連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』2

1月 06日, 2016 藤田尚志
§18. 「心理的諸状態」の類型論(『試論』第1章の構造)

『試論』は、ある常識について自問するところから始まる。それは、《感覚や感情、情熱や努力といった意識の諸状態は、増大したり、減少したりする》という常識である。当時、「精神物理学者」と呼ばれていた人たちは、ある感覚は、同じ種類の別の感覚より二倍強い強度を持つといったことを計りうるとさえ主張していた。では、純粋に内的な二つの意識状態(この場合は感覚)のあいだで、どのように量的な差異を打ち立てるのだろうか? 含むものと含まれるものとの関係が成り立ちえないところで、なぜ量と大きさについてなおも語り続けるのだろうか? 外延的なものと内包的なもの、拡がりを持つものと拡がりを持たないものとの間にどのような共通項がありうるのだろうか? これが、『試論』を開始させた問いである。『試論』第1章を要約し、その構造を理解するためには、『試論』の共訳者の一人である平井靖史氏によって提唱された心理学的諸状態の分類を想起しておくことが有益である。

複合状態(états complexes)

[A]深い感情(sentiments profonds)
(例)情念、希望、喜び、悲しみ、美的感情、道徳感情
[B]表層的努力(efforts superficiels)
(例)筋肉努力
[C]中間的状態(états intermédiaires)
(例)注意、激しい情動

単純状態(états simples)

[D]情緒的感覚(sensations affectives)
(例)快苦
[E]表象的感覚(sensations représentatives)
(例)音、熱、重さ、光

ベルクソンが「複合状態」と「単純状態」を区別するのは、次の点においてである。「われわれはここまで、感情や努力を取り上げるにとどめてきたが、感情(sentiments)や努力(efforts)は複合的な状態で、その強度は必ずしも外的な原因に依存してはいない。それに対して、感覚(sensations)は単純状態としてわれわれに現れる」(DI 24/23)。その強度が必ずしも外的原因に依存しない心理的な複合状態(感情や努力、[A]-[C])と、外的原因の意識的等価物と見なされる意識の単純状態を分かつもの、それは明らかに外的原因との関係である。

さまざまな複合状態(感情と努力)間の区別についても同様である。ベルクソンは第1章を、「もはや外的な原因からではなく、われわれ自身から発するような深層の心理的事象」(DI 7/4)、つまり「深い喜びや悲しみ、反省された情念、美的な情動」といった、「事の真偽はともかく、われわれにはそれ自身で自足しているように見えるいくつかの魂の状態」(DI 9/6)のあいだに、われわれが確立する強度の差異を検討することから始めている。こうして彼が「深い感情」[A]から始めるのは、「いかなる外延的な要素もそこに介入していないかに見えるこうした単純な事例において、純粋な強度はより簡単に定義されるはずだ」(id.)からである。ここで「外的な原因」ないし「外延的な要素」を構成しているのは、「物理的・身体的な諸条件」(id.)である。つまり、ベルクソンは、物理的・身体的要素を排除することから始めている。「喜びや悲しみが強まっていく場合、その強度は何に存しているのか。これを、いかなる身体的な徴候も介入しないような例外的な事例において摘出すべく試みてみよう」(11/8)。「われわれの意識状態の未来の方向への方位づけ」として「内的な喜び」を、あるいは「過去へ向けての方位づけ」として「悲しみ」(id.)を規定することで、強度概念の批判を準備し、それによって持続概念へと向かう道を開くためには、身体の偶然的だが決定的な影響をひとまず分離する必要があったのである。だが、身体とほぼなんら接触を持たない純粋状態の分析は、次いで、身体と密接な関係をもつ混合状態の分析によってさらに磨き上げられねばならない。この「表層的な努力」[B]、とりわけ筋肉努力の分析への移行は、したがって、次に「中間的状態」[C]を見ていくための、「心理的諸事象の系列の反対の極」(DI 17/15)への移行である。かくして、深い感情は、表層的な努力とは異なり、外的原因との関係(むしろ関係を持たないこと)によって規定されることになる。

