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パトリシア・リーヴィー、ダニエル・X・ハリス 著
田中恵理香 訳/平山 亮 解説
『フェミニスト研究ガイド 理論と実践をつなぐツールボックス』
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[解説]「雑多さ」の意味を理解する――『フェミニスト研究ガイド』のガイドとして
平山 亮
本書は2019 年にGuilford Press から刊行されたContemporary Feminist Research from Theory to Practice の邦訳である。邦題に含まれる「研究ガイド」の語が示すように、本書がテーマとしているのは「フェミニストとして研究を行うとはどのようなことなのか」である。
日本では、フェミニズムの立場から書かれた書籍がコンスタントに刊行され、そのなかにはフェミニズムの視点で行われた研究の成果をもとにしたものも少なくない。しかしながら、そのような研究がどのように行われてきたのかについて、1 冊を費やして日本語で書かれたものはほとんど見当たらない。要するにわたしたちは、書店その他に並ぶ本を通して、そのような研究から得られたアウトプットに触れることは比較的容易にできるのだが、そのような研究がどのようなプロセスを経て出来上がっているのかについて知る機会はかなり限られているのである。
英語圏では、そのようなプロセスを解説したテキストがいくつも刊行されており、それぞれの分野においてフェミニストとして研究を行ってきた研究者たちが、自分がどのように研究を行ってきたかを述べつつ、あとに続く人たちへの手引きとなるような解説を行っている。本書もそのような「どのように」を論じた一冊であり、アウトプットよりもプロセスのほうに焦点を絞った本がなかなか見当たらない日本において、その翻訳が読めるようになったのは貴重なことだと思う。
本書には、大別すると4 つの内容が含まれている。この4 つは本書の構成(全3 部)に沿った分け方ではなく、あくまでこれを書いているわたしの分類である。その4 つとは、(1)なぜそのような研究を行うのかの前提となる「ものの見方」(認識論)とそのバリエーション(第1 部)、(2)実証的な研究を行うための具体的な方法と、フェミニストとしてそれを使う理由や使う際の課題(第6 章、第7 章)、(3)研究からわかったことを含め、情報を共有・発信する上での留意点や最新のトレンド(第3 部)、そして(4)研究の実施から知見の共有に至る各場面において直面しうる、あるいは考えておくべき倫理的課題の数々(第5 章)である。
つまり本書には、フェミニズムの立場で研究を行う上でのあらゆる側面と局面が紹介されているのだが、しかしながら本書は、これを最初から最後まで読めば、フェミニスト研究の行い方・進め方をつかめるような性格のものではない。むしろ、これを通しで読めば、フェミニスト研究とは何をどうすることなのかが、余計にわかりにくくなる面もあるように思う。本書の内容はあまりに幅広く、また章と章の繫がりも、ひとつの章の中身どうしの繫がりもわかりやすく示されているとはいえないがゆえに、読者のなかには雑多な情報が羅列されているだけにしか思えない方もいることが予想されるからだ。また、そのように内容があまりにバラバラに見えるせいで、「フェミニスト研究のアプローチがいかに一貫性を欠き、いかに体系化されていないか」というネガティブな印象だけを抱いてしまう方もおられるかもしれない。
実は、本書を読むにあたっては「念頭に置いておいたほうがよいこと」があるのだが、それは、本書のなかできちんと言明されているとはいいがたい。それゆえ読者がその内容に混乱したり戸惑ったりするとしたら、それに対し著者に責任がないとはいえないのだが、何はともあれ、その「念頭に置いておいたほうがよいこと」とは端的にいえば、フェミニスト研究には固有のアプローチはない、ということである。
