あとがきたちよみ
『科学コミュニケーションの再構築――連帯志向の専門知へ』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2026/3/24

 
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内田麻理香 著
『科学コミュニケーションの再構築 連帯志向の専門知へ』

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まえがき
 
 筆者は、科学コミュニケーションを「科学という液体を、社会に行き渡らせる営み」とイメージしている。先日、この比喩を科学コミュニケーターが集まる場で紹介したところ、思いのほか同意をいただき、さまざまな意見が飛び交った。以下は、そのときの議論も踏まえつつ、筆者の考えを整理したものである。
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 科学という液体は暮らしに欠かせないもので、私たちを潤してくれる。科学は生活を便利にするだけでなく、私たちのものの見方を豊かにする役割を果たす。普段は意識していないけれども、料理をする、コーヒーを淹れる、天候を気にする、風邪気味の体調に対処するといった、どんな日常の場面にもその液体は流れている。
 だがこの液体は、扱いが難しい。科学という液体は、自然には世の中に流れてくれないからだ。原液のままでは濃すぎて、誰にでも受け入れられるものではない。また、社会という地形にも段差がある、路が途切れている、岩や土砂がある、などの理由で流れを滞らせる。科学コミュニケーションとは、この流れにくい科学という液体を、社会の隅々まで行き渡るようにする営みにたとえられそうだ。
 原液のままでは流れにくい科学を、ときには薄め、別のものと混ぜるなどして加工するのも、科学コミュニケーションに相当する。そして、目立たないかもしれないが、科学が流れるように路を整えることも、科学コミュニケーションの重要な役割である。
 さて、この原液はどのようにして生み出されるのだろうか。自然から科学者の手でそっと切り出されたのが科学というイメージもあるかもしれないが、そう単純ではない。また、科学者だけで構成される工場から生産されるわけでもない。社会との相互作用で生まれるのが科学である。その前提に立つと、科学の「源」はどこかひとつに固定するよりも、湿地帯のような土壌のあちこちに、科学の原液が湧き出ているととらえたほうが実態に近い。
 もっとも、科学は原液のまま社会を流れることはない。流れる過程で、それぞれの文脈、人びとの価値観や感情と交わり、さまざまな混合液となるからだ。ランディ・オルソンが指摘するように、科学者たちが「客観的」と信じる科学論文でさえ、物語の形をとって語られる(Olson 2015=2018:11-12)。つまり、研究の成果が伝えられるときには、すでに誰かの言葉にのり、特定の文化や価値観が含まれた混合液となっているのだ。原液そのままではない科学は、社会に行き渡るための必然の姿としてとらえるべきだろう。
 原液としての科学は、これまでも書籍、テレビ、動画など多様な加工品へと姿を変えてきた。科学の成分としては薄いものの、漫画などサブカルチャーを通じて、一気に広がった例もある。科学ジャーナリズムは、液体の加工役を担いながら、その液体の品質を点検する役割も果たしてきた。
 一方、科学が流れるように土地を整える科学コミュニケーションは、液体が流れにくい場所を見つけ、手入れし、新たな路を作り、必要な人を配置する営みである。土地を整えるためには、人びとの声を聞き、何に困っているのかを探り出す必要があるので、ケア活動ともいえる。多くの人の目に触れる加工品づくりと比べ、注目されにくいかもしれないが、科学コミュニケーションの重要な実践である。
 「科学という液体が社会に行き渡ることが望ましい」という価値観は、科学コミュニケーションに携わる多くの人が共有していると思われる。では、どのようにその社会を実現するのか。そのアプローチは人によってさまざまだ。科学教育を充実させて、科学が流れやすい基盤作りを目指す人もいるかもしれない。魅力的な加工品をつくり、より多くの人に届けたいと考える人もいるだろう。荒れた土地の現場に赴き、ピンポイントで土地を修復したい人もいるはずだ。
 本書が目指すアプローチは、「誰もが安心して科学についておしゃべりできる空気をつくる」ことである。専門家でなくても、気兼ねなく科学について語ることができる空気があれば、科学の液体はより細かいところまで流れていくだろう。
 しかし現状では、そうした空気は整っていない。非専門家が科学に言及することは、敷居が高そうに見えてためらわれる。うっかり間違ったことを言ってしまうと、専門家から「非科学的だ」などといった修正の矢が飛んでこないか不安に思う。濃度の薄い科学についておしゃべりしていたつもりが、専門家から「それは科学ではない」と否定されることもある。科学をめぐる乱闘で、土地が荒らされていることもあるから、そもそも近寄りたくないと思われているかもしれない。