同様の規則が、さらに、「単純状態」に対して、しかしながら、いわば逆向きに、適用される。というのも、ベルクソンは、情緒的感覚と表象的感覚に関する問いに対して、次のような仕方で答えているからである。「実際、感覚がその情緒的性格を失って、表象の状態に移行するにつれて、それがわれわれの側に喚起していた反応的運動は消え去る傾向にある。しかし、われわれはまた、感覚の原因である外的な対象を覚知してもいる」(DI 31/31)。情緒的感覚[D]は、外的作用ないし反応の欠如によって、表象的感覚[E]から区別される。こうして、『試論』第1章の構造がおおよそ明らかになったとしよう。すると、次に取り組むべきは、私たちがここまで確認してきた構造([A]~[E])に基づいて、それぞれについてごく駆け足で、その意義を確認していくという作業である。

[A]美的感覚の分析における「リズム」(以下§§19-21)
[B]筋肉努力の分析における「手」(§22)
[C]中間状態の分析における「注意」(attention)と「緊張」(tension)(§23)
[D]情緒的感覚の分析における苦痛の「コンサート」(§24)
[E]音感覚の分析における「音楽の表現的あるいはむしろ示唆的な力」(§25)

§19. 呼びかけ1:リズムと共感(美的感情の分析1)

ベルクソン哲学の核心には、持続と空間の区別があるとよく言われる。その分割線は、カントにおけるように、互いにはっきりと分離された、感性のア・プリオリな二つの形式としての時間と空間のあいだを走っているわけではない。ベルクソン的な持続は生きられた時間であり、量的に計測不可能な時間、質的多様性によって構成された時間であり、その意味で、量化・計測化の場所として規定される空間からは逃れている、と言われる。量的多様性によって構成された空間は、したがって、持続から逃れるものを表象していることになる。だが、だとするなら、持続と空間の間に走るこの区別を下支えしているのは何なのか。ある一つの運動でもって、質と量を、それらの還元不可能な差異のうちに産み出す差動装置ディファレンシャルのような何かがあるのではないか。

持続と空間の二元論的な一元論をかたちづくる力動的関係を解明するために、私たちはここで、いささか特殊に思われるかもしれない観点を採用することにする。私たちは、ベルクソンの著作の中であまり目立たず、ひょっとすると似たような言葉と思われているかもしれないが、実のところ異なる次元で作動している二つの語、つまりリズムと拍=計測(mesure)から出発する。リズムという観念は、とりわけ美学的・音楽学的その他の領域における概念的な豊饒さを越えたところで、持続の本性を露わにしてくれる。そして、それは、ほかでもない、リズムの数的な論理を通じてのことである。少なくともピュタゴラス派以来言われてきた、rhuthmosとarithmos、リズム的なもの(rythmique)と算術的・計算的なもの(arithmétique)のあいだの伝統的な融合を想起してみてもいい。他方で、拍=計測という観念――持続と空間のベルクソン的差動装置の中で機能しているかぎりでの――において賭けられているのは、ある新たな次元、ある開けを産み出す隔たりであり、間隔であり、間隔化(espacement)である。ここでは、「計測」ないしmetronに関するハイデガー的な語源学を想起してもいいだろう。したがってベルクソンのうちに見出すべきは、ある特異なリズム的数論(arythmologie)であって、これはとりわけ汎リズム主義(panrythmisme)と混同されてはならない。先に、序論において、ベルクソン的転義学がもし存在するとして、それは「生きた隠喩」を称揚するような積極的・肯定的なものではなく、しばしばステレオタイプでさえある複数の直喩・隠喩・イメージを駆使し、その「あいだ」に哲学的直観をつかのま現出せしめようとするようなものであり、したがって、「否定神学」(théologie négative)に倣って、「否定的転義学」(tropologie négative)と呼ばれるべきである、と述べた。ここでも事態は同様である。創造的自由としてのリズムへの喜びに満ちた純真無垢な讃歌と、あらゆる計測的=拍的拘束に対する憎しみによって特徴づけられるような汎リズム主義は、ベルクソン哲学とはいささかのかかわりも持たない。まさにそのような汎リズム主義的で計測嫌悪的メトロフォーブ紋切型クリシェに抗して、ベルクソン的な数=リズム=計測論(arythmétrologie)が産み出すものを見定めねばならないのである。そう信じられているのとは逆に、ベルクソンは、一貫して計測や空間を悪魔化しようとする誘惑には屈していない。むしろ逆に、持続のリズムの潜在的な数性を開示することで、計測・空間概念の再練り上げ、持続の「内部」ないしerewhon、生命の記憶と間隔化の場所と、非空間的な仕方で向き合うことを可能にする概念的な鋳直しを遂行しているのである。

