序論 マイナーな論理は何をなしうるか その役割と重要性
§1. 辺獄のベルクソン
フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859-1941)が華やかな「現代思想」に名を連ねていた時代はもはや完全に過ぎ去ったが、世界の哲学研究の現状を見れば、未だ完全に「哲学の古典」に収まったとも言えない。むしろレヴィナスが指摘したように、ベルクソンは、「一種の辺獄〔天国と地獄の間〕のようなどっちつかずの状態に」置かれている。だが、この辺獄における宙吊りからベルクソンを「救い出す」必要はいささかもない。トマス・アクィナスによれば辺獄(limbus)とは、洗礼を受けることなく死んだ罪なき子どもたちが永遠の自然の楽しみを得る場所だからである。つまりベルクソンは、やがて天国へと向かうべく煉獄(purgatorium)に留めおかれているのではないのだ。私たちがなすべきことはただ、ごく普通にベルクソンのテクストを読めるように、さまざまな目の曇りから私たち自身を解放することだけである。では、そのような読解をどのように始めればよいだろうか。「大きな物語の終焉」などと言いながら、「ベルクソンからドゥルーズへ(デリダへ、レヴィナスへ…)」といった単線的な進歩史観に囚われた現代思想的で外在的な読解で事足れりとするのではなく、かといって結局のところベルクソンの言葉をなぞるばかりで真の思想的対決へと向かわない訓詁学的で内在的な読解に惑溺するのでもないそんな読解を。
§2. 反時代的哲学
ニーチェが『反時代的考察』という著作の中で用いた言葉を若干変えて、次のように述べてみよう。「時代のなかで反時代的に、すなわち時代に反対して、そうすることによって時代に向かって、望むらくは将来の時代のためになるように活動するという意味をもし持たぬならば、〈哲学〉がわれわれの時代においてどういう意味を持つか私は知らない」。哲学とは反時代的なものだ。アクチュアリティを追い求め時流に乗った「現代思想」の眼差しからも、重箱の隅をつつくばかりの反動的な「訓詁学」的視線からも等しくこぼれ落ちるもの、それこそ哲学が手にしようと望んでいるものだ。ベルクソンの哲学はすぐれて反時代的な哲学である。私たちはベルクソンの鍵となる概念――持続、記憶、生の弾み、開かれたもの――はすべて反時代的であると考える。持続を例に取ろう。宇宙を貫き、私たちを貫いて流れる時間の本質たる持続を、ベルクソンは、論文「可能的なものと実在的なもの」の中で、次のように定義している。
生命体は本質上持続する。生命体が持続するのはまさに、それが絶えず新しいものを練り上げるからであり、探究なしに練り上げはなく、模索なしに探究はないからである。時間とはこのためらいそのものであって、そうでなければまったく何物でもない(PM 1333)。
持続とは新しいものの絶えざる練り上げであるが、これは、単純に途切れることなく遅れることなく流れ続けるものということではない。時間とは遅れつつ到来するものであり、遅れつつしか到来しないものである。待つこと、待たせること、待たされることの中で時間の本質が露わになる。「一杯の砂糖水をつくろうとする場合、ともかくも砂糖が溶けるのを待たねばならない。この小さな事実の教えるところは大きい。けだし、私が待たねばならぬ時間は、もはやあの数学的な時間ではない(……)。それは、私の待ち遠しさに、つまり私に固有な、勝手に伸ばしも縮めも出来ない持続のある一齣に合致する」(EC 502)。これはベルクソンが持続を説明するために用いた有名な砂糖水の例であるが、待ち合わせ場所で大好きなひとを待ち焦がれるひととき、あるいは退屈な仕事の終わりをひたすら待ち望む時間を考えてもいいだろう。持続とは生成変化であるが、生成変化とは、なめらかに変わることではない。齟齬なきものに真の生成変化はない。「時間とはすべてが一挙に与えられるのを妨げるものである。時間は遅らせる、いやむしろ時間とは遅れである」(PM 1333)。遅れとしての持続、あるいは、本質的に齟齬をはらんだ生成変化、これが持続の最も根本的な特徴であるとすれば、ベルクソンの哲学は、すぐれて反時代的な哲学であると言えるのではないか。
§3. 功利性と効力
