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ベルクソン 反時代的哲学

藤田尚志

 ベルクソンについてはあまりにしばしば非合理主義ということが言われてきた。「硬直した理性がしなやかな理性以上のものであることを望む」この度し難い偏見を脇目に、ペギーはすでにこう断じていた。「そうではなく、最も緻密で最も厳しいのが、しなやかな方法であり、しなやかな論理、しなやかな道徳であることは明らかである」 。ここから次のような問いが生じてくる。ベルクソンにとってこの種の新たな論理の探究が重要であったのだとすれば、なぜ彼はそれをはっきりと定式化せず、明確に規定しなかったのか?それが可能でなかったのだとすれば、それはいかなる理由によるのか?
 ベルクソンは、大胆な小説家ですらも、日常生活の論理の「根本的な不条理性」を「明示する」ことはできず、ただその「驚くべき非論理的な本性」を「推し量らせる」ことしかできない、と述べていた 。この意味で、メジャーな概念は明示しようとし、マイナーな論理は示唆しようとするものである。ささやかではあるが、厳密なマイナーな論理というものが存在する。この点をさらに詳らかにせねばならないとすれば、そのために、言語、とりわけ隠喩(メタファー)・イメージ・形象の問題に、つまりはベルクソンの「文体(エクリチュール)」という決定的な問題に取り組まねばならないことは今や明らかである。
(「序論より」)

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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 9月 27日, 2017 古谷利裕

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第25回(最終回)「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』 (4)

『君の名は。』は、世界そのものが忘れてしまったものを決して忘れないという物語でした。そして『輪るピングドラム』は、純粋な贈与の力となって世界から積極的に消えることで、「存在するより前に消えてしまう(非)存在」を肯定する物語だと言えます(これは、主人公が、世界の潜在性そのもの=唯一神のようなものになるという、『serial experiments lain』や『魔法少女まどか☆マギカ』とは、微妙ですが決定的に違っています)。それはどちらも、「このわたし」とは別様であり得るわたしを、「この世界」とは別様であり得る世界を、存在し得るものとして、潜在的に存在しているものとして、想像し、思考するフィクション(虚構世界)の意味を肯定的に物語っているように思われます。

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