この問題構成に入っていくための最良の方法の一つは、「美的感情」と題された『試論』のほとんど冒頭に置かれたセクション(DI 11-17/9-16)において、「リズム」と「拍=計測」という語が並んで現れる(そこにはすでに、持続のリズムにおいて身体がいかなる役割を果たすのかも見てとることができる)最初の例を取り上げることである。先に確認したように、ベルクソンは『試論』冒頭で、外的・身体的影響を欠いた「深い感情」を分析し、「質的進展」(13/10)の観念を導入していたが、美的感情はここでは、その「最も驚くべき」例として置かれている。美的感情に関するこのセクションは、それがベルクソンにとって「目に見える新たな要素が次々と根本的な情動のうちに介入し、実際にはその情動の本性を変容させているだけなのに、外見的には情動の大きさを増大させているかに思える、そのような事例の中でも、さらに際立った事例」(11-12/9)を提供しているかぎりで、『試論』第1章全体にとって範例的パラディグマティックなものである。

本節を含む以下三節(§§19-21)は、『試論』の当該セクションの分節に応じて、次のように分節される。第一段階として(§19)、ベルクソンは、諸々の美的感情の中でも「最も単純」なものである「優雅さ」の観念を分析する。その幾つかの段階を質的に見分け、その強度の度合いの違いを量的以外の仕方で計測するという文脈の中で、リズムと拍=計測は、そのほとんど催眠的な効果とともに現れる。しかも、ただ単に「優雅さ」の感情の第三にして最後の段階を完成する媒体(médium)としてのみならず、「身体的共感」から「精神的=道徳的共感」(DI 12/10)へと移行させる媒介(médiation)としての機能も果たしているのである。第二段階として(§20)、催眠暗示が、そのリズム的計測(rythmesure)の効果とともに、美的感情のみならず、あらゆる感情の質的進展におけるさまざまな段階を見分けるための不可欠の装置として機能しているのを確認する。「以上の分析から帰結するのは、美の感情は何か特別な感情ではないということであり、また、われわれが抱く感情ならどれでも、それが因果的に惹起されたものではなく、暗示されたものであったならば、美的な性格を帯びるだろう、ということだ」(15/12)。だが、これですべてではない。美的感情分析の第三にして最終の段階として(§21)、もはや美的感情の強度ではなく、その深さが問題となるとき、催眠暗示とリズム的計測は、それらの消失自体によって、水平的で継起的な相互浸透と、垂直的で凝集的な相互浸透、言い換えればリズム的有機組織化と、記憶的有機組織化という二つの根本的に異なる軸の閾ないし接続をしるしづける。これこそ、リズムが「ある美的感情の進展において区別される諸段階」、その「強度の度合い」(DI 15/13)という観念を引き出す際にある役割を演じているという事実が持つ真の意義である。

では、ベルクソンが優雅さの感情を分析し始める第一段階から始めることにしよう。そこで彼は三つの段階を区別する。1)優雅さは最初のうち、外的な運動におけるある種の容易さの知覚である「心地よさ」(aisance)にすぎない。2)次いで、ベルクソンが用いている言葉を取り上げ直すなら「予見」(prévision)、しかし優雅さの明かしえぬ性格をよりよく表現し、来るべき態度を予告し、「指示し、いわばあらかじめ形成するような」(12/9)ものとしての「予感」(pressentiment)がある。3)そして最後に、優雅さの第三の構成要素が来る。少し長いが、引用しておこう。