ただし、ここで改めて強調しておくが、「反時代的」とは「反動的」あるいは「時代遅れ」ということではない。時流に乗りアクチュアリティを追い求める現代思想に対して、単に訓詁学的なテクスト読解を対峙させることで真に生産的な哲学的営為が実現されるわけもない。アクチュアリティと切り結ぶことで有用性を確保しようとしないからといって、哲学は「何の役にも立たない」のではない。ショートリターンという形で近視眼的に功利性(utilité)を追求しようとする精神にとって、そしてそのような精神にとってのみ、役に立たないのである。だから逆に、気長に辛抱強く待とうとする(それは常に勇気の要る営為である)、長期的な視点から、自らの根源的な刷新・変革まで視野に入れてものを考えようとする精神にとって、必ずや哲学は役に立つ。哲学的直観の創造性は決して単なる夢想ではなく、「無用の用」という以上の効力(efficacité)ないし実効性(effectivité)をもつ。教科書的なベルクソン理解によれば、真の時間である「持続」は、その歪曲である「空間化された時間」と対立する。「心の時間」ないし「哲学の時間」は、「時計の時間」ないし「科学の時間」と対立する。なるほど、それは大筋として間違っていない。だが、両者は「無用」対「有用」として対立しているわけではない。ベルクソンは時間についてまさに「何の役に立っているのか」と問うている。
なぜ事象は展開するのか。どうして事象は展開したままになっていないのか。時間は何の役に立っているのか(私が言う時間は事象的で具体的な時間のことで、空間の第四次元にすぎない抽象的な時間ではない)。(……)私はある日、あの〔以前自分が傾倒していたスペンサー〕哲学では、時間が何の役にも立っておらず、何もしていないことに気づいた。ところで、何もしていないものは何物でもない。しかし、時間は何物かであると私は考えた。それだから時間ははたらくのである。ではいったい何をすることができるのか(PM 1333)。
ここでベルクソンが、時間は何の役にも立っていないわけではないという場合、時間のもつ「はたらき」は〈功利性〉よりはむしろ〈効力〉に関係している。では、時間がただ単に齟齬をもたらし、事態を遅滞させるだけではなく、「何物か」であり「はたらく」という場合、その〈効力〉はどのようなものなのであろうか。言い換えれば、〈功利性〉と〈効力〉はどのような関係にあるのだろうか。
§4. 生命(vie)・生き長らえ(survie)・超‐生(sur-vie)
持続が生命的なものである以上、時間の〈効力〉について考えることは、生命の本質について考えることに行きつく。今ある生活条件で生きていくことに成功しているのに、生命はなぜリスクを負ってまで、次第に複雑になっていくのだろうか。「なぜ生命は進んだのでしょうか。生命が一つの飛躍によって、次第に大きくなる危険を越えて、次第に高まる効力へと引きずられたのでないとしたら」(ES 828-829)。そうなのだ、生命とはもともとそういうものなのだ。生命を真の意味で支えているのは、生存時間の量的な延長としての「生き長らえ」(survie)、単調な生命維持などではなく、生の過剰・横溢、質的な刷新である。生命(vie)とは常に既に、シュルレアリスムが「超現実主義」と訳されるような意味で、「超-生」(sur-vie)である。だとすれば、功利性が宇宙や人間の生の大半を占め、効力がごくわずかな非合理性の領域しか占めないなどということはありえない。能率的・合理的な功利性は、生の効力が行なう命がけの飛躍によって道をつけられた後で、恐る恐るやってくる。ベルクソンにおいて生命は精神という別名を持つ。しかし、これを聞いてスピリチュアリスムの名のもとにベルクソンを手早く葬り去れると考えるのは早計である。むしろ、そこではいったいいかなる「スピリチュアリスム」が問題になっているのかを問うことこそが決定的に重要である。「明らかに、一つの力がわれわれの前で働いています。その力は、束縛から逃れ、また自らを超えて、自らが持っているものを与えようとし、ついには自らが持っている以上のものを与えようとします。精神にこれ以外の定義を与えることができるでしょうか。そして、もしも精神の力(force spirituelle)が存在するとすれば、自らが持っているもの以上のものを引き出す能力以外には、それを他のものから区別するものはないのではないでしょうか」(ES 21/830-831)。メジャーな概念・功利性・合理性はむしろ、マイナーな論理・効力・「根本的な不条理性」という氷山の一角に過ぎないのである。