そもそもフェミニスト研究は、たとえばわたしが専門とする社会学のような、特定のディシプリンを指すものではない。ディシプリンに関していえば「さまざまである」としかいいようがない。というのもフェミニスト研究の担い手は、主にどんなディシプリンのもとでトレーニングを積んできたかを含め、そのアカデミックなバックグラウンドは多様だからである。したがって研究を行うにあたり、何をどのように用いるのか、そうするのは何を明らかにするためなのかなども当然、担い手のバックグラウンドによりさまざまである。そんな多様なフェミニスト研究に共通する何かを探すとすれば、それはおそらく「研究において目指すもの」、すなわち、フェミニズムの理念を研究において実践しようという志向性のみだといってよいだろう。
ゆえに、フェミニスト研究のアプローチが一貫性を欠き、体系化もされていない、という感想は、固有のアプローチがない、という意味においては的確である。他方でそのアプローチの多様さが、フェミニスト研究の担い手の多様さ(アカデミックなバックグラウンドの多様さ)によることを考えれば、まったくの的外れともいえる。それはいうなれば、法学者と医学者を並べて「一貫した方法が使われていない」「これらには学問としてのまとまりがない」と言い募るようなものだからである。
フェミニスト研究のそうした幅の広さからすれば、その行い方・行われ方を1 冊でカバーするのは至難の業である。ましてやそれを1 人もしくは数人で著すとなると、著者の専門の範囲をはるかに超える内容を扱わざるをえず、ほとんど不可能な作業である。本書は著者のバックグラウンドのゆえに、社会科学を念頭に置いた内容にほぼ限定されてはいるものの、それでも扱われている内容は広範囲にわたり、それはとりわけ研究法をテーマとする第2 部に顕著である。ただしこれは致し方のないことでもある。たとえばわたしが専門とする社会学の分野でも、実証研究の方法はさまざまであり、同じ社会学を専門としているからといって1 人の研究者がそれらすべての方法を得意としているわけでもない。さらにいえば、その研究者の「ものの見方」ないしは(第1 部で扱うような)認識論的な立場からすると、そもそも採用し難い方法もありうる。そのように、ときに両立が難しいことすらあるさまざまな方法を一度に紹介すれば、何だかまとまりなく見えてしまうのは致し方のないことだろう。
いずれにせよ、フェミニスト研究の幅の広さに由来する本書の内容のこうした「雑多さ」を前にして、読者が混乱してしまうことは想像に難くない。そこで、そうした混乱ができるだけ少なくなればと思い、僭越ながら本書のひとつの読み方ないしは使い方を以下にご提案させていただきたい。もちろん、こう読まなければ本書の内容は理解できない、ということでは決してないのだが、本書の内容をどう受け止めればよいのかわからない、と途方に暮れたときの参考になれば幸いである。
まず第1 部については、どなたも目を通してみることをおすすめする。第1 部では、フェミニズムの理念を研究において実践するにはどうすればよいのか、それはなぜなのかの前提となる、いくつかの認識論的な立場とその違いが主なトピックとなっている。したがって、研究を行うことに関心のある方にとっては、自分が拠って立つ認識論的な前提を振り返る上でも重要な内容だといえるのだが、他方でこれらの立場は後述するように、フェミニズムがその出発点としてきた「女性の視点」の捉え方の違いにも繋がっている。それゆえ、この違いについて知っておくことは、フェミニストのあいだで争点となってきたことや相互批判の背景を窺い知ることにもなり、研究を行うかどうかにかかわらずフェミニズムについて関心を抱き、特に理論的な側面からフェミニズムの非一枚岩性について理解を深めたい方にとっては、有益な内容となるように思われる。
また、第1 部ではそのような認識論のバリエーションと絡めつつ、運動および思想としてのフェミニズムの歴史的な経緯や、世界のさまざまな地域でのフェミニズムの展開についても概説されているのだが、このなかには日本ではこれまであまり紹介されてこなかった思想家やアイデアも含まれている。したがって、フェミニズムの来し方や拡がりについて概観するためのユニークなテキストのひとつとしても、第1 部は使えるのではないかと思う。
続く第2 部は研究法がテーマとなっているが、こちらは第1 部とは対照的に、通しで読む必要はそれほどないように思う。特に、さまざまな方法を概説している第6 章から第7 章までは、それぞれの内容が方法ごとに独立しており、その前を読まなければその方法の説明を理解できないわけでもない。むしろ、同じ章に含まれているからといって、それらの方法のあいだの関連を何とか探そうとしたり、章全体を貫く筋のようなものを追い求めたりすると、かえって混乱することもあるかもしれない。
