この常識的見解をうまく説明できるという点が、脳局在論を支える一つの根拠である(脳局在論の中でも特に心脳同一説や機能主義に関しては、第1章で見たように、心の状態と行動(身体運動)との因果関係をうまく説明できるという点も、それらを支持する大きな根拠であった)。しかし、以下では、この常識的見解そのものに疑問の目を向けるさまざまな考え方の可能性を探っていく。
(傍点は割愛しました)
 
 
banner_atogakitachiyomi

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Go to Top