あとがきたちよみ
『社会存在論――〈私たち〉の世界のあり方を問う哲学』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2026/3/25

 
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倉田 剛 著
『社会存在論 〈私たち〉の世界のあり方を問う哲学』

「第1章 社会存在論とは何か──定義・トピックス・本書の立場」(pdfファイルへのリンク)〉
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第1章 社会存在論とは何か──定義・トピックス・本書の立場
 
1 トゥオメラによる定義
 
「社会存在論」の意義
 「社会存在論」(social ontology)と聞いてただちに具体的なイメージが湧く人は少ないだろう。それには理由がある。なぜなら、この語が哲学の文献の中に現れるようになったのは比較的最近のことだからである。後であらためて述べるように、この語によって指し示される分野は、実際のところ、互いに異なる出自をもついくつかの主題の集合体であり、そこで用いられる概念、テーゼ、方法などについて確固たるコンセンサスがあるわけではない。
 それにもかかわらず、背景を異にする複数の主題が「社会存在論」という一つのスレッドのもとで議論されることには大きな意義がある。というのも、ある主題を論じるときに用いた理論的枠組みが、別の主題を論じるときにも有効であると判明することもあれば、複数の主題を通底するような課題──たとえば個人主義と全体論(集合主義)との対立──が見いだされることもあるからだ。つまり、それには、各主題を孤立させて論じていたときには見えなかった視点を提供するという意義がある。そして何よりも、「社会存在論」という新たな分野の創設は、哲学の様々な領域(形而上学、社会科学の哲学、心の哲学、行為の哲学、言語哲学など)で仕事をする研究者たちの交流を促すだけでなく、哲学以外の学問分野、とりわけ社会科学(経済学や社会学)の研究者たちを交えた学際的な相互作用を可能にする。これも社会存在論がもつ意義の一つなのだ。
 
トゥオメラによる定義(その一)──構成要素・構築・存在様態
 社会存在論はいかなる学問領域として理解されているのか。手始めに、フィンランドの哲学者ライモ・トゥオメラによる定義を紹介したい。

社会存在論とは、社会的集団・社会的制度・社会的実践を含む社会的現実(social reality)の基本構成要素(constituents)と構築(construction)について探究を行う学問領域である。それは共同体や企業や結婚といったものがいかなる仕方で存在しているのかを理解することを目指す。(Tuomela, Hakli and Mäkelä 2020: 1)

この定義を私なりに敷衍し、そこに含まれる三つの重要なポイントについて言葉を付け足しておこう。
 第一のポイントは、社会存在論が、社会的世界(社会的現実)の構成要素を問う学問領域として捉えられている点にある。社会的世界にはどのような種類の基礎的存在者が存在するのか、またそれらはいかなる本性(nature)をもつのかがそこでは問われる。この意味で、社会存在論は、形而上学の根幹としての存在論──世界はどのようなカテゴリーの存在者からなるのか、それらの存在者の本性とは何かを問う探究──の一部門である。つまり、それは探究の領域を社会的世界に限定した「領域的存在論」である。社会存在論は、プロセス一般というよりはむしろ「社会的プロセス」(ある地域における人口の増加や民主化といったプロセスなど)に、関係一般というよりはむしろ「社会的関係」(人びとのあいだの信頼関係や権力関係など)に関心を向ける。同様に、集まり一般というよりはむしろ「社会的集団」(人間の集まりとしての国家、会社、大学など)に、種一般というよりはむしろ「社会種」(ジェンダーとしての「女」や人種としての「黒人」など)に興味をもつ。
 トゥオメラの定義における第二のポイントは社会的世界の構築に関わる。社会的世界は、自然的世界とは異なり、私たち人間が──そのすべてではないにせよ──創り出したものである。むろん自然的世界に人間の活動が変化をもたらす部分が存在するのと同様、社会的世界にも気候や地形といった自然的要因によって左右される部分が存在する。とはいえ、私たち人間の活動が社会的世界の大部分を形づくっているという事実に変わりはない。このことを指して、しばしば「自然のうちにはもともと存在しなかった対象が私たちによって構築される」とか、「それは社会的に構築された存在者である」といった言い方がなされる。社会存在論はこうした社会的存在者の「構築」に関する根本的な問題に取り組む学問領域として理解される。
 定義の第三のポイントは、上述の二つのポイントと密接に関係している。すなわち社会存在論は、社会的存在者(共同体、企業、結婚など)の存在様態を問う分野として理解される。「存在様態」という言葉は難しく響くかもしれないが、それは存在するものの「あり方」(存在の仕方)を意味する。一例を挙げれば、お金(貨幣)は、それを「お金」として受け容れる人びとの信念等なくして存在しえないという意味で「(心に)依存的な存在者」である。これに対し、たんなる物質としての金は、そうした信念から独立して存在する「非依存的(独立的)な存在者」である。伝統的な存在論においてはいくつもの存在様態が議論されてきた(「理念的な存在者」「必然的な存在者」「可能的な存在者」「偶然的な存在者」「本質的な存在者」「潜在的な存在者」「実在的(リアル)な存在者」「非実在的な存在者」など)。社会存在論は、社会的世界には「何が存在するのか」を問うだけでなく、そこに存在するものが「どのようなあり方をしているのか」を問う学問領域でもある。
 