実のところ、第6 章と第7 章で取り上げられている各方法については、その方法自体の概説としても十分とはいえない。これは紙幅の都合にもよると思うのだが、それ以上に第6 章と第7 章の各方法の概説では、その方法がフェミニズムの研究者によりどのように使われているか・使われてきたかが主な内容であり(フェミニスト研究の方法についての本なので当然だが)、その方法がそもそもどのようなものなのかについての説明は、ずいぶんとざっくりとしたものに留まっているためである。したがって、社会科学でよく使われる実証研究の方法についてあまり詳しくない読者にとっては、説明不足に感じる部分も少なくないだろうし、その場合は、それぞれの方法に関する別のテキストに目を通してからのほうが、本書の説明についていきやすいかもしれない。いずれにせよ第6 章と第7 章は、自分にとって関心のある方法をピックアップし、フェミニズムの立場でそれを用いた例や、それを用いる際の課題にはどんなものがあるかを探しながら読んでみる、という使い方がよいように思われる。
他方で、第2 部の初めに置かれた研究倫理に関する第5 章には、どの方法に関心があるかにかかわらず、また実際に研究を行うかどうかにかかわらず、目を通しておいたほうがよいだろう。第5 章では、主題選びからアウトプットに至るまでの研究のあらゆるプロセスにおいて、不平等の是正を主題としてきたフェミニズムのアイデアを実践する上での難しさや考慮すべき点が検討されており、その意味ではこの章こそが「フェミニストとして研究を行うこと」を全面的に扱っているともいえるからである。また、第5 章で検討される倫理的な課題のなかには、たとえば研究の参加者に対して研究者が行使しうる権力を、フェミニストとしていかに抑制するかなどが含まれており、こうした内容は実際に研究を行うかどうかにかかわらず、他者との関係のなかでどうしたら不平等を再生産しないで済むか、といったフェミニズムの問いを共有するあらゆる読者に対し、示唆を提供するものになると思われる。
最後の第3 部はアウトプットに関する内容であり、調査研究の結果も含め、情報を発信するための方法や、インターネットが当たり前となった現代だからこそのさまざまな発信の選択肢や可能性が論じられている。私見では、本書を類書とは異なるユニークなテキストにしているのはこの第3 部である。というのも本書では、フェミニスト研究は必ず「運動」の要素を有する政治的なもの、という立場から、いかに公共的な知となることを目指して発信できるか・すべきかに力点が置かれているからである。具体的にいえば本書では、知見の共有のための選択肢として、学術論文や専門書を第一とすることをよしとしていない。そのような方法で発信された情報を受け取ることができるのは、アカデミックなトレーニングを受けた層に限られてしまうからであり、それでは知識の格差とアクセシビリティの不平等を再生産するだけで、公共性からは程遠いからである。それゆえ本書では、幅広い層にアクセスが可能となる方法、たとえば新聞やブログなどで知見を共有することも、選択肢のひとつとして検討するよう勧めている。さらにはフィクションとしての小説や、そもそも文章を使わない映像アートなども、研究のアウトプットの方法として学術論文と同列に論じている。
本書をフェミニスト研究のテキストとしてもっとも異色なものとしている(ようにわたしには見える)のが、第9 章だろう。本章では、さまざまな地域におけるフェミニズムの運動のグローバルな拡がりや、そうした国境を越えた情報共有の流れの一部として、ソーシャル・メディアを使ったさまざまな発信の例が紹介されている。実のところ、これを書いているわたしは当初、この章がなぜフェミニスト研究のテキストに含まれているのか、よくわからずに戸惑いを覚えた。だが、フェミニズムの理論は運動との関係やその影響抜きには理解できないし(たとえば、日本でも近年注目を集めているインターセクショナリティの「源流」のひとつとしてのコンバヒーリバー・コレクティヴの宣言を思い出せばよい)、ソーシャル・メディアを用いて発信される情報のなかには、ジェンダー・セクシュアリティの経験研究を踏まえたもの、そもそもそれを一般向けにわかりやすく解説しているものもある。したがってアカデミアのなかで行われた活動と、アカデミア向けに発信された情報だけで研究を考えてはいけない、という本書の立場からすれば、第9 章の内容をフェミニスト研究の現代的なトレンドとしてここに含めることは首尾一貫しているといえる。
