連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』1

1月 06日, 2016 藤田尚志
§11. 言語の速度学――遅れとしての隠喩

ここには言語に関する第二の顛倒が生じている。精神現象、すなわち時間的・生命的現象のことを普通の言語で語るとき、私たちが隠喩的に語ってしまっているのだとすれば、隠喩とはいったい何か。通常、隠喩は迂遠なもの、迂回するものであり、字義性(littéralité)は飾り気なしにまっすぐ物事の本質に向かっていると思われているが、ベルクソンは精神の領域に関しては話が逆だと言っている。この本義と隠喩の顛倒を可能にしているのは、速度の観点・・・・・、ヴィリリオの言葉を借りれば速度学(dromologie)とでも呼ぶべき観点である。実際、隠喩の速度とは何か? と問うてみよう。字義性は透明になり、そこに過ぎ去っている時間を感じさせない。過ぎ去る時間を隠蔽し、時間を消去する。一方、隠喩は時間を《食う》。文脈をずらすことで、理解に手間をかけさせ、そうすることによって時間を露呈させる。本論冒頭で言及したベルクソンの有名な砂糖水の例で言えば、持続とは砂糖が水に溶け、砂糖水が出来上がるまでの苛立たしくも待ち遠しい時間、科学的・客観的な時間とは絶対的に異質なものとして実感される何物かであった。「時間とはすべてが一挙に与えられるのを妨げる(empêche)ものである。時間は遅らせる、いやむしろ時間とは遅れである」(PM, III, 1333)。遅れとしての持続がベルクソン哲学の根幹に位置するなら、その特異性がどうして彼の言語観に及んでいないことがあろう。内面的生命、すなわち生きられる時間は性質の多様、進行の連続、方向の統一をすべてあわせもつ。どんなイメージもこれをすっかり表わし尽くすことなどできはしない。けれども概念、すなわち抽象的・普遍的・単純な観念をもってしては、いっそうそれが表されない、とベルクソンは言う。どうして今まで誰も次の一節にイメージの速度を読み取ろうとはしなかったのか。

哲学者の唯一の目的はこの場合、大部分の人間において実生活において有利な心の習慣がとかく阻んでいる一種の働きを想い起こさせることである。ところで、イメージは少なくとも我々を具体的なもののうちにとどめおくという長所をもつ。どんなイメージも、一つでは持続の直観にとって代わることはできないが、非常に違う種類の事物から借りてきたさまざまなイメージをたくさんもってくれば、それらのものの作用を集中することによって、意識をある一定の直観が捉えられる点に正確に向けることが出来る。できるだけまちまちなイメージを選ぶことによって、そのなかのどれか一つがその呼び出すはずの直観の地位を奪うのを妨げる(empêchera)ことになる。もしもその地位を奪えば、すぐさまその競争相手のイメージに追い出されるからである(PM 1399)。

ベルクソンはここで比喩やイメージの力の本性を否定的な形で、すなわち直観が占めるべき王座のそれらによる簒奪を阻止し、空位のままにし続けるという意味で、暴力の形で・・・・・提示している。そうなのだ、重要なのはあれこれのイメージやその物質性ではない。複数のイメージの「あいだ」で生じていること、より正確に言えば、イメージの複数性自体によって「妨げられる」ことでしか露呈しない何か、直観に永遠に追いつくことができないというイメージの《遅れ》が逆説的に成立させる何か、それこそが通常「比喩」や「イメージ」という名で呼ばれ、私たちをある直観へと導くとされている事態であり、私たちが〈マイナーな論理〉と名付けることで何とか生きたまま捉えようとしている思考の運動なのである。

§12. 二つの明晰性、二つの隠喩性

ベルクソンは観念や言語のもつ二種類の明晰性を区別するよう読者に注意を喚起している。「知性作用にせよ直観にせよ思考は疑いもなく常に言語を利用する」以上、知性的な起源をもつ「概念」が明白であるのはいいだろう。「ところが、〔「普通は最初不明なものである」直観から出てきた観念には〕別の明晰性があって、われわれはそれを受けとることにはなるが、長い間かからないとわれわれに重みを感じさせない」(以上1275-76)。「他を明白にする力と自分自身が明白になる力」を二つとも備えるためには、「それだけの時間を与えねばならない」が、「哲学者は必ずしもそれだけの忍耐をもっているとは限らない」(PM 1277)。先に(§5)ベルクソンは決して功利性を否定していないと言ったが、同じことが知性に関しても言える。