トゥオメラによる定義(その二)──社会科学の存在論的コミットメント
 いま見た定義は「伝統的な意味での存在論」の一分野として社会存在論を特徴づけようとするものだった。次いで、同じ哲学者が別の場所で与えたもう一つの定義を紹介したい。

〔…〕社会存在論は社会的現実の基本的な本性を探究する学というだけでなく、少なくとも部分的には、最良の説明を与える社会科学の諸理論が、それらの要請する存在論において、どんな存在者に訴える必要があるのかを研究する学でもある(a study of what the best-explaining social scientific theories need to appeal to in their postulated ontologies)。(Tuomela 2013: ix)

この定義は、先ほどの定義とは異なり、「社会科学の諸理論」への言及を含んでいる。20 世紀を代表するアメリカの論理学者・哲学者クワインによれば、存在論とは「確立された諸科学が、自らの言明を真にするためにどのような存在者を要請しているのか」を、すなわちそれらの「存在論的コミットメント」を明らかにする学問分野である(cf., 倉田2017a)。クワインにとっての「確立された諸科学」とは物理学を頂点とする自然諸科学(の一部)を指すが、クワインのアイディアを拡張して、社会諸科学の存在論的コミットメントを問うことは、社会的世界を探究する存在論にとってむしろ自然なことだろう。
 私自身は、社会諸科学を経由した存在論的コミットメントの分析は社会存在論にとってきわめて重要だと考えている。社会存在論者にとって、社会科学者たちがいかなる存在論的前提のもとで彼らの研究を遂行しているのかを知ることは、「社会的世界はどのような種類の存在者からなるのか」という問いに答えるにあたって貴重な手掛かりとなるからだ。とはいえ、社会存在論は「社会科学の哲学」の一部ではない ということを認識しておく必要がある。
 ジョン・サールは、トゥオメラと並んで、「社会存在論」の創設に貢献した哲学者の一人だが5)、そのサールは、社会科学の成果にほとんど言及しないという理由によって、しばしば非難の的となってきた。次章で指摘するように、サールの理論には社会科学を無視したいくぶん「独善的」なテーゼが散見されることはたしかである。とはいえ、サールによる社会的世界の本性・存在様態に関する「純粋」な哲学的探究には、それまでの社会科学(の哲学)が見過ごしていた重要な洞察が含まれていることは否定しがたく、社会科学を参照しないことだけを理由にサールを非難するのはフェアとは言えない。哲学固有の道具立てを用いた「直接的」な探究と、社会科学を経由した「間接的」な探究という二つのタイプの探究は、けっして互いに相容れないものではなく、包括的な社会存在論においては共存できるはずである。
 
2 代表的なトピックス──その背景と基本的な問い
 
代表的なトピックスとその背景
 私の理解では、現在「社会存在論」という枠組みの中で議論されている事柄の多くは次の五つのトピックスのいずれかに属する。

① 集合的志向性(collective intentionality)
② 社会的存在者における依存関係(dependence relation for social entities)
③ 社会種ないし社会的カテゴリー(social kind or social category)
④ 社会的慣習、制度(social convention, institution)
⑤ 社会的集団(social group)