§5. 哲学と科学、良識と常識
ベルクソンにおいて効力は功利性と完全に切り離されていないどころか、むしろ新たな次元の功利性を呼び求める。この点は、ベルクソンにおける哲学と科学、良識と常識の関係を見てみると分かりやすい。ベルクソンにおいて「科学はもっぱら常識の方向を推し進め、常識は科学の始まりである」(PM 4/1255)のに対し、哲学は最終的に良識と合致するものであった。「演繹された帰結を曲げて、生命の紆余曲折に合わせてもう一度撓める」べく、ベルクソンが訴えるのが「良識、つまり実在の連続した経験」(EC 214/675)である。よく誤解されやすいが、ベルクソンが「良識」と呼ぶものはきわめて特異である。「偉大な神秘家たち」が彼によって、「男女を問わず、一般に行動の人、高次の良識(bon sens supérieur)の持ち主だった」(DS 259/1183)と見なされていることを想起しておこう(後に詳しく見るように、これによって「神秘精神は機械化を呼び求める」(DS 329/1238)という言葉の真の意味を理解することができるようになる)。ベルクソンにおいて哲学が追究する良識と効力は、決して常識と完全には手を切らず、功利性を単純に否定しない。これは、例えば『物質と記憶』の「第7版への序文」冒頭で、事物と表象の中間に位置づけられるものとしてイマージュ概念を措定する際に、「こうした考え方はただ単に常識のそれである」(MM 1/161)と述べ、また、「序文」末尾で、自らの提唱する哲学が「常識の結論へと必ずやわれわれを連れ戻すはずなのだ」(MM 1491)と宣言する際にはっきりと認められることである。科学が予見可能性・反復可能性・計算可能性に基づいた有用性・功利性をもつとすれば、哲学は、ベルクソンにおいて、測りえぬものをそれでもなお測ろうとして、持続により即した〈計測〉を提案することで、功利性を斥けるどころか、最終的にはそれへとつながっていくような効力をもつ。ベルクソン的な生命学は、「精神性というものを、常に新しい創造への前進、それも、前提と同じ尺度をもちえず(incommensurables)、前提によって規定不可能な結論への前進と解する」(EC 213/675)がゆえに、来たるべき哲学と来たるべき科学とを、同じ方向を目指すものと見なす。
この点は、同じように反時代的哲学を標榜するドゥルーズ哲学が、良識ではなく逆説を好み、常識と完全に手を切ることで結果として功利性を排除し、仮構作用と偽なるものの力への信頼を通じて、科学よりはむしろ芸術との協力関係を模索しているのとは好対照である。「良識」を古臭いものとして一蹴し、刺激的な「逆説」を求める現代思想の傾向は、いつの時代にも存在した、素朴で健全な知的好奇心である。ベルクソンは少しのアイロニーと大いなるユーモアをもって、こう切り返すだろう。「体系化することはたやすい。ある観念の果てまで行くのはあまりにも容易だ。難しいのはむしろ演繹を止めねばならないところで止めること、個別科学の深化のおかげで、また現実との絶えず維持された接触のおかげで、その演繹を屈曲させねばならないところで屈曲させることである」(Mélanges, p. 1187)。ここには、ドゥルーズとはまったく異なるベルクソン的な反時代的哲学の相貌が現れている。
§6. メジャーな概念とマイナーな論理
ここまでの論述で、ベルクソン哲学が反時代的哲学であるという主張の少なくとも大まかな方向性が理解され、また、功利性と効力、哲学と科学、良識と常識の関係を概観することで、その反時代性に対してある程度の内実が与えられたとしよう。すると、次に問題になるのは、そのような哲学に対していかに接近するかということである。もしベルクソン哲学が反時代的なものであるというのが本当であるならば、彼の哲学に接近するに際して、私たち自身もまた、齟齬や遅滞、媒介や迂回への繊細なまなざしをもって臨まなければならないだろう。つまり、概念や言語といったものがベルクソンにとって何を意味するのかを明らかにすることから出発しなければならないだろう。実際、ベルクソン自身、処女作『意識に直接与えられたものに関する試論』「はじめに」の第一文、つまり自己の哲学の文字通りの出発点を、言語と観念の問題から始めている。