つまり私はいかなる点においても知性の価値を減じはしない。(……)ただ私は知性と並んで、別の種類の認識をもつことのできる別の能力の実在を確認する。(……)しかし、直観的にせよ知性的にせよ、認識には正確さ(précision)のしるしが捺される(PM1320)。

直観が知性とは異なる明晰性を持ちうるということは、通常の言語が隠喩性を持ちうるということでもある。したがって、通常の言語使用の隠喩性(抽象化、象徴への移行)と、イメージや比喩に満ちた言語に独自の移動・転移様態がもつ隠喩性がある。ここでもベルクソン的な「批判」が作動しており、二つの異なる隠喩性の区別が問題となっているのだ。狭義の隠喩のみならず、広い意味での比喩、すなわちあらゆる表象化を空間移動の速度の視点から捉える観点がベルクソン哲学にとって戦略的に重要なものであることが分かる。さらに言えば、生命の本質が絶え間ないはずみ(エラン)、果てしない差異化・分化であるとすれば、生の哲学たるベルクソン哲学にとって、この迂回・逸脱・横溢のモーメントは修辞的要素に留まるはずはない。ドミニク・マングノーが指摘するテクスト形式上の特徴、すなわちベルクソンがしばしば用いた、ジャンルを越境し境界を侵犯するessaiという形式、その指標たる脱線性(digressivité)なども、このベルクソン哲学の本質との関係において、別の機会に検討されねばならないだろう。

まとめよう。「言葉の暴力」と言ったとき、一方で功利性を求めて言語が現実に対して行使する暴力があり、他方で生の現実の効力を(再)発見、さらには創造・発明すべく言語に強いられた無理、言語の被る暴力がある。ベルクソンは日常言語や科学言語の「隠喩」性を鋭く指摘するのみならず、文字通りの比喩や観念のポテンシャルを最大限に解き放つエクリチュールを称讃している場合でも、その限界を常に忘れていない。

〔真の哲学は出来合いの概念を追い出し、経験に訴えるとしても、〕どうしても概念に立ち戻り、せいぜい概念にイメージを結びつけるだけである。しかしそれには哲学が概念を広げ柔らかにし、概念の周りにつけた色彩のぼかしによって、概念が経験全体を含んではいないことを告げなければならない(PM 1288)。

ベルクソンに転義学があるとしても、それは以上のような二重の意味で否定的なものでなければならない。

§13. 螺旋としてのベルクソン哲学

ベルクソンの言語観のこの両面がまったく看取されてこなかったわけではない。周知のように、メルロ=ポンティは「哲学を讃えて」という講演の中で、「ベルクソンが言語について批判的に述べたことが、彼が言語を擁護してもいたことを忘れさせてしまっている」と指摘し、ベルクソン哲学の展開を「印象(impression)の哲学から表現(expression)の哲学への移行」と形容していたし、加賀野井秀一氏は、「言語の二つの斜面」という注目すべき論文において、この観点をさらに強化しておられる。多くの裨益を拝しつつも、次の二つの点では彼らの見解に同意することができない。一点目は、第一の暴力を(様々なニュアンスを伴わせつつも、最終的には)単なる言語不信と見なしてしまうこと。二点目は、言語の二つの斜面を(こちらも様々な観点を提示しつつも、最終的には)時系列的にとっていること。実はこの二点は表裏一体である。ベルクソンにとっては第一の暴力も生き抜くことへの必要から要請されており、彼はこのことを処女作の冒頭から明言していた。ほとんどカント的な批判、功利性と効力という二つの言語戦略の区別であって、言語自体の否定ではない。したがって言葉の二つの暴力は、ベルクソンにあって常にせめぎあい、時にニュアンスを変化させつつも、最後まで共存していたように思われるのだ。

そこで最後に、言葉の二つの暴力、二つの斜面が、実は生命の二つの運動に対応しており、ベルクソン哲学にあっては切り離せないものであるということ、そしてだからこそベルクソンにおいて言語論を語ることはかくも困難なのだということを確認しておくことにしよう。

『物質と記憶』が記憶現象を逆円錐で捉えたように、『創造的進化』は、生命進化という現象を旋風に、そこで出現してくる個別の種を風に巻き上げられた埃の渦に喩えていた。

 生命一般は動きそのものである。生命の発露した個々の形態はこの動きをしぶしぶ受け取るにすぎず、絶えずそれに遅れている。動きは常に前進するのに、個々の形態はその場で足踏みしていたがる。進化一般はできるかぎり直線的に進もうとし、各々の特殊な進化過程はいずれも円を描く。生物は一陣の風に巻き上げられた埃からなる渦のようなもので、生命の大いなる息吹の中に浮かんだまま、ぐるぐると回転している(EC 603)。