一見すると、これら五つのトピックスは互いに関連をもたないように見えるが、それは致し方ない。なぜかと言えば、もともとそれらは互いに異なる文脈で議論されてきたからだ。たとえば①に関しては、集合的行為(collective action)あるいは共同行為(joint action)を考察する「行為の哲学」から議論がスタートしたことはよく知られている。②は、主に社会的事実のあいだのグラウンディング(形而上学的根拠づけ・基礎づけgrounding)関係や、社会的性質のスーパーヴィーニエンス(付随性supervienience)を扱うトピックであるが、それは「基礎的(独立的)な存在者」と「派生的(依存的)な存在者」との一般的な関係を記述しようとする形而上学、および「心的性質」と「物的性質」とのあいだの依存関係や還元関係を論じてきた心の哲学に多くを負っている。また、このトピックは「個人に関するミクロな事象」と「社会に関するマクロな事象」との関係を定式化しようとする社会科学の哲学の中でも議論されてきた。③は、いわゆる自然種(natural kinds)について論じる科学哲学および形而上学の中で補足的に取り上げられるか、あるいはジェンダーや人種について議論を行うフェミニズム理論や社会構築主義の中で語られることが多かった。④に関して言えば、近年、主として合理的選択理論(ゲーム理論)、およびそれを道具立てとする哲学の中で論じられてきたトピックである。⑤のトピックは伝統的に、国家や法人の本性を論じる社会哲学・政治哲学の文脈で議論されてきたことが知られている。
 このように、いま挙げた五つのトピックスは、そのどれもが「社会的世界の基本構成要素と構築」に関わるように見えるものの、各自はまったく異なる起源をもつ。さらに言えば、背景を異にするこれらのトピックスを「社会存在論」という一つの枠の中で論じるとき、どのトピックを中心に据えるのかは論者によって大きく異なる。
 「標準モデル」を作ったサールやトゥオメラは、①の集合的志向性論を基礎にして、他のトピックスにアプローチする傾向をもつのに対し(Searle 1995;Tuomela 2002)、形而上学的な手法をより重視する論者は、②の「依存関係」の分析を議論の中心に据える(Epstein 2015)。また、科学哲学の中でしばしば話題となる「新しい自然種理論」(HPC 説)を援用しながら社会種を考察する論者たちや、社会構築主義およびイアン・ハッキングの「人びとを分類する種」(human kind)の議論にインスパイアされた論者たちは、③の「社会種・社会的カテゴリー」を社会存在論の中心的トピックだと捉えている(Mallon 2016; Ásta 2018)。さらに、社会科学(経済学)の哲学を専門とするフランチェスコ・グァラたちは、④の「慣習・制度」のトピックを中心に据え、それをゲーム理論の観点から再検討することで社会存在論における「統一理論」の構築を目論む(Guala 2016)。これらに対して、伝統的な政治哲学をバックボーンとするフィリップ・ペティットらの社会存在論は⑤「社会的集団」のトピックを中心に展開される(List and Pettit 2011)。
 
具体的な問い
 いま挙げた各トピックスについてより具体的な問いに言及することで、社会存在論に関するイメージを少しずつ明瞭にしていこう。
 
①「集合的志向性」に関する問い
 「集合的志向性」における基本的な問いは次のように表現できる。「私たちは共に夕食を作るつもりだ」という文は、ある共同行為についての「私たちの意図」を表現しているように見える。もしそうであれば、「私たちの意図」とはいったいどのような心的態度(志向的態度)であるのか。いま「私たち」は、私とあなたの二人だけを指しているとしよう。このとき「私たちの意図」とは、「私の意図」(「私は夕食を作るつもりだ」)と「あなたの意図」(「あなたは夕食を作るつもりだ」)を単純に足し合わせたものなのか、それとも、それらが特殊な仕方で結合したものなのか。あるいは、それはけっしてそうした総和や結合によっては説明できない「特別な」心的態度なのか。「集合的志向性」のトピックを支える基本的問いはこうしたかたちで提起される。ここでは「意図」を例にとったが、他の志向的態度(信念、欲求、期待、受容など)についても同様の事柄が問われる。
 本書では、集合的志向性を主要概念の一つとする社会存在論の「標準モデル」について第2 章で論じ、集合的志向性それ自体を主題とする理論については第5 章で取り上げることにしたい。
 