なお、本書のこのような特徴は、著者のひとりであるパトリシア・リーヴィーの研究キャリアも反映しているだろう。フェミニスト社会学者であり、研究方法についての研究を専門のひとつとするリーヴィーは、現在はどの研究機関にも属していないインディペンデントの研究者である。マサチューセッツに位置するある大学の社会学科のトップを務めながらもリーヴィーがそこを離れたのは、本書が(というよりはリーヴィーが)考えるようなフェミニスト研究を行う上で、大学への所属が足かせとなりうるからである。というのも大学に勤めている限り、第一に評価の対象となるのは学術論文の形でのアウトプットの質・量であるからだ。だが、幅広くアクセス可能な知識を生み届けることこそフェミニスト研究者の責務だとする立場からすれば、学術論文というアウトプットにこだわることはできないし、むしろこだわってはいけないともいえる。ゆえにリーヴィーは、インディペンデントの研究者として研究を続けることを選んだのである。そんなリーヴィーはアートをその方法とする研究方法論の第一人者であり、自身、フィクション小説を成果発信の方法のひとつとして積極的に用いてきた。また、方法論に関するそうした業績により、さまざまな学会賞を受賞している研究者である。
さて、こうした第3 部の読み方に戻ると、まず、研究からわかったことをいかに書き、いかに世に出すかについて述べている第8 章は、実際に研究を行っている読者の方・研究を志している方にはぜひ目を通していただきたい。大学院などでアカデミックなトレーニングを受けてきた方にとっては、これまであまり馴染みのない成果発信の選択肢について学ぶことができるし、実際にそういう選択肢を選ぶかどうかは別として、さまざまな発信の方法のなかから複数を使って発信することの意義や必要性について考える機会を提供してくれるからである。
続く第9 章は対照的に、いかに○○するかといった方法についての解説はほとんど見られない。この章から学ぶことができるのは、インターネットを使った発信を含め、フェミニストによる近年の取り組みの多種多様な事例である。なお、紹介されている事例は必ずしも繋がっているわけではないので、興味を惹く節だけをピックアップして読んでも問題なく理解できるだろう。また、各節で触れられている人物や活動については、それぞれ概略的な紹介にとどまっているため、関心をそそる事例を見つけ、それについてさらに情報を集めて詳しく学んでみるきっかけを得るものとして、本章を使ってみるのがよいように思われる。
最初に述べたように、フェミニスト研究で用いられるアプローチはひとつではない。担い手のディシプリンはそれぞれに異なるし、同じディシプリンを専門としていても、担い手ごとに、また研究プロジェクトごとに、用いられる方法はさまざまだからである。本書に含まれる情報の「雑多さ」も、フェミニスト研究の内部の多様性を反映しているのだが、ただし、これもまた最初に述べた通り、フェミニスト研究はその志向性、すなわち、研究においてフェミニズムを実践しようとすることにおいては共通している。では、研究においてフェミニズムを実践するとはどのようなことなのか。最後にこの問いについて本書の内容に触れつつ少し考えながら、フェミニスト研究における「雑多さ」の意味について改めて検討し、この解説を締めたい。
まず、この問いに対して真っ先に思い浮かべるのは、「女性の経験にもとづき、女性の声を反映した研究を行うこと」という答えだろう。いうまでもなく、フェミニズムは女性の視点からこの社会を問い直すものであり、女性の経験と権利を蔑ろにする、制度に遍く深く埋め込まれた性差別の解消を求める運動と思想である。学問の世界における研究もまた、女性を排除し、マイノリタイズして成り立っている制度のひとつである。事実、「人間とは」「社会とは」は長らく女性を抜きにして論じられ、そのようにして得られた偏った知識こそが「正当な」知識とされてきた。それを思い起こせば、女性自身がその担い手となりながら、女性がこの社会をどのように生き、どのような経験をしているかを当事者の立場で理論化し直すことは、女性の視点からの問い直しを図る、フェミニズムにもとづいた研究だと十分にいえそうである。