ベルクソン哲学全体を表現するただ一つのイメージを選ぶという暴挙を敢えて試みるとすれば、それは、『物質と記憶』の逆円錐の図式に見られるような、上方に向かって絶えず拡大していく逆円錐の螺旋形ではないだろうか。実際、安定的な生に命懸けで固執する「その場での旋回」の運動ないし回転運動と、そこから離脱し、見えるはずのない流動的な生の流れへ命懸けで飛び込んでいく「推進力」ないし前進運動の複合としての旋風(tourbillon)の隠喩はベルクソンの著作に頻出する。この生命に関わる二つの運動、ヴォルムスの言う「生の二つの意味=方向」(les deux sens de la vie)、すなわち旋風の運動を構成する循環運動と上昇運動は、単に『創造的進化』に現れているというだけでなく、様々に形を変えながら全ベルクソン哲学を貫いて常に対立しているのだが、今その実証は措こう。重要なのは、先に確認した二つの「言葉の暴力」がまさにこの生命の二つの運動に対応しているということだ。ベルクソンは、偉大な哲学者がいかに既存の言葉を用いつつ、時代の中で新たな思考を創り上げたかを渦巻の比喩によって、すなわち一方で、既存の言語や観念を使用せざるを得ないという思考の制約、思考を循環的・慣習的なものにする傾向を持つ「言語の物質性」(EC, III, 714)と、しかしながら他方で、やはり言語を介して旧弊を打破していくほかない思考の衝動、創造的・生産的思考のインスピレーションとの、両者の絡み合いという形で説明している。

 哲学者の名に値する哲学者はたった一つのことしか言ったことはありません。そのうえ、そのことを本当に言ったというよりも、むしろそのことを言おうと努めたのです。その哲学者がたった一つのことしか言わなかったのは、たった一つの点しか見なかったからです。しかも、それは視覚というよりも接触であって、その接触は衝動を与え、その衝動は運動を与え、その運動はある特殊な形の旋風のようなもので、途中で巻き込んだものによってしか私たちの眼に見えないとすれば、巻き上げられるのがどんな埃であっても、やはりそれは同じ旋風だということになります。こういうわけで、世界に何か新しいものをもたらす思想は、それがぶつかって自分の運動の中に巻き込む、すでに出来上がったさまざまな観念を通して表されるよりほかに仕方がないのです(PM, IV, 1350/123, cf. 1358/134)。

偉大な哲学者の思考もあの「大いなる生命の息吹」に参加している限りで、表現されるのである。『創造的進化』のある個所では生命が詩に喩えられている。詩心(sentiment poétique)が展開して具体的な個々のストローフになり句になり語になるとき、詩心が包含していた潜在的な多様性を展開し現実化したのは言語の物質性だと述べた後、ベルクソンは生命と詩の個体化(individuation)、生命と物質、詩心と言語の二重運動について、次のようにまとめている。

 だが、語や行や節を貫いて単一なインスピレーションが詩の全体をなすものとして流れている。同様に、離れ離れになった個体の間をやはり生命が還流している。個体への分化の傾向は至るところで連合への傾向により敵対され補われ、反撃されると同時に仕上げを受ける(EC, III, 714)。

創造的な言語活動とは、節や行や語といった言語の物質性と詩的インスピレーションの間の往復運動であり、生命の個体化とは分化の傾向と連合の傾向が同時に実現されることにほかならないのであってみれば、生命にも言語にもほとんど脱構築的とすら言いたくなるような運動が見出される。ベルクソンの転義学の最終審級が否定的にしか規定されえないのは、彼にとって言語が、物質性・功利性を志向する象徴的抽象化の暴力と、精神性・効力を希求するイメージ・隠喩による魅惑の暴力の間で、そのどちらかにとどまることなく流動するものだからにほかならない。だとすれば、語であれ意味の価値体系であれ、言語の物質性=質料性のみに注目しがちな通常の言語論をベルクソン哲学から引き出すことは出来ない。ベルクソンは同じ『創造的進化』で次のように述べていたではないか。