②「社会的存在者における依存関係」に関する問い
 「社会的存在者における依存関係」のトピックについてはどうだろうか。「社会的存在者」(social entities)には様々な種類のものがあるが、ここでは[高市早苗は日本の首相である]という社会的事実(social fact)と〈昨今の日本における少子化〉という社会的プロセス(social process)を考えてみよう。
 [高市早苗は日本の首相である]という社会的事実はそれ自体で成り立つような(独立した)事実ではなく、他のより基礎的な諸事実に支えられてはじめて成り立つような事実であると思われる。たとえば[高市早苗は自民党の総裁に選ばれた]や[高市早苗は内閣総理大臣指名選挙で過半数の票を獲得した]といった事実はより基礎的な事実であろう。([高市早苗は日本の首相である]という事実は[高市早苗は自民党の総裁に選ばれた]や[高市早苗は内閣総理大臣指名選挙で過半数の票を獲得した]といった事実のおかげで成り立つ。)しかし、これらの事実よりもさらに基礎的な事実があるはずである。たとえば前者の事実について言えば、[自民党の国会議員A は総裁選挙で高市早苗に投票した]や[地方の自民党員B は総裁選挙で高市早苗に投票した]などがそうである。ここで次のような問いが生じる。社会的諸事実のあいだに想定される関係、すなわち「[P]は[Q]よりも基礎的である」([P]は[Q]を根拠づける)という関係は正確にはどのように理解されるべきなのだろうか。また、すべての社会的事実は、最終的には個人の行動や心的態度に関する事実(のみ)によって根拠づけられるのか、あるいはそれらの集まりに還元されるのか。
 もう一つの例についても同様の問いが生じる。〈昨今の日本における少子化〉は現在進行中のマクロな社会的プロセスである。このプロセスは、社会諸科学によれば、「晩婚化(ないし非婚化)」や「若い世代が抱く将来への不安」といったメカニズムによって生じるとされる。社会存在論における典型的な問いは、これらのメカニズムが最終的に個人の行動・意思決定・態度(のみ)からなるのかを問うものである。そうしたメカニズムが、何らかの意味で個人を超えたもの──社会的集団、社会構造、規範体系など──を含むのかどうかといった問いは社会存在論において重要だと考えられる。
 ここでは「より基礎的である」や「根拠づける」という言葉をかなり大雑把な仕方で用いている。つまり、因果的な意味と非因果的な意味の双方をカバーする仕方で用いている。しかし、因果的な基礎づけであれ、非因果的な(構成的な)基礎づけであれ、このトピックでは、社会的世界の内部にある存在者間の関係、および社会的世界と非社会的世界との関係を記述するための存在論的関係それ自体が考察の対象となる。
 本書では第3 章において、ブライアン・エプスタインのモデルに依拠しつつ、社会的事実のあいだの非因果的な基礎づけ(根拠づけ)関係を分析する。
 
③「社会種・社会的カテゴリー」に関する問い
 「社会種・社会的カテゴリー」のトピックの中で問われている問題は多岐にわたるが、中心となるのは「社会種(社会的カテゴリー)の構築と実在性」に関わる問題だろう。
 「社会種」(social kind)という語は、科学哲学および形而上学でしばしば議論の対象となる「自然種」(natural kind)との対比で作られた用語である。自然種とは、ある基底的な諸性質(とりわけ因果的性質)を共有するものの集まりであり、「ウラン」や「タンパク質」といった原子や化合物の種(物質種)、「ニホンザル」や「八重桜」といった動植物の種(生物種)がその典型例である。自然科学の課題の一つはこうした自然種について成り立つ一般法則を探究することだとされる(たとえばウランの半減期に関する法則など)。
 社会科学もまた、その理論構築のために、自然種と似た分類概念を用いている。「社会種」はそうした分類にもとづく集まりを指すことが多い。その中には「革命」「国家」「民主制」「独裁」「階級」「貨幣(マネー)」といった多様な種が含まれるが、とくに人をメンバー(インスタンス)とする「女性」「障害者」「LGBT」といった社会種は議論の対象となりやすい。これらは「人びとを分類する種」(human kind)とも言われる。
 自然種とは違い、これらの社会種は、私たち人間の心的態度や行為なくしては存在しえないと考えられる。たとえばジェンダーとしての「女性」という種は、私たち(とくに男性)が女性たちにある役割を期待したり、そうした期待にもとづいて行動することから独立に存在するものではない。それらは「水素」といった自然種とは異なり、何らかの意味で私たちによって作られる種なのである。しかし、それらはいったいどのように制作されるのか。これが社会種の「構築」に関する問いである。この問いは、社会種の「実在性」に関する問いとは区別される。
 伝統的には、「種」が実在的(real)であるとは、(a)そのすべてのメンバーかつそれらのメンバーだけがもつ性質(本質(essence))が他の観察可能な性質を生じさせ、かつ(b)そうした性質が私たちの表象、すなわち心的態度・言語・理論等から独立していることを意味する。自然種は、条件(a)と(b)を共に満たすと考えられるがゆえに、実在的であると言われる。たとえば「水」に属するすべてのサンプル、かつそれらのサンプルのみがもつ分子構造H2O(本質)が、サンプルの観察可能な性質(ある特定の温度で沸騰する、凝固するなど)を生じさせ、かつそうした分子構造は私たちの表象に依存することなく存在している。「水」という種が実在的であると言われるのはこのためだ。
 他方、社会種は、いま述べた種の実在性の条件を満たすだろうか。残念ながらそのようには見えない。「貨幣」という種に属する諸対象は、多様な「素材」(紙でも、金属でも、ネット上のデジタル情報でもよい)からなることが可能であるため、それらすべてに(かつそれらだけに)共通する性質(本質)を見いだすことは難しい。むろんそれらの対象がもつ特定の機能(たとえば交換手段としての機能)を「本質」として捉えることもできなくはないが、そうした機能が発揮されるのは、私たちが当の対象をお金であると信じている、あるいは受け容れているからである。言い換えれば、貨幣の機能は私たちの心的態度に依存するものであり、先ほどの条件(b)を満たさない。したがって、種の実在性に関する伝統的な基準を採用すると、「貨幣」は実在的ではないということになる。
 「国家」という社会種についても同様である。たとえある集団が一定の領域を実効支配し、その領土内において正統な物理的暴力の行使を構成員たちから要求されるとしても──すなわちマックス・ヴェーバー流の定義を満たしていても──その集団が国家であるかどうかは決まらない。「イスラム国」はたとえヴェーバー流の条件を満たしていたとしても国家ではない。ある社会的集団が「国家」という種に属するか否かは、いわゆる国際社会に属する私たちの承認や慣行に大きく依存するのである。このことは、「国家」はリアルな種ではないと説く論者たちを利するように見える。
 こうした「難点」から、「社会種は種の名に値しない」「社会種と称する概念のもとに集められたメンバーのあいだには家族的類似性が成り立つだけである」といった主張がしばしばなされる。しかし、そのような主張が正しいとすれば、社会科学は「実在的(リアル)でない分類概念」を相手にしていることになってしまう。この結論ははたして正当だろうか。このように、「社会種・社会的カテゴリー」のトピックでは、その「構築」と共に、その「実在性」をめぐっても盛んに議論がなされている。本書では第4 章において社会種の構築と実在性の問題を扱うことになる。
 