優美な運動が或るリズムに従い、音楽がそこに伴ってくると、第三の要素が介入してくる。すなわち、リズム(rythme)と拍子(mesure)は、芸術家[舞踏家]のなす運動をいっそうよく予見させることで、今度は我々がその運動の主(あるじ)であると思わせることになるのである。芸術家が採ろうとする態度を我々はほぼ予想してしまうので、芸術家がその態度を実際に採ると、彼は我々に従ってそうしているように見えるのである。リズムの規則性(régularité du rythme)は、彼と我々との間に一種の交感(communication)を打ち立て、拍子の周期的回帰(retours périodiques de la mesure)は、その一つ一つが見えない糸のように、我々にこの想像上の操り人形[舞踏家]を操らせる。それどころか、拍子が一瞬止むとすれば、我々の手は我慢できずにこの人形を押そうとばかりに動いてしまう。それは、運動のリズムが我々の思惟と意志のすべてとなってしまっており(le rythme est devenu toute notre pensée et toute notre volonté)、それで当の操り人形をこの運動のただ中に置き直そうとするかのごとくなのだ。したがって、優美の感情の中には一種の身体的共感(sympathie physique)が入り込んでくるのだが、この共感の魅力を分析してみれば、それがひそかに精神的共感(sympathie morale)の観念を暗示しており、身体的共感があなたを喜ばせるのは、精神的共感との親近性によってなのだということが分るだろう。[…]こうして、美的な感情の増大する強度も、ここではその強度と同じだけのさまざまな感情に帰着する。その感情の各々は、それに先立つ感情によってすでに告知されていたもので、やがてその中で顕著になり、次いでそれを決定的に覆いつくしてしまう。この質的な進展(progrès qualitatif)を、我々は大きさの変化の意味に解釈してしまうのである。(DI 12/9-10)

想起しておくべきは、美的感情だけでなく、深い感情一般もまた、いかなる「外延的要素」も、いかなる「身体的条件」も、さほど介入するように思われない、範例的な事例と見なされているということである。だが、にもかかわらず、このまったく内的で内包的な感情の核心部分に、優雅さの第三の最終的な段階として、「一種の身体的共感」が現れる。この身体性はいかなる特徴を持つものであるのか? むろんそれは、「外延的要素」ないし「身体的条件」に見出される身体性ではありえない。だとすれば、この文脈でリズム的経験のうちに現れるかぎりでの身体性とは、音的素材とその欠如が外から私たちに与えるものではなく、私たちがおのれのうちで受け取り、覚知するものに関わるものでなければならない。それは、単に根源的身体性であるだけでなく、またある種の統合的有機化の様態でもある。受動性ないし受容性であると同時に、能動性ないし非-超越論的な統覚であるというこの二元性は、持続の根本特徴のうちに見出されるものであり、以下に見るように、ベルクソンの内在的感性論を決定づけるものとなる。だが、さしあたりは、リズム的共感の最初の特徴である根源的身体性を指摘するだけで満足しておくことにしよう。

二つ目の特徴に関しては、リズムと拍子の解きほぐしがたい関係に関する分析を深めていくうちに確認される。「リズムの規則性」と「拍子の周期的回帰」は、優雅さの第三段階である「高次の優雅さ grâce supérieure」へと私たちを導き、「一種の身体的・物理的な共感」を与えつつ、それによって「精神的・道徳的な共感」の観念を「巧みに暗示してくれる」(DI 12/10)。

したがって、優雅なものの感情のうちに一種の身体的共感が入ってくる。そして、この共感の魅力を分析してみれば分かることだが、この共感がわれわれの気に入るのは、それが精神的・道徳的共感と親縁性をもち、その観念を巧みに暗示してくれるからである。共感というこの最後の要素――他の諸要素もこの最後の要素をいわば告げ知らせた後には、それと一体になってしまう――によって、優雅の抗しがたい魅力が説明される。〔……〕しかしながら、本当のところは、きわめて優雅なものなら、どんなものの中にも、動性の徴しである軽快さ〔1.心地よさ〕に加えて、われわれに対する可能的な運動〔2.予感〕――潜在的な共感、それどころか現に生まれつつある共感〔3.共感〕――への指示を見分けることができるとわれわれは思う。この動的共感は常に今にも与えられる寸前の状態にあるのだが、それこそが高次の優雅さの本質なのである。(DI 12/10)