 精神は不安定を安定した眺めに写し取ろうと構えている。そしてそのようなことで、精神が(1)性質、(2)形態ないし本質、(3)行為、という三種の表象に辿りつく様子は、今示してきたとおりである。この三通りの見方には、言葉の三つのカテゴリー、すなわち言語の原初要素たる形容詞、実詞、動詞が対応する。してみると、形容詞と実詞は状態を記号にとったものである。しかし、動詞にまつわる表象における明るい部分だけに限って言うなら、動詞そのものも状態以外にはほとんど何も表していない(EC, IV, 751)。

生命の性質・形態・動きを表そうとする言語の本質的な三要素たる形容詞・名詞・動詞のいずれもそれだけではその役割を果たしえない。優雅な文体や巧みな比喩・類比のみに注目しつつベルクソンの言語論や隠喩論を描き出そうとする試みが必然的に破綻せざるを得ない理由の少なくとも一端がここにあるように思われる。

§14. 言語の手前、言語の彼方

しかしまた、ベルクソンの言語論がこのようなほとんど不可能な形でしか、すなわち常に言語の手前ないしは言語の彼方へ投げ出されるという形でしか成立し得ない、ということもたしかなことである。例えば、次の一節は直観・共感がもはや伝達でも著述でもない新たな表現としてのベルクソン的な「転義」であることの傍証になってはいないだろうか。

 私たちがここで直観と呼ぶのは、対象の内部に身を移す(se transporte)ための「共感」のことであって、それによって私たちはその物の独特な、したがって表現できないところと一致するのです(PM, VI, 1395)。

また、次の一節は、隠喩や類比、イメージに満ちた言語、リズムに満ちた言語を用い、観念から言語へ、言語から読み手の想念へと受肉される過程で、ベルクソン的転義が、言ってみればその表現を限りなく消滅しつつ(évanouissement)、そうすることで思念を開花させる(épanouissement)何物かだということの傍証になってはいないだろうか。

 具体的な直観の単純さとそれを翻訳する抽象概念の複雑さとの中間にあるイメージ、おそらく意識されないながらもその哲学者の心に執り憑き、その思想のさまざまな回り道を通じてこの人の影のように従っていく、逃げやすく消え去りそうなイメージ、直観そのものではないにしても、直観が「説明」を与えるためにはどうしても頼らなければならない、必然的に記号的な概念表現に比べると、はるかに直観に近づいているイメージです。この影をよく観察しましょう。私たちはその影を投射している物体の姿を推測することが出来るでしょう(PM, IV, 1347)。

ベルクソンが比喩を語る際に、しばしば「影」や「示唆する」という語を用いるのはおそらくその消滅=開花という特異な存在様態のゆえである。もう一度強調しておこう。ベルクソンの言語論を純朴な反記号主義に還元するという古典的誤読を避けようとするあまり、一つ一つのイメージや隠喩の力にこだわり、「言語の物質性」がもつ肯定的な側面を是が非でも探り当て、なんとしても《言語の唯物論者ベルクソン》のイメージを確立しようとするのはおそらくもう一つの甘い罠にすぎない。ベルクソンにとって注目すべきは、運動がすでに描き終わった軌跡ではなく、動きそのものだということなのであってみれば、ここで重要なのは、語られ終わったものとして在る言語の物質性ではなく――「物質性」という概念が通常とは異なる動きを見せてはいないかをベルクソンのテクストに即して検討することこそ重要である――、言語化されつつある過程と言葉が聴きとられつつある過程、言語の物質化と精神化、つまりは言語の手前と彼方である。厳密にこの意味において、隠喩や類比、イメージや形象はベルクソン哲学にとって本質的な契機であるということを限りなく強調しなければならず、同時にそれらのみに注目することの限界を絶えず指摘しなければならないのだ。

§15. Transports amoureux、あるいはピルエットとしての直観

「恋の陶酔」を表すフランス語の表現にtransports amoureuxがある。これは文字通り訳せば「恋する乗り物」あるいは「恋人たちの乗り物」となる。恋愛を運ぶ交通手段・乗り物であると同時に、恋愛に乗っ取られるという一種の“事故”をも表しているわけだが、この表現は隠喩の本質を的確に表現しているように思われる。流動性・不安定性があるからこそ、アクシデントに遭遇する可能性が生じ、しかしそれと同時に、未知なる領域へと踏み込む可能性もまた開ける。事故のリスクと発見のチャンスは表裏一体である。ベルクソンの否定的転義学は言語の固定性と流動性の両面を見据えつつ、常識や科学の言語を「隠喩」と顛倒させて捉える。字義性に対して単純に隠喩の力を称揚することが問題になっているわけでもなければ、ましてやベルクソンが言語の二面性(功利性と効力)を指摘したことが革新的だなどというのではない。そうではなく、精神や生命、生きられる時間の領域では字義的に見えるものこそが隠喩だと断じることによって、隠喩の遅れやイメージのずれを通じて、ベルクソンは伝統的な隠喩観、古典的な修辞学の枠組みを逸脱し、出来事性に満ちた生へと至る道を言語そのものに開こうとしているのではないか、と問うているのである。