④「慣習・制度」に関する問い
 「慣習・制度」のトピックの中で主に問われるのは、「慣習」や「制度」と呼ばれるものとは何かという本性に関する問い、それはいかにして生成・持続・変化・消滅するのかといった生成変化に関する問いである。これらの問いを探究する際に、慣習を中心とする分析を行ったうえで、その成果を制度にも適用するのか(cf., Lewis 2002[1969])、もしくは制度を軸とする分析の中で、慣習をその一部(インフォーマルな制度)として捉えるのか(cf., Mantzavinos 2001および本書)は、論者によって異なる。ここでは「制度」という言葉を使って具体的な問いを考えることにしよう。
 いつの頃からか日本では、エスカレーターに乗る際、歩きながら乗る人は右側に、立ち止まって乗る人は左側に乗る「制度」が定着した(地域によっては、歩く人は左側で、立ち止まる人は右側)。その制度は何らかの権威によって強制されたものではなく──おそらくは「急いでいる人」と「急いでいない人」がうまく共存するために──いわば自然発生的に生じた行動の規則性である。この制度が一定期間持続しているのは、自分以外のほとんどの人が左側で立ち止まっているのに、自分だけ左側を歩いても何の得もしないからである。(そうした人は他人とぶつかってしまうか、または他人から白い目で見られてしまうだろう。)この種の分析を行う者(ゲーム理論家など)にとって、制度とは「自生的な秩序」であり、個人のインセンティヴにもとづいて選択する人びとの行動パターンである。それはけっして「設計された秩序」ではない。
 ところが、ある地域(私が住む福岡)では、エスカレーターの乗り方に関する上記の制度とは異なる「制度」の定着を目指している。それは「エスカレーターに乗っているときに歩いてはならない」という制度である。この新制度は「自生的な秩序」だろうか。この問いに「イエス」と答えるのは難しい。実際、自治体や鉄道会社はこの新制度を何とか定着させようと様々な啓発活動を行っている。もし新制度が自発的に生じる行動の規則性であるならば、わざわざそのような啓発活動を行う必要などないだろう。(いわんや「罰則」を設ける必要などない。幸いにして、いまのところそうした罰則はないが。)したがって、この新制度は自生的な秩序であるとは言いがたい。それに加えて、多くの人びとはその制度に従っていないように見える。そうであれば、ここで「新制度」として言及されたものは「制度」とは呼べないのではないか。
 このトピックにおける典型的な問いは次のようなものであった。制度とは、人びとのインセンティヴにもとづいて、自然発生的に生じる行動のパターンであるのか、それともある目的を達成するために意図的に設計されたルールであるのか。しかし、もしもそうした二者択一の問いには答えられないのであれば、次のような新たな問いも生じるだろう。はたして「制度」という語で表現されるような単一の社会存在論的カテゴリーは存在するのだろうか。本書では第7章において、こうした問いの一部に取り組むつもりである。
 