 誰もが安心して科学について語ることのできる空気を作るには、どうしたらよいか。空気の入れ換えはそう容易ではない。しかし、いくつかのポイントをおさえることで、風通しは確実に改善するはずだ。本書が手がかりにするのは、科学コミュニケーションの重要概念である「欠如モデル」である。この欠如モデルへの再検討を出発点として、「誰もが安心して科学についておしゃべりできる空気をつくる」科学コミュニケーションを実現するための規範を検討したい。
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 本書が立てるリサーチクエスチョンは、「科学コミュニケーションはいかなる営みであることが望ましいか」である。この問いは規範的な性格をもつものであり、科学コミュニケーション論が従来から取り組んできた問いの延長線上にある。実際、これまでの科学コミュニケーション論においても、「欠如モデルは避けるべきである」「双方向コミュニケーションが望ましい」「熟議を通じて合意形成をすべきだ」というような、科学コミュニケーションの理想像をめぐる規範的な主張が提示されてきた。本書が提示する仮説は、それらに代わる新たな規範として、「科学コミュニケーションとは、残酷さを回避し、社会的連帯を広げる営みである」ととらえ直すべきだ、という点にある。
 この問いを立てる背景には、科学コミュニケーションの実践が多様であるがゆえに、その目標や価値がしばしば対立するという状況がある。科学コミュニケーションに携わる人びとは、それぞれ異なる動機を抱えている。「科学を応援してもらいたい」「科学を無批判に受け入れる風潮を是正したい」「科学者が尊敬される世の中を作りたい」「環境問題への意識を広げたい」といった目標が掲げられることも少なくない。しかしこれらの目標は、ときに当事者間で齟齬をきたし、対立を深める要因ともなりうる。
 本書の提案は、こうした個別の目標のあいだに架け橋をかけ、より包括的で共有可能な規範を提示することにある。すなわち、科学コミュニケーションは他者を排除し傷つける行為ではなく、人びとが連帯を築き、ともに生きる社会の基盤を支える営みとして構想されるべきである。科学がしばしば他者に対する優越や差別を正当化する手段として用いられてきた歴史を踏まえるならば、科学コミュニケーションはその逆に、他者を尊重し、社会的な連帯を広げるための営みとして規範的に定義される必要がある。
 この仮説を構築するために、本書は以下の構成をとる。
 第1 章では、科学コミュニケーションをめぐる前提条件として、専門知と民主主義の関係、歴史的経緯、実践の多様さ、そして科学論の変遷を整理する。そのうえで、「欠如モデル」から「対話モデル」への転換を求めるという、科学コミュニケーション分野が掲げてきた規範が、形式的な双方向性の重視へと傾斜し、結果として、科学者や為政者の態度という問題を十分に問い直さないまま温存してきた側面があることを指摘する。
 第2 章では、科学コミュニケーションに携わる者の態度を検討する。科学コミュニケーション論の中核概念である「欠如モデル」や、長く論じられてきた「低関心層」問題を手がかりに議論を進める。そのうえで、科学コミュニケーションにおいて本質的に問われるのは情報伝達の形式ではなく、関わる者の態度であること、そして他者を見下す差別的な態度こそが根本的な問題であることを確認する。
 第3 章では、リチャード・ローティの議論を参照し、科学コミュニケーションにおいて差別的な態度を回避すべき理由を検討する。ローティは、残酷さの少ない社会を実現するために、客観的な「真理」の追求ではなく、他者との連帯を重視すべきだと論じた。客観的な「真理」の追求は、ときに他者に対する優越や排除へと転じうる。この視座を適用することで、科学コミュニケーションは単に「真理」を伝達する営みではなく、「物語」を共有することで連帯を支える営みとしてとらえ直すことができる。
 第4 章では、科学コミュニケーションを通じて「何を共有するのか」という問いに取り組む。第一に、日常生活と結びついた科学を分かち合う営み、第二に、科学者共同体に体現された思考法や規範を共有する営みである。これらは、科学コミュニケーションを単なる知識の伝達にとどめず、人びとが共に楽しみ、理解を分かち合う文化的実践として位置づけ、〈人間の連帯の範〉を広げることにつながる。ここでは、ローティ的な「物語の共有」という視点が、科学コミュニケーションに具体的にどのような形で現れるのかを検討する。
 第5 章では、科学コミュニケーションを専門家や限られた担い手に限定せず、「誰もがその担い手である」という視点を導入する。もっとも、誰もが候補者であるとはいえ、誰が担ってもよいわけではない。実際には態度や専門性が重要な意味をもつことを確認する。そのうえで、科学コミュニケーターを8 つの類型に整理し、それぞれの特性を検討する。
 第6 章では、一人ひとりが自らを科学コミュニケーターとして自覚できる社会を築く条件として、教養教育を取り上げる。科学を単なる専門知の習得にとどめず、連帯を広げる文化的営みとして享受できるようにするために、科学コミュニケーション教育を教養教育の文脈に再配置していく。
 
 
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