言語はそれが言い表しているものによってではなく、言い表しえなかったものによって真の意義が明らかにされる。言語の力はその成功、その有用性、その活動性、その安定性、その構造性によってではなく、むしろその失敗によって、その無為性、そのずれ、その遅れ、その余白、その不安定性、その逸脱性によって測られる。テクスト内でこの点に関するベルクソンの思考の身振りを具現している語要素を指摘するとすれば、それはvertourである。具体的に言えば、converger, convertir, inverse, invertir, renverser, tourner, se retourner, tournantなどの一連の語群である。

ベルクソンが「直観的に考えるとは持続の中で考えるということである」(PM 1275)というとき、直観とは、「これほどよく常識の視点に似た視点〔それは言うまでもなく先に私たちが「良識」と呼んだものの視点である〕に立ち戻るために自分で試みなければならなかった苦痛とさえいえる努力、絶えずやり直さなければならない努力」(PM 1318)のことである。方向転換、カテゴリーの裏返し、思考の習慣の逆転、要するにtourとverというベルクソン的哲学素に満ちた次のような一節は、哲学的直観の特徴を、端的に言語のレベルで示している。

 しかし真相は、私たちの精神が逆[inverse]の進行をたどることができるというところにある。(……)それには私たちの精神が無理をして、普段考えていく働きの方向を逆にし[renverse]、自分の使うカテゴリーを絶えず裏返しにする[retourne]、というよりもむしろ鋳直さなければならない。(……)哲学するとは思考の仕事の習慣的な方向を逆転する、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、[invertir]ことである、、、、、(PM 1421-1422. 強調原著者)。

隠喩とは、精神の舞踊ダンスのための特権的な場所をつくり出すべく、言語のあらゆる可能性を駆使しつつ行われる観念のピルエットであると、ポール・ヴァレリーは書いていた。私たちの考えでは、ベルクソンの駆使した文体(文彩・転義・隠喩・類比)は、まさしく直観のおこなう観念のピルエットである。持続の直観がもたらす「方法的な逆転」を、デカルト的方法の対極に位置する「反方法的な方法」と捉えた点で、ジャン⁼リュック・マリオンのベルクソン理解は正しい。だが、彼はベルクソンの隠喩使用に言及しながら、それと直観の本質的な関係について等までには至らなかった。曲がりくねり変化に富んだ現実の輪郭をたどるために、ベルクソンは自らの哲学の究極的な対象として、「命懸けの関心」や「内的な危機の瞬間」(ES 823/11)をあらわにする体験、すなわち決断と自由行為を迫られる時間、失語症とデジャヴ、生命進化や神秘家の体験を選び、自らの哲学の方法として、「事実の線」が交差する地点に見出される「蓋然性」を高めようとする哲学を要請した。オルフェウスが振り向きエウリュディケーの姿を一瞬目に焼き付けえたように、常に現在の生の必要に縛られた人間精神は、緊張に満ちた知的努力、すなわち直観によって、惰性で続いている思考の運動の向きを変え、生の奥深い深遠を一瞬垣間見ることができる。ベルクソン哲学とは、外側から知的に理解するのではなく、内側から共-体験する共感の哲学、臨床的な哲学、語源的な意味でpathologiqueな、すなわち体験の論理を探る哲学である。

§16. 四つのマイナーな論理(本書の構成)