⑤「社会的集団」の問い
 「社会的集団」のトピックにおいてよく問われるのは、社会的集団の本性についての問い、および集団行為者(group agent)の実在性についての問いである。前者の問いはしばしば次のような仕方で表現される。社会的集団は人びとの集まりである。だが人びとのあらゆる集まりが社会的集団であるとはかぎらない。一例を挙げると、あるバスに乗り合わせた乗客たちの集まりは社会的集団であるようには見えない。こうした直観が正しいとすれば、はたして何が社会的集団を「たんなる人びとの集まり」から区別するのか。
 これは社会的集団の本性に関する根本的な問いである。一見したところ、この問いには簡単に答えられそうに思える。軍隊という誰もが認める社会的集団には階級や軍紀などからなる内部構造があるのに対し、「バスに乗り合わせた乗客たち」はたんに一定の時間のあいだ同じ空間に居合わせているだけであり、そうした内部構造をもたない。したがって、内部構造の有無が社会的集団とたんなる人びとの集まりを区別する、と。しかしながら、たまたまバスに乗り合わせた乗客たちが互いに協力して凶悪なバスジャック犯と戦うといったケースではどうなるのか。階級やルールはないとはいえ、そうした協働が行われる人びとの集まりは「社会的」と呼ばれるに値するのではないか。そうすると、先述した意味での内部構造は、ある集まりが社会的集団であるための必要条件ではないということになる。
 このほかにも、次のような問題を見いだすことができる。軍隊のような典型的な社会的集団はそのメンバーたちが入れ替わったとしても同一性を維持すると考えられる。これに対し、たまたまバスに乗り合わせた乗客たちの集団は──たとえ彼らが協力して何かを成し遂げたとしても──メンバーたちを入れ替えながら存続するような集団ではない。ここで次のような問いが生じる。
 メンバーたちの変化に耐えて持続できないような「一過性」の集団は社会的集団ではないのだろうか。このように、社会的集団の本性に関する問いは一見するとシンプルに見えるが、実際にはそれほど容易に答えられるものではないことが分かる。
 後者の問い、すなわち「集団行為者の実在性」に関する問いとはどのようなものなのか。簡潔に表現すると、それは「人びとの集まりは、それ自体として、行為主体(agent)でありうるのか」という問いである。集団に属する個々のメンバーに加えて、集団それ自体が何らかの態度の主体であり、その態度にもとづいて何らかの行為を遂行する主体でもあるという考え方は──少し考えてみれば不思議なことだが──大きな違和感なく私たちの社会実践の中で受け容れられているように見える。「その会社はロシア事業から撤退した」や「文学部教授会はその学生に奨励金を授与する決定を下した」といった言い回しはそうした考え方を言語的に表現している。この問いは次のようにも表現される。すなわち、日常生活の中で(同様に、社会科学の中でも)頻繁に用いられるこの種の言明は、集団(会社や教授会など)を文字通りに行為の主体あるいは意思決定の主体であると主張しているのだろうか。この問いに対して「イエス」と答える者は、集団行為者が、たんに概念的に可能であるだけではなく、リアルな存在者でもあることを示さなくてはならない。一方、「ノー」と答える者は、「集団の態度・行為」と呼ばれているものを、その集団を構成している「個人の態度・行為」のみによって説明する必要があるだろう。
 これらに加え、「社会的集団あるいは集団行為者は道徳的責任の担い手でもあるのか」という問いも、このトピックの中で問われることがある。人びとの集団が何らかの態度・行為の主体であると結論したとしても、そのことからただちに当の集団は道徳的責任の主体でもあることが導出されるわけではない。
 本書の第8 章と第9 章で、こうした社会的集団(集団行為者)の問いに取り組むことになる。
(以下、本文つづく。傍点と脚注は割愛しました)
 
 
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