われわれは、自分の考えを表現するのに必ず言葉を用いるし、また、大抵の場合、空間の中でものを考える。言い換えれば、言語は、観念相互の間に、物質的対象の間に見られるのと同じはっきりとした明確な区別、同じ不連続性を打ち立てるように要請する。(……)しかし、ある種の哲学的な問題が引き起こす乗り越えがたい困難は、まったく空間を占めない現象を空間のうちに何としても並置しようと固執することに起因するのではないか(DI, « Avant-propos », 3)。
もしここに、言葉とそれが表現しようとするものに関するよく知られた対立関係しか見ないのであれば、ベルクソン哲学の決定的なポイントを取り逃すことになる。慎重に歩みを進めよう。
ベルクソンは別のところで、概念を「包み込むもの」と規定している。生命の現実を忘れ、概念に依拠して哲学することは、「ちょうど蝶が抜け出してくる抜け殻(enveloppe)について議論し、飛び回り変化し生きている蝶の存在理由および完成が皮殻(pellicule)の不変化にあると主張するようなもの」である。そのような皮殻を引きはがし、繭を目覚めさせなくてはならない。私たちが解決困難な形而上学的大問題と見なしているものも、時間にその持続を、つまり齟齬や遅滞を通した効力を取り戻させるならば、皮殻からいかに蝶が生成するかという堂々めぐりの議論であることになる。「運動や変化、時間の等価物とわれわれが誤って見なしている概念的な表皮(enveloppe conceptuelle)」に関わりあっているにすぎないことになる(以上、PM 1259)。したがって形而上学が経験そのものになるためには、「包み込む」(envelopper)ものとしての概念とその相互連関を整合的に解釈し、体系的な相貌を描き出すだけでは十分ではない。哲学的直観とは、むしろ「概念的表皮」を内側から引き裂き、そこから展開し(développer)出てくるものにほかならない。
したがって、ベルクソン哲学を真に理解しようと望むなら、その諸概念にだけ注目していては道を誤ることになる。ベルクソン哲学の大枠、大筋の方向性・規範を定める論述(discursus)に対してその軌道(orbit)を与える「持続」「記憶」「生の弾み」「開かれたもの」といった諸概念をとりあえず〈メジャーな概念〉と呼ぶことにしよう。メジャーな概念、マジョリティとしての概念は、さまざまな理論的要素を俯瞰し、一つの理論体系に統合することを可能にしてくれる。それは「~とは何か」という問いに答えるものである。だが、より厳密にベルクソンの思考の描く軌跡を見つめるならば、軌道を構成するはずの諸運動そのものは各瞬間に軌道から逸脱しつつある法外な(exorbitant)力であるということが分かる。このように、諸概念の定める軌跡の彼方へと向かうことで、それら諸概念からなる体系自体を支えるexcursus(古典の一節についてのかなり自由な補注や付記をこう呼ぶ)とその法外な身振りをひとまず〈マイナーな論理〉と呼ぶことにしよう。私たちが持続の「リズム」や記憶の「場所」、生の弾みの「方向」や開かれたものの「呼びかけ」といったものに見出すことになるマイナーな論理、マイノリティとしての論理は、それぞれある経験の中に直接分け入り、その微細な屈曲に合わせて極限まで進むことを可能にする観点を与えてくれる。「経験の転回点」に関する次の有名な一節が示唆しているのは、そのような事態である。
しかしまだひとつ最後の企てを試みねばなるまい。それは、経験をその源泉にまで求めに行くこと、というよりはむしろ、経験が私たちの有用性の方向に屈折して固有な意味で人間的な経験になるその決定的な転回点を越えたところまで、それを求めに行くことであろう。思弁的な理性の無力は(……)、根本的にはおそらく、生命維持の必要に隷属した知性の無力にほかなるまい。/(……)先に経験の転回点と呼んだところに身を置き、人間的経験の黎明を告げる曙光によって、直接的なものから有用なものへと移行する道程が照らし出されるのを眺めたとき、さらに残っている仕事は、こうして現実の曲線から我々が感じ取る無限小の諸要素によって、その背後の暗がりに延びている曲線そのものの姿を再構成することである(MM, IV, 321/205-206. 強調原著者)。