この文脈において、ベルクソンはほとんどリズムと拍子(mesure)を区別していない。mesureはここでは「テンポ」や「区切り」といった意味で用いられており、「測定」の意味では用いられていない。とすると、ここでの「拍子」はすでに「リズム的」であって「計量的」ではないのかと思われるかもしれない。だが、ベルクソンがこのリズムと拍子の例を導入している文脈を子細に見るならば、テンポとしての拍子と測定としての拍=計測は、思いがけない、逆説的ですらあるような様相を帯びる。身体的諸条件を排除した後で、「身体的・物理的共感」のうちにある種の根源的な身体性が現れたのと同様に、量的区別を排除した後に、ある種の度合いが現れる。それは三つの段階の間のみならず、まさに第三段階自体のうちにも現れる。さもなければ、「身体的共感」から「精神的共感」へのなおも連続した一種の上昇をいかに理解することができるだろうか? そこから、この共感的リズム性の第二・第三の特徴が明らかになる。

第二の特徴とは、その単調な規則性にもかかわらず、いやむしろこの機械的な=無意識マシナルの反復のおかげで、リズムと拍子は、ここでほとんど催眠的な、さらには夢遊病的な(優雅に動く舞踏家を「想像上のマリオネット」と見なし、つい操ろうとしてしまう「こらえ性のない我々の手」)抗しがたい魅力を獲得するに至る。リズム-拍子は、奇妙に一方通行的で非対称的な、ほとんど独白的な「ある種の交流関係」へと私たちを招じ入れる。「リズムはわれわれの思考と意志のすべてであることになる」(DI 12/10)。この機械的・無意識的で魅力的な反復性こそ、リズム的共感の第二の特徴をなす。

第三の特徴として、優雅さの三段階(心地よさ・予感・共感)の間のみならず、共感そのもののうちにも、身体的共感から精神的共感への移行という形で、質的進展がある。身体的共感の魅力を分析することで、精神的共感の観念が巧みに暗示される以上、この移行は、たしかに幾分か中間的である。にもかかわらず、この「潜在的な、それどころか現に生まれつつある共感」「この動的で、常に今にも与えられる寸前の状態にある共感」こそが、「高次の優雅さの本質そのもの」をなすことで、優雅さの質的進展全体を保証してくれるものである以上、この移行はやはり決定的なものであり、次のような論の骨子を保証するものである。

こうして、美的な感情の増大する強度も、ここではその強度と同じだけの様々な感情に還元される。この感情の各々は、それに先立つ感情によってすでに告知されていたもので、やがてこの先行的感情のうちで顕著になり、次いでこれを決定的に凌駕してしまう。この質的な進展を、われわれは大きさの変化の意味に解釈してしまう。なぜなら、われわれは単純な事物を好んでいるし、われわれの言語は心理学的分析の機微を言い表すには不都合だからである。(DI 13/10)

私たちが優雅さのリズム的共感のうちに見出した三つの根本特徴をここでまとめておこう。1)根源的身体性、2)「抗しがたい魅力」を発する無意識的・機械的反復性、3)質的進展、の三つである。ここで重要なのは、拍子がリズムと同様に扱われ、リズム化しているというだけではなく、リズムが量性ではなく、まさにある種の尺度(mesure)を与えられることで、リズムと拍子の結合体、私たちが「リズム的計測rythmesure」と呼んだものを通じて、拍子化しているということである。リズム的計測は、心理的かつ身体的な次元において、aisthesisないし美的=感性的感情の、感覚的であると同時に精神的であるという二元性を表している。厳密にこの意味で、「美的感情」に関するこのセクションのみならず、『試論』第1章全体が、カントの超越論的感性論の対極にあって、決して経験的・実証的・心理学的次元と完全に手を切らない一種の内在的感性論として読まれうるのである。言い換えれば、ある感情は、単に量的段階ないし状態の変化という観点から見られうるのみならず、ある尺度という観点からも見られうる。というのも、もはや外側から計測過程を覚知し綜合する主体はない以上、このプロセスそのものが内側から自らを捉えると考えるしかないからである。これこそが、「量の質」(82/92)という表現のうちに理解されねばならないことである。こうして、ベルクソンは、拍子=計測=尺度の概念的な鋳直しを通じて、強度概念を批判し精錬する。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。