これに対してどのように答えるかは、第1 部で検討されている認識論的な立場により、さまざまである。なお、ここでいう認識論とは、あることを理解するためにはどうすればよいのか、あるいはそのような理解のしかたにはどのような限界があるのか、というような、「何かを理解すること」そのものについての考え方のことである。
第1 部では、大きく分けて3 つの認識論的な立場が紹介されている。フェミニスト経験主義、スタンドポイント認識論、ポストモダニズム・ポスト構造主義である。このうちフェミニスト経験主義は、女性が研究の担い手および参加者になることを、フェミニズムのひとつの実践としてもっとも肯定的に捉えるだろう。なぜなら経験主義とは、経験こそが何かを理解するためのベースとなる、という認識論だからである。したがってこの立場にもとづけば、構造的な不平等のもとで女性が女性として、あるいはマイノリティがマイノリティとしてどのように生きているかを知識として適確にまとめあげるためには、実際にそのような立場を経験している当事者がその作業に携わる必要がある。
スタンドポイント認識論もまた、何をどのように理解できるかは、その人の置かれた立場によるという、ある種の当事者性を重視する。しかしながらこの立場では、女性やマイノリティの当事者が研究に加わりさえすれば、その人々に関する「偏りのない」知識が得られるとまでは考えていない。というのもこの立場によれば、わたしたちが何をどのように理解するか・理解できるかは、たとえばどのような歴史を経て成り立ってきた、どのような国の、どのような制度のもとで女性として、マイノリティとして生きてきたかと切り離すことはできないからである。端的にいえば、その人が女性として生きていたとしても、その人に理解でき、知識としてまとめあげることができるのは、「女性として生きるとはどのようなことか」のうちの限られた経験でしかない、ということである。
ポストモダニズムやポスト構造主義は、上のどちらにも対立しうる立場である。フェミニスト経験主義やスタンドポイント認識論は、女性という立場に置かれているからこそ得られる経験(限られたものであったとしても)や、それにもとづく知識があることを前提としているのに対して、ポストモダニズムやポスト構造主義のフェミニズムでは、女性という立場には他の立場とは異なる何か(たとえば経験)があると前提すること、その意味で、女性という立場をその立場たらしめる特有の何かがあると考えることそのものを、批判的に検討しようとする。というのも、女性に特有の何かがあるという理解こそが、性別による社会的処遇の違いを正当化するのに使われてしまうことがあるからである(たとえば、女性は他者のニーズに気を配れる性質を身に着けさせられている、という理解が、「ケア=女性のしごと」とする性別分業を自然に見せるのに「役立って」しまうように)。
あらゆる女性に共通する経験がないことを前提とするスタンドポイント認識論や、女性というカテゴリーそのものを批判的に見るポストモダニズムやポスト構造主義の立場に対しては、フェミニズムの当初の拠り所であったはずの「女性の視点」そのものを揺るがす「ものの見方」として、戸惑いや反発を覚える方もおられるかもしれない(し、事実そうであったことは、本書のなかでも触れられている)。
だが、ここで思い出さなければいけないのは、なぜフェミニズムが「女性の視点」を出発点としてきたか、ということだろう。それは、性別に関してどのようなカテゴリーに入れられるかにより社会的な処遇がいかに異なっているか、という構造化されたジェンダー不平等を「見える化」し、その是正を訴えるためであり、端的にいえば、社会的公正の実現を目指すためである。だとすれば、もし「女性の視点」として理論化されたものが、特定の女性の立場や経験をないがしろにするもの(その意味で、彼女たちを「女性」から排除するもの)であったり、そのような「女性の視点」そのものが不平等の再生産に繋がりうるのであったりするならば、それを徹底して考え直そうとするのは、社会的公正の実現を目指すフェミニストとして、むしろ当然だろう。