では、「経験の転回点」を見定め、生命の現実という「背後の暗がりに延びている曲線」のいっそう深い襞に入り込み、その輪郭を素描するにはどうすればいいのか。抽象へと超越的に離陸することなく、経験の深い襞や曲線に内在的に寄り添おうとしたベルクソンは、概念や言葉を素朴に信頼するのでも懐疑的に峻拒するのでもなく、険しい第三の杣道を見つけ出そうとする。次の一節に見出すべきは、言語と言葉にできないものの単純な二項対立ではなく、微妙な反転作業に賭けられた何かなのである。かなり長いが、引用しよう。
今仮に誰か大胆な小説家が、われわれの慣例的な自我の巧妙に織られた網目を引き裂いて、この見かけ上の論理の下にある根底的な不条理を示し、この単純な諸状態の並置の下にある実に多様な諸印象――これらは名付けられる瞬間にはすでに存在することをやめているのだが――の限りない浸透を示してくれるならば、われわれ以上にわれわれのことを知っていたということで、この小説家を称賛する。しかしながら、事情はまったくそうではない。われわれの感情を等質的時間のうちで展開し、その諸要素を語によって表現するというまさにそのことからして、この小説家がわれわれに呈示するのもやはり感情の影でしかない。ただし彼は、影を投げかけた対象の異常でかつ非論理的な本性をわれわれに推し量らせるような仕方でこの影を扱った。表現された諸要素の本質そのものを構成しているあの矛盾、あの相互浸透の何がしかを外的表現のうちに置き入れることで、彼はわれわれを反省へと誘ったのである。この小説家に励まされて、われわれは、自分の意識と自分自身のあいだにみずから介在させていたヴェールを、しばしのあいだ取り除いた。彼のおかげで、われわれは我々自身の眼前に置き直されたのである(DI 88-89)。
ベルクソンは、大胆な小説家ですらも、日常生活の論理の「根本的な不条理性」を「明示する」ことはできず、ただその「驚くべき非論理的な本性」を「推し量らせる」ことしかできない、と述べているが、これは言語の限界の単純な否定ではない。メジャーな概念は明示しようとし、マイナーな論理は示唆しようとする。示唆するという形でしか表しえないものがある。ささやかではあるが、厳密なマイナーな論理というものが存在するのだ。ベルクソン哲学の枢要な諸概念だけに注目し、もっぱら体系的整合性を与えようとして彼の諸著を読むことは、その哲学の表面を覆う「概念的表皮」に目を奪われて、最も肝心な部分である彼の思考の動きを取り逃すことではないか。蝶の抜け殻は蝶の存在理由でもなければその完成形態でもない。ベルクソンを徹底的にベルクソン的に読もうとするなら、彼が徹底的な概念批判を繰り広げ、新たな哲学の可能性をイメージや文彩の力――ある種の言葉の力――に賭けようとしたことの意味を重く受け止めねばならない。そうでなければ、ベルクソンが「事実の線」ということで何を理解しようとしているのか、「蓋然性の哲学」によって何を追求しようとしているのかがわからなくなってしまう。そうでなければ、直線的で隙や無駄のない体系構築ではなく、余白の力、ずれや遅れの力に賭けようとする曲線的な論理探究の成立可能性は、根本から絶たれてしまうことになる。ベルクソン哲学とは「根底的な不条理」「あの矛盾、あの相互浸透の何がしか」の論理を探究しようとする試みにほかならない。ベルクソンについてはあまりにしばしば非合理主義ということが言われてきた。「硬直した理性がしなやかな理性以上のものであることを望む」この度し難い偏見を脇目に、ペギーはすでにこう断じていた。「そうではなく、最も緻密で最も厳しいのが、しなやかな方法であり、しなやかな論理、しなやかな道徳であることは明らかである」。
ここから次のような問いが生じてくる。ベルクソンにとってこの種の新たな論理の探究が重要であったのだとすれば、なぜ彼はそれをはっきりと定式化せず、明確に規定しなかったのか? それが可能でなかったのだとすれば、それはいかなる理由によるのか? この点をさらに詳らかにせねばならないとすれば、そのために、言語、とりわけ隠喩・イメージ・形象の問題に、つまりはベルクソンの「文体」という決定的な問題に取り組まねばならないことは今や明らかである。