こうして長い脱線にも思われる行程を経た後でのみ、ようやく私たちはどのようにマイナーな論理と私たちが呼ぶものがベルクソン哲学の中で作動し、メジャーな概念を支えているのか、そして、この論理がなぜかくも長い間、多くの注釈者たちの眼から逃れ去り続けてきたのかを理解することができる。ベルクソンが遂行してきた新たな論理の探究――それこそがベルクソン哲学を形成する――は、一見すると比喩に頼った、おそらく敵対者たちの眼には「非合理的」とさえ映るであろう形の下にしか現れえなかった。それはしかし、まさしく「現実の運動は、ある事物の移動(transport)であるよりも、むしろその状態の移動である」からに他ならない(MM, IV, 337/226)。この移動の新たな論理は、新たなエクリチュールを呼び求める。こうしてベルクソンのマイナーな論理を正確に見定めようとする際にとるべき方針が確定される。それは、ベルクソンの残した特異なイメージやフィギュールに、概念と思考の「あわい」を見出そうと努めることである。決して過度の概念化や体系化の誘惑に陥ってはならない。見かけに騙されてはならない。私たちが探し求めているものは、ベルクソンの四大著作――『意識に直接現れるものに関する試論』(1889年)〔以後『試論』と呼ぶ〕、『物質と記憶』(1896年)、『創造的進化』(1907年)〔以後『進化』と呼ぶ〕、『道徳と宗教の二源泉』(1932年)〔以後『二源泉』と呼ぶ〕――の丹念な読解を通じて少しずつ、徐々に、断片的に、ずれや遅れを伴って現れてくるほかないものである。以下に、その大まかな方向性を記しておこう。

1)英訳の題名から『時間と自由』とも呼ばれる『試論』は、測りえないものを測る(mesurer l’immensurable)試みである。そこに登場し、以後ベルクソン哲学を支えるように見えるメジャーな概念、すなわち「時間」ないし「持続」と「自由」は、精神物理学(psychophysique)の行なう質の量化に関する批判的な分析、そしてそれに引き続いて行われる「計測」と「数」の特異な概念的再鋳造によって初めて姿を現しうる。「持続」の探索を可能にするのは、数(arithmos)とリズム(rhuthmos)、あるいは私たちがリズム計測(rythmesure)と呼ぶものが示唆するマイナーな論理なのだ。本書の第一部では、この「持続のリズム」とその数的ならぬ数の論理に迫ることにしたい。

2)『物質と記憶』は、位置づけえないものを位置づける(localiser l’illocalisable)試みである。そこに登場し、以後ベルクソン哲学を支えるように思われるメジャーな概念、すなわち「記憶」と「知覚」は、精神生理学(psychophysiologie)の行なう記憶の脳局在化に関する批判的な分析、そしてそれに引き続いて行われる「場所」の観念に関する思考の刷新からその根源的な力を汲んでいる。「記憶」の解明を可能にするのは、場所(loco)、あるいは私たちが脱-場所化=脱臼(dis-location)と呼ぶものが示唆するマイナーな論理なのだ。第二部では、この「記憶の場所」とその非場所的な場所の論理に迫ることにしたい。

3)『創造的進化』は、方向づけえぬものを方向づける(orienter l’inorientable)試みである。そこに登場し、以後ベルクソン哲学を支えるように思われるメジャーな概念、すなわち「生の弾みエラン・ヴィタル」は、当時の進化論的哲学が行なう生命の目的論化に関する批判的な分析、そして「方向=意味」(sens)という伝統的な観念の根底的な取り上げ直しによって精錬される。生命の進化・深化の探究を可能にするのは、方向=意味(sens)、目的論的なもの(téléologique)、技術的なもの(technologique)が示唆するマイナーな論理なのだ。第三部では、この「生の弾みエラン・ヴィタルの方向」とその(非)-有機的な論理に迫ることにしたい。

4)人類の行動に関する新たな論理の探究である『二源泉』は、呼びかけえぬものに呼びかける(appeler l’inappelable)試みである。ベルクソン哲学を完成するとも見えるメジャーな概念、すなわち「開かれたもの」と「閉じたもの」は、当時の人間科学(とりわけ社会学・人類学)が行なう人間の閉じ込め・閉域化に関する批判的な分析、そして「行動」と「情動」の観念に関する未聞の展開によって練り上げられたのである。人間の開け、開けとしての人間に関する探究を可能にするのは、「呼びかけ」(appel)と「響き」(écho)――人間の実存は、よく言われるように「脱自存在」(Ek-sistenz, ex-sistence)ではなくて、共存在としての「饗存」(écho-sistence)――、あるいは私たちが「反響学」(échologie)と呼ぶものの論理である。第四部では、「情動の政治学」とその呼びかけの論理が、「熱狂」(enthousiasme)の問題や共通の尺度なき共同体の問題を通じて姿を現すことになろう。

では、以下、実際に険しい道程を辿っていくことにしよう。

 
 


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[第1回初出:2013年4月15日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。