ちなみに著者が本書を通して強調しているインターセクショナリティという考え方についても、同じことがいえそうである。単一の次元における不平等だけを考えることを批判するインターセクショナリティの考え方に対しては、ジェンダーの不平等を後景化させる考え方のように捉え、反発を覚えている向きもあるようだが、それは誤解である。人種や階級、年齢や健常/障がい、SOGI といったジェンダー以外の次元での不平等をフェミニズムが考える必要があるのは、フェミニズムがその当初より問題にしてきたジェンダーの不平等がなぜ・どのように維持されるのかを解明する上で(も)それが不可欠だからである。というのも社会理論としてのインターセクショナリティが説明してきたのは、ジェンダーの不平等がその他の次元での不平等を成り立たせつつ、またそれらによって成り立っているという、不平等の相互依存関係だからである。
したがって、インターセクショナリティという考え方は、あれやこれやの不平等を考え合わせておけば、より精緻な社会分析ができるからそうせよ、といっているのでは必ずしもない。そうではなくて、それら他の次元での不平等に目を向けなければ、ジェンダーの不平等すらまともに理論化できないからであり、ゆえにそれらの次元の不平等を考えずにいれば、ジェンダーの不平等を問題化するというフェミニズムの「初志貫徹」自体がかなわなくなるためである。要するに、インターセクショナリティという考え方は、ジェンダーの不平等について考えることの重要性を相対的に低めるものではまったくない。当たり前のことだが、フェミニストであるインターセクショナリティの理論家たちが、ジェンダーの不平等を理論化することのプライオリティを下げるはずなどないし、ジェンダーの公正を目指すからこそインターセクショナリティという考え方が求められているのである。
いずれにせよ、本書で取り上げられている認識論的な立場のあいだには対立も見られるが、そのどれもが社会的公正の実現を目指すためのものであることは共通している。さらにいえば、ある立場が他の立場に批判的だとしても、他の立場など「要らない」といっているわけでは必ずしもない。たとえば上でも述べたように、ポストモダニズムやポスト構造主義の考え方は、経験主義の考え方に批判的な内容を含む。だが、だからといって経験主義から導かれるアプローチ、すなわち、女性やマイノリティが研究の担い手や参加者としてきちんと含まれることを「必要ない」あるいは「あってはならない」などということはないだろう。ある立場が他の立場に批判的なのは、その立場だけでは見えないものがある、という意味で批判的なのであって、いずれかの立場さえあればよい、というわけではない。むしろ、どの立場も社会的公正を目指す上で、どこかで必ず必要とされるものなのであり、だからこそ本書でもフェミニスト研究における認識論として、複数の立場が紹介されているのだといえよう。
ついでにいえば、どのような認識論的な立場をとるかによって、適切な方法も変わりうる。たとえば、スタンドポイント認識論の立場をとれば、ある女性の経験を彼女が生きてきた制度的・歴史的な文脈に照らして掘り下げて理解するような質的なインタビュー調査が用いられるかもしれないし、ポストモダニズムやポスト構造主義のように女性というカテゴリーそのもののつくられ方を批判的にたどろうとする立場をとれば、メディアコンテンツなどをデータとした表象の分析が行われるかもしれない。だとすれば、研究方法における多様さは、認識論的な立場の多様さと深く繋がっているといえるし、どの認識論的な立場も社会的公正を目指す上で必要だとすれば、それぞれの立場と相性のよいそれぞれの方法もまた、どれも必要だといえるのである。
ここまでくれば、フェミニスト研究の「雑多さ」の意味も理解できるだろう。この「雑多さ」は、担い手のディシプリンの多様さだけではなく、認識論的な立場やそれと結びついた方法の多様さにもよるものだが、それは、そのどれもが社会的公正の実現を目指す上で必要だからである。そして、このように理解すれば、本書の内容の「雑多さ」もまた、社会的公正の実現を目指すフェミニスト研究の「どのように」を扱う上での必然として、至極納得のいくことだろう。





